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イザベラ・バードはイギリス人旅行家です。日本には、1878年に来て紀行文を残しています。
西本願寺と伊勢神宮に行っています。

彼女は、神道について、紀行文に次のように書いています。
<神道には道徳律がなく、明確性や霊魂の死後の状態に関する教えにも欠ける>
<式典書や教義上の教え、審美性、また礼拝の明確な目的を欠く神道は、宗教というよりむしろ制度である。>
<宗教というものの本質をなすものを神道は全く欠けている。>

イザベラは、神道は宗教でない、と判定していますね。

質問は、現在、在日ヨーロッパ人の多くは、神道は宗教でない、と思っているでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

イザベラ・バードの神道に対する評価は、当時のヨーロッパ人の神道に対する一般的な認識と一致するものでした。

ヨーロッパ人は、神道を、明確な教義や儀式を持たない、単なる民間信仰であると見なしていました。

しかし、近年の研究によって、神道は、独自の教義や儀式を持つ、しっかりとした宗教であることが明らかにされています。また、神道は、日本人の生活に深く根付いた、社会的な制度としての側面も持っています。

これらの研究成果は、在日ヨーロッパ人の神道に対する認識にも変化をもたらしています。現在、在日ヨーロッパ人の多くは、神道を宗教であると認識していると考えられます。

しかし、依然として、神道を宗教と認めない人もいます。これらの人々は、神道が、キリスト教やイスラム教などの伝統的な宗教とは異なるため、宗教であるとは認められないと考えているのです。

また、神道を単なる民間信仰であると捉える人もいます。これらの人々は、神道には、教義や儀式が明確に定められていないため、宗教であるとは認められないと考えているのです。

このように、在日ヨーロッパ人の神道に対する認識は、人によってさまざまです。しかし、近年の研究成果によって、神道が宗教であると認識する人は増えていると私は考えています。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<近年の研究成果によって、神道が宗教であると認識する人は増えている>おですね。
なお<人によってさまざま>
<独自の教義や儀式を持つ、しっかりとした宗教である>
<社会的な制度としての側面も>
<伝統的な宗教とは異なるため、宗教であるとは認められない>
<単なる民間信仰である>もあるのですね。

お礼日時:2024/01/02 15:32

神道は宗教か否か?   回答は?



に答えていなかったので、お答えします。

西洋の宗教には、一神教という原則がある様です。

キリスト教の元はイスラム教ですが、この二つから派生したものがイスラム教です。従ってこの三つの宗教の神は同じ名前だったようです。

その神の名はヤハウエイという様です。その意味を言葉で示すなら『在りて在るもの』という様です。後にはイスラムの神はアッラーと呼ばれるようになったようです。

こう云った信仰の対象をたった一つだけ持つものが一神教と云うものです。

処が神道は、目に見えるものから見えないものまでも、心に感じられるものが全て神様として、あがめられているようです。詰り感謝の対象物になっているという意味です。

一つの神を大事に居していない限りは宗教では無いと、西洋では思われているのでしょうか?八百万の神(やおろずのかみ)何処にも神がいるという事が、神道は宗教では無いと思われている原因だと思います。

そこに行くと、三大宗教と云われているものに、仏教があります。仏教では、仏と云って仏性と云っています。禅などを読むと書いてあるようですが、仏教は大変に哲学的な要素を持っています。

鈴木大拙博士の本などを読むと『人間は如何して苦しまなくてはいけないのか?』、或は禅の師匠様は弟子が疑問を抱いて質問をして来る時に「決して答えは教える事が無い」と書いています。

しかし禅には教える事も、教義も何も存在しない、とさえも書いています。

処が疑問を抱く時、答えはその疑問の中に既に用意されていると書いています。

翻って思春期頃抱く疑問に、人生とは何ぞや?或いは人間は何処から来て何処に行くのか?』と云った疑問が湧き上がる時があります。

禅の師匠様に質問をするなら『お前は何故にそう思うのか?』と逆に質問を受ける様です。何故ならこの質問の中に答えが用意されているからです。

又人間に苦しみ、『一切皆苦』に苦しんでいる場合も同じです。例えば死にたくないと思う時などが良い例です、死にたくないと同時に永遠の命を希求する自分がいます。

こう云った原因を明確に仏教とか禅は答えています。苦しんでいるのは『有限の身である自我意識』です。脳内にはもう一つ意識があります。それが人間を働かせている意識です。

生まれた時から人間の行動を指南しているものです。安心する事も恐怖する事も全て知っている存在です。生まれたばかりで何も学ぶ以前から全てを知っている存在です。

脈拍から呼吸数からホルモンの調節から全てを環境に合わせて調節している者の事です、感動する場面では誰にでもその場に居合わせた人達にスタンディングオベーションをさせている者です。

命果てる時に幸福に逝く時に共に手を取り合って呉れる者です。至福な心持で穏やかに笑っていられ様にして呉れている者の事です。

その反対に恐怖症になって慄いている場合では、その者と中違いをしていて、その者の救いの手を振り払っていて自意識が単体で苦しんでいる事を意味しています。

仏教では苦悩している時、その原因は本人の中に存在していると云っています。端的に表現するなら『無明の故に』ですが、その意味は自分が自分を苦しめている事が分からないでいると云った意味になります。

この反対が自分自身を知る事『見性』という意味です。禅での合言葉のようなものが在ります、それは『生死の問題が解決したか?』との問い掛けです。

右脳の意識は全ての人間の命を見守って働かせている存在です、つまり仏性ですが、その形は『永遠の姿をしています。』従ってその姿に触れただけで有限の自我意識は、自身の中に既に永遠の命が宿っていた事を理解します。恐怖症の終焉です。死刑囚が死刑を恐れなくなった瞬間です。

道元が言っていた事の再現です、『身心脱落、脱落心身』を身をもって味わう時です。その時に全ての疑問が氷解します。自分は何処から似て何処に行くのかが分かる時です。

永遠の命を希求する理由とは、右脳の自分自身が有限の自分に教えていた事だった事です。

こう云った事が現実に起きる事の意味は、右脳の意識と左脳の意識の間にホットラインが構成される事を意味します。このホットラインは一回通じたら生涯途切れる事は無いと、師匠は語っています。
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうございます。

お礼日時:2024/01/09 18:28

現在、2021年ですが、國學院大學で神道の説明を英語でしているサイトがあります。


http://museum.kokugakuin.ac.jp/fr/special_exhibi …
英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語圏で、Shintoに関してどのような説明を見聞きする機会があるのか、そのようなことに関心を持つ人が何人いるのか疑問ですが、(日本人や中国人でも、神道など言葉を何かの拍子に効いても、普段接する言葉でもないし、だからどうだという重要なことでもないので、馬耳東風に聞き流されるでしょう)、見聞きしたとしても、次のようなものと、大同小異でしょう。

What's Shinto : Introduction of Shinto Term:July 7 . 2021

We have English explanation part in this exhibition.
本展示では英語解説部分を設けております。
Shinto is a general term for the religious activities (saishi or ceremonies,Shinji or rituals), teachings, and conceptual systems related to the forms of worship (prayers and expressions of gratitude) dedicated to the gods (kami) of Japan. Shinto, along with Buddhism, is one of the foundations of traditional Japanese culture and is an important element in the history and culture of Japan. A notable characteristic of Shinto is that it has neither a clear historical origin nor a founder or systematizers of its teachings.
From the perspective of the relationship between kami and people as mediated by rituals, Shinto can be viewed as one continuous flow from ancient times until today. However, forms and aspects of Shinto and its shrines are not universal nor uniform, because they developed and changed widely in response to historical periods and social conditions.
神道(しんとう)とは、日本の神々(カミ)に捧げられる宗教活動(祭事、神事)、教え、崇拝の形態(祈りや感謝の表現)に関連する概念体系の総称である。 神道は仏教とともに日本の伝統文化の基礎の一つであり、日本の歴史と文化における重要な要素です。 神道の注目すべき特徴は、明確な歴史的起源も、その教えの創始者や体系化者も存在しないことです。
神道は、祭祀を媒介とした神と人との関係という観点から見ると、古代から現代に至るまで一貫した一つの流れとして捉えることができます。 しかし、神道や神社の形態や様相は、時代や社会情勢に応じて大きく発展し、変化してきたものであり、普遍的でも画一的でもありません。

《religious activitiesだとしても、ただの習俗にすぎない》《行事・礼拝スタイル・伝承も不明確で、戒律や教義・信仰内容も不定形》⇒ 宗教ではない と感じることが精一杯でしょう。 
観光で来日し神社に行き、祭り囃子・太鼓・神輿などをみたとしても、賽銭やお札・お守り・神籤をみても、祈祷の儀式をみたりしてその参加者や巫女や社務所の方に話を聞いても、これはもしかすると宗教かもしれないという気にはまずならないでしょう。 星座占いや交霊術・降霊術・心霊術をみているような気分にはなるかもしれないですが、宗教とは思わないでしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
生まれてから神道に浸っている多くの日本人と違って、多くのヨーロッパ人にとって、初めて接触する神道は、言い過ぎかもしれませんが、
<星座占いや交霊術・降霊術・心霊術をみているような気分>になるのかもしれませんね。

お礼日時:2024/01/04 11:32

>質問は、現在、在日ヨーロッパ人の多くは、神道は宗教でない、と思っているでしょうか?



「宗教性はなんとなく感じるけど《宗教》と断じるには、あまりにも自分の常識とかけ離れているし、日本人自体が《自分達は無宗教》というので判断が付かない」というところでしょう。

そもそも、日本人自体が「私は無宗教」と言っているのですから、その言を信じるなら「日本人自体が神道を宗教だと思っていない」です。

となると、特に専門家ではない在日外国人は「神道は宗教ではないのか?」と疑問に思うでしょう。ただしそれを専門的に追及する外国人はそれほど多くないです。

イザベラ・バードは19世紀の、まだまだ「キリスト教的価値観が世界で最も優れており、それ故に植民地化=キリスト教化は当然である」という価値観の時代の人です。

したがって彼女が理解できる「宗教」とは《経典があり、それに従った戒律があり、人々の道徳心は信仰心と同一で、戒律に従うもの》だけです。

だからご質問の内容ような判断をするわけですが、イザベラはローマ時代の多神教について全く知識が無いのだと思います。(もしローマの多神教の知識があれば、日本人だろうがヨーロッパ人だろうが多神教の崇拝が可能なことを理解できたはずです。)

特にヨーロッパ人が日本人の言動を見て不思議に思うのは「実践はあるのに、教義が無い」という点です。
 キリスト教やイスラム教など、いわゆる唯一神はユーラシア大陸の西側半分とアメリカ大陸で信仰されている状態で、彼らの価値感から言えば「教義があって初めて実践がある」わけですし、彼らが一般的に認知する世界は「一神教」だけであるといえます。

 だから少なくともヨーロッパ人にとってイスラム教は神道よりは確実分かりやすいし、経典がある仏教も神道よりは分かりやすいといえます。

この辺りの違いを日本研究家であった故山本七平は、神道を含む日本の宗教概念を「日本教」という言葉で表しています。

彼が言うには「場を清めること」自体が日本教であり、だから日本人は自分達が利用したサッカー場のロッカーや観客席を清めて帰るのだ、という理解を示しています。

ただ、これは逆にヨーロッパ人はさらに混乱する概念でもあります。なぜなら「戒律がなく、教えもないのに、なぜ日本人は全員同じように実践できるのか?」と疑問が生じるからです。

ヨーロッパ人がいう「不思議な国ニッポン」とか「ザ・プラネット・オブ・ジャパン=日本は別の惑星にある」は、日本に来てみると、無宗教のカオスではなく非常に秩序だった宗教性や道徳性がある社会なのに《まったく戒律が存在しない》という点が基礎になっています。

現代ヨーロッパ人、それも普通のヨーロッパ人が「神道は宗教ではない」と断じているとは言えませんが、少なくとも「神道は宗教なのか?じゃあ日本人はどんな戒律や道徳にしたがっているのか?それはどこに書いてあるのか?」はすごく疑問に思っているはずです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
「宗教性はなんとなく感じるけど《宗教》と断じるには、あまりにも自分の常識とかけ離れているし、日本人自体が《自分達は無宗教》というので判断が付かない」にまとめられるのですね。かれらも判断に迷っているのですね。

お礼日時:2024/01/03 16:50

神道には道徳律がなく、


 ↑
キリスト教は、道徳の軸になっています。

新渡戸稲造の「武士道」にあります。
「御国では宗教教育をしていないと聞きましたが
 本当ですか」
「本当です」
「それでどうやって子供達に道徳を教えることが
 できるのですか」




明確性や霊魂の死後の状態に関する教えにも欠ける
式典書や教義上の教え、審美性、また礼拝の明確な目的を欠く神道は、
宗教というよりむしろ制度である。
宗教というものの本質をなすものを神道は全く欠けている。
 ↑
宗教には、神道のように自然発生したモノと
キリスト教のように、教祖がいて、人工的に
作られた、創唱宗教というのがあります。

キリスト教徒からすれば、神道は
宗教とは思えないでしょうね。

戦前では、日本は神道は宗教ではない
という論がまかり通っていました。
宗教ではないから、政教分離に反しない、という
ロジックです。




イザベラは、神道は宗教でない、と判定していますね。
  ↑
宗教にも色々ある、ということを
知らなかったのでしょう。



質問は、現在、在日ヨーロッパ人の多くは、
神道は宗教でない、と思っているでしょうか?
 ↑
思っているんじゃないですか。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<キリスト教徒からすれば、神道は
宗教とは思えない>のですね。
<思っている>のですね。

お礼日時:2024/01/03 10:06

今はキリスト教徒は、北米や西欧を中心に廃れる一方です。

逆に日本の禅に興味を持つ人が増加の一途です。
近代になって西欧で、瞑想が精神衛生的に非常に有効であるという研究が進み、その観点から禅・チベット仏教・ヨガ・太極拳といった東洋の哲学や武術・舞踏が見直されてきました。

日本の禅が人気なのはおそらく座禅が瞑想のイメージに直接的に繋がっているからでしょうか。

神道についてはよく知らない人が多いでしょう。日本で暮らす欧米人なら自然や故人を対象とする原始的な多神教であること程度は知っていると思いますし、欧米現地の人でも近年の日本観光ブームの中でその程度の知識は増えているかもしれません。

神道については宗教としての思想実体がほとんど整っておらず、強いて聖典を挙げるとすれば古事記と日本書紀がそれに相当するくらいです。

その宗教性における神学的理論の希薄さ自体は、古代から日本人も感じていたでしょう。それでも仏教に駆逐されずに神仏習合で生き残ったのは、天皇を戴く国として、その統治理念の根本である古事記と日本書紀を否定するわけにはいかなかったからでしょう。

仏教が伝来して以降の古代でもそういう状況ですから、今でも、神学的な意味で神道を一神教に対抗できる宗教であると思う日本人はほとんどいないでしょう。
ただ、土着宗教として日本人には無意識的に染みついた文化であり、例え天皇制が廃止される時代が来たとしても、簡単には廃れないしぶとい宗教と思われます。なにせ意識しなくても無意識的に神社にお参りに行くのが日本人ですし、神社が無くても山や日の出に手を合わせたり祈ったりすれば立派な神道になるのですから、その意味では神道は最強です。

日本人ですらそういう状況ですから、一神教徒の在日ヨーロッパ人の多くが神道は宗教ではないと思っていることでしょう。神道を理解している人でもキチンと教義が整った宗教であるとは思っていないでしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<神道は宗教ではない>のですね。
<キチンと教義が整っ>ている、と思ってはいませんから。

お礼日時:2024/01/03 10:20

禅は精神衛生には良いものだと云った評価は、博士が生きていた時代には多かったようです、禅者の頭に脳波計を付けていろいろと調べたようですが、何も成果は無かったようです。



処が博士が無くなった後、脳医学では大変な発見がありました。それはノーベル賞を取った事で評価されたのですが、その後の進展は無かった様です。

人間の脳の構造です。ウイキぺデアからです。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球がそれぞれ独立した意識を持っていることを実証した。”

この右脳の意識が『仏性』と云われるものです。普通には誰でもが持っていながら誰も気が付かいものです。

特に気が付き難い人は『健常者』と云われている人達です。人間は誰でも気付く事は無いかも知れませんが、自意識(顕在意識)と無意識は毎日何百回と交替しながら恙無い生活が成り立っています。

その切り替わりに付いて、何も違和感がない状態の人達を健常者と云っています。

その前に右脳の意識に付いて少し説明が必要です。右脳の意識は簡単に言葉で云うなら『命を働かせている意識』の事です。

人間が命を働かせる(生きて行く)という意味に置いては、幾つかの要素があります。その要素を細かく書いて行く事で困難な事があります。それは分けて書いてゆく時に、分けきれない事柄に出会うからですが、とにかく分けて書いてみます。

1=精神活動時における生命維持機能

是は考えて、思って、感じて行く行為ですが。此処にも右脳が関わっています。右脳には自意識には無い沢山の引き出しがある事です。自意識に感情が湧いたり考えが湧き上がるのは全て右脳からの情報に拠っているからです。

神経症の症状として書くなら理解し易いと思います。不安障害、恐怖症、第鬱ではない行く鬱と云った症状、他にも沢山の症状が存在しています。


2=行動を通じての生命維持機能

是は行動に付いての全てが関係しています。神経症の症状を書き連ねて行くなら説明し易いです。字を書く事(書痙)、医師が手術をしようとしても手が震えてしまって出来なくなる現象、言葉を発する事(吃音)、眠る事(不眠症)、上がり症、その他にも上げ始めるなら限際限が無くなると思います。

3=ただ単なる身体的な生命維持機能

是も、症状として挙げた方が分かり易いかも知れません。心臓神経症や自律神経失調症などですが、身体的な生命維持機能を指しています。


今書いた事柄は、自意識と仲違いをしたために交替制がぎこちなくなった例です。言い替えるなら『交替時に於いて交替する事自体に違和感が湧いてしまって』交替が出来なくなってしまう現象です。

『悩みと、苦しみと、疑問』を感じている状態を他の言葉で言い表すなら、心に矛盾を抱えている状態と云っても良いようです。

もう少し具体的な表現をするなら。心同士が矛盾を抱えたり、対立や分裂をしている状態と云っても可能だと思います。

この状態を人間の心は『苦しみとか地獄』と感じています。

又恐怖を感じてパニックになったりする時、とてつもない恐怖感が心を包み込みます。この恐怖感が人間の宗教文化の発展の原動力になっているようです。

この二つの意識が、脳梁の中で出会う事を『自分自身を知る』=『見性』という様です。此処をもって『生死の問題が解決する』という様です。禅で云う処の『一生の大事が了畢する』という事になります。

その後の世界観は、生も死も同じに見る事が出来るようになります。生きてよし死んでもよしという具合です。

自分は何処から来て何処に行くのか?が分かったという意味です。死に赴く人が笑って幸福感に包まれてゆく姿です。

こう云った脳の活動を脳卒中になったために詳しく説明している動画がありますので載せてみたいと思います。





何か質問がありましたら答えたいと思います。
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この回答へのお礼

回答は?

お礼日時:2024/01/03 08:25

日本には禅と云うものが現存しています、この禅はインドが発祥で達磨大師が中国に伝えたものと云われています。

処が今の中国では鈴木大拙博士が生存していた頃、鈴木 すずき 大拙 だいせつ 生没年 明治3年10月18日 〜 昭和41年7月12日 ( 1870 年11月11日 〜 1966年7月12日)

或は博士が活躍されていた頃には、中国には禅は無いと断言していました。

こう云った事は今の話には関係ない様ですので、本題に戻ります。

神道は宗教か?否か。と云うなら宗教とは言えないと思われます。宗教の定義には『魂の救済』が盛り込まれていなければならないと思われるからです。

処が『禅』にも同じような記述があります。道徳律がなく、明確性や霊魂の死後の状態に関する教えにも欠ける。という此処までは神道と同じですが、踏み込んで見てみた場合では、はっきりと魂の救済が謳われています。

それは悟りに関する記述です。悟りを開く事が出来たのか?と聞く場合です。『生死の問題が解決で来たのか?』と問うところです。

それに対して、師匠は本人の表情とか態度を見る事によって『一生の大事が了畢した。』と肯定する事です。詰り魂の救済が完了した事を認める事です。

神道には明確なこう云ったものは存在していない様です。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<在日ヨーロッパ人の多くは>どう考えているのでしょうか?

お礼日時:2024/01/02 17:55

質問内容に書いているように、神道には教義がありません。



つまり神道が目指す、人への救済の目的とそのための手段が明確化されたものがありません。

神道は宗教の定義には当てはまらず、自然崇拝の一種とされています。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
ご回答はヨーロッパ人の見解>と思って以下を書きます。
<神道は宗教の定義には当てはまらず、自然崇拝の一種>なのですね。


日本では宗教として仏教、自然崇拝として神道が並列に存在(共存)できるのですね。

お礼日時:2024/01/02 13:25

文化のひとつと思ってるのでは?

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この回答へのお礼

<文化のひとつ>として、
神道は、①宗教なり②宗教であらず、のどちらと思っているのでしょうか?

お礼日時:2024/01/02 11:51

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