アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

キリスト教では偶像崇拝は禁止しているとのことですが、教会の祭壇にキリストが十字架にかけられた像がある写真をよく見ます。
また、絵画でもキリストを描いたものがたくさんあると思うのですが、キリストの像を拝むことやキリストを描くことは、偶像崇拝とは異なるのでしょうか?
キリスト教のことをよく知らないので、その区別があまりよくわかりません。
すみませんがお教えいただけましたら助かります。
よろしくお願いいたします。

A 回答 (13件中1~10件)

>キリスト教では偶像崇拝は禁止しているとのことですが・・・


これについては、他の回答者の方が十戒で説明されいておられますが、なぜ十戒にそのように書かれたのかについては、若干説明が必要かと思います。

当時の様子は旧約聖書にも描かれていますが、モーゼに従って旅を続けていた人たちの周りには、色々な神を信じてその姿を像として作り崇めていた人たちが大勢いました。平たく言うと、このようなことをしてはいけない。という意味でした。
その後に、像を拝むのは、神様の教えに背くことになる(異教徒になってしまう)と考えるようになりました。

尚、神様は像を拝むことを禁止するのと同時に、自分の姿を描いても作ってもいけない。と言いました。
神様というのは唯一絶対ですから、他のものは神様でもなんでもないことになります。
ここで問題になるのが、キリストです。
キリストは神の子として、人間界に出現しています。
聖書の神学論では、神は唯一なのになぜキリストがいるのか?という点について延々と議論を続けています。(三位一体論)

キリスト教を勉強すると言うよりも、お伽噺を読むつもりで、旧約聖書を読んで見て下さい。なかなかよく出来たお話です。
新約聖書はあまり面白くありません。

聖書にしろ、お経にしろコーランにしろ、信じるか信じないかが問題とされていますので、現代風の理論的な整合性を求めると支離滅裂になってしまいますから注意して下さい。桃太郎や千と千尋の神隠しに理論的な整合性は必要ありません。
難しく言うと、科学は合理の世界を扱い宗教は非合理の世界を扱います。世の中には非合理な事柄が沢山あります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
像を拝むのは神の教えに背くことになると考えたのですね。
神様は像を拝むことを禁止すると同時に絵を描くことも禁止したのですね。
キリストが神の子として人間界に出現して、聖書の神学論で「神は唯一なのになぜキリストがいるのか」について、延々と議論を続けているとのこと。だから、わたしがほとんど知識のないまま「三位一体」とか「偶像崇拝」をネットで検索して、少し読んだだけでは難しくてわからないんだと思いました。
ただ、聖書に書かれていることには興味を持ちました。
聖書に現代風な整合性を求めると支離滅裂になってしまうのですね。聖書を信じていればそうはならないのですね。
千と千尋の物語は好きな映画で映画館やDVDで何度も観ました。教えていただいた難しい言葉を使わせていただきますと、私は千と千尋の物語に現代風の理論的な整合性を求めていないなと思いました。
アマゾンでみたら、マンガで書かれた旧約聖書などもあるので易しい本を選んで読んでみたいと思います。
科学は合理の世界を扱い宗教は非合理の世界を扱います。世の中には非合理な事柄が沢山あります。という言葉、すごく気に入りました。難しですけど・・・
いろいろお教えいただきありがとうございました。
心から感謝いたします。

お礼日時:2013/09/15 11:38

つまり自己矛盾の塊なんです。


仏教みたいに、でっかい仏像をつくりでっかい建物を作って人々を畏怖させるのが、無学な人々を取り込むのに一番てっとり早いやり方なんです。それに気が付いたw

話が変わりますが、でっかいものに畏怖するってのは人の性で、自分より背の高い人に会うと畏怖の念を抱くのです。体格のデカいやつがボスをやってた猿の時代の記憶が遺伝子に刷り込まれているのかもしれません。(これは科学的な表現ではないですが)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
学校の旅行で大仏を観たとき「すごい」と思いました。
映画でも大きな宇宙船などが出てくると迫力を感じてしまいます。
いろいろお教えいただき、ありがとうございました。
心から感謝いたします。

お礼日時:2013/09/15 11:52

あなたの疑問はキリスト教の歴史においてもありました


普通の人が疑問に思うのは当然のことでしょう

キリスト教では偶像崇拝は禁止されていますが
なにが偶像崇拝になるのかの解釈は教派によって違います

キリストの像が十字架にあるのはカトリックです
カトリックではキリスト像を偶像崇拝とは見なしてません
理屈はありますが心理的にはキリスト=神と見なしたからだと思います


キリストの像が十字架にないのはプロテスタントです
プロテスタントではキリスト像を偶像崇拝になると見なしてます
聖書の「神々の偶像を鋳造してはならない」(レビ記)を厳密に当てはめてます


キリスト教の聖書画の禁止はレオ三世による偶像禁止令に始まります
イスラムの影響を受けて聖書画は偶像崇拝に当たると考えたようです
それに対して
キリスト教の公会議では聖画像の崇敬は、聖画像そのものを偶像として崇拝するものではく
それによって表されるものを崇敬することである と決定されました
それで、キリスト教会では、聖画像は破壊されず、信徒の信仰の助けとしての役割を果たしてます
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
偶像崇拝が何になるかは、宗派によって解釈が異なるのですね。
キリストの像が十字架にあるのはカトリックであるということ、プロテスタントの十字架にはキリストの像がないことを知りませんでした。
キリスト教の公会議(正式な会議のことを言うのでしょうか)では、聖画の崇敬は、聖画像そのものを偶像として崇敬するのではなくて、聖画像によって表されるものを崇敬することであると決定したのですね。わたしには少し難しですが、何度も読むと少しだけわかったような気がしました。
いろいろお教えいただき、ありがとうございます。
心から感謝いたします。

お礼日時:2013/09/15 11:47

#4の補足です。

何をどう感じ、どう考え、信じるかは、あなたの自由です。私論ですが、ご参考までに。

キリスト教ができた時代に存在したユダヤ教は、唯一絶対の神は、遍在すると考えています。
(ヘブライ語ラテン文字転記:maqom) 例えば、地球のあらゆるところで。宗教が異なる地にも。
そして、神のおられる聖なる地に相応しく行動すること、考えを整えて、生活をすることを重んじ、食事の前に手を洗うこと、トイレに行った後に手を洗うこと、祈りの姿勢、割礼など、細かい行動を教えているそうです。また、日本人では、ホテル等にもおいてある聖書の中の旧約聖書(ユダヤ教徒だったら、旧約聖書とは言いませんが)を含む教えを学んでおられるそうです。

ですから、新約聖書を、物語と考えたとしても、その話の流れには、唯一絶対の神の遍在の考え方が、コアになると考えます。

しかも、神から、精霊(神の力)が届き、神様を尊敬する意味で、みだりに神と呼んではならないとし、主ということばを用いたりしています。ですから、精霊は、「神ではなく、神の働き」と考えます。
同様に、人間イエス・キリストは、神ではなく、神の働きで、昇天後は、主として、神の存在となったと考えます。そしてそれを、絵にした人もいますが、それだけを、キリスト教は、神と信じているとは思っていません。

ところで、ユダヤ教では、人間と神は、隔絶した存在だったと考えます。
但し、ユダヤ教の流れを汲んで、新しく生まれたキリスト教は、唯一絶対の神を神様としながらも、人間イエス・キリストが、十字架の上で亡くなった後に、天に昇り、神の右に座すことで、人間と神様の道筋が拓かれたと考えています。しかも天と地の間に、精霊の力を働かせることで、キリストのたとえ話の教えを通して知ることができる唯一絶対の神様への信仰により、これまで難解だったユダヤ教が教える日々の生活の仕方や考え方を紐解いていったとも考えられます。但し、大勢の観念の相対ですから、単純に語れるものではないと思いますが。

故に、ユダヤ教とから見ても、キリスト教徒が大切にしている神は、偶像化していませんし、それを知らせるイエスや、その物語を形にしているだけで、それを通して、唯一絶対の神を崇拝しているのですから、何ら矛盾はないと考えています。

尚、三位一体説は歴史的には、325年の二ケーヤ会議で論じられたこと(三位一体節は、これをお祝いした行事)だと理解しています。

反復しますが、このことにより、神を偶像化する考え方でもありません。その理由は、私が上記に述べたとおりです。

つまり、ご質問のキリスト像等は、神の存在を知るためのもの(方法というか機能というか、手段というか、そういうもの)で、主イエス・キリストを含むイコンのみを、崇めるような偶像崇拝ではないと考えますから、聖書で説明している偶像(聖句でいろいろな箇所に書かれています)崇拝には当たらないと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
ご親切で、ご丁寧な、ご説明、ほんとうに助かります。
わたしには、すこし難しくて何回か読ませていただきました。
ご説明いただきました内容がわかるように、わたしもいろいろ知識を身につけなければと思いました。
色々お教えいただき、ありがとうございます。
心から感謝いたします。

お礼日時:2013/09/15 10:48

キリスト教が禁止しているのは、偶像の崇拝であって、偶像そのものではありません。


ですから、キリスト像が壊れたり汚れた場合は、その像は廃棄されたり、絵画は消されて新しく描かれたりします。

偶像崇拝とは、偶像そのものを神格化することであり、礼拝の目印として使用することとは異なります。

日本のお寺で、仏像を壊した場合、「バチ当たり」とするのは、偶像を神格化しているためですが、キリスト教では、単に器物破損にすぎません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
キリスト像が壊れたり汚れた場合は破棄されるのですね。
私は日本人なのできっとキリストの像を捨てたらバチがあったてしまうと考える方です。
きっと、私は偶像を神格化しているのですね。
いろいろお教えいただきありがとうございます。
心から感謝いたします。

お礼日時:2013/09/14 17:47

古代キリスト教では,偶像崇拝を禁じていたようですが,それでは布教に都合が悪いということで,色んな屁理屈を作って十字架やイエス・マリア像などは「偶像ではない」としちゃいました。

(宗派によって細かい違いはありますが)

その屁理屈で最も難解なのが「三位一体説」です。
三位とは
1.父なる神
2.子なる神イエス=キリスト
3.聖霊(神がこの世に表す力的なもの)
の三つが「同質」であるということです。
「同質」というように、「質」は同じだけど三つはそれぞれ別の存在,だけど不可分な関係にある。
すいません,うまく説明できないです。。。
まぁ,この三つが神様を崇める上で重要な概念として導入されました。

さて,イエスが復活し神の国に入った後,弟子達はキリスト教を広く布教しようという方針に固まります。
ところが,布教しようにもただそこらで叫んでても中々人は集まりません。
文章で配ろうにも,印刷技術も無く,一般人の識字率も低い中では効果は望めません。
そこで,分り易い目印として十字架を採用しました。
十字架というのはキリスト教が出来る以前より存在していました。
形も色々とありX型やT型なんかがあります。
キリスト教のそれは主に「ラテン型」と呼ばれローマの処刑の一つでした。
そのローマの刑にイエスは服しました。
そこで,この十字架を持ちながら「イエスの苦難と復活,それによる救い」を説いて歩いたわけです。
街頭演説してる政治家ののぼりみたいなもんです(えっ、違う。。。?)

その流れで,絵なんかも使われていきます。
絵は,聖書のワンシーンを描いているので,より具体的・視覚的に訴えることができます。
この種のものにはミケランジェロなどが描いた宗教絵画とイコンの二つに分かれます。
宗教絵画は芸術家の精神や表現力が全面に出ているのに対し,イコンはより宗教的な使われ方をしていました。
前後してしまいましたが,登場はイコンの方がはるかに古いです。

さて,この十字架とイコン,絵画。
どう偶像とちがうのでしょうか。

キリスト教では,人間は罪をもってこの世に生まれてきたと考えます。
そして,深い愛をもってその罪を引き受けたイエスが十字架刑に処されたとされます。
そこから,十字架は人間に対するイエスの深い愛のシンボルだと考えます。
つまり,神そのものを「偶像化」してないから十字架は偶像ではないという論法です。
では,十字架に磔られたイエス像はどうか。
このイエス像を偶像ではないと考えているのはカトリック派であり,プロテスタントや正教会ではタブーです。
カトリックでは「人」としてのイエスであるからOKみたいな感じだそうです。
あれ,三位一体で「同質」って言ってなかったっけ?
「同質」だけど「同じじゃない」ってのは,つまりイエスには「人間としてのイエス」と「神としてのイエス」がいるってこと??
難解です。。。(この辺は神学でも最も難解な部分なのでスルーするほうが胃にやさしいですよ~)

次にイコンについてです。
イコンは神と我々をつなぐ「永遠の窓」なんだそうです。
つまり,窓を開けて神の愛を確かめると同時に,神に祈りを捧げ奉仕するわけです。
このイコンにはきっちりとした形があって,描き手の個性は全て消し去らなければならないとされます。
なので,どのイコンを見ても同じような感じで書かれています。

ルネサンス期になると,美術意識が高まりラファエッロやミケランジェロに代表されるような画家が現れ,写実的に描かれるようになりますが、これは宗教絵画でありイコンではありません。
とは言え,神の愛の表現と字の読めない人々に聖書物語を説明する手段として利用されるのは同じです。
ただ,そのダイナミックで豪奢な絵画は,教会の堕落だとして批難の的になり,宗教改革を経てプロテスタント諸派が生まれました。

最後に,主な宗派三つの偶像の扱いを纏めます

宗派 > 十字架・イエス像 > イコン・絵画ほか

カトリック >磔刑像OK >イエス像・マリア像や宗教画OK

プロテスタント >十字架のみ> 一切なし

正教会 > なし >イコンのみ

ではでは、参考になれば幸いです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
「三位一体」という言葉をネットで調べて読んでみました。
わたしには、よく意味がつかめませんでした。難しかったです。
十字架を持ってイエスの苦難と復活と救いを弟子の人たちが説いて歩いたのですね。
十字架に架けられたイエス像がある教会はカトリックの教会なのですね。プロテスタントや正教会にもあるものだと思ていました。
カトリック人としてもイエスなのでOKなのですか?やはり三位一体は難しいです。
イコンと宗教絵画とは違うのですね。私はイコンも芸術だと思っていました。
イコンは神と人をつなぐ永遠の窓で窓を開けて神の愛を確かめて、神に祈りをささげて奉仕するものなのですね。
ミケランジェロの絵画は宗教画でありながら、字の読めない人々に聖書物語を説明する手段だったのですね。ダイナミックで豪奢な絵が教会の堕落だとして批判のもととなってプロテスタントが生まれたということを知りませんでした。
いろいろお教えいただきありがとうございます。
心から感謝いたします。

お礼日時:2013/09/14 17:43

#3です。


カルケドン派だったかも。(/´△`\)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
ご親切に感謝いたします。

お礼日時:2013/09/14 16:07

#3です。



イエスキリストの像に祈るのは、三位一体の神を偶像として祈るのではないから問題がない、としているのはカルノゲン派の教義で、この教義を認めている派閥には世界最大のローマカトリック教会などが含まれています。

この教義を認めていないのは20%にも満たないので様々なキリスト像を見かけることになります。

イスラム教はこれを否定し続けているので、かわりにコーランにたいするこだわりが凄くなってますね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
キリスト教にもいろいろたくさん派閥があって考え方違うのですね。
キリストの像に祈るのは、三位一体の神を偶像のとしていのるのではないから問題がなくて、ローマカトリック教会もそうなのですね。
わたしには少し難しいです。三位一体という意味もネットで見てみましたがあまりよくわかりませんでした。
私自身、もう少し勉強した方がいいのかなと思いました。
いろいろお教えいただきありがとうございます。
心から感謝いたします。

お礼日時:2013/09/14 16:06

キリスト教において、イエスは「神」ですから、厳密には偶像崇拝ではないでしょう。


偶像崇拝を避けるということの本当の意味は、実際に存在しない神を拝むのはやめ、
真の創造主である神のもとに帰ってきなさいという意味です。
神は大変神聖なので、本来は偶像化することさえ禁止されていますが、
その神が、人間を救うために自ら受肉し、人の罪を背負って十字架につけられて死んだのがイエスです。

神が人のために死んでくれたのなら、その神を忘れないために、その像を作り、真の神に対する感謝を
し、礼拝するというのは偶像崇拝ではないでしょう。それは、本当に地上に降り立った神であり、
人間が作った架空の偽の神ではないのですから。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
キリスト教においては、キリストの像を拝むことは偶像崇拝ではないのですね。
わたしには少し内容が難しかったです。
いろいろお教えいただきありがとうございます。
心から感謝いたします。

お礼日時:2013/09/14 15:59

偶像崇拝を禁じたり、忌み嫌ったのは、ユダヤ教(聖書で言えば、旧約聖書部分)。



その中で、大事にしていた考え方は、以下の聖句にも、見ることができると思います。
但し、これはその中の外典と言われるものです。
☆知恵の書(箴言) / 15章 16節
偶像を造ったのは人間、/霊を貸し与えられている人間がそれを造った。人は、自分に等しい神をさえ造れないのだ。
☆知恵の書(箴言) / 13章 9節
宇宙の働きを知り、/それを見極めるほどの力があるなら、/なぜそれらを支配する主(神の力)を/もっと早く見いだせなかったのか。

キリスト教は、この中から、新興宗教として生まれました。
ですから、神の子イエス・キリストだけを崇拝することは偶像ですから、ユダヤ人に迫害されて、十字架に架けられたのです。そこに意味があり、十字架というシンボルの先の神の存在を知らせるために、キリストは、十字架の上で死んで、昇天したと、教義では考えていると思います。
但し、ユダヤ教は、神の厳しさばかりが強調され、救いがないので、キリスト教では、愛や救いや赦しという、温かみのある人間的な神の存在が表現されていると思います。

キリスト像や聖書の話を絵にしたものを、イコンと言いますが、これらを通して、神の存在というか、神の力を知ることを、教えていると思います。
実際、値段をつけて、売っていますが、これらを通じて、神のことを知るという考え方だと思います。

ですからキリストの弟子と言われる「ヨハネ」も、
ヨハネの手紙一 / 5章 21節 で、「子たちよ、偶像を避けなさい」と言っています。但し、裏切り者のヨハネではなく、イエスに忠実な弟子のヨハネと言われた人です。

後は、何をどう考えて信ずるかは、あなた次第。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
キリストだけを崇拝するのは偶像なのでユダヤ人に迫害されて十字架にかけられたのですね。
十字架というシンボルの先の神の存在を知らしめるために、キリストは死んで昇天したのですね。
イコンというのは聞いたことがあります。キリスト像や聖書の話を絵にして神の存在や、神の力を知ることを教えているということを知りませんでした。
いろいろお教えいただきありがとうございます。
心から感謝いたします。

お礼日時:2013/09/14 15:53

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!