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カトリックです。
数年前にキリスト教の本を読んで、神の導きを信じて以来、地獄にハマっています。偉人が書いた本でしたが、書物や人との出会いは導き、タイミングよく現れて来たら導き、不思議なことが次々起こる、偶然では無い、などと、散々書かれてありました。
当時出会った女性が運命の人かと思って、自分の本心にも気付かずに結婚。すぐに後悔しましたが、後の祭り。
でも自分を偽ることは出来ず、離婚しました。彼女は嘆き悲しみました。
私は今でも、離婚は神に逆らった事かなと、自分を責めています。もう5年以上経ちます。苦しいです。神は何故こんな事をしたのでしょうか。助けてください、よろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • 私のせいと言うのは辞めてください。ヒルティ著、幸福論、岩波文庫の第3部、驚くべき導き、に書いてある事です。聖職者も同じ様に信じてるみたいですよ。

      補足日時:2022/07/30 12:11
  • ありがとうございます。
    結局、どういう事ですか?私は元妻を傷付けたけど、どうしたら良いのでしょうか?
    ご教示のほど宜しくお願い申し上げます。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/07/30 16:21
  • ありがとうございます。良い考えを書いて下さったと思います。ヒルティは、色んなことが良いタイミングで起こったら導きだ、、と書いていたので、間違いだと思います。迷信を信じて地獄を見ています。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/07/30 17:01
  • うれしい

    本当にありがとうございます(T . T)
    深く感謝致します( ; ; )
    又質問すると思うので、その時は是非宜しくお願いします。ありがとうございました。

    他の方も、大変参考になりました。ありがとうございます。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/07/30 17:52

A 回答 (5件)

神の課す様々な試練の中で、他人を傷付けてしまうことは、しばしば起こりうることです。


導きに従って結婚したものの、自分を偽り続ける事は大変な苦労であったと、お察しします。その上で離婚という大きな決断をされた。推測の域を出ませんが、ご自分の本心を偽ってまで結婚生活を続けていれば、貴方はもちろん相手の方にとっても更なる不幸をもたらした事でしょう。
己の過ちに早く気づき、傷の拡がりを抑えられたと考えてください。

先程の回答にも書かせていただきましたが、卑近の損益で神の導きは測るものではありません。
貴方の元妻の方への罪悪感は大事ですが、いつまでもそれに囚われていては新たな導きを見失います。

5年も経ち、既に彼女も新たな生活を始めていることでしょう。慚悔の念に浸るより、彼女の新たな幸せを祈ることこそがカソリックにおける「愛」の行使です。
貴方の出会ってきた全ての人に、そしてこれから出会う全ての人に幸のあらんことを共に祈りましょう。
ハレルヤ。
この回答への補足あり
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こんにちは。


私もヒルティの幸福論を愛読書の一つとしています。

さて、「導き」についてですが、
岩波文庫版113頁〜「驚くべき導き」の、神の側から見た目的と直接の狙いは、我々を普通の卑近な意味で幸福にすることではない〜
とあります。114頁の海の彼方の陸地についての言及もありますが、神の大いなるお考えは中々人生途上の我々未熟者(失敬)にとっては計り知れないものです。

カソリックにおいては、最終的に神の御国へ到達することが目的となります。そのために神は日々様々な試練を我々に課してきます。何故なら、神の御国の門は万人に開かれてはいますが、万人に見えるものではなく、まことの愛に到達した者のみがくぐることができるからです。
まことの愛とは、対象を限定した(配偶者であったり、子であったり)ものではありません。むしろそれらは「卑近な意味での幸福」に属するものです。

ここまで書けば聡明な貴方には最早お分かりでしょう。
信仰は忍耐です。目先の一喜一憂に囚われていては神の御心に近づけません。それは卑近ではなく遠大かつ壮大であらせられるからです。

貴方が今後も様々な導きの中で神の御国に近づけますように。
ハレルヤ。
この回答への補足あり
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自分の目の前にいる異性は全員、神様に導かれた存在だから結婚を申し込まないといけないことになるの?


おかしくありませんか?
毎日、いろんな異性に会ってますよ。
出会った目の前にいる人に優しく愛を注ぎなさいという意味ではないですか?
この回答への補足あり
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愛には沢山のスキルがあって


愛とは何かの探求と追求が
神の導きなのかもしれませんよ。

キリスト教の中で愛とは
非情になる教えは無いと聞きました。
キリスト様の亡くなり方が物語っていると
人の心が分かってて許してきた結果だと
書物で読みました。
導きって運命と思い込んだ主さんのせいなのに神様のせいにするのは都合がよすぎませんか?
自責や他責するのは
愛じゃないと思います。
お釈迦様の八正道も
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まぁ、女の人1人幸せにしてあげられないのですから、たいした人ではないようですね。

一緒にいても、不幸、別れても結局は不幸になるなら・・・。
人生、至る所、演技なのです。あなたの信じる、カトリックの神父様も、おそらく教義に基づいて神父らしく演技しているのですから。それを続けているうちに、やってる本にも、見ている周りも、ほとんどの人は、演技と現実の区別がつきにくくなっていくだけのことです。別に本心の通り、行動にすぐ移し、別れなくてもよかったのです。運命の人と思い込みながら演技を続けていれば、女性を不幸にし、悲しませることもなく、あなた自身も自らを責めたり、苦しんだりする必要はなかったのですから。
だいたい、あなたの神は、弱い人間を苦しめるような、自らに逆らった人間を責めるような、そんな情けない、つまらない、非情な方なのですか⁇
何度も言いますが、人生至る所演技なんです。
お店の人だって、仮に感謝の気持ちが無くても、嫌な感じのお客に対しても、「毎度、ありがとうございました。」とか、「またのお越しをお待ちしております。」とか、笑顔で言うでしょう。それだけで、きちんとまとまり、収まるのです。ですから、あなたも、元の奥様に気に入らないところがあっても、演技をし続けていれば、やがてどれが演技かわからない程度になって、うまくいっていたかもしれません。三流の役者の演技で十分なんです。全くの他人同士が一緒になる夫婦なんですから、何でもかんでも上手く行くわけがありません。多くは様々にケンカなど繰り返してます。でも、どちらからともなく、演技をし、それを互いに続けて行くうち、その裏も理解できたり、どれが演技か分からなくなったりして、上手く行くのです。おそらく、ほとんどの夫婦がそうだと思いますよ。
その本の偉人って言ったって、その取り巻きの人が、その宗教を熱烈に支持する人が、言っているだけですから、信憑性は分かりません。ある意味、オレオレ詐欺で、次々と、銀行です、クレジット会社です、警察です、と名乗りながら、電話をかけ続けられ、言いくるめられるのと似ていますよ。それに偉人と言っても、ただの人間であることには、かわりありませんから、我々とそれほどの違いは無いと思います。
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