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ブッダもサッチモもその他多くの人が
言いました。
「ああ、世界はうつくしい」
感覚的にはなんとなくわかるのですが
この言葉の意味をきちんと知りたいです。

A 回答 (4件)

仏陀とサッチモとの意味合いは少し違うように思います結局生きることのすばらしさという意味合いです。

仏陀は「この世は華美なもの」と申されました。これは「生きる、命を保ち毎日が過ごせる」ことへの未練と感謝が含まれています。「日日雑記」の中で武田百合子さんがこう書いておられます。ご主人の泰淳さんをなくされた後アメ屋横丁の安い食堂のウインドウの摸食(蝋細工の見本)を見ていて突然「あの世はこうゆう賑やかさはないだろうな。こうゆう物がごたごたあるところでもうしばらくは生きていたい!という気持ちがお湯のようにこみ上げてきた」いわば人間賛歌生命賛歌ともいえると思います。仏陀のこのお言葉も死期まじかに申されたお言葉です。サッチモは音楽賛美、芸術賛美とこの仏陀の思いが重層的意味合となって現れていると思います。
「緑の木々に赤いバラが見える それは僕たちのために花開く
僕はしみじみ思うんだ なんて素晴らしい世界かと」とサッチモは「世界はすばらしい」の冒頭で書いていますね。さまざまな苦労の末ペット一本で世界を渡り、人種、国家を乗り越え人々をとりこにできる喜び生きる喜びをあらわしている言葉です。片や宗教片や芸術とジャンルは違えど人間賛歌生命賛歌の言葉として私は理解しています。
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この回答へのお礼

未練も含まれるのですね。
それで腑に落ちるところがあります。
すべてをひっくるめて見渡したところから
でてきた言葉なのでしょうか。
私にはまだまだ及びつかない言葉かも
しれません。
回答、ありがとう。

お礼日時:2006/07/31 21:03

私も何度かそう思いました。


「何て私は醜いのだろう」といつも思う私が、「ああ何て世界は美しいんだろう」と。
私にとっての世界の美しさとは自然のことです。ただ人間社会の見方は性悪説をとっていますので、「ああ世界は何て醜いのだろう」とはいつも思っています。
「美」とは死に見込まれている者にとって「余計な救済」だと思います。それへの執念が残されているからこそ生きているんじゃないですかと。

余談ですが、サッチモの「この素晴らしき世界」は、たとえばベトナム戦争を描いた「グッドモーニング!ベトナム」の美しい熱帯の自然にパーナム弾が落とされるシーンで使われているように、アイロニーとしても使われています。
また某コーヒーのCMのキャッチコピーが「このくだらない素晴らしき世界」です。CMも「宇宙人から見た日本人の生態」というストーリーで日本人の特徴を皮肉られていました。日本人が製作したのだから自嘲なのでしょうけれど、タイトルや歌詞が「美しい」からこそアイロニーとしても用いられるのでしょうか。

No.2さんと同じように、私の場合、辛い人生だなーとしみじみ思っているときふと空を見上げたときの美しさに感動して希望を与えられます。人がこういう方法で「回復」してゆくのはよく耳にする話ですし。まさに醜い世界は「車窓の中」にあって窓の外には変わらない美しい大自然があるという事実に心を打たれたのかもしれません。そういうときに私は生かされているんだと感じることができて、世界=私もその一部であり、辛酸を舐めながらも生きていることを噛み締めたときのフィルターが世界を美しく見せた、のかもしれません。その感動も「余計なお世話」と思わないわけではないのですが、それでもただ沈黙して横たわっているだけの自然の力を読み取る心にこそ「美」が宿り、またその圧倒的な力への降伏が「美しい」という感嘆をもたらせたのではないかと思います。

単に自然の象形的な美を美しいと捉えるだけではNo.3さんのおっしゃるように、「美しいものがより輝きを増」して見ることはないでしょう。
彼らの当たり前のことを殊勝な形を通して見た率直な表現だったのではないでしょうか。そしてそう思えるのは、特別な人のための特別なことではないと思います。

個人的な感想ですが、自分の醜さを自覚して、より自然の美を感じ取れたわけです。あの感覚を思い出すときいつも「いつも空気みたいな存在でいつもありがたさを意識しないけれど、気がつくといつも傍にいてくれた」という陳腐ですが、そんな素直な気持ちになるんです。

私は色々とありすぎて日々様々な桎梏から逃れられないのに、自然もまた同じ流動的なものに本質はその美をリサイクルし続ける不動のものであるという事実に圧倒されたのかもしれません。つまり自然への憧憬でしょうか。自分も自然の一部なのに、その圧倒的な差異こそが。

本当は天国も地獄も美しいところでしょうが、私の場合、造花のような虚しい美を保つ人間社会、そしてイデアを反映したような美の大自然のあるこの世への執着をまだまだ捨てられそうにもありません。
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この回答へのお礼

土地の人とのふれあいが
楽しくて旅が好きだという事を時々聞きます。
でも私は人とのふれあいなんてどうでもいい派
で、とにかく景色や街の雰囲気をあじわいたくて
あちこち歩き回るのが好きでした。
他人なんてどうでもイイ、と思ってました。
最近はちょっと変わってきましたけれど。

ぐーーーーーーど、モーーーーーニング!
って叫んでいたロビン・ウィリアムズを思い出しました。
回答、ありがとう。

お礼日時:2006/08/01 20:06

サッチモの「What a wonderful world」、大好きです。

ついコメントしたくなりました。
仏陀とサッチモ両方について言えることは、どちらも暗い環境を潜り抜けてきたこと。
仏陀は王子でしたが国の存亡は危ぶまれていたし、民衆の貧困にも強い共感を得ていたと想像します。サッチモの方は、貧困と人種差別に苦しんだことでしょう。少年院でコルネットを習ったのが楽器との出会いだそうです。
闇を見てきた人には、美しいものがより輝きを増す。そして、「こんな綺麗なものがあるんだよ」と教えたくなる。子供が貝殻を拾って親にみせるように。けれど、子供にはまだ闇がない。仏陀とサットモは闇を背負いつつも、子供の目で世界を見ているのだと思います。
多くの人は闇を背負うと心まで黒く染まっていき、子供の眼差しを忘れてしまう。
「What a wonderful world」を聞くと、その眼差しを、風景を思い出します。
平穏な午睡に揺れるカーテン、光を抱いた小川に沈む小石、木々の深い緑からこぼれた光が星のように見えたこと。サッチモの歌は、美しいものに目移りしていた頃の眼差しを、闇を背負った今の心に取り戻させてくれるような気がします。
仏陀の「美しい」は、サッチモのそれとは違うかもしれません。光と闇の二元論に基づいて、光の方を「美しい」とするのではなく、光と闇が移ろい行く世界の有様そのものを「美しい」と言った。もちろん、サッチモの風景だって光を放ちつつも、その風景は闇をはらんでいる。しかし、主題となっているのはやっぱり光です。On the sunny side of streetです。仏陀はもっと広い眼差しで、子供というよりは赤子のような眼差しで世界を見ているような気がします。 
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この回答へのお礼

「童心」という考えも入ってくるのかも
しれませんね。私はこの「童心」という
考えが好きなのですが
こんなところにも顔を出すとは
思ってもいませんでした。
回答ありがとう。

お礼日時:2006/08/01 19:29

揚げ足を取るようで申し訳ないのですが、「ああ、世界はうつくしい」という言葉は、いわゆる「言葉の意味」を超えたところをさしているように思いました。

だから「言葉の意味をきちんと知」ろうとしても、自分も同じように思うような体験がなければ、結局「分からない」のではないかと思います。
その体験とは、ひどく辛い目にあって、それでもまわりの世界は変わらずにある事に気付いたとき、そう思うのかもしれませんし、なにか奇跡とか僥倖とか、すばらしい事があって、そう思うのかもしれません。もしかして、変わらぬ日常が続いていることへの感謝かもしれません。
だから、これは他人に聞くことではなく、ご自分が「そのように思う瞬間」が来たときに、初めて分かるのではないでしょうか。

ちなみに私の場合、仕事が辛くて神経性胃炎になったことがあり、通勤の車窓から見た青空を見たときに、そう感じました(照笑)。
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この回答へのお礼

そうですね、世界の変わらなさ、
どうしても動かし様のない世界の
真実を見た時にわかるものなのかもしれません。
まだまだ、わたしがわかるにはあまりにも遠くにある
言葉なのかも。
回答、ありがとう。

お礼日時:2006/07/31 21:11

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