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はじめまして
旧約聖書の「雅歌」についてみなさんはどのように向き合って
らっしゃるでしょうか?しつこいほどの官能的な表現に、信者の
中には、雅歌だけは読まないという人までいます。それは自由
だとしても、なぜ、聖書にあれだけの内容の章を盛り込み、かつ
編纂したのか未だにわかりません。教会に通う信者の人に思い切って
聞いてみても「いずれ分かる」としか言いません。他の教会の
説教でも取り上げる事はあまりないと聞きます。
私は、聖書の中にある言葉である以上、神からの言葉であると信じて
います。内容の解釈は一生かかっても理解出来ないとしても、
「雅歌」存在理由がわかりません。
宜しくお願いいたします。

A 回答 (6件)

そうね。

見方によってはすごく官能的ですよね。もろに
しかし、信じている人は表面を見てません。

信じて初めて理解できるかな?
恋人のようで愛したい神様。また愛されているという事を言葉で表現したらあのような言い方になるでしょうね。恋文みたいに

>聖書の中にある言葉である以上、神からの言葉であると信じて
います
はいその通りです。
>内容の解釈は一生かかっても理解出来ないとしても、

いいえ信じた時に理解できると思いますよ。

>いずれ分かる」としか言いません
ちょっと抑圧的なクリスチャンですね

夕べの風が騒ぎ、影が闇にまぎれる前に/恋しい人よ、どうか/かもしかのように、若い雄鹿のように/深い山へ帰って来てください

すごい表現、それだけ慕っているのでしょうね。
もう待って待って待ちこがれる~すごいファンですよね
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簡単な話だと、お思います。



旧約聖書。
ようするにヘブライ語聖書は
元来ユダヤ教のものです。

それを新約聖書とくっつけて
キリスト教的世界観で見るから
表面的に違和感が生じるだけです。

だから、キリスト教的に解釈したければ
比喩を多様化させて内面化させるわけです。

男女の恋愛は、神との愛の関係を意味している。のように。

「産めよ増やせよ、地に満ちよ」のユダヤ教的世界観と
「神のために独身でいるものもいる」のキリスト教的世界観は

自ずと対立はします。
それだけの話ですが、まぁ雅歌は結構良いと思いますよ。

子供作らないとアダムからイエスまでの家計図も無いですし。
それまでに存在した名も無き男女たちのお互いの愛が
神によって祝福されてきてもいいと思うのです。
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ソロモンは3000の箴言と1005首の歌を作りました「列王記上4:32」。

「The song of songs,which is Solomonn's.歌の中の歌、これはソロモンの歌である。1:1」。このように、聖書が書名を「ソロモンの歌」と言われていますので、「雅歌」というのは正しくありません。「没薬」は聖書に17回出ますが、ソロモンの歌に8回書かれてあります。没薬は、腐るのを防ぐ液体で、涙、悲しみ、嘆き、死と関係があります。聖書の御言葉は、予言とその実現の綴りです。イエスキリストは、旧約で予言されたとおりに世の中に来られて、私達の罪の身代わりになって十字架に掛けられ、死なれ、三日後に蘇られました。主が来られた時も没薬があげられ「マタイ2:11」、死なれた時にもあげられます「ヨハネ19:39」。 愛はあげることです。子供を愛する親はご飯を与え、命まで与える程です。このように、イエスキリストは、私達のために命を下さいました。ですから、十字架の愛を分かった人は、主の愛を信じて救われた人です。イエスキリストが、私の罪の故に死なれて、私を救ってくれたんだ。これを分かって、心から信じる人は誰でも、主の愛に感激した経験があります。これを分かって感激して、毎日歌を歌った人もあります。一ヶ月以上も涙を溢した人もあります。所謂イエスキリストに対する初恋ですね。ソロモンの歌の主題は「初恋」です。ここに出る王はイエスキリスト、女は十字架の死が自分の罪の故だったことを心から信じる救われた人です。しかし、残念ながら人は初恋の心を失った人もいます。「しかし、貴方を咎めるべきことが多少あるが、それは貴方が初恋から離れたからであります。啓示録2:4」。
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No.1です。


再度失礼します。

祈りの言葉ってありますよね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E3%81%AE% …


詩篇23-5
『あなたは私に食卓を備えてくださる。私の頭に香油を注いでくださる』

『古代中東のしきたりでは、花嫁の女神に選ばれた配偶者に香油を注ぎ、恩寵と王位を授ける。
この女神とは、インド・アーリア族が入ってくる以前に栄えていた、新石器時代文明の太母神。
古ヨーロッパと近東地域で女神崇拝文化が盛んだったのは、おおよそ紀元前7000年頃~3500年頃だったが、女神を祀った最後の神殿が閉鎖された紀元500年頃まで、女神崇拝は公式には禁じられていなかった。


シュメール、バビロン、カナンなど近東地域の宗教の場合、王の頭に香油を注ぐ儀式は、女神の代理を務める王族出身の女祭司によって執り行われていた。
この儀式はギリシャ語でヒエロ・ガモス すなわち聖婚と呼ばれていた。

頭に塗油する儀式には性的な意味が秘められている。
婚姻を完成させる行為において、結合に備えて女性に「聖油を塗布される」男根をこの頭部が象徴しているから。

選ばれた花婿は、女神の代行を務める王族の女祭司によって聖別される。
その間、愛と賛美と感謝の歌が二人のために奏でられ、結合が達成されると、人々が町を上げて喜び祝うなか、豪華な結婚の宴が開かれる。
祝宴は時には何日も続く。
祝福された王家の結婚は、家畜や穀物の継続的な繁殖と、共同体の反映の象徴。

女祭司との結婚を通して、王/配偶者は、王族の身分を授かり、「聖油を祖祖荒れた者ーメシアとして知られるようになる。
王の頭に聖油を注ぎ、その前に豪華な食事を並べる役、つまり、その杯を祝福で満たし、敵の前で王の擁護者となる役は、近東固有の古い秘儀の中では太女神が勤めた(ギルガメッシュ抒情詩に書いてある。)
王家の血を引く女祭司と選ばれた王/配偶者との神聖なる結合は、共同体全体の再生、活力、調和の源となることを期待して行われていたのである。

この古代の慣わしは、後に近東全域でしばしば新年の祝賀(古代の新年は1月じゃなかった)行事として催されるようになる、毎年恒例の豊穣の儀式にも反映された。
メソポタミア地域の一部の宗教は、土地の豊饒を持続させるために、地元にの神殿に仕える女祭司の選ばれた配偶者を儀式的にいけにえとしてささげていた。
いけにえになった王の葬式は、作物の順調な生育と人民の反映を保証すると考えられていた。

インド・アーリア族の侵入(紀元前3500年頃)とともに、人間がその怒りをなだめなければならないとされた男性の最高神の概念が近東地域に入ってきた。
そして数世紀の時を経て、無限の力を持つ男性神を信奉する宗教が、寛大な女神の崇拝に徐々にとって変わっていったのである。』


はあ、、、長い。。。 まだ続きます。

『パレスチナでは、姿の見えない男性神が家長的存在として登場すると、古来より太女神に仕える王族の女祭司だけに許されていた役割、すなわち王に香油を注ぐ役割を男性の預言者が果たすようになった。
紀元前11世紀、イスラエルの人々は神を説得して、異教を信奉する隣人達のように王をいただくことを許してもらおうとした。
イスラエルの神は民の願いを聞き届けることに難色を示したが、ついに折れて、預言者サムエルにまずサウル(紀元前1020年頃)を、ついでダビデ(紀元前1000年頃~960年頃)を聖別してイスラエルの王にする許可を与えた。
注目すべきは、王家の娘との結婚によって王位に就くという古来の伝統に従って、ダビデがサウル王の娘ミカルと結婚したことである。
以後何世紀もの間、王に香油を注ぐ特権はエルサレム神殿の祭司に与えられていたが、ずっとそうだったのではなく、かつては王族出身の花嫁の独占的特権であった。』(雪花石膏の壷を持つ女 より)

で、雅歌に「王がうたげの座についておられる間、私のナルドはかおりを放ちました」ってあります。

ナルドは香りの高い油で、インドで生育する植物から抽出された非常に貴重で高価な香料だった。
ヘレニズムの影響を受けたパレスチナでは、一部の裕福な女性は、雪花石膏の花瓶(香料を売れる瓶)にこの油を少量入れ、首からぶらさげていた
結婚の際も持参してきた。
当時の仕来たりでは、愛する人が死ぬと、この瓶を割って中身を亡骸に塗り、瓶の破片を墓に残していくことになっていた。

というわけで、雅歌の中でも花嫁は首からその瓶を提げていたので、宴会の席で花婿は、香りをかぐことになったわけです。

で、、、 まだまだ雅歌についての解説は続くのですが、書ききれないので、図書館で本借りて読んでみてください。


http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83 …

ちなみに、この作者はバリバリのカトリック教徒で、大学で聖書についての講義をしている人。


フィーリングで推測で考えても仕方ないですよね。
風習が起こったからには、何か必ずそうなる根拠があった。
雅歌が作られたのも、必ず歌ができることになった背景があるはず。

その背景を知った上で雅歌を読むと、どういうものかわかってきます。
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#1さんの回答を読んで「聖書は世界一読まれているが、同時に世界一誤読されている書物だ」という言葉を思い出しました。


結論から申しますと、「雅歌」が聖書に収録されている理由は、聖書がユダヤ民族の同一性(identity)を形成する核となっている書物、だからです。

解説として、二つの理由を挙げておきます。
一つ目は(旧約)聖書の存在理由です。
キリスト教徒にとっての旧約聖書は、ユダヤ人にとっては唯一の聖書です。そしてユダヤ人をユダヤ人たらしめる精神的支柱としての書物です。
雅歌は自分たちの祖先が書き記してきた詩で、原書では韻が踏んであり詩として完成度が高い物ですから残すべき、と判断しても不合理ではありません。
しかも、ユダヤ人が他の民族に聖典として使ってくれと頼んだ訳ではないのですから、文句を言える筋合いではないでしょう。
と、言う訳で本来ユダヤ人のための書物だから、彼らの祖先が書いた優れた文章を後世に残す事は理にかなっているのです。

二つ目の理由はユダヤ人の道徳観念です。
ユダヤ人は性を不潔だと考えていません(金銭も同様です)汚されるのは人が使い方を誤った場合だ、と考えます。
雅歌は若い男女の褒め称え合戦です。これが、老人と遺産目当ての若い娼婦では編纂のときに除外されていたでしょうが、若い男女がお互いを好ましく思い、率直に語る事に何も不都合はありません。
人間であれば、好きな異性と共に過ごす時間が楽しい事は誰でも知っていますでしょ?(白昼堂々衆人環視の中でだと、マズイでしょうけど)

と、言う訳で本来読む対象はユダヤ人で、ユダヤ人にとっては不謹慎な内容ではないので収録されているのです。

ところで、雅歌は特殊な文書として知られています。聖書に収録されていながら「神」という単語が一度も用いられていないのです。
(エステル記にも用いられていません。その為か雅歌・エステル記・コヘレトの言葉は正典に含めるか議論があったと聞いています)

で、どう向き合うかですが・・・
無理に神学的解釈を付け加える事は慎むべきだと思います。
無理に読めば、無理な解釈を生みます。無理な解釈は、正しい理解を妨げます。

男女には性の区別はあるが、優劣は無い。どんな王侯・賢者・聖者とて母から産まれたのだから女性を貶めるな。そして、人生を通じて愛し合える相手を見つけたなら浮気をするな。。。
といった程度の野暮な解説しかできませんからね。

逆に、聖書の懐の深さの証明だとお考えになってはいかがでしょうか?
正しい相手との性愛は肯定されているのだ、他の哲学書のように人間の表面的な理想のみを語っているのでなく人間の本質を否定していない書物たる証拠に、雅歌は聖書に席を与えられている、とも考えられませんか?

まぁ、若い内はこういった解釈に抵抗を覚えるかもしれませんが・・・
参考になれば幸いです。

P.S.歴史カテより哲学カテか文学カテの方が、適切な回答を得られる可能性があると思います。
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恐らく聖婚のことじゃないかと。



アブラハムだったと思いますが、妻を妹と偽ってエジプトに住み、王がアブラハムの妻サライと結婚をしたところ、エジプトに災いが起こり、実はサライはアブラハムの妻だったと知り、なんてことしてくれたんだ とエジプトの王は災いの原因を知り、二人をエジプトから出ていくようにしましたよね。

で、聖書ではアブラハムは妻を妹とした方が、エジプトに住みやすいと考えたと書いてありますが、そうじゃないと思います。

各地の神話では、日本もそうですが、妻のことを必ず妹としています。
ですぐ近親相姦だったとするのは短絡的。
同じ神に使える信仰者 って意味だと思います。
兄弟と呼び合うのは、血が繋がっているからじゃなく、同じ女神の子宮から出たもの つまり 同じ神を信仰しているって意味。

だからエジプトの王様も妹と結婚したという記録だと思いますが、実際近親相姦だったわけじゃなく、王の妻は妹とも呼ばれていたから。

だから、アブラハムとサライは同じ神を信仰している兄妹にもなりうるわけです。


この歌の内容を見て思い出すのが、ケレトの結婚。
彼の結婚式の時に、神々が祝福にやってきて、宴会をしているんですね。
神々が祝った聖なるこの婚礼で、これにより地上で一番の王になるってことです。

ただしケレトは神様との約束を忘れてしまい、彼は病気にかかり、彼が病気にかかると国の勢力もそれと比例して落ちていった。

ダビデにしても、神により助けてもらったということを忘れてしまい、浮かれて裸踊りをしてしまい、奥さんに軽蔑されましたよね。

で、この雅歌は嫁取りの歌。
恐らくカナン神話が原型だと思います。

神により祝福された結婚ができたら、天下を取ったようなも。と考えられていた。
   ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%A8% …


>私は、聖書の中にある言葉である以上、神からの言葉であると信じて
います。

いえ、これは預言じゃありません。
預言(神から人間に与えられた言葉)はトーラに書かれています。

この歌は聖王の結婚の内容。
でも聖王が結婚したのに、国力が落ちるということは、神から見捨てられたと考えられ、殺されていたんです。
その時、紫の衣を着せられ、はがされ、鞭を打たれ、天と地に間に吊るされ、槍にさされて地上にその血を流すという儀式をしていた。
そう イエスの磔刑と同じ風習が、異教にあったんですね。
で、どうしてそんなことやっていたかというと、女神に見放されたので、国力も落ちたとして、王に一旦女神の元に帰ってもらい、力を復活させるために行われていた。

で、ヨナ物語も魚の腹の中に3日間いたし、イエスも3日後に復活したとされていますよね。
どうしてかというと、月がそうだったかららしいです。
つまり 元は女神崇拝の儀式。


魚の腹の中とイエスが墓に入ったって内容は女神の子宮に還元されたって意味。
同じ子宮から出た兄と妹の結婚も、女神の地上の体現者との結婚を意味していたと思います。

聖婚が完了すると、国中が喜びに満ちたらしいです。

どうして異教の物語がユダヤ教の物語として入ったのかは、アブラハムがウル出身だからなのか、ソロモンが異教の神も崇拝していたので、それでユダヤ教の中に入ったのか、よくわかりません。


で、信者さんはどうこの物語を捉えているかですが、聖婚だって捉えている人は稀なんじゃないかと。
淫靡な内容ですから、キリスト教の人は頬染めてしまいそうですね。

でも、ただの にーちゃん ねーちゃんの結婚の内容じゃないし、聖婚が完了すれば、地上は豊穣になるって信じられていたので、そういう意味で、読んで「万歳!」って叫べばいいんじゃないかと。

そういえば、ダ・ビンチ・コードって小説でも、やはり聖婚の儀式が出てきましたよね。
で、その意味がわからなかったソフィーは、それ以降祖父と絶縁した。
キリスト教徒もそういう意味で、この歌を毛嫌いするんじゃないかと。
本来の意味がわかるとなるほどーってなるんですけどね。
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