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 設問した主題をめぐって 遠藤周作が 次のように書いています。つまり《黄色い人》は 特には われわれ日本人を指して言っているはづです。これを批評・批判してください。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 神さまは宇宙にひとりでいられるのがとても淋しくなられたので人間を創ろうとお考えになりました。そこでパン粉を自分のお姿にかたどってこねられ竈(かまど)で焼かれました。

 あまり待ちどおしいので 五分もたたぬうちに竈をおあけになりました。もちろんできあがったのは まだ生やけの真白な人間です。《仕方がない。わしはこれを白人とよぶことにしよう》と神さまはつぶやかれました。

 こんどは失敗にこりて うんと時間をかけることになさいました。すこしウトウトとされているうち こげくさい臭いがします。あわてて蓋をおあけになると 真黒に焼けすぎた人間ができているではありませんか。《しまった。でも これは黒人とすることにしよう》。

 最後に神さまはいい加減なところで竈をひらかれました。黄色くやけた人間が作られていました。《なにごとも中庸がよろしい》。神さまはうなずかれました。《これを黄色人とよぼう》。(童話より)

   我 汝の業を知れり。即ち汝は冷ややかなるにも非らず 熱きにも非
  らざるなり。寧(むし)ろ冷ややかに 或いは 熱くあらばや。然(しか)
  れども汝は 冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに 我は
  汝を口より吐き出さんとす。(黙示録)

   (遠藤周作:『黄色い人』 冒頭)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたし自身の考えは どうも 遠藤のこの人間の性格(?)を三種類に分けた設定じたいが ぴんと来ないので そのことを問題にしたいと思っています。ですが もしこの設定に沿うならば どういう反応や評価がありうるでしょうか。ぜひ おしえてください。

 * 変な感じの高みの見物のように みなさんの回答を見てみようとしているのではないかとお叱りを受けるかも分かりませんが どういうふうにこの文章を一般には捉えるのだろうか それが知りたいです。
 →この中庸でいいのだと ある意味で開き直るのか / いやいや開き直りですらない いまのままでいいのだとなるのか / そもそも 設定がおかしいだけではなく 生温いという規定じたいが まちがいだとなるのかなどなどです。
 * 遠藤周作のキリスト信仰は 発表された限りでは まやかしだとわたしは思っています。
 * 次の質問と姉妹関係にあるはづです。
  ・《Q:〈絶対〉の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?
   = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3738300.html
  ・《Q:男と女= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3689191.html

A 回答 (24件中1~10件)

個人的な見解です。


人間をそういう風に表してるだけだと思いますよ。
色は違えど同じパン。
しかも、すべて未完成。
日本人のあいまいな姿には、少し批評が見えますが・・・。
文章としては、少し見にくいですね。
ついでに、司馬遼太郎が「絶対」はないと書いておりますが
確かに「永遠に変わらないものはない」ので
「絶対」はありませんが、
その「永遠に変わらないものはない」という事こそが
「絶対」なのですね。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

★ 色は違えど同じパン。
 しかも、すべて未完成。
☆ これがいいですね。
★ 日本人のあいまいな姿には、少し批評が見えますが・・・。
☆ 《冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに 我は汝を口より吐き出さんとす》の箇所ですよね。
 そういうところ あるかも知れません。と言いますか そうとう弱いところを突いたものだとも見られます。でも それほど 気にしないというところでしょうか。

★ その「永遠に変わらないものはない」という事こそが 「絶対」なのですね。
☆ なるほど。《絶対》を想定するけれど それは ない(いわゆる無神論)というかたちでのお立ち場ですね。司馬遼太郎の文章は 哲学としては もう少し整理すべきでしょうね。

☆ 先ほどの《黄色い人に対する批判》ですが。それは 《生煮えの白い人》が やけに 出来もせぬくせに倫理規範にやかましいのに対して たとえば わが源氏物語では 倫理もへちまもありません。くっついたり離れたり あるいはいわゆる演歌の歌詞のように ああせつない・会いたい・恋しいと延々とぐちゃぐちゃ言い続けていたりです。これでは 神さんも 手のつけようがないのでしょうか。いかがお考えになるでしょう。
 (せっかく質問したので 少し からんでみました)。 

お礼日時:2008/02/17 16:03

回答ではなくって個人的な感想なんですが、私も人種的な分類には最初違和感覚えました。



>我 汝の業を知れり。即ち汝は冷ややかなるにも非らず 熱きにも非
  らざるなり。寧(むし)ろ冷ややかに 或いは 熱くあらばや。然(しか)
  れども汝は 冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに 我は
  汝を口より吐き出さんとす。(黙示録)

積極的に悪をなすことも無ければ善を成すことも無い、積極的に他人にぶつかっていったりすることもない、それゆえ他人を傷つけることも傷つけられることもほどほどで、自分の悪も欠点もはっきりと自覚することもできないまま、可もなく不可もない自足の中で生きている受動的な罪のことですね?



ーあれは地獄も極楽も知らぬ腑甲斐ない女の魂でござるー
                  「六の宮の姫君」
芥川龍之介の「六の宮の姫君」の罪を連想しました。こういった自覚できないゆえにいっそう救われ難い罪というのは洋の東西問わず存在するのではないかと思ったのですが、他人の思惑に敏感で、人との調和を重んじる日本人にこういう受動的な罪の傾向があるというのであればそれもわからなくはないです。
日本人といってもいろんな人がいるので一概にはいえませんけど。
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この回答へのお礼

 mystisism2さん ご投稿をありがとうございます。

 ANo.1の方に対して せっかく質問したので 少し問いかけによって絡むということをしてみました。そのあと このご感想をもらって なにかこう 大きなどんよりと曇った空が これは 日本人にとって 問題であり課題であるぞと言っているような感覚を覚えました。
 そうして 示されていた芥川の掌編小説を 検索して読んで そのあと 質問に帰ってみると こんどは ANo.3に pojipojiさんから また 別の角度から おおきな問題点の指摘を受けていました。
 さあ これから どうなることでしょう。

 pojipojiさんのご議論ともすでに関係すると思うのですが mystisism2さんのご指摘が さらに 大きいと思ったそのわけは 芥川の小説の中で 示されたように

  「あれは極楽も地獄も知らぬ、腑甲斐(ふがひ)ない女の魂でござる。

と規定したあと さらに

  御仏を念じておやりなされ。」

とあったからです。これは 《空也(くうや)上人の弟子の中にも、やん事ない高徳の沙門(しやもん)》が言ったという解説があります。

 * 芥川龍之介の「六の宮の姫君」:
  http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/130_1 …

 そうなると 仏教の一つの見解としてみても 《父母の教へ通り、つつましい朝夕を送つてゐた。それは悲しみも知らないと同時に、喜びも知らない生涯だつた》というような中途半端な考え方・生き方は 喜ばしくはないと判断されているということです。つまり 早い話しが ひとりの日本人が そういう価値判断をなしているという事態になります。
★ 他人の思惑に敏感で、人との調和を重んじる日本人にこういう受動的な罪の傾向があるというのであればそれもわからなくはないです。
☆ とmystisism2さんは 書いておられますが わたしはその中で《罪》ということばに ゆえもなく 抵抗感を感じるのですが それは別としても 歴史的に――まったく顕在していないとしても――正統な見方であるように 思っております。そうなると よけいに pojipojiさんのご回答に どう応えていいか 迷うことになるのですが いま そのように考えております。
 この議論の発展を見守っていただき ご意見をお寄せください。

お礼日時:2008/02/17 19:39

神に脅されねば倫理が保てないとして、神の名により倫理を押し付けるのは人の業でしょう。

倫理は時代、地域を共有する人々の総意の中にあり、誰かが外部から押し付けるものではないと考えます。ここでは、中庸であらねばならないと考えます。

しかし一方に、脅されていないのにどうして倫理が守れるのかといぶかる人々がいます。しかし、犬でも鞭打たれれば従うでしょう。この意見には人間を軽んじたところがあると感じます。

倫理はその時代、地域の人がともに了解していればよいのであって、外部からことさら罪を作ることを強要し、罰する必要はどこにもないと考えます。新たな不幸を作る必要はないということです。

過去の幾多の民族の絶滅についても、中庸により、それもあるかと了解しておれば落とさずに済んだ命もあったことでしょう。私たちはもっと別の文明の人々とも話ができ、人間についての新たな見聞も深められたでしょう。過去のことが単に過去の人々が野蛮であったというのではなく、自分たちの考えや行為が「絶対」というものに基づくと考えていたことが、この不幸の原因であると考えます。

わたしは生温くありたいと思います。

この回答への補足

 pojipojiさん ご回答をありがとうございます。

 さて 思ったより大変なことになってまいりました。それほど議論としての絡みは起こらないだろうと思っていたのですが そうでもなかったようです。
 ひとことで言って 《中庸あるいは調和》が 貶められることはないと思います。その上で 《中途半端あるいは煮え切らない》という性癖が 問題になっているのだと考えます。

 そうなると わたしは このpojipojiさんのご見解も そしてNo.2のmystisism2さんの展望も 決して互いに矛盾していないと まづ考えます。ひょっとして これこそが こうもりの中庸といいますか 二股膏薬の中途半端になるでしょうか。

★ 神に脅され・・・神の名により倫理を押し付ける
☆ その反面で 《父母の教えにすっかり従い一生を送る》のは 事なかれ主義のようでもあるし むしろ 親が子に何かを押し付けているようでもあると 見られるのではないでしょうか。
 そうであれば 真理は 中間にあります。信仰は 個人の内面に閉まっておけ。親であっても 子の人格を尊重せよ。というふうに どちらに対しても その中間の地点から 物言いをすることになります。

 おそらく 誰もが
★ 私たちはもっと別の文明の人々とも話ができ、人間についての新たな見聞も深められ〔ること〕
☆ を望んでいることでしょう。
★ 過去のことが単に過去の人々が野蛮であったというのではなく、自分たちの考えや行為が「絶対」というものに基づくと考えていたことが、この不幸の原因であると考えます。
☆ もう一度おそらく このように指摘される悲しい歴史があったと考えられるとき 《中庸ないし相対性》は――ここで おそらく ですが―― 《絶対》の想定のもとに(あるいは それと同時に)獲得したものなのではないでしょうか。
 野生であってもよいが 隣の部族を 別の村だからというので 殺してよいというわけにはいかない――この中庸は 互いに同じ人間だという相対的な見方のもとに得られたのでしょう。《絶対》を想定することと(≒信仰を持つことと) 自分がその絶対者になることとは まったく二つの別のことがらだと言わなければなりません。それは 《中庸》の精神と 同じ知恵として得られたものではないでしょうか。同時一体の知恵であるとすら考えられないでしょうか。
 自由な幅をもった――もっともっと自由な幅をもった――中庸の動態としてなら わたしも
★ 生温くありたいと思います。
☆ と唱和したいと思いますが いかがでしょう。
 このような《中庸》論を 日本人は 世界に向けて 押しつけになる寸前まで 発信していくべきではないでしょうか。

補足日時:2008/02/17 20:09
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白人と、黒人に対しての皮肉もあるのでしょうが


残念ながら、私は日本人のことしか
知りません・・・。
日本人の部分については、私はいいとも、悪いともいわない
はっきりしない態度を、批評したと見ましたね。
神様は話の形で只引っ張り出しただけでしょうが
日本人のはっきりものが言えないところは、
あまりいいものではないですね。
国会見てると、つくづく思いますもんね。
「だから、結論はどうなんじゃ!」みたいにね。
まあ、神様でもいたら、喰えないではなくて
「ものが言えないなら、口もろとも頭から奪い取るぞ!」
の方かも・・・。
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この回答へのお礼

 cabin504さん さらなるご回答をありがとうございます。

 いやぁ このように明確にお答えいただけるとは ある意味で 思いがけないことでした。
 いままで同じようなたぐいの質問をしてきましたが 今回 これまで三人の方に見解を寄せていただき みなさん それほど――字面の上から離れるなら―― ちがっておられないようですし それが かなりはっきりした態度を示されているので うれしく驚いています。

★ 国会見てると、つくづく思いますもんね。
「だから、結論はどうなんじゃ!」みたいにね。
☆ いちどこういうことを言ってみたかった。
★ まあ、神様でもいたら、喰えないではなくて
「ものが言えないなら、口もろとも頭から奪い取るぞ!」
の方かも・・・。
☆ いやぁ 気が晴れますね。
 ちなみに 国会答弁のことばは 日本語でも われわれ市民のスサノヲ人間語ではなくて それを 一面では 洗練しているのですが もはや感覚の息吹きを捨ててしまったようなアマテラス方言をしゃべっているのだと わたしは そのような造語で 理解しています。そうすれば 精神衛生によろしいかと。
 舛添(厚生労働相)くらいが スサノヲ語をしゃべるようだとは感じていました。
 
 とにかく わたしは これまで 日本人の悪口につながるような質問ばかりしてきましたから 今回 ちょっと 面食らっております。文学的に問いかけるのがいいのでしょうか。(これは 独り言ですが)。

お礼日時:2008/02/17 21:22

たびたびで、すみません。


質問としては、問題を解いてるみたいで
中々面白いのですが
文学者は、どうも言葉がややこしく
書いてるので、読むのがメンドクサイです・・・。
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この回答へのお礼

 何度ご回答を寄せてくださっても 大歓迎です。もし日本人にとって大きな問題であるなら 多くの人が見解を投じてくださるのが うれしいです。ありがとうございます。
 
 そうですね。わたしは 文学者ではないですが 文章が読みづらいかと思います。何しろ アウグスティヌスと格闘して 鍛えたものですから 大袈裟に言えば 一ページの半分とか三分の一くらいの一つの文というのは ざらですから わたしは 猿真似をするという修行をしたのです。つけが回ってきていますね。ここのところ 少しは意識しているのですが。・・・

 遠藤周作が出たたところで 別の文章を かかげてみます。次の中の《日本の何か》とは何ぞやというのが どうも かかわっているように思えます。戦国時代のポルトガル宣教師の物語です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・フェレイラはこの日本は底のない沼沢地だといっていた。苗はそこで根を腐らせ枯れていく。基督教という苗もこの沼沢地では人々の気づかぬ間に枯れていったのだ。

 ――切支丹が亡びたのはな お前が考えるように禁制のせいでも 迫害の
  せいでもない。この国にはな どうしても基督教を受けつけぬ何かがあ
  ったのだ。

 フェレイラの言葉は一語一語 司祭(ロドリゴ)の耳に刺のようにさす。
(遠藤周作:『沈黙』 VII)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この《何か》が もし《あいまいの美学を通り越した単なる生ぬるさ》であったとしたら つながって来ますね。キリスト教が根付かなくても いいのですが キリスト教を しっかりと 明確に批判すべきところは批判して そのあるべき姿を こちらが決めていけばよいと考えます。
 はりきって読んでくださると うれしいです。

お礼日時:2008/02/17 23:12

どうも、お久しぶりです。


最初なので手短に答えていきたいと思います。

遠藤氏の文章に対しての批評です
黙示録の汝・我が逆であれば非常に面白い構成だったと感じます。温き者のいわば代表として己を挙げていれば、
汝を頭の中に巣食う神と被らせて読ませることが出来る秀逸な文章でしたのに…
無論、前後に繋がる言葉があるのであればそれも含めて批評しなおさなければ失礼かつ的外れになりますが。

その一方で童話は馬鹿馬鹿しいです。
神が初めから三種の人間を作ろうとした上で最後に《これを人間と呼ぼう》と白人・黒人を馬鹿にしたように皮肉ったのであれば批評のし甲斐もあったと言うのに。

二つの文章を繋げて批評するならば…温いのだから吐き出させずに飲み込ませればよかったのに、
こんな中途半端な白人・黒人に対しての皮肉と黄色人に対しての非難では…と感じます。
己への自虐はともかく、己の属する集団への自虐では私は満足できませんね。

中庸の定義合戦や日本人という集団への非難(=自虐)は望まない。と最後に言って今回は終了です。

この回答への補足

 その節は やり取りしましたね。今回もご回答をありがとうございます。

 そうですね。まだ 論議が まづは基本なのですが 入り口でとどまっているというべきでしょうか。
 うぅーん。自虐と自己非難は 同じかも知れませんが 自己批判とは これまた基本的に 別だと思いますよ。そうでなければ いわゆる反省ということばは もう死語となってしまう。・・・

遠藤ついでに もしそれがあるとするなら人を腐らせる《日本の何か》を追っておきます。こんどは やはりポルトガル宣教師の関連ですが 《日本と申す泥沼》と言っています。踏み絵などの情況下です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ――パードレ(=ロドリゴ)は決して余(=イノウエ筑後守)に負けたの
  ではない――筑後守は手あぶりの灰をじっと見つめながら――この日本
  と申す泥沼に敗れたのだ。
 ――いいえ私が闘ったのは――司祭(=ロドリゴ)は思わず声をあげた。
  ――自分の心にある切支丹の教えでござりました。
 ――そうかな。――筑後守は皮肉な笑いをうかべた。――そこもとは転ん
  だあと フェレイラに 踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申
  したそうだが それは己が弱さを偽るための言葉ではないのか。その言
  葉 まことの切支丹とは この井上には思えぬ。
  ――奉行さまが どのようにお考えになられてもかまいませぬ。

司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。

  ――他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ。――筑後守はつめたい声で言
   った。――かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことが
  ある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもな
  らぬ己の弱さに 衆生がすがる仏の慈悲 これを救いと日本では教えて
  おる。だがそのパードレは はっきりと申した。切支丹の申す救いは 
  それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけでのものではな
  く 信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみる
  とそこもと やはり切支丹の教えを この日本と申す泥沼でいつしか曲
  げてしまったのであろう。

 基督教とはあなたの言うようなものではない と司祭は叫ぼうとした。しかし何を言っても誰も――この井上も通辞も自分の心を理解してくれまいという気持が 言いかけたことを咽喉に押しもどした。膝の上に手をおいて 彼は目をしばたたいたまま 奉行の話をだまって聞いていた。

  ――パードレは知るまいが 五島や生月(いきつき)にはいまだに切支
   丹の門徒宗と称する百姓どもがあまた残っておる。しかし奉行所では
   もう捕える気もない。
  ――なぜでございます――と通辞が聞くと
  ――あれはもはや根が断たれておる。もし西方の国々からこのパードレ
   のようなお方が まだまだ来られるなら 我々も信徒たちを捕えずば
   なるまいが・・・――と奉行は笑った。――しかし その懸念もない。
   根が断たれれば茎も葉も腐るが道理。それが証拠に 五島や生月の百
   姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスと次第に似ても
   似つかぬものになっておる。

 頭をあげて司祭は筑後守の顔を見た。微笑は顔と口との周りに作られていたが眼は笑っていなかった。

  ――やがてパードレたちが運んだ切支丹は その元から離れて得体の知
   れぬものとなっていこう。

 そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息を洩らした。

  ――日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ パードレ。

 奉行の溜息には真実 苦しげな諦めの声があった。
 菓子を賜わり 礼を申しのべて通辞と退出をした。
    (遠藤週作:『沈黙』 IX)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 コメントなしです。
 * 黙示録の文章で 人間から神に対して語るかたちというのは 衝撃的です。が うぅーん。その思想は そうすると どこへ向かっているのですかね。いま一つわからなくなって来ますが。

補足日時:2008/02/17 23:50
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たびたびお邪魔します^^


brageloneさんの提供されるテーマがとても面白いです。


宗教が警戒されるのはオウム以後かと思ってましたら、日本人の宗教アレルギーは戦前からあったみたいですね。「無神論」と仰る方に伺うと「情けは人のためならず」とか「人に迷惑をかけるな」みたいなものをモラルの根拠にしていらっしゃるんですね。
でも、人間である限り『宗教的感情』っていうのは誰でもあると思います、私見ですけど日本人の宗教的感情は恋愛にあったのではないだろうかと思うのですがどうでしょうか?
歌舞伎の心中物とか、恋に命かけますよね。最初から死ぬのを覚悟で駆け落ちします、まるで殉教みたいです。「究極の愛」の形が「心中」になるって外国にはないんじゃないでしょうか?
それから主君のために切腹したりしますよね、それもなんというか恋愛に近いようなものが根底にあるのじゃないかと思っているのです。

神という形而上学的な存在じゃなくって、人間のようなもっとわかりやすい「目に見える存在」、そういうものに日本人は絶対を誓ったり命をかけることができるのではないかと。
そう考えると『天皇制』というよく分からないものがなんとなくわかるような…

この回答への補足

 みなさんからご投稿をいただいています。みなさんのご見解が 互いに 間接的にせよ 交流していくようなかたちになれば いいなと感じます。
 
 今回は 日本人も 決して 生温くはないぞという側面を出していただいた恰好です。ありがとうございます。

 心中あるいは 道行きと言ってもいいのでしょうか。つまり これにしろ 家来が死を覚悟で主君の至らぬところを叱責するにしろ たしかに ここには(つまり それぞれの当事者たちの心には) 絶対が あります。その信仰があります。決して 観念的なものなんかではありません。信じるところをまっとうしようというのは 生ぬるさを跳ね除ける息吹きのようです。
 (心中は 殺人であるということは 断り書きをしておきます)。
 しかもこの大前提で わたしは言いたいことがあります。恋愛において この絶対観(もしくは絶対感覚)があっていいはづなのに もう昨今は 見られないのではないでしょうか。切腹の覚悟もあまり必要ではなくなったでしょうし あてどのない道行き(結局は 死出の旅路)もやはり必要がなくなったようです。これらの必要は しかるべきように無くなったのですから そこで 宗教的感情が ふつうに 発揮されてよいはづなのに どうも そうはならなかったように感じます。どうでしょう。

 もう一点。天皇制については おそらく 封建制における主君に対する忠節のようではなく 人間として良き紐帯が その気持ちとしても あるのであれば それは それとして よいことだとも思いますが 少し 別の考えをわたしは持っています。
 つまり この人間としての良き紐帯のとしての絆は 宗教的感情そのものではないように思います。理由は 従属という実態のあった封建制度としては 忠節心が 宗教的感情にまで高まったと思われますが まづ単純に 制度と環境が違ってきております。ですから おそらくいま もしそのような高まった気持ちがあるとすれば やはり心理の社会的な共同としてではないでしょうか。一般にこれは 信仰ではないと思われます。幻想とは言わずとも 気持ちの持ちようが 習慣として続いているのだと見られます。
 もう一つの理由は 歴史としては 戦前に 人びとは けっきょく 天皇の赤子として 天皇を信じたということですが これは すでにその当時から その振りをしていたのだという統計と分析が出ているようです。かなりの割合だと言います。(加藤周一で読みました)。
 私見を長々と述べさせてもらいました。さらに 互いに 煮つめていければいいですね。

補足日時:2008/02/18 00:37
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日本人の「絶対」について補足します。

キリスト教の絶対者との関係のような不変なものではなく、恋愛のような状況や関係性においておこる「絶対」という意味です。
日本人と天皇の関係もそのような可変的なものではないかと思うのです。

この回答への補足

 (20080218記)
 幕間の余興として 《恋愛》の問題です。
 ヨーロッパ人の場合の類型を

 ・《アベラール‐エロイーズ》なる対(つい)関係の形式

として想定したことがあります。要するに 神のもとに結ばれるという形式です。(実現・未実現を問わずです)。これは キリスト信仰でなくても 意外と 見られます。

 ・ギリシャ悲劇:たとえば エウリピデースの《ヘレーネー》とメネラー
   オスとのハッピー・エンド形式
 ・ローマ神話:たとえばウェルギリウスの《アイネーイス》でのアイネー
   アースとディードーとの悲恋形式
 ・北欧神話:たとえば《ニーベルンゲンリート》でのジークフリートとク
   リームヒルトの悲恋形式

などです。
 エウリピデースの描く《ヘレネー》は メネラーオス王の妃ヘレネーが トロイアの王子パリスによって トロイアにまでは 実は 連れ去られていかずに 途中エジプトに漂着し かのじょだけは そこに留まったのであって トロイア戦争の原因となりメネラーオスの兄アガメムノーンらがその奪還の対象としたヘレネーは ただ パリスとともに その幻影 (エイドロン)として赴いたにすぎないとします。
 そこで トロイア戦争からの帰途 メネラーオスはやはりエジプトに漂着するのであって そこでヘレネーと再会し かれは かのじょを エジプト王テオクリュメノスの手から 一計を案じて 奪い返し 首尾よく幸せにも二人は 故国への帰還の途に就くと言います。

 すなわち――もとよりこれは 一説ですが―― 神々の神であるゼウスのその娘であるヘレネーは メネラーオスとの対(つい)関係において 決して言われているような淫らな女ではなかったとするのであり このエウリピデースの一視点は 大づかみに言って ここで 《いまはキリストにおいて愛し合うアベラールとエロイーズ》の対関係形式の原形であるかにも見られます。もしくは逆に 一たん 《アベラール‐エロイーズ》類型へと高まったあと むしろ現実的には その《メネラーオス‐ヘレネー》形式へと還るほうがよいとも考えられるようです。

 もっとも 対関係の形式が あたかも源氏物語でのように 《うちつけのすきずきしさ promiscuity 》なる時間として 流れると見なければならないところも あるわけです。
 人と人の関係において単なる心理の共同としての《うちつけのすきずきしさ》類型 これの枠を 脱し得なかった例は 

 ・《カルタゴの女王ディードーの トロイアの王子でありローマ建国への
  漂浪の旅の途中にあるアイネーアースへの悲恋》形式
 ・《ネーデルラントの王子ジークフリートの ブルグンド王女クリームヒ
  ルトへの恋の 未実現》形式

などです。これらの場合は まつりごと(政治)という問題がからんでいるようです。アイネーアースのローマ建国(――つまり 祖国トロイア陥落ののち 別の地に自らのナシオナリテを存続させるというからには 政治行為である――)という共同観念の問題 またはブルグンド宮廷の国家=民族の存続を優位におくという政治的な共同観念の問題 それぞれのもとに 対関係時間が 流れており かつ 二人のうちいづれか一方が ついえてしまうことで 不成立に終わるようです。
 どなたか トリスタンとイゾルデの話しをご存じでしたら どのような類型になるか おしえていただけるとありがたいと存じます。(気になっていたのですが よくは知りません)。

補足日時:2008/02/19 11:03
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この回答へのお礼

 ああ そうでしたか。
 了解です。広く気分や気持ちと言っていいような人と人との関係 あるいは 社会一般としての意向のようなものでしょうか。
 《可変的》というところが いいですね。

 そうなると この気持ちとしての絶対が まだ とうぜん 相対的なことであるので 一つには やはり 相体性の世界であるとはっきり いつも 断わっていることが大事でしょうし もう一つには そうなると どこか やはり 生ぬるいという批評を ややもすると 受けることになるかも知れない。こういう方向へも また 行くかに思えて来ました。どうなることでしょう。

お礼日時:2008/02/18 00:45

 いよいよここまできましたね。

日本人は生ぬるいと存じます。
 意味は、みなさんがお感じになっておられる通りでありましょう。
 白く見えない白人の性(心性)、黒人のそれ、騎馬民族が出入り盛んな中国や朝鮮のそれからみれば、私もよく感じるところです。
 それが故に吐き出神もいましょう。
 でも、この日本心性はその黄色い(寧ろ、白さは暖かい焼き物の肌のいろだと思うが)肌を持つ肉体という服の、単なる見えよう、ありようでしかなく、至高・究極の意識・存在との関係という素(そ)なるものは全く同じと、私も存じております。だから文化とその心性の問題であるから、いろんなヴァラエティを認め、そこに価値的な判断は介在させる必要はないと、存じております。
 吐き出す神、一為る神の多様な段階の一形態に過ぎないので、そういう神の存在というヴァラエティ性も別に否定も肯定もしておりませんし、そこにも価値判断は介在させる必要はないと存じています。

 うんと熱くても、生焼けでも、開闢以来、年中すったもんだと、批判され、欠点をあげつらいあうことばかり。というのが白い、黒いの両方にあるので、生温い仕方、感じかた、受け応え方だから、どうだと。ということにもなりえない、と存じます。
 みな所詮は創造者の創造にかかるものですから。

この回答への補足

 こんな質問が ふと 浮かんだものですから 軽い気持ちで(というのは いいかどうか分かりませんが ただみなさんのお話を伺おうとの思いで)立ててみました。
 おおきな問題でもあるようですし もしそうだとしても なかなかその核心には 進み入ることがむつかしいことなのかも知れません。
 そして 例によって と言うと叱られますが krya1998さんの大局観ですね。
 遅ればせながら まづは おはようございます。考えてみれば そろそろ春の声を聞くかに思われるようにも 時は経っていくようですね。

★  神の存在というヴァラエティ性も別に否定も肯定もしておりませんし、そこにも価値判断は介在させる必要はないと存じています。
☆ いわゆる宗教の側から見れば ひとこと言いたいと来るかも知れませんが おっしゃるとおりだと考えます。つまり 
★ 至高・究極の意識・存在との関係という素(そ)なるものは全く同じと 私も存じております。
☆ とわたくしも存じております。そして もし世の中にはちゃめちゃの井戸端会議が絶えないとすれば それは 《至高・究極の存在と われわれ一人ひとりとの関係》のあり方で 起こっているのだと考えられます。
 このとき さらになお究極は 宇宙のどこかの星に腰かけて 見守っているということでしょうか。(krya1998さんのように うまく表現しえていませんが)。
 さらにそして もし議論が生じるとすれば 世界中の井戸端会議をじっと見ている(あるいは 放っておく)神とは 何ぞやという疑いが 人の心に現われたとき どうするかではないでしょうか。
 しかも お節介にも 他人のその疑いについて どうにかしてやりたいと わたしが思ったときではないでしょうか。神は何もしないでしょうし わたしも神に代わって何かをするわけのものでは 到底 ありませんが こんどは 人間どうしとしての観点からだと思います。
 その《疑う人》たちに (1)神を見させようとするのか (2)神について語るのか (2)神のことは措いておいて 人間のことばで(つまり一般に哲学で)語り合っていくのか こうだと思うのです。
 わたくしのいまの立ち場は 
★ みな所詮は創造者の創造にかかるものですから
☆ 井戸端会議のもめごとも (3)のしょうもない人間の言葉で交渉しても 究極において 分かり合えると思っているところにあります。《すったもんだ》も ただその疑いびとたちが好きでやっているのなら もうお節介も要らないでしょうし そうでないのなら 少々お節介を焼こうかなともなるでしょうし。・・・
 これは けっきょく 前々からの一種の対立点でしたね。

* 騎馬民族の問題は 江上波夫で知ったのですが 結構大きなもののように感じています。何も日本を征服したということではなく むしろその――上に出てきた《疑う人》の問題にも もろに かかわる――思想のほうに 注意が必要ではないかと思っております。外交と統治の能力に長けており いい国があれば そっくりそのまま乗っ取るという思想です。自分たちは ものづくりや生産をやりません。相手のいいところを全部 自分のものにして 繁栄をめざすというところです。和を尊び 社会の秩序の維持には 抜群の能力を発揮すると言います。うんぬんです。
 金融資本主義の問題にまで行くのかどうか。日本のアマテラス族の問題に行くのかどうか。(後者では わたしの基本的な立ち場は もともと普通の正統の歴史知性による社会の共同自治の上に 騎馬民族の乗っ取りの思想が――スーパー歴史知性の《活躍》が―― 覆いかぶさったのだという見方にあります)。不一にて。
 (言うとすれば 征服ではなく 思想による征服ですね。つまり この思想を輸入した日本人がいるのだと考えます。悪者探しではなく 《ヨセ(人びとを寄せる)》の思想が問題なのではないかと)。

補足日時:2008/02/18 10:16
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フェレイラのお話は、中々面白いですね。


キリスト教が根ざさなかったのは
キリスト教が悪いわけではないですね。
仏教でも、キリスト教でも求めてるのは
純粋な人間性ですね。
只、仏教とキリスト教では家風が違いますので
その場所に合ったものが求められると思います。
植物でも、同じですね。
ここのサイトでも、聖書の言葉を見かけますが
何を言ってるのか、すぐわかります。
同じ言葉が仏教にもあるからですね。
同じ感覚をどう表してるかの違いだけで
感覚は同じですから。
まあ、貴方の形に添えば、仏教もあればキリスト教もあります。
アンパンもあれば、クリームパンもあります。
どちらでもお腹は膨れますので、お好きなほうをどうぞ。です。
でも、少しでも毒が入ってたら生命や心に危険がありますので
初めから手をつけないように・・・。
ちょっと、宗教を批評してみました。^^
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この回答へのお礼

 どうも こうして みなさんとやり取りするのが わたしは 好きなようです。その中で 互いに 考えなどを煮つめていければ いいですよね。
 ご回答をありがとうございます。
 なるほど。《家風》はあるかも知れませんね。特に同じようなものなら ふたつは要らないかも。わたしにしても 個人として信奉しているのは ひとつに絞られますから。
 《純粋な人間性》 いいですね。

 パンに毒が入っていないかを考えるのが哲学でしょうね。毒か毒でないかを見分ける基準も 決して単純ではないでしょうから われわれも研鑚を積むといったところでしょうか。(そして世界へ と言っていくときではないかとも愚考しています)。
 * 宗教は おこないとしての悪い面もありますが その基本的な思想においても まちがいがありえますので 多少勇み足でも 批評・批判は 大事だと考えています。宗教の側も 勇み足くらいの批判を受け付けないようでは それは 中味がだめなのだとわたしは思います。

お礼日時:2008/02/18 09:33

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