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このカテゴリでいいのか分かりませんが、
一人でいたり、夜中にふと死について考え出すと
怖くて一週間も、長いともっと頭から離れなくなります。とてつもない恐怖心が生まれます。
死ぬとどうなってしまうのだろうか、時間は確実に
過ぎていって死に近づいている。今すぐでなくても、
いつか死ぬ日が絶対に来てしまう。その日が今から
怖くてたまらない。今まで生きてきた時間をあと何度か
繰り返したら、もう死が目前になってしまう、など。
自分の意識がなくなってしまう、考えることもできない
そんな状態を想像すると本当に怖いです。
思い出さないようにしても、ふと頭によぎるんです。
どうしたらいいでしょうか??
どんな考え方をしたら少しは楽になるでしょうか?

A 回答 (20件中1~10件)

死んだら何もなくなる。


だから、死ぬまで楽しく生きましょう。
楽しんで、満足して死ねたなら、
その人の人生は良いものだったはず。
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この回答へのお礼

楽しく満足できる人生を
送りたいものですね。
楽しく生きてみたいです。

お礼日時:2004/12/11 04:23

人は自分が死んだらどうなるのか、どこへ行くのか分からないわけですので、


その恐怖と不安を解決するには宗教的な考え方をすれば楽になると思います。

例えば、特定の信仰を持つことですね。自分の死後の行き先が明確に見えてくる。ということです。
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この回答へのお礼

宗教もいいかも
しれないですね。
間違ってもあやしいものには
だまされないようにしたいです。

お礼日時:2004/12/11 04:24

死んだ後のことは、不可知です。


知ることのできないことについて、
あれやこれや、想像したり考えてもしょうがありません(結局の処検証できないしね)。
まあ、いづれわかることなのかもしれません。
楽しみにしてましょう。

もし、意識もなく考えることもできないなら
そこには、恐怖はないでしょう♪
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この回答へのお礼

楽しみにはなかなかできそうに
ありませんが、あまり考えても
答えが出なくて苦しいですよね。

お礼日時:2004/12/11 04:29

どんな考え方をするというよりは、それを利用してはいかがですか?



死という全く未開のものにそこまで現実性を感じているのであれば、絵など、何かしらの形で表現し、吐き出していくと良いでしょう。

創造することは非常に困難なことですが、頑張ってください。
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この回答へのお礼

表現ですか。
本当に難しいですね。
できればやってみたいと思います。

お礼日時:2004/12/11 04:33

他の回答者の方が仰ってるように、宗教や哲学に救いを求める手が有ります。


「死への恐怖」というのは、人類が太古から抱えている問題なので、簡単には答えは出ない(救われない)かも知れませんが。

あと、「死への恐怖」に長期間に渡って継続的に襲われる場合、精神的な部分に問題が発生している可能性も有ります。例えば、鬱病や軽度の鬱症状等。

生活に支障をきたすほど「死への恐怖」に取り付かれているようでしたら、心療内科の受診を考えられては如何でしょうか?
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この回答へのお礼

自分が悩んでいるのが哲学の問題だと
最近知りました。
学ぶのもいいかもしれませんね。
心療内科も考えてみます。

お礼日時:2004/12/11 04:35

難しい問題ですよね。


僕も時たまsora211さんと同じことを考えたりします。

ある人(名前失念)の死の定義ですが、「死とは生から始まる数直線上にある」と言いました。この世に生を受けた瞬間から、死への道を歩んでいるという考え方ですね。
ですが、これを逆に考えたらどうでしょうか。
「死がなければ生はない」

生があったことに幸せを感じたかどうか。
つまり、人生は幸せだったかどうかですが、
これは、死の直前に考えると思います。
結局はここに終結するのではないでしょうか。

また、死は「完全な定義」がないものともいえます。
たとえば、脳死です。
これは、死の判断を「深昏睡、自発呼吸の消失、動向の散大固定、脳幹反射の消失、平坦脳波の消失」などで決定するものです。いわば、生命の中心が「心臓・肺」ではなく「脳」とされているということです。

本題から大分ズレていますが、
死を怖がるよりも、生に喜びを感じたほうが
良いと思います。難しいかもしれませんが、
怖がっているだけでは、何も得ることは出来ません。
見えないものはいくら考えても創造上のものでしか
ありません。死はまさしくこれだと思います。反対に、生は見えます。今生きているのですから。今自分が何をしたいか、何が出来るかを考えてみると良いと思います。

長文で乱文ですが、参考になれば何よりです。
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この回答へのお礼

死を考えるより生を考えた方が
確かにいいですよね。
生のことは考えることが
いくらでもありますからね。

お礼日時:2004/12/11 04:28

極限の事を考える人や遭遇した人には3つくらいに分かられそうです・


・思い悩み 物凄くネガティブになる人
・それを踏まえてポジティブになる人
・悩まないように 何も考えない事にする。

とり合えず、今の人生は今でしかない事は明白なので
人生にプラスになる事を見つけましょう。
(うちの場合はとり合えず、いろんな人に会う事ですね)

私の場合、直接「肉体が滅ぶ」事には恐怖をおぼえませんが
身内、友人など親しい人と直接同じ時間を過ごすことがきでなくなることが物凄く「恐怖」です。
(っというか皆さんに死の恐怖があるとすれば、案外それかもしれない。
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この回答へのお礼

私は両方怖いですが、同じときを
過ごせないとは考えたことなかったです。
いつもネガティブになってしまいますね。
でも、こんなときこそポジティブに考えたい
ものです。

お礼日時:2004/12/11 04:27

死の定義とはどのような物でしょうか(医学的な意味でわなく)自分が思うに多かれ少なかれ人が抱く死への恐怖という物は、ひとえに{喪失する恐怖}だと認識しています。

家族や友人、恋人などそういった他者の存在を大事に思えば思うほどそれらを失うかもしれない、これらとの関係が無に帰ってしまう{死}という物に人は恐怖を覚えるのではないでしょうか。
 おそらく生まれた時から無人島のような場所でたった一人で生きていれば(実際にはありえませんが、、)死の恐怖というものはそれほどでは無いと
自分は思います。つまり死の恐怖というものは、自分以外の者との関係性の中で生まれるもので有ると言う事です。どんなに嘆き悲しみ命が有限である事を恨んでみても死は全ての生物に平等に訪れます。しかし
制限時間があるからこそ、そのなかで何かを成し遂げようと思うではないでしょうか。死の恐怖に怯えるより命は有限で有ると言う事を再認識してならこうしよう、ああしようと考えることが一番死の恐怖から逃れる方法なのでは?と自分は思います。死に怯える時間も生を楽しむ時間も同じ時間なのですから楽しい方がいいじゃないか!的に考えるのが一番ですよw
 蛇足ですが、司馬遼太郎の{竜馬が行く}の中で竜馬が毎日頭の上から大岩が落ちてきて自分が死ぬところを想像して怖くて動けなくなる、しかし最後にはその死ぬという事を達観するというような話がでてきます。まあ読み物の中での事ですが、そういった幕末物等の本の中に案外sora211さんの探している答えがあるのかもしれませんよ。
 長文失礼しました。
 
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この回答へのお礼

命が有限である再認識は
死を怖がるよりいいですよね。
何かを成し遂げれば
というか、成し遂げたい気持ちに
なれるといいと思います。

お礼日時:2004/12/11 04:22

これは、私も経験あるんですが、


パニック障害のパニック発作の可能性もあると思います。
「タナトフォビア(死の恐怖)」というのがあるんです。私も発作が酷く、大変、苦しみました。

メンタルな問題を抱えていたりしませんか?
もし、思い当たる節があれば、まずは診療内科に相談してみましょう。


あとコーヒー等のカフェインの過剰な摂取をしていたら、これも抑えてみましょう。
あと、日頃から天然果汁100%のオレンジジュース、柑橘系の果実、梅干、お酢・・・等の「クエン酸」の摂取をお薦めします。

で、私も「死」についていろいろ勉強しました。
考えることによって克服できると思ったからです。
お薦めの本はいろいろありますが、飯田史彦氏の「生きがいの創造」はお薦めです。




あと私達は「私」という実体を持って暮らしているワケではないんです。

夕べ食べた、スパゲティーが今は「私」になっています。
おととい食べた、おにぎりが今は「私」になっています。
一月前に飲んだ水が「私」なんです。

だって、なんにも、飲まない、食べなければ、「私」は消滅してしまうんです。

つまり「私」とは、「私」以外のモノで構成されているんです。
「私」と私以外のモノを区別することは出来ないんです。


太陽の光、適切な気温、空気、地球、自然、動植物、水、人間・・・・・これらの、どれか一つでも欠けたら、「私」は存在出来ません。

おととい食べた「おにぎり」が、今「私」になっているんですから、気が早い人に言わせれば、コンビニに置いてある段階の「おにぎり」が「私」だともいえるんです。工場に置いてある段階のお米が「私」だとも言えるんです。


そう考えると、
水道管の中の水も「私」です。
ダムの水も「私」です。
雨水も「私」です。
海も「私」です。
みんなの汗も「私」です。
みんなのおしっこも「私」です。

この世のものは、み~~んな「私」なんです。
自他を明確に区別することなんて、出来ないんです。

「全知全能」という言葉がありますが、私に言わせれば、みんなが揃って、初めて一つということなんです。

そう考えると、その中で起こる「死」というものさえも、別のものではないと思います。全知全能のサイクルの中で起こっているハズなんです。


インドでは輪廻転生が信じられています。
おそらく、本当にあるんだと思います。
おそらく「私」が消えることは無いので、安心して良いですよ。

まずは、病院に相談しましょう。
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この回答へのお礼

メンタルな問題は確かにあるのかも
しれません。本当に心が調子いいと
あまり考えないものなので。
輪廻転生があればいいですね。
信じれば少し楽になりますね。

お礼日時:2004/12/11 04:19

この問題は御釈迦様でも難しかったわけですね.わたしもまったく解決できたわけではありませんが現在この様に考えています.すこしでも役に

立てばと思います.それは自分とは何かという問題は答えが出せないということです.これは能力の問題ではなく,だれも出せないということです.怖いのは死ぬことではなく、実は自分というものが何なのかが分からないことが怖いのだと思います.分からないことが原理的に当然だと思えればすこし楽になります.だからといって死ぬのがこわくなるわけでもありませんし、まして死にたいとは思いません.しかしどんなに頭の良い人でも自分のことだけはわからないと思えばすこし楽になるように思います.
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この回答へのお礼

分からないことは怖いですね。
誰にも分からないこと
はあるんですね。

お礼日時:2004/12/11 04:17

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