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キリスト教も仏教も最初は
新興宗教だったはずで、
オウムまではいかなくとも、
初期にはかなり強引でえげつない手段も
とったのではないかと思っています。

キリスト教の場合は死海文書というものが
あって、(真偽の議論は別にして)
キリスト教も初めはそうとうえげつないことを
やっていた記録が残されています。

仏教に関しては、本人が王族だったこともあるし
かなり布教に関しては有利だったのかなぁとも
思うし、権力があればこそ余計にえげつない
こともやったのかなぁという気もしなくも
ありません。

そのへんの経緯について記された資料や、
なにかご存知の方がいらっしゃったらお教えください。

A 回答 (3件)

初期僧団が勢力拡大のために無茶なことをした、というようなことはまずありえません。

そのことは、教えの性格だけでなく、実際に僧団が守っていた規則である律の内容からも明らかです。

もともと仏教の僧団というのは、一切の生産活動を放棄して、一般社会からの布施に完全に依存する集団でした。生産活動を放棄して修行にはげむ比丘たちを、一般社会が理想的な人間像と認め、さらに、そこへの布施を価値ある行為と考えて生活物資を提供したからこそ、僧団がなりたってきたのです。逆に言えば、俗世間からの尊敬を受けることができなくなった時点で、僧団はたちゆかなくなったはずなのです。

ですから、集団としてのサンガを運営していくためには、社会常識をくみとったうえで、世間の非難を受けるようなことを逐一排除していく必要がありました。そのために比丘が守らなければならなかった規則の数々が、律としてまとめられたのです。
(律というのは、大まかにいうと、比丘個人を精神的に高めるための規則と、集団を潤滑に運営するための規則の2種類からなっていて、分量でいうと実は後者の割合のほうがかなり大きいのです)

例えば、正式の修行者である比丘は受戒という儀式によって生まれますが、律には遮法といって、受戒することができない者の属性が細かに規定されています。その中に、例えば官吏や負債者というものがあるのです。
前者は、いかに本人が望んだとしても、国家の役人を勝手に受戒させて政治を混乱させる原因を作ってはいけない、という配慮によるものですし、後者は、負債者が比丘になって経済活動から抜け出てしまうと、当然、一般社会に残された債権者が困ってしまうことになるからです。

ほかにも、例えば両親の許可を得ていない者の受戒は禁じられています。これはたとえ年齢がいくつであろうとも適用されたもので、親がいるものは親が存命の限り、その許可を得ていなければ比丘になることはできませんでした。いくら本人が出家を希望していても、身内にとっては僧団が奪っていったかのように思われがちで、やはり社会との軋轢を招きやすかったからです。これはなかなか厳格な規則で、父親が既に比丘になっていた場合でも、その子供が受戒するためには、母親の許可を必要としたほどです。

それから重要な点ですが、僧院は完全に社会に対してオープンであって、いつでも外部の人間が入ってきて、誰でも会いたい比丘に会うことができたのです。無論、信仰のあつい人たちばかりが来たわけではありませんが、比丘の修行の様子や僧団の内部事情を常に社会に開示する姿勢をとり続けることでその尊敬を保っておくことは、不心得者による修行の妨害のリスクを考慮しても尚重要なことだったのです。

仏教の勃興期を、なぜかオウム真理教になぞらえる人がちょくちょくいますけれども、この一点を見ても、その差は歴然としています。

もうひとつ付言すれば、比丘は出家したからといって、一般社会に残った家族と全く断絶したわけではありません。比丘は比丘の立場を守り、家族はあくまでも彼を応援する在家信者の立場を守るならば、どれだけ親密に接触してもよかったのです。出家した息子が気がかりな親は、直接足を運んで息子の修行風景を見ることもできましたし、托鉢の際に顔を見れば話しかけることもできました。何か不自由がありそうなら、いつでも布施して支援してやることだってできたのです。こういった点も、オウムとの大きな、そして本質的な違いです。
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この回答へのお礼

よくわかりました。ありがとうございます。

お礼日時:2006/01/28 21:28

仏陀の足跡を追ってみると、神などの絶対的な存在を求めるのではなく、現世の何ものにも縛られない「完全な自由」=「悟り」を得るための旅であり出会いであったことがわかります。



そしてその方法を取得した後は、人々に「より自由な心境」に至る道を語り告げることをはじめます。一種の心理療法で、心に問題を抱えた人々に受け入れられていきます。特に、人も羨むほどの成功をおさめた王侯や裕福な商人で、自分の心と向き合い、生きることの意味に行き詰まってしまった人々や、また絶対的な階級の壁に苦しんでいた人々に受け入れられていきます。仏陀の直接の弟子の中には殺人者だった者もいれば、狂女だった女性もいます。

仏陀の説法で特徴的なのはこうした人々へ個別の指導を行い、それぞれに適した修行のプログラムを与えていったことでしょう。後に仏陀の言葉を借りていくつもの流派が出来ますが、最初からそういった原因をはらんでいたのが分かります。

次に仏陀は、在家の信者となった王侯や裕福な商人の保護や寄進を莫大に受けますが、権力などの現世的な勢力とは一線を画しました。権力へ近づく分派行動に出る者もいましたが、彼らは破門され自滅します。

問題があったとすれば、在家でなく出家した者は、家族や一族など、現世との繋がりを完全に立ち切って教団に入団しなければならなかったので、残された家族の悲しみや非難が大きかったことでしょう。本人がなにに悩んでいたか、悩みもない一般の家族が知るわけもなく「だまされている」としか思えなかったでしょうね。

教団自体が他の教団や家族を「奪われた」人々に迫害を受けたことはありましたが、無理矢理教団の規模を拡大するなどの行為はなかったように思います。「縁無き衆生」=「(悩みの無い)仏陀の教えとの縁がない人々」と言う言葉があるくらいですからね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

私としては、仏教の教えの内容からして、
他の新興宗教とは広がり方が違ったのでは…?
と思ったのが質問の意図でしたので、
このお答えにはかなり納得できました。

お礼日時:2006/01/28 21:25

こんばんは。



 実像がどうだったかは、わからないのですが・・・

 仏教は、(特に初期仏教では)倫理的・合理的な傾向が強いです。あまり過激な手段は用いなかったのではないかと思います。
 仏教の無我説は、新しく、にわかには受け入れられにくかったとは思いますが、輪廻する世界(現世)からの解脱を説くという点では、他の既成宗教の多くと共通していますし、穏健な手段(説法など)で十分だったと思いますけど・・・(個人的には)

 古い仏典にも、他の宗教を奉じていた人物が仲間たちとまとまって仏教に改宗する様子が見られ、釈尊の教説に共感する人々が集まることで初期の教団が構成されたものと考えています。

 仏教は、本質的には無神教であり、神の啓示を基にしているキリスト教などの一神教とは性質が異なるものと言えます。
 あまり詳しくはないのですが、旧約聖書には、神の示した土地にいた先住民を皆殺しにするなど、絶対神の説示を履行するために過激な手段に訴える場面がでてくるようですね。
 仏教は「神」を想定していませんし、釈尊は「悟った人」ではあっても「絶対者」ではないので、布教伝道のためといっても、滅法なことはしなかったと思いますよ。
 (日本の中世では、宗派間のかなりすさまじい武装闘争がありますが・・・インドの初期仏教教団はそういうことのない集団だったと思います。)

 釈尊は王族出身と言っても、小さな部族国家の宰相の息子ですし、釈尊が在世している間に出身国は滅亡しましたから、釈尊の布教伝道と出身とは、あまり関わりなかったのではないかな、と思いますけど・・・
(一般庶民より世情に通じていたり、地理に明るかったり、知っている人が多かったりという利点はあったとは思いますが・・・)

 釈尊在世~仏滅後しばらくは、仏教はまだ中インド北部あたりの一教団だったと考えられますが、ほぼインド全土を統一したマウリア王朝のアショーカ王が熱心な仏教徒となったことで、急速に拡大しました。

 このあたりは仏教史を扱う書籍などにはたいてい出てくると思うので、機会があれば探してみてください。
 また、初期の経典『スッタニパータ』(経集)『ダンマパダ』(法句経)などには、初期の仏教の教えが伝えられています。(どちらも和訳本が出ています。)

 個人的見解に終始してしまいましたが、自分の知る範囲では、こういうところです。では。
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この回答へのお礼

詳細なお答えありがとうございます。
初期の経典『スッタニパータ』(経集)『ダンマパダ』(法句経)については、いずれ勉強して
みたいと思います。

お礼日時:2006/01/28 21:22

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