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 ドラマのカテにしようかとも思いましたが、歴史に詳しそうなこちらで質問させていただきます。

 先日スペシャルのあった「大奥」がとても好きでした。全話もれなく見たのですが、一つ疑問点があります。

 徳川2代将軍が生涯に一度浮気したお静(雛形あきこ)との間に子供が出来、ナレーションで「将来、徳川にとって重要な人物になる…」と言っていた気がするのですが、その後のドラマでは出てきませんでした。

 どこが事実でどこがドラマだけの話か、詳しいことが分からないのですが、お静との間に出来た子が誰か、徳川とはどんな関係でどんなことをしたのか、教えていただきたいと思います。よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

徳川秀忠とお静の間の子は「保科正之」幼少名は幸松丸


といいます。
正室「お江与の方」に頭の上がらなかった秀忠は、正之を正式には認知せず、正之は見性院(武田信玄の二女)に養育されることとなります。
武家の男子は、7歳から学問と武芸の稽古を始めなければならず、見性院は、最も信頼のおける信州高遠の城主「保科正光」に正之を託しました。
正之は、保科正光の養子となり、寛永8年(1631)、21歳で高遠藩主となります。
三代将軍家光は、正之を実弟として、最上山形、続いて会津の城主とし、幕政にも重く用いました。
1669(寛文9)年に隠居し、1672(寛文12)年12月18日、62歳で没しています。
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この回答へのお礼

丁寧に回答していただき、ありがとうございます。歴史にはあまり詳しくないのですが、歴史に基づきドラマを構成していたのですね。ドラマでは省かれてしまったのが残念です。

お礼日時:2005/04/19 15:05

ドラマは見てませんが、2代将軍秀忠の子供というと、会津若松の藩主「保科正之」になるかと思います。


俗に言う「隠し子」で、信州高遠のの城主「保科正光」の養子に出されますが、実弟の駿河大納言「徳川忠長」を切腹させた3代将軍家光が、唯一残った自分の肉親ということで正之を気に入り、会津に23万石で封じます。
そして臨終の席で長男家綱の後見に指名、明暦の大火災では陣頭に立って事態の収拾をし、上杉家の断絶に際しては吉良家から養子を入れることで半地召し上げで済まし、眼病で引退するまで幕政を看た名君です。
彼の「家訓十五ヶ条」は会津家を将軍家への滅私奉公に向かわせ、幕末の奥羽戦争に繋がりました。

http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/yuk …

参考URL:http://www.tsurugajo.com/history/hoshina.html
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この回答へのお礼

歴史は正直中学止まりで大嫌いだったのですが…少し興味を持ち始めました。お答えいただき、ありがとうございました。

お礼日時:2005/04/19 15:08

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