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キリスト教の自然観について

旧約聖書では、森林や大地や海などの自然は神が創ったものだと書かれています。
ところがキリスト教社会である西欧では森林伐採などの環境破壊が歴史上かなり大胆に行われてきました。
私は、どうして西欧で神の創造物を破壊することが許容されてきたのかを疑問に持ちました。
聖書には、このような自然破壊的行為を正当化するような明確な、もしくはそう解釈可能な記述があるのでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

聖書には自然破壊を正当化する明確な記述もありませんし、解釈可能な記述もありません。



聖書が伝えている人間とは「間違ったことをすぐにしてしまう人間」です。

ノン・クリスチャンだけでなく、キリスト教徒といえども教義に沿って動く機械やロボットではありません。
ですから神の目からみて正当化されていないことも実際にやってしまう人は沢山出てきますし、過去にそういう人が沢山いたことは聖書自体が書き記してくれています。

一言で言えば、自然破壊に正当性といったような話は、キリスト教の教えに基づいて説明するような質問ではないということです。

そもそも何でもかんでも「西欧がやること」=「キリスト教が原因」という認識が間違っているのです。キリスト教は西欧で生まれたわけでもないですし、西欧だけで信じられている訳でもないのですから。
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あそこの神様は「自分の似姿で人類を作った」と云う。

エデンの園に
「エデンの園」にアダムとイブを作り「勝手にしろ」と言った。
勝手な神だ。
人間が神を信じなくなった、特に大都会は神など要らない。
怒って「ノアに大雨が来るから、人類でまともなお前の家族だけ残そう」
確かノアは泣いて大都市で「警告したはずだ」
だが誰一人信じなかった、それで大洪水で大地を混沌に陥れた。
でいい加減な神様はノアの家族に「産めよ増やせよ、地に満てよ」
と言っちゃった。だから地球上の資源もノアが連れてきた生物も
全てノアの子孫の物だ。やりたいようにやっていい。

新約には弱いが、「ダメだ」とナザレのイエズスが山を荒らすな
と言った話しは出て来ない。

なおトルコ領のアララト山の風雪厳しい頂上付近に、明らかに
人の手に成る巨大建造物が高改造度CCDで細部まで見られている。
だが、場所がトルコ領だからか、金が無いのか、動かしたくないのか
だれも近付かない。
私が生きている間は無理だな。
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神は 人間の為に 何もかも 創造したのです



人間が どう利用するのか 全ては人間の自由意思に任せています

まるで 人間の親の様に・・子供に 色んな玩具や勉強道具を与え 後は子供の自由意思に任せる・・

今時の親には そういった人が少ないが これが 本当の親子の姿なのです
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 旧約聖書というのはキリスト教というよりもユダヤ教の聖典です。


共通する認識は神がすべてを創造した、神は人を自分に似せて作った。
だから宇宙(自然)のすべては神に託された人間のものであるという事
なのです。勿論、時代と共に宗教も変容しますので今のキリスト教の
各教団は自然保護を訴えると思います。
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「そこは神様の聖域だから入っちゃいけない」というのは我々日本人というか多神教の価値観です。

「そこは神様の住む山だから登っちゃいけない」というアレです。そのアレは、一神教(キリスト教・ユダヤ教・イスラム教)にはないのです。あえていえば、神殿や教会は信者以外は入っちゃいけないというのはありますけどね。

一神教の神様は、いうまでもなく全知全能の存在でございますので、「すべてに抜かりはない」のです。例えば牛や豚は神様が「人間が食うため」に神様は作られたもうた存在なので、食っていいのです。イルカは神様が人間に食べさせるために作ったわけではないので、食べてはイカンのです。
そこをずんずん追い求めて、いわゆる「原理主義」というやつになると、「すべては神のおぼしめし」で片づけてしまえることになります。人間が欲望に基づくのも神様の設計書どおりですし、自然も神様のお作りたもうたものですので、人間がいくら破壊するのも「神様の想定内だから構わない」となります。その結果も神様の想定内だから我々しもじもの者が気にすることではない、というわけです。
もちろん、これは極端な原理主義の考え方で、ほとんどのキリスト教徒はもっと穏便な思想を持っています。

歴史的な面からいえば、特にヨーロッパにおいて自然とは「克服すべき敵」に近い存在でした。日本みたいに敵対しなければ恵みをもたらしてくれるようなありがたーい存在ではなかったのですよ。痩せてる土地を開墾して厳しい冬を乗り越えて、ペストを始めとする伝染病などとも戦わないといけなかったのです。
ヨーロッパに比べれば日本は雪は降っても冬はそこまで厳しくないし、春夏秋にはさまざまな食べ物が獲れ、水が豊富で温泉も出るわけです。ただ、温泉が出る代わりに時々火山が噴火し、大地震が起きます。だけどそういうのは何十年か何百年にいっぺんなので、我々にとっては「日々の恵みに感謝し、神様がお怒りにならないように大切に祀る」ことが大切なわけです。
もっというと、おそらく古代の人も「森林を始めとした豊かな自然が恵みをもたらす」ということを分かっていて、そういった森林を聖域にすることによって自然保護に勤めていたんじゃないかなと思います。日本では少なくとも中世からは里山に手を加えることで自然を組み入れた循環社会が成り立っていました。ヨーロッパでは、循環社会にしたくても自然が人の手を加えることに対してそれに見合うだけの恵みをもたらしてくれなかった、というのもあるのではないかと思います。
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アダムとイブが禁断の木の実を食べて以来、人類は悪魔と化しました。

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キリスト教では、神は己に似せて人間を創った


ということになっています。

つまり人間というのは特別な存在で、人間以外の
万物は、全て人間の為に存在する、ということに
なっています。

これをヒューマニズムと言います。
ヒューマニズムというと、人権尊重云々を連想
しますが、元来はこういう人間中心主義を
意味しました。

だから自然などは、全て人間の為に自由に利用して
構わないのです。
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私も不勉強ですが(というかキリスト教は嫌い)



人間を自ら(神)に似せて造り世界の頂点に立つものとしたので、それ以外のものは人間が好き勝手にして良いもの、という解釈なのだと思います。
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不勉強で申し訳ないのですが、



『旧約聖書』にて、神は、『種のある実を結ぶすべての木(果樹)』以外の「木」をいつ創造なさったのですか?

旧約聖書 創世記(口語訳) - Wikisource
http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%89%B5%E4%B8%96 …
『:
1:27
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
1:28
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
1:29
神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。
1:30
また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。
:』
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Q、聖書には、環境破壊を容認する記述があるのでしょうか?


A、ある訳がないでしょう。

聖書を書いた人物にとっては、「環境破壊は人類にとっての大問題だ!」との認識はなかった。ですから、当然に、それに関して記述することはしなかった。

そういうことです。

PS、そもそも文明とは?

人間の労働によって自然を改変し、もって生活の質の向上を図る。そのレベル=文明です。そういう自然の改変が親類自身の存在そのものを危うくするとの認識が確立したのは20世紀後半。聖書を記述した本人、あるは19世紀までの人類に、そういう物の見方・考え方を求めるのは酷でしょう。
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