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大東亜戦争でインドネシアで捕虜になったオランダ人が、長崎の捕虜収容所で70人以上が亡くなったと言われています。
(10月28日NHK朝7時のニュースより)

これは捕虜の過酷な扱いでそうなったのですか?原爆で死亡したのですか?

できるだけ正確に知りたい。

A 回答 (2件)

以下は、2014年8月5日の朝日新聞の記事です。

 オランダ人捕虜が収容されていた長崎の捕虜収容所には、原爆投下時オランダ人152人、オーストラリア人24人、イギリス人19人がおり、うち8人が原爆で死亡しました。 残りの死亡者は過酷な労働や処刑により死亡したようです。

オランダ人元捕虜、語る被爆体験 長崎の悪夢、いまも涙

日本軍の捕虜として長崎で被爆し、その体験を語り継いでいるオランダ人がいる。多くの同胞が「原爆のおかげで戦争が終わった」と考える中で、「『原爆が落ちてよかった』とは、口が裂けても言えない」。戦後69年。「あんな恐ろしいものは二度と使ってはいかん。体験を語るのは自分の義務」と思い定める。
核といのちを考える
 男女の遺体の間に、子どもが倒れていた。体の半分が焼けただれている。3人の遺体を運ぼうと子どもの足を持つと、体から引きちぎれてしまった――。
 オランダ人ロナルド・ショルテさん(90)は1945年8月9日、米国によって長崎に原爆が投下された後の3日間、犠牲者の遺体の収容に駆り出された。その時の光景を思い出すたび、涙が出てくる。
 オランダの植民地だったインドネシアで生まれ、17歳で徴兵された。その直後、インドネシアを占領した日本軍の捕虜になった。収容所では「態度が悪い」と殴られた。仲間3人は鉄条網にはり付けられ、銃剣で刺し殺された。その遺体を運ばされたと話す。
 43年4月、長崎の「福岡俘虜(ふりょ)収容所第14分所」に移送された。そこでの被爆体験が「日本への憎しみを吹き飛ばした」。あの日、収容所近くの丘のふもとでトンネルを掘っていた。飛行機の音がして、誰かが「パラシュートだ」と叫んだ。爆風で吹き飛ばされた。
 爆心地から1・7キロ。何とかトンネルからはい出た。外は真っ暗だった。町並みは跡形もなくなり、あちこちが炎に包まれている。壊れた家の下敷きになった人、焼け焦げた人、皮膚が垂れ下がった人。辺り一面に広がる、人の肉の焼けたにおいが鼻をついた。
 戦後はインドネシアにいったん戻り、その後オランダに渡った。軍人として生き、自分にも子が生まれた。原爆で焼け焦げ、絶命した子どもらの姿を思わずにはいられなかった。
 56歳で退官し、体験を書き始めた。そのことを新聞に報じられ、講演の依頼が舞い込むようになった。4年ほど前からは近くの小学校でも話す。その様子を収めたDVDは、教材として使われているという。
■「原爆なければ、もっと死んでた」
 被爆体験を公言しているオランダ人元捕虜が、もう一人健在だ。オランダ南部のワールレ市に住むウィリー・ブッヘルさん(94)。
 「第14分所」近くの工場で働いていた。飛行機を見かけ、無意識のうちに建物の中に逃げ込んだ。強い光で世界が真っ白になり、意識を失った。
 当時は日本人に怒りの感情を持ったことはあるが、恨み続けているわけではない。「収容所でも大半の日本人はそれほど悪い人間ではなかった」と言う。だが、「原爆が落ちたことはよかった。それで、戦争が終わり、我々は解放された。原爆がなければ、我々も、そしてもっと多くの人が死んでいた」と話す。
 原爆投下後、ブッヘルさんは木材集めを命じられ、焦土を歩いた。だが、死体を見た記憶がないという。何度も尋ねたが、「意識して避けていたのかわからないが、自分は死体は見ていない」と言い張った。
■「重要なのは、過去忘れぬ事」
 オランダ南部のギルゼ村。ショルテさんの自宅を訪れた。居間の壁に、「被爆者」という漢字のコピーが飾ってあった。「本当に日本を恨んでいないのですか」。質問すると、こんな話をしてくれた。
 被爆前に経験した長崎の冬の寒さは、インドネシア育ちのショルテさんには厳しいものだった。造船所で働いていたある朝、構内で掃除をしていた高齢の女性が、寒さを心配して、毛糸の手袋をもってきてくれた。中国で戦死した息子のものだったという。
 「悪い体験ばかりではなかった。人生はすべて勉強。重要なのは、過去を忘れないことだと思う」(編集委員・大久保真紀)
     ◇
 〈外国人捕虜の被爆〉 長崎市の福岡俘虜収容所第14分所に収容された捕虜たちは、三菱重工長崎造船所で働かされていた。「POW(戦争捕虜)研究会」によると、第14分所は敗戦時、195人を収容。国別ではオランダ人152人、オーストラリア人24人、イギリス人19人。原爆で8人が死亡した。広島では、爆心地から約500メートルの旧中国憲兵隊司令部に米兵捕虜13人がおり、少なくとも10人が被爆死したとされる。
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POW研究会の研究報告です。



福岡第14分所(長崎三菱造船)
作成:POW研究会2012-06更新福岡第14分所(長崎三菱造船)
1943年4月22日、福岡捕虜収容所第14分所として、長崎市幸町に開設。
1945年9月閉鎖。
使役企業は三菱重工長崎造船所。
終戦時収容人員195人(蘭152,豪24,英19)。
収容中の死者113人、このうち8人が原爆で死亡。

死因と死亡日についてはリンクをご覧ください。
http://www.powresearch.jp/jp/pdf_j/powlist/fukuo …
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