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他国侵ぴつ難が起こるという予言は、外国から帰った人の情報を聞いて思いついたものなのでしょうか。

A 回答 (5件)

いいえ、違います。



大聖人、ご執筆の「立正安国論」には、、、、

(経典にてらして)「薬師経の七難」の内、五難たちまちに起こり二難猶残れり、いわゆる[他国侵逼の難]・[自界叛逆の難]なり。

※()内、「」[]は分かりやすいように、私が付けました。

とあるように、「正しい法を破り、悪法に帰依した世の中」では、「国土乱れん時は先ず鬼神乱るる、鬼神乱るるが故に万民乱るる」とあるように、当時の鎌倉では、法然の邪法が流行し、一同にして「南無阿弥陀仏」を唱えていました。その悪法がゆえに、数々の天災が起こり、それによって不作が続き、庶民の生活に莫大な影響を与え、災害によって命を失う者、餓死する者、疫病が流行り死にゆく者、そういった悲惨な状況を目の当たりにした大聖人は、静岡県・岩本実相寺にて経文を開き、思案し、鎌倉へ戻って「立正安国論」を顕し、北条時頼に送ります。

時頼が亡くなり、時宗の代になり、大聖人佐渡流罪の最中、二月騒動という[自界叛逆の難]が起こります。
そして、流罪赦免後、蒙古による[他国侵逼の難]が現実になります。
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ANo.1の仰る通りでしょう。


ただ、北条時宗の時代、ある程度他国侵逼「蒙古襲来」を予想できる情勢にあったのではないでしょうか。

時宗は文永6年(1269年)に南宋から僧・大休正念を招いている(それ以前は蘭渓道隆が来日)。正念は国土が蒙古によって蹂躙され、皇帝理宗は権臣に国政を牛耳られ、他界していることを告げた。さらに正念はフビライの野望を力説した。時宗は正念から国論を統一して外敵に立ち向かう事の大切さを教えられた。
第1回目の蒙古襲来は文永11年(1274年)。
弘安2年(1279年)に南宋の高僧・無学祖元が来日した。1279年は南宋が滅亡した年です。時宗は祖元からフビライの政治的意図と蒙古侵略下の国情を学んだ。

このような状況下で日蓮が南宋の僧から国情を聞いていたとしても不思議ではないでしょう。
日蓮が『立正安国論』を前執権北条時頼入道の近臣・宿屋左衛門尉光則に差し出したのが文応元年(1260年)ですから、蒙古襲来の14年も前と言う事になります。
『立正安国論』は読んで字のごとく、正法(法華経)を立てることによって、安国を図る事です。
日蓮は当時の国難(飢饉・疫病・天変地異等)は邪宗(念仏宗・禅宗等)が跳梁跋扈している所に原因があるとした。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2006/12/04 10:00

私は、偶然だと思っております。


「人類が滅びる」と言って信者を集める事は、日本ばかりでなく世界各地で行われています。
オウムもそうでしたし、アメリカの人民寺院なども。
平安時代にも、末法思想が広がりました。
そのりほとんどが、何も起こらず、教団は崩壊して行きますが、たまたま日蓮の時だけは、偶然当ってしまったにすぎないと思います。
多少は南宋からの知識もあったかもしれませんが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。私もそのような考え方なんです。
古本屋に行くと多数のエコノミストや評論家の「2003年、日本経済破綻!」とか富士山噴火などの本があってたのしいですね。

お礼日時:2006/12/04 11:02

No.1です。



日蓮大聖人の場合は、予言というよりは、経文を引いたに過ぎないのです。
一般的な「予言」といった表現は、当てはまりません。
このまま、正法誹謗の世の中が続けば、こうなるという経文を伝えただけなのです。
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No.1さんの答えが正しいのですがこれは予言です。

  凶作、騒乱の世を憂い、経蔵に籠もり読経中、薬師経の一文を見てこの二難が差し迫っていると直感して、直ぐ行動に移ったわけです。  日蓮の勘のよさが判ります。   ひとつの宗教を打ち立てる人は皆すぐれた勘の持ち主です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2006/12/23 08:53

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