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仏教では無我が説かれるそうですが、これは諸々の構成要素が、私が「私」と思い込んでいるものを形成しているに過ぎず、「私」は永続的ではないということを説明しているのだと解釈しました。一方、輪廻が説かれるということは、「私」には何らかの永続的な主体があると見なされているということだと思います。この輪廻する主体は、私の構成要素の中の本体のようなものでしょうか?いずれは意識がなくなり、私であったものは解体されるということは常識的に理解できるのですが、意識や五感といったものを取り去っても、なお、私の根源あるいは本質があって、それが輪廻するということでしょうか?「方便」とか、「仮」といった答えでは私には理解できません。仏教をそれほど知らない人(高校倫理の教科書レベルの知識をもつ人)でも納得のゆく説明をお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。

A 回答 (36件中1~10件)

自身をよく分析してみると私「我」という存在は二通りあるのがわかります。

それは純粋に「心」としての自分「我」と、肉体的特長としての自分「我」です。例えば、心としての自分は食べなくてもいいのだが、おなかがすくと食べずにはいられない自分がいる。つまり「心」と「肉体に依存する心」の二通りがある。これを明確に「心の自分」と「肉体の自分」と分けて論じたのが釈尊です。「無我」の教えは人間は「本来肉体の自分ではなく心の自分である」という教えですね。否定している我は肉体の我(仮の我)ですね。心としての我(真なる我=真我)がなくなるわけではありません。真我がないと転生輪廻する我がなくなり三世の因果もなくなってしまいますからね。
だから当然「心の自分」が転生輪廻の主体であるわけです。「心の自分」を魂といったり霊といったりしてますね。般若教では「空」という表現を使って肉体「色」と分けているのですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。自分が死ぬと、諸々の感覚やそれに反応して何かを欲する機能もなくなり、その結果として、それらの反応の最終的な受け皿のようなものだけが残るということでしょうか。

お礼日時:2007/06/20 04:08

俗に言われる魂が輪廻を繰り返す主体と思って良いでしょう。


今の自分自身の意識の元でなく、あくまで生命の元と考えた方が良いみたいです。
今の意識・考え・想い等は今の自分にしか付属しない。しかし今の自分を通して生命の元である魂が修行を繰り返すわけですね。
だから意識は天国に行き魂は輪廻を繰り返す可能性もあるかもしれません。

私は最近その魂は何度も自分の体から、入れ替わりを起こしているのではないかとも考えています。
輪廻があったとして入れ替わってくれないと、冷凍保存で死ねずに凍りつかされている生物の魂は恐ろしいことになりますからね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。なるほど。生まれ変わる自分がいるとしても、以前の記憶がなければ、確かに他人も同じで、生まれ変わる前の自分について聞いても、他人の話しとしか思えないでしょうね。生命を発生させる元のようなものがその機能を死後も継続して、再度、新しい別個のものを生じさせるということですね。

冷凍保存ということについて、少し考えました。きっと、うまく冷凍保存された生き物は、精神機能や体を維持する機能を損なわれておらず、停止しているだけなので、いつでも同一の固体として復活できるのだと思います。

お礼日時:2007/06/20 04:16

質問者さんの質問に対する回答になっているのか分かりませんが、


『釈迦は、人間は死んだら骨になり、土に返るだけで、それで終わり、地獄も極楽も無いといっている』
といった事が書かれている本があるようです。
私的な考えなのですが、今から40年位前、私の地域では亡くなった方は土葬にされていました。ですので、それ以前に亡くなった方のほとんどは土葬にされていたと想像します。土葬にされると、時間の経過と共に、腐敗?が進み骨になっていくと思います。その過程で、その人の体の組織や成分(今で言うDNAかな?)が、土の成分の中に含まれる。
それを、果樹・野菜の根が吸い上げ、他人の「DNA」が含まれ充分に実った果物・野菜を人間が食品として食べる。あるいは、実った植物を動物が食べ、同様に他人の「DNA」を含んだその動物の肉を人間が食べる。また、雨などと共に川・海に流れ込み、魚等の体内に入り込み、その魚を人間が食べる事になるかもしれません。
その際に、どこの誰か分からない過去に生きていた人の「DNA」が、非常に微少だと思いますが、現在生きている人の体の中に「DNA」として入り込む。
以上の状況を、「輪廻する」と言われるのだと思います。
数年前、ある週刊誌の記事に書かれていましたが(と記憶していますが・・・)火葬の場合も似たような感じです。
「現在では、亡くなった方は火葬にされますが、火葬にされる際に発生する煙の中には、亡くなった方の「DNA」が含まれているそうです。そして、この煙が空高く上って行き、やがて雨と共に地上(陸・海・川)に降って来て、地上の植物・生物、海の生物、川の生物の体内に入り、それを人間が食品として食べる」
という事で、結局は亡くなってしまった方の「DNA」が現在生きている人の体に入り込む。そして、やがて誕生するであろう、子供・孫にも受け継がれて行く。
私の考えでは、「輪廻」「輪廻転生」「生まれ変わり」とは、この事ではないかと考えます。

この回答への補足

回答ありがとうございます。DNAも物質だと思うので、それが完全に破壊されて分解されてしまうということもあると思います。しかし、それらが諸々の成分になって、水中や土壌にかえって、生き物の体の一部になるということには、なるほど、納得ゆきます。そういうものを生まれ変わりと見なす考え方もあるのかもしれませんね。

補足日時:2007/06/20 04:17
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この回答へのお礼

失礼しました。補足欄をお礼欄と間違えました。

お礼日時:2007/06/26 10:28

>「方便」とか、「仮」といった答えでは私には理解できません。



私の理解が、方便や仮の類ではなく、一理あるな と思っていただければいいのですが、、、、


仏教にはなんとか界 といって 複数の界があったと思います。
前世の行いで 次生まれている界が変わる というふうなもの。


どこかでもこれと似たようなイメージをもつものがある。
キリスト教の前身とも思えるクムラン宗団。
厳格なヒエラルキーがあった。
一番下が 獣、そのつぎが人間、王、天使・・・・ という階級制度。
入信した信者は獣からスタートする。

エジプトにも死んだ王が再び地上に戻ってくるという思想があった。


どこがこの輪廻の根源かと考えたとき、エジプトから流れ出たこの概念が、世界各地に広まったと、私は思うんですね。
人が移動すると、その概念も一緒についていく。
それで世界各地に同じような概念があることになった。

というのが仮説その1。



仮説2。
文化交流が全く無い地域に同じく輪廻という思想が発生したとしたら。

ヘルメスの杖。
  ↓
http://bymn.pro.tok2.com/karakusa/egypt/hermes.h …
錬金術(昇華)のシンボルでもある。


カバラの生命の木
  ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD% …
修行者は蛇の力を借りて螺旋を描き上昇するとされる。


設計図 DNA。
   ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%AA% …

螺旋を描いている。



で、古代(今でもそうかもしれませんが)シャーマンは何を用いて神と交信 あるいは叡智を得たとされたのか。

オウムは修行の時、何を使っていたのか。

クリックは何をやったときDNAのイメージを脳裏に突如描き、DNAを見つけることになったのか。


麻薬です。


エジプトの壁画だったか忘れましたが、ユリが描かれている。
ユリはエジプトに自生していないので、王は外部からもらって育てていた。

ケシ、中東や近東 そこいら方面に自生していた。 麻薬です。

コカ、これも麻薬です。


http://www.amazon.co.jp/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E6%B4 …
体にいい食べ物とか言われていますが、どの食べ物も副作用があるので、少量づつ食べるのが大きな副作用が起こるのを防ぐ手段として有効。
だから1日30品目なんて言われて、一種類ではなく、少量づつ食べるのがいいってわけですね。

覚醒を促すためにわざと同じものを食べ続けるとどうなるか。
下手すると脳が壊れちゃいます。
神に出会ったとなるかもしれないが、放電が癖になったり食べなくても発作を起こしてたびたび苦しむことになったり、脳が過大な放電に結果ダメージを受けてしまい、そのまま別の世界の住民となり、病院で一生を終えることにもなりかねない。
なので、やらないように。



で、DNAは設計図です。
DNAが次の世代 次の世代と運んでいくもの一体なんでしょう。
まるで永遠に生きているかのようなものを運んでいるわけですが、一体我々は何を未来に運び続けているのでしょう。

ひょっとしてこれ?
 ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88% …

そういえば、今のところ、ホモサピエンスではなく、クロマニヨンとかの遺伝子を持っている人がまだ見つかっていないですよね。
ネアンデルタール人が存在していたことはわかっていますが、その遺伝子を持つ人が見つかっていない。

あっち方面は どこかで未来に運び続ける運び手が消えてしまったようです。


輪廻転生で、前世の記憶があるとする人がいるとされている。
ある人が調査したんですね。 
その本に書かれた人を探そうと。
その方面に行って本に書いて人に直に会おうとして。
ところが本に書いてあるその方面に地域に行って村を探そうとしたが無い。
似たような名前も無い。
でも、前世の記憶を持つ人だから、人に聞けばどの村かわかるはずだと聞いてまわったけど「そんな噂聞いた事が無い」と、誰も前世の記憶を持つ人の存在を、その本に書かれた名前の地域の人は誰も知らない。
アメリカでは有名なのに、その地域の人は、その噂すらすら知らないという。。。。


で、前世の記憶を持つ人について書いた本の作者に直接聞いたそうです。
すると、なんと作者は自分で調査して本人に直接会って本を書いたのではなく、又聞きだったそうです。
だから本来は「前世の記憶を持つ人がインド方面にいて これこれしかじかという話だそうだ」と書くべき。
そうしないでまるで自分で現地に行って本人と会ったかのように書いてしまった。


退行催眠で前世の記憶が蘇ったという人。
詳しく調べると、カウンセラーの誘導により、記憶が塗り替えられてしまっていた。
ちなみにカウンセラーは前世療法などで稼いでいる輪廻信奉者だった。


退行催眠により、一度も行ったことが無い地域の昔の言語を話したというのも、実は調べると子供の頃、その地域出身の老人と近所付き合いがあったことがわかった。
子供の頃 無意識に習得していたわけですね。ただ 忘れていただけ。



というわけで、人はまるごと輪廻転生をし続ける という説は かなり怪しい。

が、DNAレベルで、何かを運び続け、我々は主ではなく運び手、なにかの乗り物にすぎず、我は寿命がつきたらそこで消えるが、子孫がバトンをもらい未来へ 未来へ と何かを運び続けていて、これが輪廻というものの実体ではなかろうか と思います。


従って我々は主人公ではない。
車や船のようなものなわけです。

しかもただの車や船ではなく知性を持った運び屋。

人類共通の職業、運び屋。

が、ご主人様を未来へと運び続ける任務、運命を背負いながら、我々はそんな役割など関心を持っていない。

寿命がつきるまで、人生を楽しんでいるわけです。

私ともう一つが一緒になっているわけで、寄生されているわけですが、これ無いと誕生もしなかったわけで、「お前出て行け」っていえないんですよね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。DNAが伝えられてゆくということを輪廻とするならば、自分が生きている間に自分の輪廻が生じるということになることが多いと思います。そうなると、輪廻という言葉がDNAとはうまくなじまない気がします。しかし、ひとつの現代的な解釈ではありますね。

お礼日時:2007/06/20 04:26

輪廻とは ばかは死んでも直らないという判断を言いなおしたものです。



いつかは 何度か生まれ変われば ばかを・つまりたとえば殺し合いをしなくなるであろうという願いを込めて言った表現です。

輪廻の主体といったものは ありません。表現のなかにだけあります。

人がブッダになれば たしかに その状態を涅槃(つまり ゼロ)と表現しますから この所謂る輪廻転生が止まると言ってもいいのですが わかりやすく言えば こうです。 

つまりこれ(涅槃)は 単に消極的に(ゼロといったようにマイナスの形で)表現しているだけであって 実際には 永遠の生命を表わしていると――多少 強引にでも――解していいはづです。このブッダとしての存在・主体は わたしです。

つまり この場合も 表現は 消極的に《無我》と言っています。無我は わたしだと解していいはづです。

要するに 自己還帰が問題になっていると思います。

わたしは 自分=自己=《無我》である。――わたしがわたしである。――わたしがわたしする。この《わたし》を無限に自乗していきます。わたしが 一なら 《一》の無限の自乗は 《一》です。・・・ゼロ(涅槃)と表現はしていますが。・・・永遠・無限は 主観(つまり わたし)の問題です。 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。熱心に説明していただいたのですが、私には難解です。申し訳ありません。

お礼日時:2007/06/20 04:44

こんにちは。



 少々書籍を読みかじっただけの者ですので、頼りない説明になると思いますが。(しかも、王道の「方便」「仮」が使えないとなると、飛車角抜き以上に厳しいかなと。「仮」がダメなら二真理説も使えないし・・・)

 インド仏教の歴史の一つの側面は、ご質問者さんが感じられた「何が輪廻するのか?」という点を、探求したり、他の学派と論争したりして成り立っているとも言えます。
 仏教内のさまざまな思想や学派よって、見解が異なる部分も多く、「仏教の統一見解」というのはないと言って良いと思います。(仏教内でも「輪廻する主体」を想定した学派がいくつかありました。)

 仏教全般に、概ね基底にある考え方として、(そして方便や仮を使わない説明として)「識相続」というものがあります。
 ものすごく端折ると、「識」(意識とは少々違う、意識の内奥にあるもの)が、数珠繋ぎのように瞬間瞬間に次の意識を生んでいく、という考え方になります。

 生き物が生きている間も、一瞬一瞬に識が次の識を生み出していくという感じになります。また識は同一品が単にコピーされるだけでなく、行い(業)も相続することによって少しずつ変化していきます。
 生き物が亡くなった後も、その識は残り、「中有」とか「中陰」などと言われる移行期間を経て、次の生に移るという感じになります。

 識は単体では一瞬一瞬で消えてしまうので、恒常的な「我」はない、ということになります。識が次の識を玉突きのように生み出し続けるものの、前後の識はまったく同一というわけではないため、「諸行無常・諸法無我」となり、識が次の生まで相続される形で、思うにまかせない永劫の輪廻を繰り返していくため、「苦」であるということになります。

 自分もまだまだ勉強中ですので、これぐらいで・・・

 仏教の輪廻の説明は、どちらかというと仏教以外の学派との対論用という感じがします。位置づけとしては「前座」的なもので、お話しはこれから、という感じでしょうか。

 老婆心ながら・・・ご質問文を拝見していると「問題の所在」を的確に押さえておられるように見えました。「方便」や「仮」も仏教のキモになる部分ですので、機会があれば調べていただければと思います。

 長々と失礼しました。では。

この回答への補足

回答ありがとうございます。識相続という言葉ははじめて知りました。とても合理的な説明で、無我と輪廻について理解が深まりました。

補足日時:2007/06/20 04:46
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この回答へのお礼

失礼しました。補足欄とお礼欄を間違えました。

お礼日時:2007/06/26 10:29

人間の細胞は死滅と分裂による創造を繰り返しており、誕生から死亡にいたるまで何回も全ての細胞が入れ替わっているといえます。

一人の人間の一生においてさえ永続不変の「私」というものが存在しません。

存在しないものが輪廻転生することは出来ません。一方、私たちの想念や興奮、怒り、嘆き、喜びなど感情はエネルギーであり、環境に一定期間保存されます。このエネルギーが自己他人を問わず、親和性の高い有機体に影響を与えてしまうことがあります。これを再生と呼びます。

ミリンダ王の問いを参考に回答を作成しました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。「私」の行動や考え方に影響を及ぼす何かが、そこで消費されない場合に存続して、個体が生じるという現象に関与すると理解しました。

お礼日時:2007/06/20 04:55

 仏教にある程度関心を持つと生じる素朴にして深遠な問いですよね。

でもこのテーマの易しい解説本って見かけないし、本腰入れて学ぼうと思ったら、唯識やアビダルマの膨大で難解なテキストを何年もかけて勉強しなきゃならないでしょうね。

 ブッダ在世当時「人間は元素の集合体にすぎず死ねば無になる」という唯物論の学派が既にあり、ブッダはこの考えを「断見」と呼び誤謬であるとはっきり明言しましたが、しかし一方、個別実体的な永遠不滅の自我の本質があって、それが永遠に輪廻を繰り返すという考えも「常見」という誤った考えであるとしました。ブッダの教えが正しいかどうかは無論私ごときにはわかりませんが、ブッダがこの断・常の二見を否定したことは確実な事実です。

 つまりブッダは輪廻転生する主体の存在をはっきり認めたわけですが(それを霊魂と呼ぼうがジーヴァ・アートマンと呼ぼうが)そんなものは自己でも自己の本質でもない、と説いているわけです。
 肉体や精神・輪廻の主体を自己と錯覚させるのが根本無知のなせるわざで苦悩をもたらす、という見解は仏教に限らずヴェーダーンタ学派も共通ですが、つまり有機体が崩壊しても何らかの意識の流れは存続し、根本煩悩であるアビディアー(無明)と、それから生ずるタンハー(渇愛)が潜在形成力となって再び肉体を伴う生の原因となる。この意識連続体…異陰とか識とかいろいろ呼び名はあるようですけど門外漢の私にはとても精密分析などできませんが(No.6の方、とてもお詳しいですね!)止観行で生じる智慧で根本煩悩を断滅すれば輪廻の主体も滅却し、迷いである輪廻的生存が終焉する、という考えです。

「あの生涯、この生涯と生死を繰り返すのは苦しみである。煩悩を焼きつくしたのでこれが最後の身体である」と多くの解脱した仏弟子たちが原始仏典の中で高らかに宣言していますので、当時のスタンダードな見解であったことは間違いないでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。常見と断見という言葉、はじめて知りました。固定的な自我ではないなんらかのものが継続して存続するけれども、それは自分の死後に自分とは異なるものを形成するので、両方の考え方は当てはまらないということでしょうか。

お礼日時:2007/06/26 08:27

NO7です。


私の回答が仏教から離れているのではないかという印象を与える可能性があると気がつきました。引用をして弁解にかえたいと思います。

http://www.nagoya30.net/temple/kyosin/sin-iti/le …

http://www.genyusokyu.com/essay05/text/ofuro.htm
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この回答へのお礼

ありがとうございます。わかりやすく、とても味わいのある説明のサイトです。諸法非我という言葉や、思い通りにならないことが苦であるという解釈には新鮮味がありました。

お礼日時:2007/06/26 08:33

仏教用語はさて置いて、輪廻する主体は「霊魂」であると思います。

仏陀は霊魂を否定したといわれていますが、それは「霊魂が永遠不変で常住であるということを否定した」のであって霊魂そのものは否定していません。無記といってあまり論じなかったのです。それは「霊魂というのは第三者に科学的に証明することができないからです。」凡夫が理解できないようなことを説いても疑惑が増すだけで修行の妨げになるだけなのであまり説かなかったのです。悟ればわかることということだったのでしょう。 輪廻するには何かの身体が必要なわけです。それが霊的なものであれ肉体的なものであれ。精神だけでは輪廻しません。こういう精神だけの世界を無色界といいます。こういう精神が何かに執着すると周囲から霊的な物質を集めて霊体を創ります。これを原因体と言いますが、一般ではこれを霊魂だと思っている人が多いようです。さらに執着が強まるとアストラル体(幽体)を創ります。そして最後に肉体を創るのです。執着が続く限りこの三つの世界を行ったり来たり輪廻します。 このような姿は、コンピュータゲームに良く似ています。ゲームの世界に入ったり出たり、肉体的な人間がもう一つ下位の世界を創造したのと同じです。そして輪廻を繰り返すということは、ゲーム中毒になっているのと同じ理屈です。中毒を克服してその大本の精神が元の無色界に戻らないと輪廻は止まりません。ここまでは仏陀以前の聖者の考え方なのでしょうが、仏陀は無色界以上の涅槃界を発見したのですが。それは、本当に悟ってしまわないとわかりません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。執着を伴う精神が原動力となって、再度、生命体を形成するということでしょうか。執着が伴わない場合には、霊魂と呼ぶべきものはどのようになってしまうのかということも疑問に思えてきました。

お礼日時:2007/06/26 08:43
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