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アレキサンダー大王は、前4世紀に東方遠征を企て、インドの一部にまで達しています。

質問は、はるかなるインドまでの遠征でなく、なぜ、自国の領土保全のため、近くの西方にへ遠征しなかったのでしょうか?

A 回答 (4件)

> 自国の領土保全のため、近くの西方にへ遠征しなかったのでしょうか?



「近くの西方」にも、「離れた西方」にも、「北方」にも、強い勢力が存在するとは、当時のギリシャ地域の人は、考えてもいないのです。
世界史で習ったと思うのですが、ローマが勃興するのはかなり時代が後です。 ヨーロッパはずーっと後の時代まで地域名や民族、都市のことも出てきません。
当時のギリシャ地域の人にとっては、強い勢力は東方にいるとしか思えないのです。
http://www.y-history.net/appendix/wh0102-095.html
私は知りませんが、「大王自身は、自由なギリシアが、僭主や異国人の王に支配され奴隷の境遇にあるアジアの民を解放する戦いであると戦争目的を部下の将兵に語っている。」のだそうです。
一世紀半以前のペルシア戦争でギリシアの神殿を焼き払ったヘルシァ人に対する「報復戦争」であるとうたいあげ、ギリシア人の共感を呼ぶ「聖戦」だと今回の遠征を位置づけたと、歴史物には書かれています。
大王自身は、マケドニアの大王ではなく、強国であるペルシャの大王として君臨したかったようです。エジプトではファラオとしてふるまい、ペルセポリスではアケメネス朝ペルシャの大王後継者として自らを神格化し、自分自身を最高の存在にしたい思いはとても強くて、ペルシア人にも、マケドニア人にも、跪拝礼を求めた人です。インダス川の東にも強い国があったので、そこも自分の版図にしたかったのです。 ギリシャよりも西には、ここの支配者になりたいと思えるような繁栄した場所が当時はなかったのです。
「アレキサンダー大王は、インドまでの東方遠」の回答画像2
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
<ギリシャよりも西には、ここの支配者になりたいと思えるような繁栄した場所が当時はなかった>のですね。(将来のことになりますが、東には強力なイスラム諸国の卵が列挙していたのですね。
<ギリシア人の共感を呼ぶ「聖戦」だと今回の遠征を位置づけた>のですね。政治家・軍人として、有能な人だったのですね。

お礼日時:2022/07/06 17:44

アルプス山脈の向こう側は、未開の地で、何ら得る物の無い、未開の地


だからです。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<向こう側は>ケルト民族がいましたが、まだ大した勢力ではなかったようですね。

お礼日時:2022/07/08 17:33

当時の地中海世界の近辺で、最大の富める文明国はペルシャ帝国であり、その背後にはインドというさらなる大文明国があった。



当時の西方社会なんて、ギリシャという貧しいエリアから飛び出したギリシャ人の植民都市が点在するだけだった。ローマにしても、当時はたいした勢力を持っていたわけじゃない。多くの植民都市のひとつでしかなかった。

「自国の領土保全のため」というのなら、東方からギリシャを度々侵略していた大国ペルシャ帝国を撃破するしか道はないでしょう。
ペルシャを制圧すれば、アレキサンダー大王がその奥に隠れていた超大文明国インドに興味をそそられるのも当然のことかと思います。
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この回答へのお礼

早速の御回答亜血がとうございます。
ギリシャ文明に惑わされている私にとって、西側には有力な国がある、と思っていました。

お礼日時:2022/07/06 17:46

アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)の戦いは、基本的にペルシアが相手です。


当時、ペルシアの領土がインダス川あたりまであったので、ペルシアを徹底的に滅ぼすために遠征していったら、インダス川まで到達しちゃった、という感じではないかと思います。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
目的は、強敵の<ペルシアが相手>だったのですね。
追いかけて行ったら、ついつい<インダス川まで到達しちゃった>のですね。

お礼日時:2022/07/06 12:40

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