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質問的でないですが、お時間があるなら回答者様がこの質問について思われたことを答えてくださればありがたいです。回答者様の何かの思索を進めるきっかけになれば、と思います。
自分なりに定義してみますと(哲学的、辞書的には違いますが)、価値観は「周りのためになるし自分のためにもなると考える、自分の行為の根拠になる考え方」、利己的な考え方というのは「自分さえよければ他の人間は死んでも損をしても構わないとする考え方」です。
ここで思うのですが、価値観がすべて良い結果を生めばいいのだけれど実際はそうではありません。自分が出せる例を言うと、(世界的には)科学が人類を幸せにするという考え方の下で起こる環境破壊、市場主義が引き起こす暴力(除外された者たちによる犯罪やテロ)や格差(資源を持つ者と持たない者)でしょうか。
身近なレベルで考えてみると、体育会系の上司がうつ病質の部下を追い込むだとか、受験戦争などがあるでしょうか。親の見栄と、子供を出世させたい親心とが混じっています。
質問タイトルは「区別」としましたが、「受験戦争」の例からも思うのですが、やっぱり価値観と利己性とは切り離せないのかな、とも思います。(余談ですが、世界宗教戦争でも起これば価値観で人間は滅びそうになりますね。)
でも、難しいながらも何かの基準はあるのかも、と思います。

答えのないともいえるテーマだけれど、自分が「正しい(であろうと思う)」意志決定を自信を持ってするにあたって、何らかの指針がないかと考えています。

A 回答 (9件)

金だな。



法を遵守し、金銭的利益を考えなければ、90%は正しい判断を下せるだろう。

環境破壊が起こったのは、ほとんどの場合、金が原因だ。
現代ほど高度にではないが、昔だって環境に配慮した設備を作る事は出来た。
ただ、金がかかるので、作らなかった。
ほとんどのものは、最初から、危険性は示唆されていながら、犠牲者が出るまでは義務では無いので、人が死ぬまで金は使わない。

金だよ。
受験戦争も、将来の金を確定させるためのものだ。

現在は、金が何ものにも優先する。
人は口にしたがらないが、人の命より、金の方が重い。

多くの人はそれを不条理と思っているが、自分の不利益になるので何も言わない。
保険会社の保険金未払いを見ても分かるだろう。
保険会社にとっては、人の命より金が大切なのだ。
そして、それを見逃している、従業員、政府、我々に至るまで、本当にその部分を解消としようとするなら、自分に大きな不利益が襲い掛かってくるので、小手先の事で誤魔化すだけ。

つまり、同じ穴の狢、同じく、人の命より金の方が大切なのだ。

宗教戦争も同じである。
思想で戦ってるのは、下っ端だけ。
信者のもたらす金が大切なのだ。
信者のもたらす利権が大切なのだ。
十字軍など、聖地が奪還したいのは、そこに大きな利権と金が転がっているからであり、本当に信仰心だけであるなら、お互いに巡礼しあうだけでいいはずだ。

金も信者も一切取らずに、人に奉仕する宗教家が一人でもいるか?
全てを会社とかの自分の労働賃金で賄っている者が。
まあ、私が知らないだけで、世界には沢山そんな人がいるのかもしれないが。

だから、金銭的不利をものともしないなら、正しい判断が下せると思う。
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この回答へのお礼

金銭的不利をものともしないなら、正しい判断が下せると思う

一理あると思います。残りの10パーセントは、ひとつ例を出すと先日起こったバージニアの大学で銃を乱射した韓国人はどうでしょうか。つまりは、自己破滅的な行為をする人です。(結局、彼はもてない、友達がいない、ということを有色人種差別と結びつけ、妄想的な憎悪を抱いていったのではないかと思います。)
彼は金銭的不利をモノともしていないですが、おそらく正しい判断はしていません。

金は悪を作り出す悪いものでもあるし、良い点もあると思います。不平等があるが、他人への評価への物差しにもなりだから金を得るため努力することで世界が発展してきたところもあるでしょう。

「環境問題に取り組んでいるNPOなどの人間で、汚い政治にかかわろうとしない奴らがいるが、私から言わせればそれはへたれだ。環境問題と政治は切り離せない。崇高な理想のために、汚いことを全くしないことをもって純粋というのか、理想のためには少々の汚いことを厭わないことをもって純粋というのか」このことを宮台さんがどこかで言っていました。これを聞くと政治家の見方がちょっと変わりますよね。金や権威がなければより多くの弱者は救えないし、そのために周りの意地汚い連中と張り合っている崇高な政治家もいらっしゃると思います。でも、そのうちに「汚さ」に溶け込んでしまう人もいるでしょうね。善とか悪とかはなかなか決められないものですね。
以上、少し長くなりました。

お礼日時:2007/05/01 01:37

正しい行為をするにはどうしたら善いか?


といったところでしょうか。

かなり簡潔に書いてみます。

欲・怒り・無知を持って言葉・行為をすれば失敗しますよね。
それらを無くすには生活を正し、「気づき」の状態を常に持てるように訓練しなければなりません。

そもそもこれが正しい!と固定概念にしてしまうと、回りの状況・条件が変わったとき失敗するでしょう。もっと柔軟に更新しなければいけなそうですね。

もちろん慈悲の心でいるんだ!とか常に今の状態に気づくんだ!とかは善いと思いますけれどね。

固定概念は間違いです。一人一人違うんですもの。
この花はきれいだなぁといっても、他の人からしたら嫌な思い出があって気持ち悪くなるかもしれませんしね。

と…仏教の八正道というトレーニング法をオススメします。

最後に基準についての考察。

欲・怒り・無知以外の心で、自他共に役に立つ事をやる。
過去や未来にとらわれずに今やるべき事をやる。

こんな感じです。
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この回答へのお礼

「正しい行為をするにはどうしたら善いか」
僕の考えていることに近いです。このテーマを個人のレベルに落とし込むとそのとおりです。(噛み砕いた日本語ありがとうございます。)
日々是反省、というところでしょうか。
ただ、価値観は自分の生きる土台みたいなもので、そこにしがみつきすぎても(固定観念?)現実の変化に対応できないだろうし、逆に価値観があまりないとすれば、どこから押されても倒れてしまうような脆さになると思います。

お礼日時:2007/04/30 02:44

質問者さまの、他の方へのお礼のメッセージを見て思ったのですが、


ta999様は、言葉の定義の問題よりも、「一般に正しいと思われているところの思想(価値観)に基づいて行動した結果、目的とは逆の結果が生まれているのは何故か?」という疑問を持っておられるのでは、と感じました。

つまり、
>科学が人類を幸せにするという考え方の下で起こる環境破壊、市場主義が引き起こす暴力(除外された者たちによる犯罪やテロ)や格差(資源を持つ者と持たない者)でしょうか。

というのは、理念(価値観)と現実のギャップですよね。
この原因は利己を追求した結果によるのか、それとも理念そのものに欠陥があったのか。

思想と現実(的行動)を考察する上で、二つの相反する考えを警戒しなければならないとB.ラッセルが言っています。

1,思想家(あるいはその思想)を過大評価すること。つまり、その思想(家)によって、社会の現実が決定されているとする考え。
2,思想家(あるいはその思想)は殆ど影響せず、現実は物質的・技術的な諸原因によって決定されるとする考え

ラッセルはこの両極端な考え方を受け入れ、その中庸が現実であろうとしています。
つまり、思想(価値観)と現実は相互的に影響しあっており、どっちが先かというのは「鶏と卵どちらが先か?」という議論と同じく無益であるとしています。

私も個人的には思想(価値観)といのは、現実を受けて常に修正されているモノだと思っています。
自由主義経済にしても、共産主義の挑戦を受ける過程で自由放任は問題であり、そのためには(最小限の)政府の統制が必要であると考えられるようになりました。
私自身は、価値観に基づく行動を取るときに利己的になりすぎない為に、常に疑問(あるいは再確認)をするように心がけています。
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この回答へのお礼

書かれていることを自分なりに整理してみますと、「思想主義」に偏ってもいけないし、「現実主義」に偏ってもいけない。前者は、現実の複雑さに対応できない危険のある姿勢だし、後者は方向性(思想)を持たず、反省(抽象的なことばではありますが)がない、ということかと思います。ラッセルにも触れてみたいと思います。

私自身は、価値観に基づく行動を取るときに利己的になりすぎない為に、常に疑問(あるいは再確認)をするように心がけています。
僕もそうしています。

お礼日時:2007/04/30 02:53

価値観という概念の適用範囲の問題ではないでしょうか。


一般的に価値観は個人あるいは集団として持つべき概念ですが価値観自体の成り立ちが個人あるいは集団あるいは地域性を有しますので殆どの価値観はローカル(地域性を有する)ですね。
普遍の価値観というのは多くないように思います。より大きな集団をまとめるための価値観は時代の流れに従って形成されていますね。
宗教であれ哲学であれ生じた時代背景や地域性によりそれが広がると害になるものもたくさんありますね。アラブ地方の目には目をとか特定の宗教には税金を免除するといった価値観は世界的に見ると害にしかなりませんね。キリスト教の排他的な部分も同じく害ですね。
つまり価値観には狭義の意味での普遍性と同時に利己性(あるいは閉鎖性)の両面性が内在していると考えることが正しいと思います。
例えば、地球の住民として共通の価値観をつくり守ったとしても他の惑星の住人には害になることもあるということですね。これは国の自治と地方自治の関係にもにてますね。地方自治を利己的と表現すれば国の自治は普遍的といえるが、国家間ではやはり利己的とみられるでしょう。
つまり、どのような価値観にも地域性(利己性)が常に含まれるといいたいのですね。だから「やっぱり価値観と利己性とは切り離せないのかな、とも思います」はそのとおりでしょう。
地球では地球の普遍的な価値観を北極星にたとえます。北極星は動かないからですね。その他の星、つまり価値観は地域性があり動き回るからまとまらないという意味ですね。
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この回答へのお礼

悪と善、利他と利己、疎外と親密など、対立概念がありながら、人間の世界は対立する要素が混じり合っています。(これが善、これが悪、などととりあえずは決められるけれど)
完全に正しい自分のあり方、などというのは理想的ではありますが、おそらくあり得ません。(そういったあり方を目指してしまうところが自分にはあります。)そんなことを考え始めるから苦しくなるんでしょうね。
この質問で、やっぱり哲学というのは答えの出ない問題を、それでも考え続けることなのだということが改めて認識できました。

お礼日時:2007/04/30 04:31

権力への意志



権力から発するものは全て善であり、弱さから生まれるものは悪である。


と、私(劣等者)は思います。
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この回答へのお礼

権力はすべて善ではないと思います。
何人もの人を虐殺したような政権の例もあります。これは善ではないでしょう。(人殺しは悪だとすれば)

短い回答ですが深いテーマだと思います。政治というのは人々の希望をかなえてくれる反面もあり、理性を失ってしまう反面もあると思います。

お礼日時:2007/04/30 03:18

no2です。


>「 しかし、こういった人類のためになると考えられ、生み出された「価値観」が典型的には、宗教対立や冷戦といった形で、人類を不幸にしているのはなぜだ、と思うのです。」
問いかけの意味が分かりました。

科学とか宗教が「人類のためになると考えられ、生み出された「価値観」」から生まれたものだと考えれば確かにそうですね。でもそうでしょうか?。わたしはまずそこが違うと思います。確かにひとつの行動規範を示してはいますが、かならずしも100%人類のためを思って作られたものでしょうか?。
それと、仮に人類のためという大義名分があったとしても、人類のためとはどういうことなのかがはっきりしていないではないですか。どういうものが、人類のためといえるのかを明確にしてから議論すべきではないでしょうか。
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この回答へのお礼

@仮に人類のためという大義名分があったとしても、人類のためとはどういうことなのかがはっきりしていないではないですか。どういうものが、人類のためといえるのかを明確にしてから議論すべきではないでしょうか。

おっしゃる通りだと思います。ただ、人類のためという大義名分は無限に造りだせるため触れていなかったんです。(3のお礼で言いましたが、何が人類のためといえるかがわからないというのが本当のところだと思います。質問をした時点では、(数十年後の評価ではなく当座は)人類を便利にし、経済的精神的に豊かにすると考えられる行為が人類のための意味です。)
@かならずしも100%人類のためを思って作られたものでしょうか?

100%人類のためにならない、人類を破滅させてやる、とは思っていないはずですから、こういう考え方があれば発明があれば「便利だろう」、「快適だろう」、(あるいは)「売れるだろう」との思想が根底にある時点で、100%ではないにせよ人類のためを思っているのではないでしょうか。

お礼日時:2007/04/27 09:51

> しかし、こういった人類のためになると考えられ、生み出された「価値観」が典型的には、宗教対立や冷戦といった形で、人類を不幸にしているのはなぜだ、と思うのです。



どうも、#1です。
ものを考えるのは個人の勝手だし、私がこうやって回答を寄せるのも勝手です。
私が言えるのは、もっと動物としての、生命体としての人というものの成り立ちを考えれば、あなたのような壮大な悩み事を抱え込む必要もないのではないかということです。
つまり、人が認識できる限界というか、見通すことができるスコープの範囲とかがどういうものかということです。
人が物事を判断するとき、その時点で入手可能な情報をもとにして結論を導き出します。
その時点で知らないもの、解明されていない因果関係、影響を受けない利害関係等は考慮のしようがありません。
つまり、大局的に見て不幸な結果になっているとあなたが思うことでも、その時点で物事を決める人たちが知りえた情報の範囲内で決定した結果というだけのことなので、「仕方のないこと」なわけです。
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この回答へのお礼

実はこういった質問「答えが不明瞭なものにしかならない」、「個人の思索の問題になるもの」などといった問題は教えてグーでは質問してはいけないことになっています。(学問系、人生相談系の板は例外かとは思いますが)
ken1hisaさんがおっしゃるように「仕方のない」ことはありえますね。この例は僕も完全にではないにせよ頷いてしまいます。(これはアメリカが原爆を正当化するときに使います。「原爆が落ちたのは不幸ですが、本土決戦になっていたら人的被害も経済的被害ももっと大きいものになっていた)

@その時点で知らないもの、解明されていない因果関係、影響を受けない利害関係等は考慮のしようがありません。

ある行動が吉と出るか凶と出るかの予測は完全にはできないんですね。そして、凶と判断されたものが後々実は吉になるのかもしれない。
もともと答えのないような質問ですが3が一つの回答になっていると思います。個人的な質問ながらヒントを下さり、ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/27 09:34

こんにちは。


ご質問の文面から読み取ると、集団的な利己的考え方を「価値観」と呼んでいるように思われます。ta999様の定義によるとそうなりますが・・・。従って、価値観と利己的な考え方の区別は、「利己的な考え方」を、人類全体にまで広げたものが「価値観」であるとなります。

この問いかけは、何を意図したものなのでしょうか。言葉を定義して、その問題点を指摘しているのですか? 意思決定のためになら、単に自分のためにも、人類のためにもなるものを探し、それをご自身の「価値観」とすれば良いのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

意思決定のためになら、単に自分のためにも、人類のためにもなるものを探し、それをご自身の「価値観」とすれば良いのではないでしょうか

これはわかります。
しかし、こういった人類のためになると考えられ、生み出された「価値観」が典型的には、宗教対立や冷戦といった形で、人類を不幸にしているのはなぜだ、と思うのです。

お礼日時:2007/04/27 08:24

なんか言葉遊びみたいですね。


この二つの言葉が排他的関係にあるものだと決めつけてスタートしたために迷路に入ったように感じます。
「上と下」「右と左」「好き嫌い」のように、もともと反対語の関係にあるものならともかく、ご質問の二つでは反対語として成立しないので、オーバーラップする部分があって当然、明確に区別しようとする必要もないんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

二つの言葉は反対語ではないですね。確かに。言葉を間違えていました。「周りを幸せにするであろう考え方」、「周りを不幸にするであろう考え方」というのが言いたいところです。利己性=周りを不幸にするもの、と決め付け過ぎていました。

お礼日時:2007/04/27 08:14

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