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自分のだめなところも受け入れよう、っていうのは、だめな自分を改善する努力を諦めよう、とどうしても同じに思えて仕方がありません。
過去の質問を拝見いたしましたところ、
「自分を受け入れるには、理想を捨てることだ」
とありました。
理想を捨てたら、目標を失い、成長することはできませんよね?
とりあえず、今の自分でしょうがないよね、と諦めたら、もう先には進まなくなる気がする。

でも、ありとあらゆるメントレの本では、必ずと言っていいほど「自分を受け入れましょう」と書いてあります。
だから、これ自体は間違っていないものだと思うのです。
どのように理解すればいいのでしょうか。

ぐだぐだな質問なので、お時間のあるときに、コメントいただければ幸いです。

A 回答 (22件中1~10件)

僕の中の定義です。


諦める・・・「思考停止することで不快感から逃避すること」
受け入れる・・・「現状の自分に満足すること。」

>「自分を受け入れるには、理想を捨てることだ」

これは正しいと思います。

ただし、「諦める」と「受け入れる」では、その後の自分の心が異なります。

諦めた場合、理想への欲が心の中でくすぶり続け、不快感を味わい続けることで、
マイナス思考、負の連鎖が起こり、どんどん不幸になっていきます。

受け入れた場合、理想への欲自体がなくなることで、
透明な心地よい感情を味わうことができます。

「人は努力することで進歩する。
努力しなければいけない。進歩しなければいけない。」
という概念がある人には「自分を受け入れる」ことは絶対にできません。
その意味も分からないと思います。

人は誰しも、「今、ここ、この瞬間、完全である。」と悟った瞬間、
驚くような変化が始まります。
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私も「理想を捨てる」というのが気になりました。


「理想=目標を捨てる、どーせ俺なんかと諦める」という事だと、
仰るとおり、何も変わらないと思います。
理想を捨てるというのは
「カチカチに固まった『絶対この理想の通りでなきゃダメなんだ!』という気持ち」のことではないかなぁ、と。

私はこのように考えているので、参考になればと思います。
「自分を受け入れるということは、事実として『そういうものなのね』と認めること」

例えばあなたが車で出かけたとします。
海を目指していたのに山道ばかりで、道に迷ってしまったらしい。
受け入れるというのは「ここは山道、道に迷ったようだ」と認めること。
現在の状況が分からなければ、対策の立てようもありません。
海をまだまだ目指す場合は、現在地を確認して、新しいルートを探しますよね。
道に迷ったと認めても、=海に向かうのを諦めたとはなりません。
その日に海に着くのが難しくても、別の日に行くこともできるし
(=改めて再チャレンジ)
山も楽しいと気が付くかもしれません。
(=新しい目標)

大昔、ソクラテスが「無知の知」という言葉を残したそうです。
「それについて自分は知らない、ということを自覚する」というのは、通じるものがあると思います。
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「自分を受け入れる」というのは現状を把握するということだと思います。

目標は、目的地です。理想は、無事に目的地に到達したときに、あるのだか無いのだか分からないご褒美です。「自分を受け入れる」こと自体には、負の意味合いがあるとは思いません。

大抵の人にとっての理想は、稀少なのだと思います。資源、地位、名誉、お金、イケメンや美女など。経済学のそれですが、故に諦めざるを得ないのでしょう。ですから、いつしか「自分を受け入れる」ことと「諦める」ことは繋がったのだと思います。

ただの「現状把握」と捉えれば、自分の現在地点を把握することですから、あとはスタートとゴールの距離をいかにして縮めるか、あるいはゴールへどのように到達するかを考えることに意識を集中すると良いと思います。

諦める人はやっていなかったり、やりきっていない人です。諦められない人はやりきっている人です。自分を受け入れることは理想を捨てることではないと思います。理想はあるかないか分からないご褒美です。馬の目の前にぶら下がってる人参です。自分で人参をぶら下げて自分を鼓舞することは大切だと思います。そんな芸当ができるのは人間ならではでしょう。
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> 自分のだめなところも受け入れようというのは、だめな自分を改善する努力を諦めよう、と同じに思えて仕方がありません。



決して同じではありません。 

だめなところを受け入れる。 例えば、自分は臆病だといつも悩んでいたとします。 臆病である。 これは裏を返せば慎重であると同じです。 ですから、自分は臆病である。 これを認め、見方を変えると《慎重な性格である》と解釈も出来ます。 先ず、臆病な自分を認め、見方を変えて《慎重であるのは良い性格ではないか》と褒めてやる。 これが自分を受け入れることです。 

次に《駄目な自分を変える努力》はする必要なんてありません。 駄目な部分は自分が駄目と思っているだけ。 見方を変えれば良い性格なのです。  

>「自分を受け入れるには、理想を捨てることだ」とありました。
それが多数の意見でしたか、少数でしたか? 多分少数意見だと思います。 そういう否定的な意見にあなたが強く反応されたのは、どこか共感出来る点があったからではありませんか。 人は自分と同じ考え方には強く反応するからです。 

>「自分を受け入れましょう」 これはどのように理解すれば。
とても良い質問です。 実に深い意味を持つ命題に遭遇されたのです。 これがわかったら、もう人生の達人ですよ。 誰も自分がどんな人間なのかわからないで悩んでいるのです。 

自分を受け入れるというのは、自分の姿を客観的に分析すること。 その際には、分析した性格を否定的な見方と肯定的な見方で評価する事。 即ち、《臆病》=《慎重》、《慌て者》=《積極的》、《泣き虫》=《他人の痛みがわかる》、《忘れっぽい》=《嫌なことを後に引かない》、《うそつき》=《他人を落胆させない》、などなど。

次に、その分析結果をありがたく感謝して頂く事。 そして、良い性格として伸ばしていくことです。

> ぐだぐだな質問なので
そんなことはありません。 こういう質問は人生の根幹に係わるとても良い質問です。 
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人によって異なるのだとおもいます。



たぶん質問者さんのように考えることができない人が世の中には多いのです。

質問者さんのゆう「自分を改善する努力」のところまで到達するまえに
理想がありすぎてその差を自覚していて失望してしまっている人
自分のことが受け入れられていないために一歩も前に進めない人が
いるんです。

そんな人にとってはだめなところを受け入れることで
こころの安定をみつけてようやく→一つ一つ努力していくことができる!
という成長を遂げることもあるのだとおもいます。
そうゆう人にとっては、
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 お味噌汁をつくるとしましょう。

慣れた人なら、レシピ見ることもなく量も目分量でつくれるでしょう。ほとんどつくったことが無い人でも、レシピしっかり見て分量をきっちり量れば普通に出来るでしょう。

 でも、慣れてもいないのに「かっこわるい」とレシピも見ずにカンで進めてしまったらまともなものになる可能性は低いでしょう。

 この最後の人が「自分を受け入れていないひと」と考えるといいと思います。
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多分ね、理想を持って目標を持って成長しようとしている、それが自然に出来ている人には不要な言葉なんだと思います、「理想を捨ててダメな自分を受け入れよう」って。



理想ばかりを追い求めて、空回りして、疲れ果てている人、いますよね。「自分のことが大嫌いです」って言う人。
そんな人はちょっと立ち止まって、今の自分の今の姿(現実)をまず自分自身で受け入れて、「自分自身を好きになってみましょう」っていう事なんだと思うんです。

例えば「弱くて、無能な自分」のことを、「大嫌い」だとか、他人と比べて「皆はこうなのに、自分は・・・」だとかマイナス方向に考えるんじゃなくて、「それでも今必死で生きてる。自分って偉いな」って自分を褒めてあげて、自分のことを好きになる。

自分でも嫌いなのに、人が好きになってくれるわけないですしね。

そうして考えをプラスに変えることが癖になってくれば、人からも愛されるようになり、また人に感謝することが出来るようになる。
それ自体、成長だし、そうやって心が安定してれば、目標だって見つかるかもしれない。
人と比べての理想でなく、自分自身が幸せな人生を送るイメージを描くことができるようになって、そこに向かって努力もするかもしれない・・・。

そんな感じなのではないかと思っていますけど。
参考まで。
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(1)理想を持つ、目標を持つというのは


一種の現状否定・自己否定ですから
何事も度を過ぎると、ストレスを感じたり間違った方向に進んだりします。
そこで時には自己肯定が必要となる場合もあります。
反対に理想なんて追わずに、現状に満足する気持ち(老子・足るを知る精神)も必要になったりします。

努力もそう、努力も大事ですが、世の中そんなに甘くはないので努力だけでどうにもならないこともあるし、
頑張りすぎると気を病んだり、身体を壊すこともあります。
するとほどほど頑張るとか、努力しないという理屈も必要になってくるわけですよね。

頑張りすぎる人にはだめなところも受け入れようと話すし、
努力の足りない人には、だめな部分を改善しようと話すことになります。
相反する理屈も、時と場合によっては使い分けないとバランスが取れないときもあります。

「自分のだめなところも受け入れよう、っていうのは、だめな自分を改善する努力を諦めよう」
とも、ある意味、取れますね。そういうのが必要なときもあるんです。

自分を受け入れるとは
「人間なんだから善いところや悪いところがあるのは当然ですから
まずそれを受け入れましょう」ということでしょうか。

確かに延々と受け入れてばかりでは成長はないのですが
人間というものは長所と短所があるんだから
短所を改善するのも成長だけれど長所を伸ばすのも成長ですよね。
やって無駄なことにエネルギーを費やすより、もうちょっと違うところにエネルギーを使ったほうが
効率が良い場合もありますよね。
どうにかできることだったら悩んだりしません。
どうしようもないことを無理にどうにかしようとするから悩んだりするんですよね。
じゃあささっと諦めて(駄目であることを受け入れて)無駄に悩むのは止めましょうという感じですか。
 自分の駄目なところばかり見てると潜在意識にも悪く働きかけますし、コンプレックスが強くなるだけで、
周りからも付き合いにくい人間になる可能性もあります。
理想(虚像)にさいなむより現実(不完全である自分)を受け入れましょうということでしょうか。
これは現実を認めることですね。


(2)ちょっと話が飛躍しますが・・・
まあこれは、個人的な話です。

私なんか性悪説的な立場でものを考えますから、
むしろ・・・・
はじめから「人間なんていい加減なもので、至らないところばかりで駄目で当然」と考えています。
後は教育や努力によって改善されると。
つまり最初はゼロで、後はプラスしかないんです。自己評価は常に加点方式です。
それどころか自分だけでなく他人も至らぬ駄目な奴ばっかりだと思ってますから、
他人が何か間違ったことしても当然だし、最初から期待もしてないです。
でも世の中そんな悪いことばかりじゃないから、たまに他人がなにか成功したり、良い事してくれると、
期待してなかったぶんだけ、すごく感謝できます。
知らない人が挨拶してくれるだけで良い日だなと思ったりします。

ところが性善説的な立場で考えると、
人間は善く生きて当然とします。
ハードルが高いし・・・ある意味「理想」ですね。
でも必ず悪いところって目に付きますから、
ダメなところが気になって仕様がないんです。自己評価もマイナスをチェックする減点方式に変わります。
他人にも理想を押し付けたり、他人の駄目なところが受け入れられなくなると・・・・
それこそ難儀なものになります。
知ってる人が挨拶してくれなかっただけで、愛想悪いなんて感じたりします。

私は駄目な人間であると認めてますし、(他人に対しても)自分がいたらぬ人間であると自覚してますから、謙虚にもなれます。
(まあ言っても人間ですから)たまには我もでますし、横柄な態度もしますね。
まあ自分は自分でいいじゃないかと言う感覚が自分を受け入れる(自己を確立する)ということに近いんじゃないか思ってますから。


(3)理想を捨てたら、目標を失い、成長することはできませんよね?
と言いますが・・・私の場合はそういうわけでもないです。(まぁ、なかには理想が必要とする人もいるでしょう


世の中にはいろんな主義者やいろんな考え方の人がいますから。
たとえばの話・・・
理想主義者(アイデアリスト)と現実主義者(リアリスト)がいて
現実主義者は成長しないかというとそういうわけではありませんよね。

あれこれ夢や理想を思い描いて頑張れる人もいれば、
現実的に淡々と処理して、経験を積んで足元を固める人もいますよね。

私も昔から学校とかで
将来の夢はとか、理想はとか聞かれて困ってたくちですからね。
「そんなものないわ・・・」って感じで。無理に並べて書いていたような。苦痛でしたね。
夢や理想を追い求めるから現実とのギャップを感じたり、失望するのであって、
今を一生懸命頑張っていたら、誰かが引っ張って(手伝って)くれたりするし、
結果なんて自分に見合ったものが後からついてくるわって思ってましたから。

まぁ、他の方と似たようなことを書いてるかもしれないし
まとまりのないことを並べてみましたが、
ご参考になると幸いです。。
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 ごもっともな、良い質問だと思います。


 この「自分を受け入れる」というのは、“努力”ではどうにもならないことについて言っているのです。たとえば、嫉妬、人間不信、潔癖症、劣等感といったことが“努力”で直るでしょうか。確かに頭や体の問題なら“努力”は実を結ぶでしょう。しかし、心の問題に対しては“努力”は無力のように思います。
 ややこしいのは『学力の無さが劣等感になっている』ような場合です。一見、努力して学力をつければ克服できそうな気がします。しかし、深刻な劣等感に苛まれている人は自分の中に満足の基準を持っていない人なのです。誰かと比べて学力がないとか、過去の受験の失敗をひきずっているとか、もがいても仕方がない事で悩んでいるように見えるのです。努力すれば満足できるようなら、こんな深刻な劣等感は持たないのです。そんな時「自分を受け入れる」ことが出来れば、また自分の身の丈に合った目標に向かって再出発できるでしょう。これは、目標が高すぎるのかどうかで考えあぐねている人の問題とは別の問題なのです。
 「○○しなければならない」「○○でなければならない」といった“べきの暴君”によって“心”が疲弊している人がとるべき治療法は休養です。「○○すべき」という自分の心が自分自身を攻撃しているのです。一旦自分を攻撃するのをやめなけらばなりません。それが「自分を受け入れる」ということなのです。
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はじめまして。



ご質問1:
<自分を受け入れるとは諦めることですか>

いいえ。

「自分を受け入れる」とは、「自分を赦す」こと、「自分を愛する」ことです。

「自分を受け入れなさい」という訓えがあるのは、「自分を赦し愛する」ことのできない人は、「他人を赦し愛する」ことができないからです。

他人を赦し愛せない人は、孤独から永遠に解放されないのです。


ご質問2:
<自分のだめなところも受け入れよう、っていうのは、だめな自分を改善する努力を諦めよう、とどうしても同じに思えて仕方がありません。>

おっしゃる通りです。

ただ、「だめな自分を改善する努力を諦めよう」というより、「だめな自分を改善する努力をしなくてもいいよ」ということなのです。

「だめな自分を改善する」必要などないからです。

また、「改善しなければならないほど『だめな自分』」という思い込みから解放される必要があるからです。

語弊を防ぐために付け加えますが、「だめな自分の改善努力」は必要不可欠な義務ではありませんが、したいのであれば、それは自発的な選択として努力していいものです。その選択は、新しい自分発見の道になりますから。

「だめ」と思っているのは自分だけです、その「だめ」な部分を赦してくれる人、受け入れてくれる人、愛してくれる人がいます。その最初の人物は親です。

日本の親は子供の欠点をずけずけ言う親が少なくありませんが、それも子供の人格を無視しています。それでも親は子を愛していますから、親の無礼な言葉を「本気」にとらないことです。口とは裏腹に子を愛していますから。

運悪く親に評価されなかったとしても、ありのままのあなたを受け入れ、愛してくれる友達、恋人に巡り会います。自信満々の人はこの世にはいません。しかし、欠点を含むありのままの自分を信じ、受け入れ、愛してくれる人がいるために、自分を信じ、愛することができるようになるのです。

自分を愛することのできる人は、他人を心から愛することができます。他人を愛する人はその「与える」パワーが自分を守るオーラとなって返ってきます。その時、「自分に自信がある」という自覚のないまま、確かな自己信頼が心の中に育っているのです。


ご質問3:
<過去の質問を拝見いたしましたところ、
「自分を受け入れるには、理想を捨てることだ」
とありました。>

それが「良回答」になっていましたか?

たとえ実現不可能な理想でも、持ってもいいのです。例えば

1.年寄りが若くなりたいという理想
2.背の低い成人が高くなりたいという理想
3.日本人が完全な西洋人になりたいという理想
4.気弱で大人しい性格の人が大胆で豪快になりたいという理想

こうした理想は持ってもいいのです。そうなりたいと思っている自分、無駄とはわかっていても努力する自分もまた、「本当の自分」なのです。「コンプレックスにがんじがらめになっている自分」を認めること、客観的に笑うこと、そうして、こうした実現不可能な理想を持つことが「なんかアホらしい」と感じるようになった時、本当の自分を受け入れる態勢ができてくるのです。


ご質問4:
<理想を捨てたら、目標を失い、成長することはできませんよね?>

おっしゃる通りです。

たとえ実現不可能かもしれなくても、とりあえずやってみる。その姿勢が大切です。

上記の理想について、強迫観念型の極端な解決法に頼る人もいます。例えばそれぞれの理想を実現しようとして

1.若返りの整形手術をする。
2.足の間接を伸ばす手術をする。
3.金髪にし、青い目のコンタクトを常に入れる。
4.暴走族、やくざの組に入る。

このように本来の自分を否定することで「後で気づく」ことがあるはずです。それもまた、成長なのです。どんな試みも無駄ではありません。

ただ、コンプレックスを持つ、認めることは健康な心理状態なのですから、それを解消しようとする努力は、無理のない範囲でやっていいことなのです。実際誰もが自然にやっていることです。例えば上記の例なら

1.若い服装やおしゃれを楽しみ、いつも若い気分でいる。
2.高いヒールをはいたり、シークレットシューズをはいて背を高くみせる。
3.髪を染めたり、カラーコンタクトをしたり、外国語の勉強をする。
4.スポーツで、性格を解放させようとする。

これらの積極的で前向きな姿勢は、結果ではなくその過程に「自分構築」の道を歩んでいるのです。努力しようとする姿勢自体が、「自分を受け入れよう」という自発的な働きかけなのです。

そうやって努力している自分を、自然に好きになってくるのです。「こんなダメなところのいっぱいある私だけど、ま、いいか」と自分を赦せ、愛することのできる人になれるのです。その時、人は孤独から解放され、生かされている自分を心から幸せに感じることができるようになるのです。

以上ご参考程度にお聞き流し下さい。
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