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日蓮宗と日蓮正宗とは別ものなの?
そして日蓮正宗とはイコール創価学会のこと?

A 回答 (4件)

創価学会 壮年部の者です。



>日蓮宗と日蓮正宗とは別ものなの?

全く別です。

日蓮大聖人滅後、日興が直接後事を託されますが、弟弟子の日向と地頭である波木井実長が
結託し、勝手に教義を解釈し好き勝手に身延の山をけがした事が始まりで、日興は身延の山を
降り大石ヶ原に築いた寺が大石寺であり『日蓮正宗』です。
反対に身延に残った日向から続いているのが、『日蓮宗』で日蓮大聖人の根本的教義は一切
残ってはおりません。どんなに頑張って信仰をしても全く功徳はないという事です。

また同様に、今の日蓮正宗も第67世日顕により創価学会を破門し、全くの邪教と化してしま
いました。日蓮大聖人の御心など微塵も無いただの狂った荒れ寺となってしまっています。
もちろん功徳などはありません。

※参考資料⇒『身延離山』を付記しておきます。


>日蓮正宗とはイコール創価学会のこと?

違います。

日蓮正宗とは宗門の事で、創価学会は日蓮正宗の一信徒団体として設立されました。
平成3年に宗門からは破門通告がなされ、以来独立した宗教団体となっています。



※参考資料

【身延離山】
1. 六老僧・・・日蓮大聖人御在世の時の6人の直弟子。

① 日昭 弁阿闍梨
② 日朗 大国阿闍梨
③ 日興 白蓮阿闍梨 
④ 日向 佐渡阿闍梨
⑤ 日頂 伊予阿闍梨
⑥ 日持 蓮華阿闍梨

2. 背景
身延に草庵を築いた日蓮、日蓮門下は、宗門として幕府より認めて貰っていない事もあり、その生活を数少ない信徒の布施で賄っていた。しかしながら、身延の草庵での暮らしも弟子が増えるに従って、信徒の布施だけでは賄いきれなくなっていた。その為、日蓮の身辺の世話をする弟子を残して、多くの弟子が鎌倉あるいは駿河への活動拠点を移し弘教・生活をしていかざる得なかった。

3. 身延離山
身延の地頭波木井実長と学頭日向による、宗祖日蓮大聖人の教えに背く数々の謗法によって、第二祖日興上人が身延山久遠寺を離山して正応二年(1289年)春に駿河の国(静岡県)富士郡上野郷に移られたこと。

① 日興上人の身延入山
弘安五年(1282年)十月、日蓮大聖人御入滅にあたつて一切の付嘱を受けた日興上人は本門弘通の大導師として一宗の総貫主に就かれ、身延山久遠寺の院主別当となられた。弘安五年十月二十一日、大聖人の御遺骨を奉じて池上を出発され、十月二十五日に身延山に帰山し、弘安六年一月に百か日忌を修された。しかし、百か日忌以降、五老僧は身延には登山せず、墓所輪番も行わず、自然に身延を捨てた形となった。したがって、日興上人とその弟子のみが身延山を守るようになった。

② 日興上人と波木井実長の関係
波木井実長(日円)は南部三郎光行の六男で波木井三郷の地頭だった。甲斐源氏の南部の一門で四十九院の関係によって日興上人から折伏を受け入信した。

③ 日興上人と五老僧の関係
大聖人から本弟子と定められた六老僧の中の五老僧は、次第に日興上人から離れ、墓輪番制も守らなかった。日興上人はその怠慢を責められて、警告を発せられている。美作房御返事には「何事よりも身延沢の御墓の荒れはて候いて、鹿かきせきの蹄に親り懸らせ給い候事、目も当てられぬ事に候・・・・・・師を捨つるべからずと申す法門を立てながら、忽ちに本師を捨て奉り候はん事、大方世間の俗難に術なく覚え候」と述べられている。また五老僧は、日興上人が立正安国論の反響や幕府への運動の状況を知りたがっていたにもかかわらず音沙汰もなく、全く没交渉になっていた。そのうえ、五老僧は世間に迎合して天台沙門と名乗るなど日蓮大聖人の教えに背いていった。

④ 民部日向の登山
弘安八年(1285年)ごろに民部日向が登山してきたため、日興上人も喜ばれて学頭職に迎えたが、鎌倉風の世間に迎合して軟化した教学を身につけていた日向は、波木井実長に四箇の謗法を許した。日興上人は再三、戒められたが聞き入れず、それが身延離山の大きな原因となった。

⑤ 身延離山の動機
1. 波木井実長(日円)の信心
波木井実長は鎌倉に在住していることが多かったため自然に鎌倉の軟風に染まり、立正安国論の厳戒についても、ゆるやかに考えるようになった。特に日向が学頭になると弱信の姿が現れ始めた。
2. 波木井実長の謗法
身延離山の根本原因は日向が認めて波木井実長が数々の謗法を行ったことによる。原殿御返事には「総じて此の事は三の子細にて候。一には安国論の正意を破り候いぬ。二には久遠実成の如来の木像最前に破れ候。三には謗法の施始めて施され候いぬ。」と述べられ、また同書に「この事共は入道殿の御失にては渡らせ給い候はず、偏に諂曲したる法師の過にて候えば」と指摘されている。また富士一跡門徒存知の事には「一、甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭・南部六郎入道は日興最初発心の弟子なり、この因縁に依って聖人御在所・九箇年の間帰依し奉る滅後その年月義絶する条条の事。釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし是一。次に聖人御在生九箇年の間・停止せらるる神社参詣其の年に之を始む二所・三島に参詣を致せり是二。次に一門の勧進と号して南部の郷内のフクシ(福士)の塔を供養奉加・之有り是三。次に一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立し荘厳せり、甲斐国其の処なり是四。已上四箇条の謗法を教訓するに日向之を許すと云々。此の義に依って去る其の年月・彼の波木井入道の子孫と永く以て師弟の義絶し畢んぬ」と実長が犯した四箇の謗法が明かされている。

⑥ 身延離山の決意
学頭日向は地頭・波木井実長に謗法を行わせたのみでなく、絵曼荼羅を書かせたり、一日一夜の説法をして布施を受けたり、大師講で学頭として読み上げる啓白文で国禱を行っている。そのためついに日興上人は謗法の地には住まずとの大聖人の御遺命を守って身延を捨て、清浄の勝地を選んで移る決意を固められた。

⑦ 身延離山の経過
正応二年(1289年)春に本門戒壇の大御本尊をはじめ大聖人の御遺骨、御本尊、御書等の重宝を奉持して身延を離山された日興上人は、駿河の国(静岡県)富士郡河合へ立ち寄った後、南条時光の懇請により上野郷の南条家に入られた。そして翌正応三年(1290年)十月に大石ヶ原に大坊を建立して移られた。

4. 身延相承書
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらめべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬午九月 日                日蓮 在御判
                          血脈の次第 日蓮日興

5. 池上相承書
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり、背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり。
弘安五年壬午十月十三日               武州池上
                          日蓮 在御判
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それには歴史を知る必要があります。


理解できますか?
日蓮宗の開祖は日蓮ですね。教科書にも出てくる鎌倉時代の僧侶です。
で、日蓮が亡くなってから、身延の墓を守るために6人の弟子が輪番で守る(墓守)ことにしました。
その弟子の中で日興という僧侶がいましたが、彼の興した宗派が日蓮正宗というわけです。
彼に言わせれば、“輪番で墓を守ると言ったのに、他の僧侶はそれを守らずにいた。なので日蓮の教えを一番受け継いでいるのは私だ・・・”ということで、「正」を付けて正宗としたわけです。
その本山は富士宮の大石寺ですね。
これで日蓮宗と日蓮正宗の違いが分かりましたね?

じゃあ、学会とはどうなっているの?
学会は長年にわたって大石寺に寄進・寄贈して貢献してましたが、寺の僧侶が変わってから仲が悪くなって、とうとう仲違しました。
学会の葬儀が学会員導師で行われるのは、僧侶を招くことが出来ないそういう事情もあります。
それまでは日蓮正宗を信仰する信徒団体でしたが、仲違い以降は独自の宗教「世界日蓮宗」という教義を立ち上げて、今では大石寺も日蓮正宗も教えの中には出て来ません。
したがって今では、日蓮正宗とはイコール創価学会ではありません。
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>日蓮宗と日蓮正宗とは別ものなの?



別物です。

>日蓮正宗とはイコール創価学会のこと?

創価学会はかつて日蓮正宗の分派でしたが現在は破門になっています。
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インターネットを利用しているのでしょう。


自分で、「日蓮宗」「日蓮正宗」「創価学会」を検索すればいいだけ。
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