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当時の東国から防人として徴集された男子は、その大方は一般庶民、すなわち農民や漁民などの人々だったと察せられます。そうだとする、果たして彼らは和歌を詠ことができたのだろうかとの疑問が湧いてきます。一方で、筆記はできなかったとしても和歌を詠み歌うなどの習慣があって、その歌は口承で伝えられていたということはあり得る、などとも想像します。それを役人が聞き取って記録し、万葉集に掲載したと考えることもでき得るでしょう。

 古代には、中国南部や日本でも歌垣を有する地域があって、現在なお生きてる地域があるとも聞きます。果たして、当時の庶民の間に和歌を詠む習慣はあったのでしょうか?庶民のなかでも一定の有識者にはその習慣があったのでしょうか? 実際の状況はどうだったのでしょうか?

A 回答 (2件)

東国のうたといえば「多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだかなしき」が有名。

昔は租庸調の税を労働力として払ったのが「傭」で防人となり、物納である「調」を布で払った場所が「調布」という地名になりました。(調布には布田や染地など布に関わる地名が多い)

おそらく庶民は読み書きもままならないような教育レベルだったでしょうから、実際には為政者が住人の気持ちを汲んで読んだのだろうと思いますが、辺境の東国でも風情がある歌が読まれていたというのは古代の日本の文化水準の高さを感じますね
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2022/11/11 13:28

九州王朝の倭国は3世紀から魏と文書外交をしており、歌垣などは天照大御神の紀元前からあります。

倭国の支配層は漢字で記録を残し、それが記紀、万葉集に記録されています。

防人のような兵も官僚、兵としての教育を受けており歌は口承で伝えられ漢字で記録されたものです。

九州にはこうした古代の漢字による記録が残っています。

これらは、7世紀の大和朝廷成立期に九州王朝を簒奪し多く廃棄されたものと推定されます。

大和朝廷の文字使用は5~6世紀以降と推定されます。

白雉年間の難波副都建設と評制の創設について
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou82/kai0 …

他参照。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。倭国が三世紀に文書外交云々、、、は初耳ですが、当時の倭人が文書に対応できたとは思えません。大陸から渡ってきた知識人を通じるなどすればあり得るでしょうが。物事の伝え方は専ら口伝えだったのではないでしょうか。

お礼日時:2022/11/11 13:20

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