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1. 次の資料によって 疑問をつづり答えを問い求めます。

2. ▲ 教学入門(教義) 日蓮大聖人の仏法:一生成仏 ~~~~
https://www.sokanet.jp/kyougakunyuumon/isshojoub …

[α] 「法華経の行者は、如説修行せば、必ず一生の中に一人も残らず成仏すべし。譬えば、春夏、田を作るに、早晩あれども、一年の中には必ずこれを納む」・・・これを「一生成仏」といいます。

[β] 「凡夫」すなわち普通の人間である私たちが、その身のままで、自身に仏の生命境涯を開き顕せるのです。それゆえ、「凡夫成仏」とも、「即身成仏」ともいいます。

[γ] 「桜梅桃李の己己の当体を改めずして、無作三身と開見す」

[δ] 凡夫の身に本来、仏の境涯が具わっていて開き顕すことができる・・・これを「凡夫即極」とも、「凡夫即仏」ともいいます。

[ε] 即身成仏とは、衆生が、死んで生まれ変わって現実の凡夫の身を改めることなく、仏の境涯を得ることをいいます。

[ζ] 私たちは、南無妙法蓮華経の御本尊を信受することで、だれもが自らの生命に仏界を開き顕すことが可能になりました。

[η] 「我らこの本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(『日寛上人 文段集』)

[θ] 煩悩に覆われた苦悩の身が、そのまま菩提の智慧に輝く自在の身となるのです。この法理を「煩悩即菩提」といいます。

[ι] 「生死即涅槃」とは、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えていけば、生死によってもたらされる苦しみの境涯にある生命に、仏の覚りによって得られる安穏な境涯(涅槃)を開き顕していけることを示しています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

3. 《無作三身》[γ]の《即身成仏》[β]には 《修行》[α]が必要か?

4. その《修行》は 《本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え》る[ζ / η]ことだと言う。

4-1. その必要性の根拠は 何か?

4-2. そういった修行が介在するなら 《凡夫の身に本来、仏の境涯が具わっていて開き顕すことができる》[δ]という《凡夫即仏・即身成仏》[β]ではないのではないか?

5. 《煩悩即菩提を説く普遍的な法理》[θ]なる普遍的な法(ダルマ)にとって 何か具体的なかたちとして唯だひとつの修行方法しかないというのは 普遍性を侵しており 不自然かつ非論理的または非人間的ではないか?

6. というよりも そもそも《修行》を必要・必須とするという命題が――相対的な思想としてあり得るとしても――絶対的に成り立つとするのは どういう理屈か?

7. さとりは 基本として ひとりひとりの存在と意志に成る人生の問題であり 即身成仏のその《身》が 二人や三人のあつまりとして成り立つなどというのは――そもそもの人間の関係性という大前提に立ったとしても――あり得ないはずでは?




8. 参考:次の命題は 《無作三身なるさとりまたは即得往生》をしめしていると思われます。:

▼ [κ] 道元:現成公案
自己をはこびて万法を修証するを迷いとす
万法すすみて自己を修証するはさとりなり

▼ [λ] 親鸞:自然法爾
自然といふは、自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、
然といふは しからしむといふことばなり。
しからしむといふは行者のはからひにあらず

A 回答 (78件中11~20件)

私の経歴は



桐蔭学園高等学校「理数科」卒
慶応義塾大学理工学部機械工学科 卒



学歴上は神学・仏学を学んでいなく、実社会の転落劇は企業のやらせ行為だと長らく考えていて、30年も生死の境を歩んでいたのですが。

私の病気は「主」「イエス」「ゴッド」とか聴こえる病気ですが。その病気の真相はなんだ?と思い、個人の生年月日や家族の生年月日、血液型(科学的には意味なしが証明されている)など。家族の性格傾向や家での成育歴、などを自分の出生から現在に至るまで自己の半生を顧みることで、何とか、活路は見いだせないのかと、苦慮したのが、今日までなのですね。

私は形式的には精神病を患っているとされていますが。

社会の荒波を僅か、一か月足らずで、30年分、体験したので、それで思想混乱し、病気に至ったように散見されたのではないのか、と自己分析していますけれど。

じゃ。
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この回答へのお礼

人間の自然本性は すこやかです。


人間がみづからウソをつきイツハリを侵したゆえ 自然本性なる身の神経線維に 歪みや接続不良を起こした。

その身体的なへそ曲がりが 心にもおよんだ。感性のゆがみや思考の停滞など。



ふたたび自然本性に立ち戻るなら わたしはわたしであるわたしとして すこやかな存在になります。


ウソ・イツハリとそれらをおこなう人びととのマジハリによって 身にも心にもシガラミが生じた。

ウソ・イツハリによって社会的地位に就いたなどということであれば シガラミが 名誉なことにすらなっている。世間の常識から言えば。

つまり クリスマスツリーの飾りの部分です。


そして 樅の木が 自然本性です。


ヤマヒとは それだけのことだと見ます。

お礼日時:2022/10/31 17:00

#67



釈尊が生存に対して、深い絶望を覚えているとは私の想像を働かせたところであり、私の人生への思いを釈尊像にぶつけてみましたが。

繰り返すようですが。

我々が不条理で散った、蜂や蟻などの昆虫の死骸を視て、大した思いを馳せないように、天の視点では例え、それがホロコーストのような大惨事であれ、天は心を痛めることはないというのが、詰まり、天の視点という視点は瑕が起点になって深い、視野・視点が発達する者ですが。天を擬人化したのも、ご本人が瑕だらけの人生だからでしょう。

自分の肉体から映る・視野・視点では、自己中心的な視野・視点のみ

他人か映る、視野・視野視点の発達で、自己性の客観化の発達。

自然界を自らが擬人化することでの視野・視点の発達は通常、進学校で通学するような人材であれば、自らが自然を擬人化はしないでしょうね。

それは大自然への畏敬の念を膨らませた、集大成ではあっても、実際、自然を擬人化させたところで、天は黙したままだ。

自然を擬人化させ、魔物化させたのが、ベルセルク(三浦健太郎氏作)の世界観と言ったところで、自然自体を擬人化させたのではなく、氏独特の妖精なり、悪霊が登場することに氏の創作性の豊富さを垣間見ることが出来ましたが、54歳の若さで昨年、早世されました。個人的には惜しかった・・・。


Beserk op YouTube 1997
[8K 60FPS] Berserk 1997 Opening (剣風伝奇ベルセルク )
「創価学会の教義で《一生成仏ないし即身成仏」の回答画像68
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この回答へのお礼

★ 釈尊が生存に対して、深い絶望を覚えているとは私の想像を働かせたところであり、私の人生への思いを釈尊像にぶつけてみましたが。
☆ その見解をもふくめてコメントしました。

絶望ゆえに それでは 《この上なくとうとい智慧のさとり》を得たというのか。それとも その絶望を解かれて さとりを得たのか。



★ 天の視点では例え、それがホロコーストのような大惨事であれ、天は心を痛めることはない
☆ 天意は たしかに人がその神をののしろうが好きだと言って褒めたたえようが 痛くも痒くもありません。

問題は 人が――信じるかに伴なって――何をねがうかだと思います。神は 放っておくかどうか 考えてくれるでしょう。

ひとりでも義の人がいれば 人びとの惨事をまぬかれるようにすると言います。
(語弊があります。惨事についてもいろんな場合があるはずです)。


★ 天を擬人化したのも、ご本人が瑕だらけの人生だからでしょう。
☆ 人間が擬人化したから そのように神が振る舞うというのは 本末転倒です。



★ 自己中心的な視野・視点 / 自己性の客観化の発達。
☆ パウロは――その当時サウロという名でしたが―― 原始クリスチャンたちを迫害する指導をしていた人物です。その男を 神は 召し上げてキリスト者としたのです。

人間が どういう考えを持っていたかなどに関係なく 神は 役割りをになうようにさせます。



★ それは大自然への畏敬の念を膨らませた、集大成ではあっても、実際、自然を擬人化させたところで、天は黙したままだ。
☆ そうです。そういう場合もあります。



★ 自然を擬人化させ、魔物化させたのが、ベルセルク(三浦健太郎氏作)の世界観と言ったところで、・・・
☆ 基本として 本人の主観たる神観であり またその自己表現の手法は 文学・芸術なるジャンルだと思います。

お礼日時:2022/10/31 05:10

#65



釈尊の現世で生きることへの深い絶望を覚えずにはいられないのですが・・・。

釈尊が生きた時代では輪廻転生は世相でしょうからね。現代日本ではそのような死生観を持つ人も多いけれど、多数派ではないでしょうね。

矢張り、生も死も科学する世界であれば、唯物思想というか、利益性に煩いのが現代日本人の多数派ではないでしょうかね。

ある意味では、哲学・倫理を考えることを日課とは通常、していないでしょうしね。
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この回答へのお礼

★ 釈尊の現世で生きることへの深い絶望
☆ 自由ですが だったら そこから出た思想は無益で無駄になります。

絶望という認識に酔っている。

ちょうど利益性に酔うかのごとく。

お礼日時:2022/10/30 22:38

#64



性的関係が合意の基なら、仮に非合法な未成年者と成人との間の性行為でも立件されなければ、事件性はないのですが。

未成年者といっても、心身ともの発育格差は歴然としており、仮に成人であっても、性の対象としては未熟な人は結構多数いらっしゃるのではないでしょうかね。詰まり、性行為に及ばれると、性被害を露わにされる成人も多いし、逆に未成年であっても、性交渉を持っても、性被害に至らない人もおおいのでしょうし。

法律で一定の基準を設けても、その対象から外れる人も又多いのです。
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この回答へのお礼

性関係より先に――時間的にではなく 精神の問題として―― 人間の二角関係がある。

その人間関係の内に 広義の(ツイになる前の段階をふくめた)ツイ関係をおさめる。

方程式としては かんたんです。

お礼日時:2022/10/30 22:35

釈尊の修行の始まりが荒修行であり、餓死寸前まで痩せこけ、元々、釈尊が生きた時代背景では如何に生きるかを目指すのではなく、如何に死ぬか、が問題視された時代ですからね。



抑々、苦行の果てという、ネガティブシンキングからどうしたら、楽な世界へどうしたら、甘美な世界へ、と試行錯誤の上に始まった、宗教が仏教ですからね。
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この回答へのお礼

★ 抑々、苦行の果てという、ネガティブシンキングからどうしたら、楽な世界へどうしたら、甘美な世界へ、と試行錯誤
☆ ちがいます。

★ 楽な世界へ 甘美な世界へ
☆ ではないのです。

もう二度と人間には生まれない――なぜなら《生苦》ゆえ その――ようにするには どうしたらよいか だったんです。

生まれによる身分制のもとで 生苦もあったんでしょう。

ゴータマは いやいや 人間は生まれによってその人格が決まるのではない あくまでカルマ(業:おこない)によって形成されるものだとまでは 主張し抵抗したけれど。

苦をもたらす煩悩=すなわち 《意志決定によるカルマとしての人間形成を知らない》ところの《無明》 これを《明知》に変え《菩提》に到り しかもこの《生》から離れて自由になる・・・ことを目指した。

要するに 死のオシへです。善き死への。

お礼日時:2022/10/30 21:48

小児性愛のことを精神医学的用語ではペドフィリアとしており、異常性愛者だと社会通念上、性犯罪者として、立件して、刑事裁判を受けさせること以外、何ら、性犯罪者に根本的な治療薬はなく、刑期を終えて、又、性犯罪を繰り返す可能性も無視できませんけれど。

性対象の認知の歪みがペドフィリアの正体ですけれど。性的興奮を生むのが未成年者であるという性の認知の歪みに対する、精神医学的な対話療法に於ける治療も虚しい限りだというのが現代精神医学も限界点らしいです。ある一定の割合では、そういった、小児性愛者は社会の統制上、現れることは避けようがなく、社会の運営の難しさを偲ぶ次第であります。
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この回答へのお礼

★ 性的興奮を生むのが未成年者であるという性の認知の歪みに対する、精神医学的な対話療法に於ける治療も虚しい限りだというのが現代精神医学も限界点らしい
☆ 思考の緑野における結論が それです。

性愛を それとしてのみ捉えて あれこれ考えるからではないか。

ツイ関係であり それは二角関係の問題であり 社会性の問題である。

エロースの人間化。もともと人間性なる生命のもとにあったもの。

お礼日時:2022/10/30 21:37

釈尊には僭越ながら、現世で生存することへの大きな絶望感があったのかもしれませんね。

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この回答へのお礼

なにしろ 苦(ドゥッカ:思うようにならない)から始まっています。

生老病死の四苦。マイナスを背負って生きていかねばならないのが 基本になっている。

特に《生苦》が問題ではないのですか。

スッタニパータの冒頭の一句は 次のようです。

▲ 1  蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

☆ ゴータマも 阿呆です。こうして ニルヴァーナ(涅槃)すなわちゼロ(絶対無)が 目標になります。

お礼日時:2022/10/30 21:00

男女の性愛劇を仏教は、鎌倉新仏教迄は公認として、仏教徒の男性が妻帯することすら、認めていませんけれど。



親鸞聖人は非僧非俗ですから。恵信尼僧を嫁とし、妻として迎えることは破戒僧の何物でも当時の世相ではないですからね。
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この回答へのお礼

クリスチアニズムでも プロテスタントたちは 配偶者を持つことをみとめています。女性牧師も 出ています。

ちなみに カトリックでは 小児性愛が神父たちのあいだで横行しつづけています。信徒たちのあいだの少年少女を対象にするもので 虐待にも発展していす。


生殖行為は 人間として・人間性として 自然でふつうです。

その意味で エロースなるウゴキも 自然でふつうです。

これを ツイ関係を成す両性が互いに気遣いユヅリ愛のもとに ふつうに自然に自分たちの生活の中に治めていくことは 可能でしょう。

人間のふつうの関係は 二角関係です。男女の性愛をともなうパートナシップは ツイ(ペア)関係です。

ツイ関係においても 二角関係としてのコミュニケーションが そのまま通用するものでなくてはならない。

これが 民主制すなわち 自由・平等・ユヅリ愛です。

お礼日時:2022/10/30 20:53

少なくとも、仏教というか、釈尊を主軸に仏教を考えるのであれば、男女間を巡っての性愛劇は伝統的に仏教は禁忌としてきた筈ですけれど。

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この回答へのお礼

それは 不姦淫戒でしょう。不邪淫戒ですか。

もっとも ゴータマ・ブッダの場合その成仏というのは もう二度と人間には生まれてくることはなくなるといった事態がふくまれています。

そういう意味では 生殖をもしりぞけているのかも知れません。

ですが インド人の一生には ちゃんと家住期を採ることになっていますから 生殖は 考えられています。


性愛を排除するような傾向では 哲学はおぼつかないでしょう。

お礼日時:2022/10/30 17:24

ニルヴァーナの境地と即身成仏とは又、異なる境地なのでしょうか。

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この回答へのお礼

それは 無神論と有神論との違いによって 表現にも違いが出て来ているということだと思います。


ニルヴァーナとは ろうそくの灯が吹く風になびいて消えそうな状態を言うらしい。

これを あろうことか 人間の状態にさえあてはめた。しかも――ヨガの修行のように――実際に呼吸法として 呼吸を止めるといったかたちで実現する。

むろん ほかでもなく 〔あやまった考え方と修行法だと思うのですが〕煩悩を取り除くという作業だというわけです。

さすれば 空(シューニャター)となる。絶対無に近づくと。



成仏は ブッダなる神が立てられていますから その神性・生命性と一体となることです。絶対有に立つ観想なのでしょう。


絶対有と絶対無とは 同じひとつの絶対性です。

お礼日時:2022/10/30 17:19

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