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下記の続きです。
【自分のことは自分でやる。 と 自分のことは自分がやる。 との違いはなんでしょうか 教えていただければ】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13603214.html

 前問(と呼びます)の質問者は納得したようですが、回答した当方は何もわかっていません。

質問1
「自分のことは自分がやる」って、自然な表現でしょうか。

質問2
「○○{で/が}やります」「○○{で/が}やる」は、一般には「が」だと思います。
 ただ、○○以下のような場合は「で」ほうが自然に感じます。
「自分」「ひとり」「ふたり」「みんな」「家族」「全員」……etc.
 どのような法則性があるのでしょう。

質問3
 ○○以下のような場合は「で」も「が」も使える気がします。
「わたしたち」「当社」……etc.
(部長の発言)「この案件は営業2課{が/で}やってください」
 どのような法則性があるのでしょう。

質問者からの補足コメント

  • 「自分のことは自分でやる」よりも
    「自分のことは自分がやる」がふさわしいのはどのような文脈のときでしょうか。

    No.16の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/10/04 20:20

A 回答 (17件中11~17件)

>当方は辞書を確認して、いろいろな意味があると考えています


辞書で、「手段」を風致見なはれ→目的を達するためのの方法。
手段、と言う言葉にはすでに「方法」という意味を含んでいることになります。
>回答者は何を確認していますか?
このことのためだけに何かを確認したのか、と言う意味でしょうか?。
このことのために、だけで何かを確認なんて馬鹿な事はしていません。
過去の経験で、その都度確認自分が納得して地区生起した知識の中から引き出して組み立てています。
あなたは、辞書のコピペ丸投げなんですね。
手法としては〇スナ〇さんと全く同じです。
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この回答へのお礼

もう少し誤変換を減らしてください。
解読するのが大変です。

辞書を確認することは、〈辞書のコピペ丸投げ〉??

お礼日時:2023/10/01 17:44

>辞書を確認することは、〈辞書のコピペ丸投げ〉??


その時になってから確認。
自分の持っている知識との整合はせず、その表現のみがすべてと思い込んで、そのまま根拠として使用。
だからコピーしてペースト(丸暗記)、そのまま根拠として使用(丸投げ)。
手段を辞書で引けば「目的達成のための方法」
手段>方法
方法を辞書で引けば、しかた、てだて、目的を達成する手段(手段に戻りました)
しかた、てだて?、自分で考えましょう、何を使うか・・・となれば道具であり材料でもあります、そのほかにまっぴるまにするか夜陰に乗じてするか(時刻の選択)、どこでするか(場所の選択)。
辞書で引いただけの言葉だけではなく普段から自分で考えていろいろな方法を思いつけば、それを見方を変えれば、道具、であり、材料であり、場所の選択であり、時刻の選択であり、その他の条件の選択でもあることに至ります。
確認は、あくまでも確認、他人の言った内容に過ぎません。
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この回答へのお礼

当方は文法用語の〝定義ごっこ〟は得意ではありません。
 
 できれば質問1〜質問3に関してコメントいただければ幸いです。

お礼日時:2023/10/03 20:05

>できれば質問1〜質問3に関してコメントいただければ幸いです。


一番最初に回答しています。
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この回答へのお礼

どこで?

お礼日時:2023/10/04 20:11

>「自分のことは自分がやる」って、自然な表現でしょうか。


自然、の意味不明。
使用するTPO によっては自然というより至極当たり前です、
文法上、表現の仕方としては十分ありです。
ただし、その時のTPOで使い分けられます、その説明はどうでもでもいいんですね、「文法用語の〝定義ごっこ〟」なんですね。
好きなようにしなはれ。
どんな人格評価されようが当方は一行に差し支えありません。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

>どんな人格評価
 そんなことをするのは本質○○でしょう。

>使用するTPO によっては自然というより至極当たり前
「前後の文脈」(重言?)しだいということなら、そのとおりでしょう。
 こういう文脈の場合は○を使う……という趣旨のコメントなら大歓迎です。

 具体的な文脈を示すことなく「捉え方が異なる」とか「話者の認識」とか繰り返すと単なるお念仏です。

お礼日時:2023/10/04 20:17

> 具体的な文脈を示すことなく「捉え方が異なる」とか「話者の認識」とか繰り返すと単なるお念仏です。


確かにそうですよ、言われたこと、決められたこと、文字で表現されただけでの意味しか理解できない人にとっては。
例 「わからない」これも、文字では疑問文になりませんが、実際は最後のトーンを上げて発音すれば疑問になります。
ロッキード裁判では、田中角栄の口癖「よしゃ、よしゃ」を検察は「よ・し・や、よ・し・や」と読み上げていました。
「よしゃ、よしゃ」では聞く人によっては異なる意味に受け取れるからです。
でも現実の社会では、検察の言うような言い方では、通用しません。
言われたことしかできない人の場合はどうかは知りませんが。
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この回答へのお礼

??

お礼日時:2023/10/05 20:35

>「自分のことは自分がやる」がふさわしいのはどのような文脈のときでしょうか。


自分が、通常の日本語(テレビ、ラジオ)等を聞いて、k^自分で感じ取るしか方法はありません。
>具体的な文脈を示すことなく「捉え方が異なる」とか「話者の認識」とか繰り返すと単なるお念仏です。
こんな風にしかとらえられない人ならば・・・。
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この回答へのお礼

>自分が、通常の日本語(テレビ、ラジオ)等を聞いて、k^自分で感じ取るしか方法はありません。
 
 ??

お礼日時:2023/10/05 20:34

結局、いつものアルツハイマー症の頓珍漢な問答に終始する他ありませんね!!!



少し、まともな回答をしておきましょう。

>>「自分のことは自分でやる」よりも
「自分のことは自分がやる」がふさわしいのはどのような文脈のときでしょうか。

既に、No.8 で回答済なのでその内容が理解できれば自ずと明らかなのですがもう少し噛み砕いておきましょう。

「自分のことは自分でやる」は自分を手段・方法として捉えた表現ですが、「が」の場合は「は~が」で「自分のこと」という特殊性の下の個別の動作主を強調した表現です。つまり、排他の下での個別の主張ということになります。

なので、ある家族の大きな問題の解決を話し合う場面で、親、兄弟の問題が錯綜している場合、少なくとも自分に関することは自分が処理する。しかし、それ以外の問題は各自【が】自己の問題を見つめ対応してくれという気持ちを込め、

 * 自分のことは自分がやる。
だが、それ以外はそれぞれが自分のこととして処理、対応してくれ。

という場面に相応しい発言です。

 * 自分のことは自分でやる。

は、他への考慮はさて置き、少なくとも「自分のことは自分でやる」という意味になります。

格助詞「が」は単純な繋がりの意識ですが、語と語を緊密に結びつけ動詞との結び付きにより動作の主体を強調し主格を表す機能を発揮します。

「自分で」は単に手段・方法としての意識しかなく動作主としての強調はなされていません。

これが、「自分が」と「自分で」の本質的な相違で、このような話者の認識を相違を捉えることなく感覚的な議論に終始していては議論は深まりません。■
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この回答へのお礼

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 こういう書き方をしていると誰も相手にしてくれなくなることが、なぜ分からないんですかね。ただでさえ……。
 こういう書き方をして、何が楽しいんですか。
 哀れな人だ。

お礼日時:2023/10/08 14:23

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