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 私は成人ですが、「読書感想文は読書ぎらい・本ぎらいを増やすだけ」だと思ってます。私のまわりでも、「読書感想文(を書くこと/書かされること)は大きらいだった」という人ばかりです。
 そんな中で注目すべき意見がありました。
「本や著者をけなしてもいいのなら、少しは書く気になるんだがな」
 それで気がついたのですが、読書感想文で、本の内容・表現を批評してもいいのでしょうか。著者を批判してもいいのでしょうか。もしそういう読書感想文が児童・生徒から出てきたら、教師はどう対応するでしょうか。そもそも、読書感想文は、書評と何が同じで何が異なるのでしょうか。国語の教育現場ではどうなっているのでしょうか。
 質問の1つにでも2つにでも、ご意見おきかせいただければ幸いです。

A 回答 (10件)

読書感想文は、その言葉とうらはらに、読書の感想を書く文ではないようです。


読書をきっかけにして、自分の生活に関する作文を書くことを目的にしています。
(http://www4.0038.net/~kanso-bun/kansobun-1.htm)

ですので、作品の解説ではない、とか、著者と自分の対話である、とか、そういう話をくっつけたがります。

コンクールの際に、本に批判的なものが入らないのには別の理由があります。
入賞作品は他の人の目に触れるものなので、差別的な内容とか、悪口を避けて欲しいのです。
(http://www.commakagi.ne.jp/tosyokan/kensyu-/1608 …

ここではすぐに見つかったページを貼り付けましたが、
読書感想文 指導 とか、読書感想文 書き方 とかで検索すると
どちらの話にせよそういう話が山のようにひっかかります。

どれもこれも、読書の感想に、読書の感想以外の目的をくっつけたことから来るゆがみですね。
斎藤美奈子の「文章読本賛江」という本に、この辺のいきさつは詳しく書かれています。

蛇足ですが、お気に入りのページとして、
「読書感想文は1行読めば書ける!」というページ(参考URL)を紹介しておきます。

参考URL:http://www.ne.jp/asahi/ymgs/hon/index03_kansou.htm
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 ご紹介のURL、1つめと2つめ見ました。
 なるほど、「読書感想文」という名前が実態を表していない──それが諸悪の根源ですかね。

お礼日時:2005/01/26 10:42

 ANo.#8です。

再びお邪魔します。
 suzupさんの「指導できる先生が1%とのことですが、ちゃんとした読書感想文を書ける児童生徒は何%ぐらいいるのでしょうか」とおっしゃってるのを読んで、少し補足させて頂きたいと思い、再びお伺いしました。
 私は、国語を教えるのには、他の教科にはない難しさがあると思います。それは、生徒が、教師に教えられる以前に、日本語を読み書き、聞き話す言語能力を十分に備えていることです。言語能力は、家庭や社会のあらゆる局面で長い時間をかけて養われ、身につく能力ですが、その中で国語教師が担う時間はほんのわずかな時間です。それに日本語を操る力は、国語教師だけに出来て、生徒には出来ないということではありません。感想文も同様で、確かにある生徒達は見事なものを書きますが、それは教師が「教えたから」ではなく、教える以前から出来たのです。
 時々、国語教師のやってることは、魚に泳ぎを教えたり、鳥に飛ぶ事を教えたりするのに似ているなあと思うことがあります。教えなくてもできる生徒にはできてしまうことがたくさんある反面、教えてできるようになることは、とても少ないのです。国語授業が「知識」を教えるほうに傾きがちなのは、そちらの方が教えやすいからですが、知識だけでは生きた言語能力とはいえません。それだけに、教えることで生徒の感性と言語能力を引き上げていく先生を見ると、心からの尊敬を覚えないではいられません。
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この回答へのお礼

 たびたびのご回答ありがとうございます。
 なんだか、話が(いい意味で)大きく広がってきましたね。
「教えてできるようになることは、とても少ない」のは理解できます。下のお礼で「読書感想文は読解力と文章(表現)力が必要」と書きましたが、そのいずれも、「教えてできる」ということではないように思います。
 それとは別に、算数・数学で文章題を解くのも読解力の勉強だし、証明を記述するのは文章力ですね。
 まとまらなくてすみません。雑感でした。

お礼日時:2005/01/27 10:18

こんにちは、疑問はつきませんね。



さてご質問の件ですが、すでに沢山の有識者の方からお答えがついていますね。高校1年まで1行も作文の書けなかった私からも一言。

私自身読書は好きで、小さい頃から沢山本は読んできました。しかし作文とか感想文とかというと、作文の時間は1行書いて後はじっと黙っているだけ、読書感想文と言えば、ひたすらあらすじを書き・・「おもしろかったです」だけ、でした。しかし、高校生になり何となく作文らしいものが書けるようになってきました。遅い自我の発達があったのでしょうね?この本はこんなところがおもしろかったけど、ここはつまらなかったなどと自分の意見が言えるようになってきました。

読書感想文はその本を貶そうがほめようが、どちらでもかまわないことだと思います。それを読んだ本人が受け止めたかだと思います。「ここはおもしろかった「ここはつまらなかった」そしてできることならば「私だったらこう思う」「私だったらこうしたい」となってくれればなお良いのですが。ただ、その本全体をきちんと理解することは非常に難しいことです。一部だけを切り取ってきて「こういうことはおかしい」「こういうことは間違っている」と言うことは、論を待たないところだとは思いますが。


現代の小学校や中学校では生徒に批評することを要求していないのではなくて、批評する力をつけさせることを教員に要求していないのだと思います。確かに、文章をきちんと理解することは非常に難しいことです。大人の世界であっても一つの文章が幾通りにも理解されてしまうのですから(日本国憲法9条の解釈など)ですから、子どもにはまず正確な読解力をつけさせることを教員に要求することは至って当たり前のことだとは思いますが。そこから、批評する力を引き延ばすのも大切かな~ぁと思ったりもしますが。(入試の問題が挙がっていますが、あれは出題者がその文章をどの様に読んだかという問題であって、ちょっと今回の質問の内容とは違うような気がしましたが)

実は正確な理解など無いというのが・・最近の文芸評論の傾向だったかな?(どんなに正確に読んだつもりであっても、結局その読者の人生を通してしか理解できない?)・・ごめんなさい ここいらへん勉強不足です
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 結局のところ、「読書感想文は読解力と文章(表現)力がともに必要とされる」のがむずかしいようですね。教育現場が読解力優先になるのは、やむをえないとも思いますが……
 正確な理解などない、というのはある意味で同意しますが、それをいうと、読解力教育が無意味になってしまう!?

お礼日時:2005/01/27 10:10

国語教育に少し関係している人間です。


 私の実感から申し上げて、感想文を生徒にちゃんと書かせる指導というのはものすごく難しいです。そういう指導ができる先生というのは、私など本気で憧れてしまうような存在で、たいへん少数(経験的にはたぶん1パーセント以下)です。
 「読書感想文」はもちろん主観的なものですから、思ったとおり書けばいいのですが、それで本当に読み手に訴える文章を書くためには、マニュアルやテクニックの指導では不可能だと思います。そこでは「書き方」(これが大事なのはもちろん否定しませんが)以前に、「思ったこと」自体、つまり知識量の他に思考力や反省力、批判力等の力(つまり「読解力」)だと思います。
 ちなみに中学高校の国語教育では、教材本文を批判することは原則的に要求されません。大学入試でも、本文を「正しく」読み取ることは要求されても、論理の誤りを指摘したり、認識の浅さを批判したりすることは要求されませんし、それはむしろタブーです。つまり学校現場では、「たとえ問題文の内容がおかしいと思っても、そこ(問題文)に書いてあることを踏まえて、それに従って答を書きなさい」と指導するわけです。事実、そういうふうに答案を書かなければ誤答になります。こういう指導を中学高校でずっとやっていて、しかも感想文では「思ったとおり書きなさい」(批判するのも可!!)というのは、教育現場においては自己矛盾であり、自己撞着、自縄自縛に陥ることを意味します。先に書いた「生徒にちゃんと感想文書かせる指導が出来る教員」というのは、そのような中でなお自己撞着に陥らない方ということなのですが、やはりポイントは日常的にどんな指導をしているかという点にあるのじゃないでしょうか。思い切って正直に申せば、そういう方々こそ「先生」の名に恥じない人々だというのが、私がかねがね(密かに)抱いている思いです。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 教育関係者のかたからのコメント、現場のたいへんさが伝わってきます。

>本文を「正しく」読み取ることは要求されても、論理の誤りを指摘したり、
>認識の浅さを批判したりすることは要求されませんし、それはむしろタブーです。

 だれもがうすうす感じてはいても、はっきり言われると、ある意味ショックですね。いずれにせよそういうタブーがあるのなら、読書感想文のときだけ「批判もあり」は無理でしょうね。
 指導できる先生が1%とのことですが、ちゃんとした読書感想文を書ける児童生徒は何%ぐらいいるのでしょうか。

お礼日時:2005/01/26 16:09

初めまして。


御質問を拝見して漫画家 大島弓子さんの『夏の夜の獏』という作品を思い出しました。

読書感想文を書かせるのは多分その作品内容を、どこまで理解できているかということを教師側が判断の目安にするためという目的もあるのでしょうね。また単に「オモシロかった」というだけで済ませてしまっては読解力や洞察力、論理力を伸ばせないからという理由もあると思われます。

もちろん「感想」文ですから「オモシロかった。以上」で何が悪い、てなもんですが、それでは教育的意味を成さないのでしょうね。やはり「オモシロかった」どこが、どんなふうに、どうして・・・と発展していくのでなければ。

さて「本や著書をけなす」これは評論家と称される人種を始めとして一般のオトナたちが、よくやっていることですね。そして「評論家」といった看板を掲げる職業に就いている人なら「オモシロかった。以上」或いは「ツマンなかった。以上」では済まされないわけです。

そこで「児童・生徒」の場合です。この年齢は小学生から中学生に相当しますね。彼らの年齢で「けなす」という行為をする場合、往々にして感情レベルでの批判に留まってしまう。いいオトナでも、そうなる恐れはあり得ますから。その原因として知識レベル、人生経験等が挙げられますがオトナでも、これらが不足していると「児童・生徒」並みの批評レベルで終わってしまいます。ですから「児童・生徒」のなかから教師を唸らせるほどの批評が出てきたとしたら、それは、その著作者を凌ぐほどの知性と知識或いは人生経験等がなければならず、まず現実的な話ではないですね。天才が、そこらへんにゴロゴロしてるわけでもないでしょうから。従って批判するよりは評価する位置に立って述べるほうが彼らの年齢からして無難でもあり至って自然なことでもあると思われます。但し「オモシロかった」のは、どこが、どんなふうに、どうして・・・を問われることに違いはないわけです。

という訳で冒頭に挙げました大島弓子さんの『夏の夜の獏』に出てくるワンシーンのような事態も考えられるわけですね。

まあ早い話「本や著作者をけなそう」と思ったら、それ以上のものを自分が持っていなければならないわけです。知性、知識、人生経験或いは才能の、せめてどれか一つだけでも。その自信があったればこそ批評家商売も許されるわけでしょう。

つまり読書感想文というのは書評を書くための初歩的訓練であり、そこまで行かずとも感情レベルで終わらせないための訓練ではないでしょうか。

要するに書評を書くに値するものを持ち合わせていない者が書くものは「読書感想文」だという言い方もできると思います。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
『夏の夜の獏』未読ですが、みつけたら読んでみます。

 たしかに、自分が著者になったとして、その作品を小学生に批評されたら、複雑な気持ちがありそうです。はっきりいえば「ガキが何をえらそうに」という感情です。
 その一方、「非難」でなくきちんとした「批判」「批評」なら、相手の年齢等にかかわらず受け止めるつもりもあります。
 うーん、矛盾してるかも……

お礼日時:2005/01/26 11:08

すみません、書き直しです。



私はどちらかと言うと読書好きですが、その本がつまらないなと思えば最初の数ページでやめてしまうし、面白ければむさぼるように読み耽ります。
ですから、好きな本については語り明かしたいぐらいですが、嫌いな本を語る資格はありません。
だから書評というのは、おそらく自分の趣味に関係なく隅々まで読みこなせて、その内容を客観的に解説できるだけの見識や能力の持ち主だけがすることだと思います。
一方、そうでない人の批判は、私にはたいてい単なる悪口にしか聞こえません。本当はきちっと読んでないないだろうと言いたいところです。
もちろん、つまらないものをつまらないと言うのは言論の自由ですが、批判やけなすだけの感想は、おおよそ人前に出すような文章ではないと思います。
ここはつまらなかったから、こうした方がいい。こういう点がいたらなくて残念だった。
書評だってきっとそうなっていると思いますよ。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 私が質問文で「けなす」という表現を使ったのは、まさに「ここはつまらなかったから、こうした方がいい。こういう点がいたらなくて残念だった」を意図していました。「けなすだけ」という意図ではなかったです。
 書き方が悪くて申し訳ありません。

 面白ければむさぼるように読み、語り明かしたいぐらい──というのは私も同感ですが、その場合逆に「あばたもえくぼ」状態になるかもしれませんね。

お礼日時:2005/01/26 11:00

私はどちらかと言うと読書好きですが、その本がつまらないなと思えば最初の数ページでやめてしまうし、面白ければむさぼるように読み耽ります。


だから書評というのは、おそらく自分の趣味に関係なく隅々まで読みこなせて、その内容を客観的に解説できるだけの見識や能力の持ち主だけがすることだと思います。
一方、そうでない人の批判は、私にはたいてい単なる悪口にしか聞こえません。本当はきちっと読んでないないだろうと言いたいところです。
もちろん、つまらないものをつまらないと言うのは言論の自由ですが、批判やけなすだけの感想は、おおよそ人前に出すような文章ではないと思います。
ここはつまらなかったから、こうした方がいい。こういう点がいたらなくて残念だった。
書評だってきっとそうなっていると思いますよ。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 No.6でお礼します。

お礼日時:2005/01/26 10:52

へそ曲がりな性格です。


わざと、散々けなせる本を選んで書いたことがあります。
半ば、ディベート形式で書きました。評価は良かったですよ。

ただ、コンクールとか、他人が目を通すようなもので批判的なのは入賞できないでしょうね。
一応検閲って意味での。

私が思うに・・・
色々な子供の価値観があると思うのです。
それを頭から押さえつけるのも良くないです。
つまらない本はつまらないですし、読んでいて腹が立つ本は腹が立ちます。
それを、脈略無く否定した感想文は如何かと思うけど、筋さえ通っていればいいのではないでしょうか?
なんで、コンクールに出せないの?って聞かれたら、そんだけの文章を書ける子であれば、理解してくれるはずです。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 私もへそ曲がりです。
 そうか、ディベート形式という手もあるんですね。

 いずれにせよ本が選べる場合はまだマシだと思います。課題図書が決まっていて、興味がない本でも読まなきゃならず、読書感想文をかかなければならない、ほめなきゃ!?ならない──私には苦痛です。 
 

お礼日時:2005/01/26 10:50

小学校の時の体験からすると、うまい(先生に受けのいい)読書感想文は「落として、上げる」というものだったように思います。

出だしで「ここがちょっとと思いました」のような部分を入れて、「でも…」と展開する手法です。
こんな計算をして感想文を書いて国語の成績を上げていた私ははっきり言ってかわいげのない小学生です。
姫野カオルコの実体験(エッセイ)だったか小説だったか忘れましたが、「面白くなかった」というような批判的な感想文を正直に書いたら先生に生意気だと怒られた、小学生がこんなことを自分で考えるはずはないから親に書いてもらったのだろうと言われた、という話があったような。現代でも有り得る話かもしれませんね。
「ここが面白かったです」で済めば書いてもいいんですけどね、枚数が決まっていて、なんとしてもそれだけの文字数を埋めるために思ってもいない事をひねり出さなければならないのがホントに苦痛でした。読書感想文はなんか、別な目的(作文と同様起承転結のある文を書くとか)があるのではないかと思っています。
正直に「何を言いたいのかさっぱりわからなかった。自分はこうはしないと思うし。つまらなかった」と書いてはいけない、人が面白いと思うものはお前も面白いと思えっていうんなら思想統制じゃないの?なーんて(^_^)。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 思想統制!
 うーん……いわれてみればその通りですね。

お礼日時:2005/01/26 10:45

私の意見ですが、小学生が本の内容を(けなすことも含めて)批評するのであれば、それはそれである意味「おもしろかったです」と単に書く感想文よりよほどすばらしいことだと思います。


また、読書嫌いを増やすだけとの意見ですが、私は「本が好きな子は感想文の宿題が出ても出なくても本が好きだと思うし、また感想文の宿題がでなければ本など読まないでジャンプしか読まない子に本を読む機会を与えるもの」だと思います。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 前半について……
 私も同感ですが、読書感想文コンクールなどで上位入選し公表された中には、けなしているのを見た記憶がありません。たいていの場合、課題図書が指定されているので(課題図書は良書だというたてまえがあるので)、それをけなすのはタブーになっているのかもしれません。

お礼日時:2005/01/26 02:48

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