あなたの習慣について教えてください!!

以前に現在の天皇家の先祖にあたる北朝(伏見宮家も含む)は足利義満の血を引いていると言う説を読んだ事があります。明治天皇(南朝の子孫)は晩年、南朝こそが正統であると言いましたがその説が正しければ明治天皇の発言もうなずけます。孝明天皇暗殺など複雑な要因があっての仮説ですが皆さんはどのように考えますか。

A 回答 (5件)

>足利天皇?



この説は、田中義成・今谷明両氏によって唱えられた話ですね。
天皇家から、祭祀権・人事権などの諸権力を奪いましたし、次男・義嗣の元服を「宮中で親王」として行いました。
また、明に対しても「日本国王」との称号を求めています。

当時、中国では、「皇」は中国皇帝だけで、周辺(朝貢)諸国は「王」と名乗る事が一般的でした。日本は既に、朝貢していませんでしたが、義満は「国内的に天皇」になる為に「朝貢を再開した」という説もあります。
韓国では、21世紀の今でも「天皇の事を日本国王」と報道に使います。

しかし何故か?義満の死後、朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られています。

>明治天皇(南朝の子孫)は晩年、南朝こそが正統であると言いましたが

史上初めて「朝廷に弓を引いた」足利幕府を悪者にする事で、幕末に「朝廷の正当性」を公に訴え、江戸幕府の弱体化を討幕軍は進めました。
(当時)皇太子に対する三条実朝・岩倉具視の教育の賜物でしようね。

>孝明天皇暗殺など複雑な要因があっての仮説ですが

孝明天皇は、三条実朝・岩倉具視達に暗殺されたとの説もあります。
当時、孝明天皇は「公武合体」「朝廷幕府連合新政府」を強く望んでいた節があります。
孝明天皇暗殺と前後して、孝明天皇に同調する公家も多数暗殺されました。
(坂本竜馬暗殺も、「朝廷幕府連合新政府」の考えでした)
大同小異で、倒幕では一緒でも「朝廷単独政府」「朝廷幕府連合新政府」と基本的な考え方が異なりました。

明治新政府は「天皇を神聖化し、一切の関与を禁止」しました。
これは「孝明天皇暗殺犯人を捜すな」との意味合いもあるようです。
万世一系になったのは幕末からで、継体天皇前に一度断絶してますし、親子兄弟・叔父甥間などで度々皇位を争っています。

まぁ、一番の被害者は「足利家」でしようね。
江戸時代は、徳島藩から圧力を受け(足利姓を禁止、平島姓に強制変更。知行縮小など)、明治から太平洋戦争終戦(1945年)までは「国賊として国定教科書に記載」され・・・。
明治政府から、爵位も受ける事がなかったのです。
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この回答へのお礼

明治天皇が有栖川宮を総裁に据えて作成した纂輯御系図には北朝のルーツにあたる貞成親王は父不詳と明示されています。この辺から義満の悪行?に対する思いをこめて足利天皇なる質問をさせてもらいました。

お礼日時:2007/06/24 05:04

こういう説が出たのは、足利義満が後小松天皇の血統的な外戚でもないのに准三后の位を頂いた事や、後円融天皇と義満は仲が大変悪かった事、NO.3が答えている出産を終えて戻った藤原厳子を殴った事件があった事、から出たのでしょう。



北朝側には、南北朝合一の約束を破って、自分の血統が代々天皇の権威を継ぎ、南朝側を封じ込めたい願望があったのでしょう。そのため、政治と軍事で権力者であった足利義満に、義父の高待遇を与えるなどゴマをすっていたのでしょう。その一環として、後小松天皇が自分の后を差し出していた可能性も捨てきれないかと思います。後小松天皇の息子、称光天皇が生まれたのは、まさに義満の人生の最高期でした。

ただし、称光天皇は体が弱く若死にしてしまいます(足利義教の頃)。その後をついだ後花園天皇は、天皇になれる可能性が少ない(北朝の正統ゆえに後小松天皇が警戒していた)伏見宮の皇族で、即位前は親王でもなく王の位のままでした。それにも関わらず、いきなり天皇となった異色の天皇でした。この天皇の子孫が現在までの皇室になります。当時の義満もさすがに伏見宮の子孫が、代々天皇位を継承するとは思わなかったでしょうから、さすがに質問者の説は空想の域を出ないかと思います。でも、こういう歴史の考え方も面白いのではあるのですがね。

この回答への補足

義満の母、紀良子と後円融天皇の実母、崇賢門院広橋仲子は姉妹で義満と後円融天皇は母方のいとこです。よって義満は血に対するコンプレックスはあまりなかったと考えています。

補足日時:2007/06/24 04:05
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後小松天皇が実は後円融天皇の子ではなく、後円融妃の藤原厳子を足利義満が手籠めにして生ませた子であるという説ですね。



その後の義満の強引とも言える政治姿勢(山名氏討伐、南北朝の合一、皇位簒奪計画など)を見ると、確かにそういうこともやりそうな人物に思えます。多数の公家の妻を自分に差し出させたという記録もありますからなおさらです。

ただ、後小松天皇が生まれたのは1377年で、2年後の1379年に起きる康暦の政変で幕府管領の細川頼之が失脚しています。それはつまり、当時は細川頼之がかなりの権力を有していて義満独裁体制になっていなかったということでもありますし、斯波義将や土岐頼康に館を包囲されて屈服するくらい義満の立場が不安定だったことを意味しています。
そのような段階で皇妃を手籠めにするような狼藉が可能だったかどうかは疑問です。
まあ合意の上の密通ということもあり得なくはないですし、その辺は遺髪でも残っていてDNA鑑定しない限り確認のしようがないですね。
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足利義満はたった50歳で死んでます。

またその子義持にいたっては赤松氏に殺されていることを考えると、義満の生きているときに一時的そうだったとしても、その子義持は大の父嫌いでしたから、その後に上皇にでも祭り上げて退位させていたでしょう。
あなたの仮説はとても面白い説ではあります。
とても興味をひきますね。
もっと詳しく聞かせていただきたいです。

この回答への補足

赤松氏に殺されたのは籤引き将軍と言われた義教です。

補足日時:2007/06/24 03:56
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明治天皇は北朝の光厳天皇からの流れです。


足利義満が自分の子を天皇にしようとしたとの説はありますが、天皇家が足利義満の子孫との説は初めて知りました。よろしければ、くわしく教えてください。
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