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世界史です
黒死病(ペスト)が流行した結果農民の地位が向上したと習ったのですがそれは何故でしょう???
農民以外が死んで農民が生き残ったからですか??

A 回答 (2件)

No.1と同じです。



貨幣経済の進展の結果、農奴が(賦役・労役の資源)から(税納してくれさえしてくれれば良い納税者に)変わって、そこに、十字軍の活動で領主は金が必要になって、課税・地代を要求する代わりに、人的拘束を緩める時代背景があった。
ところが一転して、黒死病(ペスト)が流行し農奴も領主もどんどん死んで、経済力・生産力が低下し、社会が貧困にあえぐ事態となった。 領主は農奴を確保しようとし、農奴は領主のくびきから逃れようとし、階層・階級間の争いが激化して、社会は混乱した。
 = (身分秩序と、支配・被支配の関係)が 以前の社会のようにはもう出来なくなった。
 = 領主の人的支配、農奴の人的隷属 の関係が変質した
 = 農民の地位が向上した  領主の地位が下洛した
もちろん、全域でそうなったのではなく、領主の復権・農奴制の復旧に成功した地域もある。
全体で見れば、中央集権国家へシフトしていった。

https://www.y-history.net/appendix/wh0601-156.html
https://sekainorekisi.com/world_history/%E5%B0%8 …
http://www3.kct.ne.jp/~atonoyota/tyusei/117-euro …

封建制は自給自足を本質とする荘園制の上に成り立っていたが、十字軍以後商業や都市が発達し、貨幣経済が進展する中で荘園制や封建制も崩れ始めた。

 貨幣経済が広まると、領主層もいやおうなしにその中にまき込まれていった。領主としての体面を保つためにより多くの貨幣を必要とした領主は、賦役をやめ、直営地を農民に貸し与え、地代を生産物や貨幣で取るようになった。

 賦役は、農奴が領主の直営地で、週に2~3日、無償で働くことで、労働地代とも呼ばれた。農奴は賦役をきらったが、領主から土地を借りるためには賦役に出て行かねばならなかった。

 賦役による直営地の収穫物は全て領主のものとなり、農奴達がどんなに一生懸命働いても自分たちのものにならなかったので、農奴達は本気で働こうとしなかった。そのため同じ面積当たりから取れる収穫物は、農民の保有地(領主から借りた土地)の方が多かった、言い換えると賦役は非能率であった。

 そのため領主は非能率な賦役をやめて、賦役を金納化したり、直営地を分割して農奴に貸し与えるようになった。領主から土地を借りた農奴は、収穫物の一定割合を作物で納めたので、この税は貢納または生産物地代と呼ばれる。

 このように地代形態は、労働地代から生産物地代・貨幣地代へと変化していった。

 この地代形態の変化は、農奴にとっても有利であった。生産物・貨幣で納める場合、その割合が一定であったり定額の場合、農奴達が一生懸命働き収穫量を増やせば増やすほど、農奴の手元に残る量も多くなり、農奴の一部には貨幣を蓄えて次第に富裕になっていく者もあった。

 たまたま、1348年に黒死病(ペスト)が全ヨーロッパに流行し、農村人口が激減すると領主の直営地経営は困難となり、賦役の金納化(売却)が促進され、農奴の身分的束縛がゆるんでいった。

 ペストは歴史上何回も猛威をふるって多くの人々の命を奪ったおそろしい伝染病であるが、特に14世紀中頃ヨーロッパ襲ったペストの流行は歴史上最も有名である。

 この時のペストはアジアで猛威をふるっていたが、東方貿易に従事していたイタリア商人らが感染し、イタリア・フランスの港に入り(1347)、1348年には全西ヨーロッパに広まった。ペストには腺ペストや肺ペストなどの種類があるが、この時ヨーロッパで流行したのは腺ペストの方で、その症状については有名なボッカチオの「デカメロン」(1348~53の作)の冒頭に次のように書かれている。

「東洋では鼻血がでたら死が疑い無しでしたが、それとは違って罹病の初期にはこわばったはれものが出来て、そのうちのあるものは普通のりんごぐらいに他のものは鶏卵ぐらいに大きくなり・・。命取りのはれものはまたたく間に全身にわたってところかまわず吹き出し盛り上がってまいりました。こうなってからあとはそのはれものは黒色かなまり色の斑点に変わり出しました。たいていの者には両わきだの、両足だの体中いたるところにあらわれてくるのです・・・あのペストのはれものが死の到来のきわめて確かなしるしであったように、この斑点はそれが出てきた人にとって同じく死の徴候でした。こうした病気の治療には、医者の診察もどんな効能のある薬もききめがあるようには見えませんでした・・・徴候があらわれて3日以内に、多少遅い早いはあってもたいていは少しの熱も出さず、そうかといって別に変わったこともなく死んでいきました。このペストはそれは驚くべき力をもっておりました。・・・」

 このペストの大流行によって、イギリス・フランスでは人口の3分の1が病死したといわれている。農村人口も激減して領主の直営地経営が困難となり、貨幣地代の普及が促進され、農奴は賦役や領主裁判権などの身分的束縛から解放されるようになった。
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ヨーロッパがペストで人口が1/3まで減ると人手不足、労働力不足になりました。


仕事が選べる状態なので小作人の農民や労働者が
地主の提示する労働条件が嫌なら別な場所で働けばいいやっとなって
地位が向上したのです
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