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少し前のNHKの歴史の選択(その時歴史が動いたのスペシャル版)の川中島合戦でやっていましたが
武田信玄軍は鉄砲を少数ながらも配備していたとやっていました
息子の勝頼は長篠合戦で織田信長の鉄砲隊に騎馬隊をやられていますよね
槍騎馬隊だけでなく鉄砲騎馬隊にすれば対等ぐらいには戦えたのではないですか?
小田軍の足軽で鉄砲三段撃ちも良いかもしれませんが、武田軍の騎馬で鉄砲三段撃ちのほうが強いのでは?

A 回答 (6件)

失礼ながら、質問者様の歴史認識はさまざまな点で間違っています。



「息子の勝頼は長篠合戦で織田信長の鉄砲隊に騎馬隊をやられていますよね」
現在「織田軍の鉄砲三段撃ちに、武田騎馬隊が粉砕された」ことは否定されています。

理由1) 現地に行ってみると分かるが、戦場は両軍で3万以上の兵が入ったら身動きもできないような狭くて起伏のある地形。
こんな所で、騎馬隊が突撃できるわけがない。

理由2) 織田軍の鉄砲が3千丁あったとする根拠は、信憑性が乏しいとされる史料。おまけに、最初は「千丁」とあったのを、後に「三千丁」と直した形跡がある。織田軍の規模からして、千丁の鉄砲を持っていたというのはおかしな話ではない。

理由3) 現地の狭隘な地形で、伝えられるように織田軍が野戦築城して三段撃ちで武田軍を迎撃したとする。火縄銃は周囲に一定の間隔がないと使えないが、その一定の間隔を確保できないので、鉄砲足軽同士が接触し、ある兵の銃の火縄が他の兵の火薬に触れて暴発するなどして迎撃するどころではない。よって、そのような戦法はありえない。

理由4) 「織田軍が鉄砲の三段撃ちで武田軍を撃退した」という話そのものが、合戦後かなり年数を経て出た「軍記もの」を出典とするもの。明治時代になって、日本陸軍の参謀本部が「長篠の合戦は織田軍が鉄砲の三段撃ちで武田騎馬隊を撃破した」と「認定」したため、つい最近まで定説になっていたもの。

他にもいろいろ根拠がありますが省きます。要するに「織田軍が鉄砲の三段撃ちで武田軍を撃退した」と言う話は「軍記ものにそう書いてあり、日本陸軍参謀本部が事実と認定した(史料を詳細に検討した形跡なし)」だけの話です。具体的な証拠は何もなく、探せば否定する根拠ばかりが出てきます。

鉄砲隊と騎馬軍団 真説・長篠合戦
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31127305

が手軽に読める本で分かりやすく書いてありますから推薦します。

火縄銃は、重い上に次発装填に時間を要し、野戦で攻撃に使うには不適です。さらに、火縄銃自体も火薬も弾丸も高価なものです。

それでも、長篠の合戦の前に武田軍が長篠城を落城寸前まで追い詰めた際は、No1さんが言われるように「それでも長篠城攻撃で武田鉄砲衆は活躍し、合戦後に家康が検分した際の記録では、壁土が落とされて穴だらけ、散々に撃ち抜かれた戸板は障子のようだったとか」と、「城攻めの武器」としては十分な数を揃えて活用していたようです。

ただし、鉄砲の産地である国友や堺を支配し、かつ硝石(火薬材料)や鉛(弾丸材料)を自ら南蛮貿易で有利に輸入できる織田軍の方が、武田軍よりずっと鉄砲装備に有利だったのは確かでしょう。

火縄銃は、
「野戦の際に、敵が接近するのを防ぐ、あるいは敵の先鋒を撃ち殺して勢いを殺ぐ」
「城や陣地の中に鉄砲足軽を配置し、攻めて来る敵兵を狙い打つ。高い所に陣地を築き、坂を登って来る、あるいは堀に阻まれた敵兵を狙い撃つとさらに効果的。大坂冬の陣は、『城にこもった大坂方が、攻めて来る徳川方を鉄砲で撃つ』戦いで、徳川方は何もできない状況でした。」
「武田軍がやったように、集中射撃で城壁を崩し、突破口を作る。当時の日本には大砲がなかったので、大砲の代用」
「敵の側面に鉄砲隊を潜ませ(または進出させ)、合戦の最中に横の近距離から銃撃する。伏兵としての使用。関ヶ原の合戦で黒田長政隊が石田三成隊にこれをやっている」
というように使うものでした。
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長篠の戦において、織田軍の鉄砲の三段撃ちが言われていますが、あれはフィクションであり、事実を正確に伝えておりません。


織田軍の鉄砲が3千丁あっても、三段にすると、正面は千丁の鉄砲になります。
長篠の戦いでは、1.5Kmにわたって戦線が作られていますから、織田軍の鉄砲の間隔は1.5mになります。
弾の装填時間が1分程度ですから、三段の鉄砲陣からは、平均して20秒間隔での発射となります。
鉄砲の有効射程距離が100m程度である事を考えますと、武装した兵士でも100mを20秒~30秒で走ると思われますから、致命的な打撃を与える事は不可能になります。
騎馬であれば、10秒程度で突っ切れるのですから、鉄砲自体が脅威となる事はありません。

当時の武田軍は、退路を絶たれた状況にあり、しかも正面には3倍の兵力の織田・徳川連合軍がいました。
この状況で、武田軍は撤退することができず、唯一残された道が、織田・徳川軍に突撃し、撃破する事だけでした。
3倍の敵との交戦をランチェスターの第一法則で計算しますと、9:1の戦力差となり、武田軍の敗北は決定的です。
つまり、武田軍は、鉄砲に敗れたのではなく、兵力差により敗れたのです。

もし武田軍に無限の数の鉄砲があったとしても、鉄砲は攻撃には全く役立ちませんから、3倍の敵の中で自滅するだけです。

また、鉄砲騎馬隊は、当時の先込銃で騎乗のままでは弾の装填が全く不可能で、一発撃ったら引き返す事になりますし、騎乗の人は、的も大きくなるため死者続出で、やはり武田軍は壊滅します。

当時の銃は、防御にしか使えないため、攻撃の主力は、槍になります。
また野戦での防御の主力も槍であり、鉄砲は、防御陣地からの迎撃にしか使えませんでした。

戦場で銃が主力となるのは、マスケット銃の発明とバイヨネットの発明以後になります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
当時の銃は防御専用だったのですね。

お礼日時:2007/04/15 14:58

長篠合戦で武田軍が鉄砲に敗れたと言うのは江戸時代に流布された俗説に過ぎません。


ましてや三段撃ちは現代では完全に否定されています。
実際には長篠の合戦時、織田、徳川連合軍約4万人にも登り、1万5千人の武田軍の2倍以上の兵力を有しており、普通に戦えばまず負けることのない戦いでした。
ただそれにも関わらず緒戦で織田・徳川連合軍は大敗を喫した可能性が高いのです。
「信長公記」にて5月17日の記録で進出していた地点から5月20日の時点では大きく後退していることが明白なのに、5月18日にはその件に関する記載がありません。またこの日に戦闘があったことは信長が細川藤孝に当てた書簡に記載があります。
つまり大敗北を喫して大幅に後退したが、それは故意に書かなかったと推測出来ます。
そしてここで武田勝頼は勝利を確信した書状を家臣に送っています。
この理由はこれまでの長らくの戦いで、織田軍は常に武田軍の精鋭と直接対決することを避け、そのような事態を招く前に撤退していたからであり、勝頼としては敵の撤退時を追撃し、しんがりを勤めるであろう徳川軍を撃破する腹積もりであったと思われます。
ところがこの時、織田・徳川軍は酒井忠次率いる部隊の迂回攻撃により長篠城の包囲網を崩壊させることに成功。
このため、武田軍主力はよりにもよって敵の主力と対峙している状況において背後を脅かされると言う最悪の事態を招いてしまったわけです。
そしてここで勝頼が何らかの決断を下す前に織田・徳川連合軍は攻勢を開始し、武田軍とはかなりの激戦となりました。
そしてここで酒井隊が背後から挟撃をしかけ、この時勝頼は穴山信君に別働隊を任せて迎撃に向かわせたのですが、これが前線で戦っていた武田軍には「味方の敗走」と映ってしまい、前線部隊が総崩れとなってしまうのです。
この後の追撃で武田軍はその精鋭の大半を失い、その後は大きく質を落とす事となります。
勿論、信長は多数の鉄砲をかき集めており、それが大きな働きをしたのは事実ですが、決定要因で無いのは明らかです。
要するに長篠における武田家の敗因は、織田軍はそれまでとは異なり「どれだけ犠牲を出しても武田軍主力を撃破出来ればよい」という覚悟で戦えたのに対し、その変化を認識出来なかった事にあると言えるでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
味方の勘違いで総崩れとはなんとも皮肉なことですね。

お礼日時:2007/04/15 15:00

 鉄砲を戦いの武器として、大量に使用するためには、火薬の安定的供給源が必要です。



 当時の黒色火薬の主要原料のうち、硝石についてはほとんどが輸入に頼っていて、鉄砲を大規模に使用するには、外国との交易ルートを確保していなければなりません。

 織田信長は、中央進出するとすぐさま「境」という当時最大の貿易港を押さえましたが、内陸の武田領は長年外国との交易拠点がなく、今川家を滅ぼしてやっと念願の海への出口を得たものの、織田・徳川に対して制海権を主張できるほどのものではありませんでした。

 また、軍需物資の購入についても、常備軍(専業戦闘軍)主体の織田軍は、織田家が一括購入する形が主となっていましたが、農民軍(帰属する中小領主が領地の農民を兵士として軍を編成し戦闘に参加する)を主力とする武田軍は、軍需物資の調達も部下の領主がそれぞれ調達することも多く見られました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
確かに信長のほうが物資面では有利ですね。

お礼日時:2007/04/15 14:57

武田軍(と言うより、織田軍以外)は「鉄砲なんか使い物にならん」と思っていたから。



なぜなら、鉄砲は
1.火縄を火蓋から外して引き金を起こす
2.筒を立てて、筒先から火薬袋の火薬を仕込む
3.筒先から弾を込める
4.筒先から中の弾を棒で突ついて火薬を押し詰める
5.火縄を引き金に戻す
6.狙って引き金を引く
7.1に戻る
と言う、とても時間のかかる事をしないと、次が撃てません。

これでは、一発撃って次を撃つ準備をしている間に、敵の騎兵に突っ込まれて鉄砲隊がやられてしまいます。弾込めの最中は無防備ですから。

織田が三段撃ちを考案するまでは、鉄砲隊は「一発撃ったらすぐに逃げて場所を変え、安全な場所で弾込めしから、また撃つ」と言う、あまり戦力にならない兵力でした。しかも、撃ってからすぐに逃げても騎馬のスピードには勝てません。すぐに追い付かれて弾込めも出来ずに、騎馬兵の槍の餌食になってしまいます。

つまり「鉄砲隊が相手なら、騎馬で突っ込めば勝てる」と言う常識があったのです。ところが、織田軍は「撃ったら逃げる。次を撃つのに時間がかかる」と言う鉄砲の欠点を解消する三段撃ちを考案し、この常識をひっくり返しました。

武田軍は「敵の鉄砲隊が撃ったら、敵が弾込めしてる間にドっと騎馬で突っ込め」と思ってます。しかも、鉄砲隊を3隊に分ければ時間差でバンバン撃ち続けられるって事に気付いていません。

もし仮に、武田軍が、織田軍に間者を潜り込ませて事前に三段撃ちの事を知っていて、堺の武器商人から大量の鉄砲が買えてたら、勝敗の結果が逆転していたかも知れませんね。

この回答への補足

ありがとうございます
当時の鉄砲は猟銃や遠距離射撃でスナイパーのような利用しかできなかったのは承知の上です
鉄砲と弓矢を両方持っていくのは重いから無理なのですかね
遠距離射撃を生かして武田軍も騎馬の後方援護隊に使うとかはできなかったのですか?

補足日時:2007/02/17 15:48
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武田勝頼は鉄砲衆の拡充に努めましたが、資金不足で思うようにいかなかったらしいです。

甲斐の金山の産出量が激減した影響もあるでしょう。
それでも長篠城攻撃で武田鉄砲衆は活躍し、合戦後に家康が検分した際の記録では、壁土が落とされて穴だらけ、散々に撃ち抜かれた戸板は障子のようだったとか。
なお、鉄砲騎馬隊というものが本当に編成されたかどうか、かなり疑問です。下馬した方が当たりやすくなります。
また、鉄砲三段撃ちは完全なフィクションで、設楽原合戦(長篠の戦い)の状況では実行不能と考えます。
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