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仏教では無我が説かれるそうですが、これは諸々の構成要素が、私が「私」と思い込んでいるものを形成しているに過ぎず、「私」は永続的ではないということを説明しているのだと解釈しました。一方、輪廻が説かれるということは、「私」には何らかの永続的な主体があると見なされているということだと思います。この輪廻する主体は、私の構成要素の中の本体のようなものでしょうか?いずれは意識がなくなり、私であったものは解体されるということは常識的に理解できるのですが、意識や五感といったものを取り去っても、なお、私の根源あるいは本質があって、それが輪廻するということでしょうか?「方便」とか、「仮」といった答えでは私には理解できません。仏教をそれほど知らない人(高校倫理の教科書レベルの知識をもつ人)でも納得のゆく説明をお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。

A 回答 (36件中11~20件)

始まりはどこかなどあまり意味は無い。


元々あった。
欲が支配すれば大衆は苦しむ。
いつも
大衆の苦しみるつぼの中から欲を離れた哲学者が輩出される。
仏教では解脱。
中国では孔子や孟子。
平和なときはただ継承するだけ。
それも大事。
世の中の幸不幸は上に立つ人によってほぼ決定する。
上になったり下になったり
そういうものがめぐるめぐる
輪廻
人の世。
無明というものはないが無明が尽きるということもない
世は無常
過去の偉い人の残した言葉。
時は来る
皆の総力をあげて創る日本。
その基本構想を創る時。
悲願
艱難辛苦の果てに
咲く花
世界の国家像の雛型とならん。
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ANo.17です。

いや~、あなたは鋭いかたですね。私かわかる程度のことでおはなしします。
>>始点はどこなのだろうか、
 これに関して言えば、仏教ではよく「無始」という言葉が使われています。
 親鸞の『歎異抄』の中には「無始以来つくりとつくる悪業煩悩」という表現があります。また、「無始無明住地」という惑いの根源という思想があり、『勝鬘経』による創作概念といわれますが、凡夫にはこれが無始爾来存在しており全ての煩悩はこれから発生するされています。
 本来「無始」とは、いくらさかのぼってもその視点の過去という意味で、「無始無」などと熟語され僧肇の『肇論』には「真の解脱とは、寂滅して永らく安らかに、始めなく終わりなし」「我が如来は始めなく終わりなきを見る」といように、仏法・如来。涅槃の永遠性を形容するために使われることが多い言葉です。
 しかし、「無終」「無始」という言葉のみで使われる場合は、前述したとおり煩悩・執着のような仏教にとってマイナスのものに使われる場合が多くなります。
 ですから、始まりなどは我々にははかり知ることができないという意味でしょうかね。もちろん始まりを知るということも大切ですが、「我執」や「業」を離れることに意味があるわけですから、始まりがどうこうというより今ある「我執」や「業」どうするかということに着目すべきではないでしょうか。

>>どのように汚染されたのだろうか、
 この「どのように汚染されたのだろうか」という質問は、率直に言えば私にはわかりません。申し訳ありません。ですから「客塵煩悩」の思想について少しお話させていただきます。「客塵煩悩」とは、煩悩という悟りの妨げとなる機能は、心に本来備わったものではなく単に一時的に付着した塵のようなものに過ぎないという主張です。『勝鬘経』には「此の自性清浄如来蔵は、而も客塵煩悩上煩悩に染せらる」とあり、また『大乗入楞伽経』にも「此の如来蔵蔵識本性清浄なるも、客塵に染せられて而も不浄となる」と説かれています。こういった思想は、『阿含経』のような初期の経典からから大乗全般にいて認められていますが、特に如来蔵思想で強調されます。
 まぁ、こんなところです。私の読み込みが甘いせいかも知れませんが、清浄心が汚れていく様は語られていないように思います。しかし、どう汚れたかを知ることで、どう煩悩を落としていくかに生かすことは大切ですね。わかったら教えてください。

またまた、駄文を連ねました。けれど、お答えにはなってませんね。申し訳ありません。
合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。仏であることが永遠の解脱状態だとすると、本来仏であったものが煩悩を持ってしまうというのは不可解に思えてきました。どちらかといえば、無始から煩悩を持っているという考えの方が、私には納得できそうです。落下するものと地上の間に板切れをはさむと、落下するものは、地上にひきつけられてはいるけれども、それ以上落下しなくなります。変な発想かもしれませんが、もしかしたら、解脱というのはそのようなことなのかなと想像しました。

お礼日時:2007/06/27 14:35

ちょっと拝借。


渦  銀河を彷彿とさせる。。。

螺旋 循環する時空

貫く精神性は仁義礼智忠信孝悌
産みだす根源となるものは。。。

暖かい親愛に満ちた調和による生の存続
われわれの共通の故郷であるこの地球上に
創造する。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。回答頂いた内容は、私には理解が容易ではないようです。

お礼日時:2007/06/27 14:01

生きとし生けるものの織り成す

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世の中

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>自己認識が消えた後に、私の意識を継承していない別の主観が生じるということ



 自己認識が消えた後に、別の主観が生じるとは言っていません。それはまさに要素還元して観察した日常のことでしょう。
主観が消滅して初めていわゆる完全があり、究極的な自己認識の部分のみが<承継>され得ます。また、前に記載しましたが主観が生じるところにいわゆる完全は存在しません。いかなる主観も承継されません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。主観が消滅した後はに究極的な自己認識が承継されるという考え方を理解しました。この状態は完全であるのですね。涅槃は輪廻を脱した状態であると聞いています。私は輪廻と輪廻するものにも関心があるのですが、輪廻を脱していない場合には、主観が失われた後に、主観が再度生じるということなのだろうと解釈していました。

お礼日時:2007/06/27 07:58

>主体と呼ばれるべきものとして何が残るのだろうかと疑問に思い



主体と言う表現を使用しているのはご質問者様ですね。

主観と主体の違いはちょっと脇に置いておいて・・・
主観が生息するこの時空間には、残念ながら完全な存在はありません。それは、絶対とか、神とか、空とか、無とか、涅槃とか呼ばれているものです。ここでは完全と呼びますが、ひとたび完全が存在すると物理的に時空間が消滅します。相対的に、量子論的に、一切は、不完全だからこそ存在し継続します。しかし、これは主観から完全を客観として把握するときに認識される(観測される)ことで、この客観の構成起源である主観(観測者)が消滅すると完全が厳然として存在する関係にあります。

<輪廻する主体>は、まさに、今、自分を主観なく自己と感じている部分だけの自己です。あるいは、主観が主観だけを自己認識するだけの思い(あらゆる客観の消滅による主観の自己消滅)です。

>その了解する機能もいつか一度は損なわれると思われますので

輪廻は、そもそも死と再生の繰り返しを意味しているので、主観から見て死の状態は、了解する機能は損なわれています。まさに、今、主観を感じている部分だけしかありません。五感も、感情も、記憶も、過去も、未来も何もなく、主観があると思う今の「思い」のことです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。主観が消滅した後で再度主観が生じる(輪廻がある)のであれば、その間になんらかの継続があるということだと思います。さもなければ、輪廻という言い方をする必要がないと思うからです。自己認識が消えた後に、私の意識を継承していない別の主観が生じるということを単純に説明するのであれば、ある人が死ぬ一方、別の人間が生まれるという日常的な言い方で足りると思います。両者は無関係だからです。しかし、仏教では、輪廻という言葉が用いられるのですから、なんらかの形で継続が想定されているとしか思えません。そこで、継続するものに関心を覚えました。

お礼日時:2007/06/27 01:05

寝る瞬間の記憶、目覚めたその瞬間の記憶、まして、生まれた時の記憶、死ぬ瞬間の意識いずれもぼやけた恍惚の事象なのでしょう。


しかし、毎日消滅と復活を繰り返していて不連続ではありますが自己はずっと自己です。→記憶や感覚があるから自己なのではなく、あくまで今この瞬間の自己の事です。
輪廻する主体は、まさに、今、自分を自己と感じている部分だけの自己です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。意識は絶えず変化してとらえどころがありませんが、今現在そのように変化する自分の意識を了解していますね。しかし、その了解する機能もいつか一度は損なわれると思われますので、そうなると、主体と呼ばれるべきものとして何が残るのだろうかと疑問に思い、問いをたてました。

お礼日時:2007/06/26 10:27

 #8です。

#9にある参照URLを拝見しましたが、仏教は死後生も輪廻も否定しているとする立場からの常見・断見についての斬新な解説に大変興味を持ちました。
 実は私、初期仏教に関心を持ちつつも禅思想の傾倒者なので死後生や転生についてはさほど関心はなく、どちらかといえば死後は無であってほしいなと願う程度です。ゆえにこの説が正しければ私的にはホッとしますが、ただ初期仏典に無数にあるブッダや直弟子の輪廻発言をどうとらえるべきかという点について、あらためて興味が湧いてきます。

『物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、止滅を知らないので、再びこの世の生存にもどって来る』(スッタニパータ,中村元訳)
『生きとし生ける者どもは死ぬだろう。生命はついには死に至る。かれらは、つくった業の如何にしたがっておもむき(それぞれ)善と悪の報いを受けるであろう』(感興のことば,中村元訳)
『わたしは前世の状態を知っている。わたしのすぐれた眼(天眼)は清められた。神通力をそなえ、他人の心を知るものであり、すぐれた聴力(天耳)を獲得した』(仏弟子の告白/ウルヴェーラー・カッサパ長老,中村元訳)
『慈悲深き師、全世界をいつくしむ人は、「来なさい、修行者よ」とわたくしに告げられました。これがわたくしの受戒でありました。そこでわたくしは、独りで森に住んで、怠ることなく、勝者(ブッダ)が教え諭されたとおりに、師のことばを実行しました。夜の初更に、わたくしは過去世のことを想い起こしました。夜の中更に、天眼(透視力)が清められました。夜の後更に、闇黒(無知)の塊りが砕かれました』(仏弟子の告白/スニータ長老,中村元訳)
 ※いずれも岩波文庫より

 ブッダ自身も解脱の際、深い禅定においてすべての過去世を思い出し、無明と業により流転する生命の実相を如実に見たと明言し、前世の生涯を知り直感智を完成したものこそまことのバラモンである、とも語っています。このような禅定体験から四諦説や十二因縁を発見したように、解脱には三つの智慧(三明)が必要とされ、仏典を読むと無明を破壊する智慧(漏尽通)と並んで前世を知る能力も当時重要視されていたことが読み取れます。

 もう一つ挙げると当時仏道修行そのものが輪廻の存在を前提に解説されていた点です。

『全世界の主権者となるよりも、聖者の第一階梯(預流果)のほうがすぐれている』(真理のことば,中村元訳)

 この(預流果)という言葉、ご存知かもしれませんが原始仏教では凡夫が解脱するまでには階梯があり、凡夫→預流→一還→不還→阿羅漢(アラハット=仏陀)の順に進むとされていました。
 十大煩悩のうち絶ちやすいものから順に三つを断滅すると第一階梯の預流クラスの聖者(まだ残存煩悩があるので数回転生したのち解脱)。五つ断滅すれば一還という第二階梯(現世では悟れぬが次の転生で解脱)。 ここまでに絶った五大煩悩は肉体レベルの煩悩ですが、以後の五つは心理的煩悩(自我なるものがあるとみなす煩悩等)で絶ちがたいのですが、このラインを突破すれば不還レベルとなり、もはや再生の原因となる煩悩は絶ってるので非物質的生存領域に移行したのち解脱。最後が肉体を持ったまま涅槃に入る阿羅漢。
 …このようにブッダ在世当時から輪廻を前提とした修行階梯の説明がなされており、今日でも南方仏教の修行者は(現世での解脱は困難を極めるため)とにかくまず預流レベルに到達するために必死で修行するようです。

 輪廻否定説に立てば、ブッダは修行法にまで手の組んだ虚構を取り入れて指導していたということになりますね。可能性としてはあるでしょうが、死後生がないとするなら、なにやら方便を超えて詐欺的な印象を受けてしまいます(笑)。
 あるいは過去世の想起等は脳内物質による幻覚という推測をたてる人もいるかもしれない。個人的には仏典を見る限りブッダは本気で輪廻を語っているように思えてならないので、もし私が輪廻否定説に立ってブッダのことばと整合性を持たせるとしたら、受け入れやすいのはこの幻覚仮説くらいかな…。いずれにせよ非我説や縁起の法と輪廻否定説・肯定説との関係をめぐってはおそらく将来も延々と議論されていくでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。もしも、死後に、今の意識も継続されず、しかも別の意識が生じることがないとすれば、すばやく死ぬことが苦から逃れるためには最善だと思えるのですが、釈迦ほどの知恵者が修行に励んだことをおもうと、やはり、本来の仏教は、なんらかの形で、死後の継続を前提としていたのだろうなと思えてきます。

お礼日時:2007/06/26 10:21

>自分が生きている間に自分の輪廻が生じるということになることが多いと思います。



ええ。
自分というより、まず 私達はなにかを運ぶ乗り物である と仮定して話をしてみます。

この乗り物は生殖により、他の遺伝子と結合し、半分と半分で別な乗り物を作っていき、運んできたものを、そっちにも移しているわけです。
我々乗り物はそれぞれに特徴を持っており、今続いているのは、少なくとも自然淘汰の法則の嵐の中をくぐりぬけてきてもの つまり勝者のみなわけです。

乗り物にはそれぞれに特徴があります。
腕力が強い乗り物。
智恵がある乗り物。
危険を察知しやすい乗り物。
ウイルスに打ち勝つ乗り物。

どうして元のものはこのような乗り物を作り出したのか。
いろんな特徴を持つ乗り物をできるだけ増やした方が、未来永劫存在しつづけられる可能性が増すから。

人間をはじめ多くの乗り物はシャケのように産卵を終えると死んだりしません。
生まれてすぐエネルギーを自力で取れる乗り物だったら、次の乗り物にコピーを移し、乗り物に生命が宿って活動を始めた段階で死滅しやすいのかもしれない。


まあ ともかく 乗り物自体は半分と半分が乗り物の特徴をコピーして、新しい種を作り続けていって、なんとか未来へ流れる川を泳いで、荷物を運び続けていくわけです。

というわけで、荷物は一つですが、それを運ぶ乗り物は多数。
どの乗り物が荒れ狂う川を永遠に運び続けるかは、誰にもわからない。


というわけで、一つじゃない 我々は二つから成り立っていると考えると、生きているのに次の乗り物が誕生し、両方同時にこの世に存在し続ける続けるなんておかしいじゃないか というのが、おかしくもなんともないってなるような気がするんですが、、、、、
うまく説明できていないと思いますが。


荷物は一種類。
乗り物は無数。

荷物は一個じゃなく一種類。


で、この荷物というか元々は、自己増殖していたそうなんですね。
つまりクローン。 全く一緒。

でも一種類だと、他の可能性が出たとき、絶滅しちゃいますよね。
それで、もう一つを作って、乗り物にして、無数の可能性のある乗り物に乗っちゃったわけです。

一方の枝が折れても、他の枝が伸び続けるという。

元々はとても複雑ですが、新しく作った方はシンプル。
だけど凶暴。

それでこともあろうことか、他の乗り物を攻撃して、自分だけの種を増殖しようとした。


他の乗り物たちの地域を侵略して、皆殺しにして、そこの土地を自分達の土地にして。
あるいは殺さず自分達の食料を育てる奴隷にして、自分達の子孫を増やしていった。



これは元々にとって都合がいいことでもありますが、とても危険な賭けでもあります。
下手すると共食いして絶滅してしまう危険がある。
乗り物全部が絶滅してしまったらもともこもない。


ある種類はクローンにより増殖するように戻ってしまった。
なんで異種との交配による増殖をやめてしまったのかはわかりません。


人間はどうなのか。

農耕の発達で、いきなり乗り物が増殖しだしたわけです。
ところが、農耕の技術の進歩で死ににくくなり、乗り物の生命を維持する食料を一日中捜し求める必要が減った分だけ、時間ができ他の楽な道具を生み出していき、やがて公害まで生み出してしまった。

すると、そのせいで精子の数が減ってきてしまった。
オスの機能を果たさないオスが増えてしまった。

このままのスピードでいけば、1万5千年後に人間の雄は絶滅する計算になるそうです。

じゃあ 雌も消えるか というと、もともとはクローンでしたから、クローン増殖に戻るだけ。

別の種の乗り物を必要としなくなり、元の状態に戻るだけ。
その頃はかなりウイルスに免疫を持つ強いマザーになっていると思います。

その後、また異種を作り繰り返すのかはわかりません。
ホモサピエンスが絶滅し、新たな人類 つまり 乗り物が誕生するのでしょうか。
人型をしていないかもしれないですね。


<私が私と思い込んでいるものを形成しているにすぎず>

確かに乗り物が自分が乗り物であるという自覚などなく、自分は自分だけのもので、自分に決定権が全てあると思っているわけです。


いやいや、設計図によりそうなっている場合もあるでしょう。
設計図を書き換えないと、乗り物の特徴である遺伝により、それが時間が来たら表に出てくるようにスケジュール化されているのかもしれない。

だが、そのスケジュールは今のところ、まだ明確には人間にはわかりません。
人間はこのスケジュールを「うむ 次はこうか」と知覚できない。

「なんで怒りっぽいのだろう こんなところで怒らなくてもいいのに、でも自分が怒ったということは、相手がそれだけひどいからだ」と自分の怒りを意味づけして正当化したり。。。。

「なんであのとき言い返さなかったのだろう。 ああ 悔しい。 もっと私は強気にならないと、このままじゃ 相手の言いなり。でも どうしても強気になれない」と自分の情けなさを自己批判したり。

いやいや 設計図がそうなっているんですよ・・・・。
それを知らないから、なんとか意味づけして納得しようとするしかないわけです。

どっちが生き延びるかは、勝ったほうが生き延びるだけで、マザーにとってみれば、勝者に軍配を挙げるのみ。
未来に運んでくれりゃあ それでいいので。
より強くあればそれでいいので。
いや 生存力が強い乗り物であればさらに保護されるので安全なわけで。


で、遺伝子操作の分野に人間は着手しようとしている。

どっちが早いでしょうね。

人間が遺伝子操作をやって人を作り出すことができるようになるか。
でも結局 乗り物の部分を改造するだけ。

マザーは乗り物がダンプでもスポーツカーでもベビーカーでもいいんです。
とにかく 自分を時間の川を泳いで未来に運んでくれれば。


ということを考えると、やっぱり1個じゃなく1種類であり、輪廻というより、、、、なんでしょうね。


輪廻という概念を持って、乗り物同士が共食いをして絶滅しないように って考えたために、輪廻という思想ができたんじゃないかな・・・って思います。

でもカースト制とかできちゃって、、、、ねぇ。。。

まあ でも カースト制の擁護者は、低いカーストである今回の生に満足し、上のカーストに挑むという無茶をやって殺されるより、今回のカーストを受け入れ子孫を増やしていく方が賢い って考えらしいです。

というわけで、カースト制はなくならないし、どちらかというと低いカーストの人もこの制度に賛成なのだとか。
下手に逆らって、次の世がより低いカーストになりたくないって発想らしいです。
でも まあ これで平和を維持し、それぞれのカーストが共存できていれば、それもよしかな・・・と思います。

私がそのカーストの制度の世界に生まれたら。。。。
次の世ではよりいい暮らしになるため、我慢我慢でしょうか?
それとも制度に囚われず無の境地を開くのでしょうか?

無理ですね。 
次のよりよい暮らしの世の為に我慢 と思っている段階で既に欲にまみれていますから。

ということで、輪廻の思想には必ず差別という概念が必須になる。
それから解脱し無に至る心境になるってのが、、、、なんでしたっけ? 輪廻の歯車から抜け出ること。。。 やっぱり解脱???

でも釈迦だったか忘れましたが、解脱したというわりに、「人々にも教えてあげなければ」と俗世に帰っちゃったらしいです。
くすって思いました。
だって、解脱したとするものが欲を持っていたのだから。笑。


とまあ つらつら書いてみましたが、輪廻、無我に関して、私に誤解があるのかもしれませんので、参考にもならないかもしれない。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。乗り物と荷物という考え方をすると、乗り物がなくなった場合に、荷物はどうなってしまうのでしょう。例えば、荷物に対して、乗り物の数が極端に不足したり、或いは、全ての乗り物が存在しなくなってしまったら。

お礼日時:2007/06/26 10:13

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