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 設問した主題をめぐって 遠藤周作が 次のように書いています。つまり《黄色い人》は 特には われわれ日本人を指して言っているはづです。これを批評・批判してください。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 神さまは宇宙にひとりでいられるのがとても淋しくなられたので人間を創ろうとお考えになりました。そこでパン粉を自分のお姿にかたどってこねられ竈(かまど)で焼かれました。

 あまり待ちどおしいので 五分もたたぬうちに竈をおあけになりました。もちろんできあがったのは まだ生やけの真白な人間です。《仕方がない。わしはこれを白人とよぶことにしよう》と神さまはつぶやかれました。

 こんどは失敗にこりて うんと時間をかけることになさいました。すこしウトウトとされているうち こげくさい臭いがします。あわてて蓋をおあけになると 真黒に焼けすぎた人間ができているではありませんか。《しまった。でも これは黒人とすることにしよう》。

 最後に神さまはいい加減なところで竈をひらかれました。黄色くやけた人間が作られていました。《なにごとも中庸がよろしい》。神さまはうなずかれました。《これを黄色人とよぼう》。(童話より)

   我 汝の業を知れり。即ち汝は冷ややかなるにも非らず 熱きにも非
  らざるなり。寧(むし)ろ冷ややかに 或いは 熱くあらばや。然(しか)
  れども汝は 冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに 我は
  汝を口より吐き出さんとす。(黙示録)

   (遠藤周作:『黄色い人』 冒頭)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたし自身の考えは どうも 遠藤のこの人間の性格(?)を三種類に分けた設定じたいが ぴんと来ないので そのことを問題にしたいと思っています。ですが もしこの設定に沿うならば どういう反応や評価がありうるでしょうか。ぜひ おしえてください。

 * 変な感じの高みの見物のように みなさんの回答を見てみようとしているのではないかとお叱りを受けるかも分かりませんが どういうふうにこの文章を一般には捉えるのだろうか それが知りたいです。
 →この中庸でいいのだと ある意味で開き直るのか / いやいや開き直りですらない いまのままでいいのだとなるのか / そもそも 設定がおかしいだけではなく 生温いという規定じたいが まちがいだとなるのかなどなどです。
 * 遠藤周作のキリスト信仰は 発表された限りでは まやかしだとわたしは思っています。
 * 次の質問と姉妹関係にあるはづです。
  ・《Q:〈絶対〉の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?
   = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3738300.html
  ・《Q:男と女= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3689191.html

A 回答 (24件中11~20件)

順番に返答していきたいと思います。


まず本来の質問に…
生ぬるいとも言えないが、生ぬるくないとも言えない。ですね。


集団批判とは…
個の責を属する集団に乗せることでそれを紛らわせて隠す。
逆にその責を上から広げることで集団に属する全てを非難する。
こんなことも出来ますし、する者も居ます。
どんな風にでも使える便利なものですよ…だから嫌いです。
それに、一般論を語るならば一般から漏れた者からの批判は受けるべきでは?
それと、議論とは一方的な批判をぶつけることではないですよ。


汝と我を入れ替えた後で、その前文として
「何故吐き出されたか分かるか?」
とつけてみて下さい。
因みに汝を被らせる相手は神でなく第三者の人間でも構いません。
我は汝に問い掛けるのではない、汝より問い掛けられているのだ。


宗派同士で相手の貶し合いをする宗教が排他的でないとは到底思えません。
そもそもキリスト教がどれだけの宗教と信仰を潰してきたことか…
教義も神の解釈も違うのにキリスト教を名乗るのですから汚名は甘んじて被っていただかないと。


>人間の努力の果てるところから 信仰が始まります。
この前提の出所とその論証をお願いします。

個々の人間の心の中に描かれた神、それを己から出すことが宗教であると考えています。
心の中だけに存在する場合と再び己に入れた場合は宗教でなく信仰ですね。
政治的・経済的な成功を求めている宗教は私から言わせれば詐欺集団でしかありませんね。
宗教の成功とは人を支配するのではない、その人の心の中に立つ神を支配するのだ。
最後に一つ、救われぬ者が次の救いを求めないとは限らない…なんとも馬鹿なことにね。


表面上は冷静を保ちたいですが、感情が頭どころか体中を巡っています。
ので、破裂しない内に失礼致します。

この回答への補足

 なにかわたしの気づかないところで 起こっているようで どうしていいか 戸惑っています。
 普段は もう寝ている時間ですが 今夜は 起きていました。大筋において わたしの率直な考えと分からないところを お伝えします。

(1)集団批判ということについて まだよく分かっていないと気づきました。
 個人だけにではなく その人が属している集団にも その個人の責任に対する責任があるとすれば 集団も共に責められるでしょうし なければ その集団への責めは 不当なものです。
★ 一般論を語るならば一般から漏れた者からの批判は受けるべきでは?
それと、議論とは一方的な批判をぶつけることではないですよ。
☆ ここが よく分かりません。一般論というときには 当てはまらない場合があるかも知れないけれど そこは ある程度の割合に対して当てはまるならば そのことで 論じますので おことわり申し上げますという趣旨だと考えるのですが。
 批判は 相手が 気づいていないところを指摘し その妥当性に欠ける部分を論証することだと思います。その批判を提出することまでは 《一方的に》おこなうものと思いますが。

(2)《「何故吐き出されたか分かるか?」》を前文につけると言われましたが 吐き出すのは 神ですか 人間の我ですか。神だと思うのですが この文は 人間が言うのでしょうか。
 《汝を被らせる》の《被らせる》がよく分かりません。かぶらせる・こうむらせる でしょうか。
 《相手は神でなく第三者の人間でも構いません》――これは ここでは 別の問題になってしまいます。なぜなら 神がパンを焼いて 人間を造るという想定だったからです。あくまで 神と人との関係でなくては 話しがちがって来ます。それとも その別の形としても 応用できるという話しでしょうか。
 それとも こういう話しでしょうか。つまり 《神よ なぜ我は 汝を吐き出したか わかるか?》というような。でもこれだと 神は それは どうでもよいと答えると思いますが。

(3) わたしが 宗教の肩を持つことはしないわけですが 現在の日本にあるキリスト教団体は たいていは 排他的ではないですよ。議論することは 排他的だとは言わないと思います。過去は また別の話しになるでしょうが。

(4) 信仰の成り立ちは 絶対の概念の想定とともに 説明されます。人間の経験思考を超えたところに 絶対が想定され それとの関係が 信仰ですから 《人間の努力の果てるところから 信仰が始まります》。
★ 個々の人間の心の中に描かれた神、それを己から出すことが宗教であると考えています。
☆ これは 後半が あいまいだと思います。なぜなら 内面における良心・信教の自由とともに 外面において 表現の自由や結社の自由も 人間社会にとって 大前提となっています。《己から出す》が 表現することでなく 別の意味でしたら おしえてください。つまり 自己表現としての信仰告白でしたら それは まだ 教義や組織や教祖の問題ではなく その手前にとどまって 個人の信仰を表明しただけだと見なしうると考えます。
 
 このあたりで お返ししたいと思いました。言論は貴いものです。自由に もっと自由に 問題をそのものとして特定して述べるようにして おしえてください。気づかないところは いかんともし難いものです。どうぞよろしくお願いします。

補足日時:2008/02/19 01:29
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こんばんは、brageloneさん。



日本人は生ぬるいですか?
ええ、好みはありましょうが、ひとはだがちょうどよい加減?
お酒はぬるめの燗がいい~♪ ー舟唄よりー
寒ぶい夜は なおさら ひとはだ 恋しく なるものです。
と、ぬるいことをちょっと言ってはみたものの
日本人とくれば、『鉄は熱いうちに打て』たたら製法←これ好きなんです。

先にことわりをひとつ。こんな調子ですから…
今回もまた井戸端会議になりましたら、(^人^)ごめんです。

遠藤周作さんの名を挙げておられたので、周辺をあたってみました。
ちょっと気にとまったところをニ、三。
遠藤周作さん1923年3月満州にて生まれています。1923年9月には関東地方南部を襲った大地震、いわずと知れた東大震災が起き、この年(1923年)の11月に日本医師会が創設と。で、何をひっぱり出してきたかといえば『結核』なんかどうもこれが怪しいような気がするんですよ。三種類に分けた設定とくれば、遠藤周作さん三度に渡り結核を発症されていた。【結核】http://www.weblio.jp/content/%E7%B5%90%E6%A0%B8「ダンチョネ節」の原点ではないですがhttp://www.8107.net/akira/danchone.htmlここもオーバーラップするんですよね。また、結核に目をやれば『抗酸菌』は結核菌、癩菌、非定型抗酸菌の3種類に分けられてる。ここも気になるところです。うんで、『白い人』『黄色い人』の本へ飛べば、
*********************************************************************************
http://www.eleclib.com/Outline/JOutline1.html

「白い人」の主人公は抗独運動家となったかつての知り合いを占領下のドイツ軍に協力し裁き、拷問する。主人公における良心の麻痺、悪への陶酔、人間不信の感情がどこから生じたか主人公の生い立ちと環境の中に設定する。

 「黄色い人」は、友人の許嫁を何らの呵責も感じずにおかす日本青年と女をおかし神父の座を追われた背教者デュランの心の変化を描く。

***********************************************************************************
こりゃ、下地は自身(遠藤氏)の闘病体験がもとになってるのか?とも。
1952年といえば、彼が肺結核を発症した年。『…占領下のドイツ軍に協力し裁き、拷問する。…』っていうのは自身の体に抗結核薬を用いたことを書いてあるのではないか。ドイツそしてアメリカ…、投薬による副作用、及び禁止注意事項による制限がかかる、ある意味自由奪われ拘禁状態そのことをさして『拷問』という言葉になぞらえていたのか。外界(人)との接触も制限される。隔離。いやいや、そればかりではなく肺結核の症状が綴られてあるのかも。なまぬるい…38.0度を越し高熱ともなれば抗体もじきにできようものに、なぜかしら37.0度前後の間を行ったり来たりの微熱。だるさが全身に襲いかかる。副作用による自己免疫性溶血性貧血疾患の疑いもあったのか?
自己免疫性溶血性貧血とはhttp://www.nanbyou.or.jp/sikkan/116_1.htm
肺結核の症状:当初は全身倦怠感、食欲不振、体重減少、37℃前後の微熱が長期間にわたって続く、就寝中に大量の汗をかく等非特異的であり、咳嗽(痰は伴うことも伴わないこともあり、また血痰を伴うことがある)が疾患の進行にしたがって発症してくる。昔は「不治の病」「難病」と呼ばれていた。イソニアジド(Isonicotinic acid hydrazide、イソニコチン酸ヒドラジド、INH). 代表的な抗結核薬の1つで殺菌的にはたらく。肝障害が起こることがあるので本薬服用中は飲酒を控えるべきである。長期体内にアルコールがある状態では、くすりを毒性に高い物質に変換する酵素(肝ミクロゾーム)の活性が増し、その結果として、イソニアジドが毒性の強い代謝物に変換され、肝臓に障害を起こす恐れがある。1952年ドイツと米国でほぼ同時に抗結核作用が発表され,同年11月医療基準に収載
イソニアジド
http://www.yakujien.com/Pages/u_keka/iso.html
ストレプトマイシン
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_761573610 …
ほにゃらほにゃらと思い巡らせてみていくと、 遠藤周作著の『沈黙』これまた興味深い。
沈黙になぞらえ『秘密の保持Keeping confidentiality』
http://www.weblio.jp/content/%E7%A7%98%E5%AF%86% …

●…つまり《黄色い人》は 特には われわれ日本人を指して言っているはづです。

《黄色い人》つーのは、単に日本人をさして言っているばかりではないように思うのですよ。器官にへばりついた粘液(痰)、体力も衰え寝たきり、容赦なく吸引される。器官にへばりついた粘液(痰)、とどまることを許されぬように。
【たんの吸引】
http://www.jscf.org/jscf/SIRYOU/kokyuuki/050416k …
http://www.e-meducation.jp/lec/img/lecture1d.swf
【源氏物語の『末摘花』について】
http://www.asahi-net.or.jp/~tu3s-uehr/kisoen-08. …
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/text06.html
【その他】
http://www.naka.jaea.go.jp/nyumon/nyumon1-1.html
http://lenr-canr.org/acrobat/MizunoTjyouonkaku.pdf
http://staff.aist.go.jp/a.ohta/japanese/study/RE …
http://www.mor.aichi-gakuin.ac.jp/sigakubu/kiso/ …
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 黄色い人は 日本人のことでないとすれば 結核にかかった人という意味でしょうか。そういう人は 中庸を重んじるが 熱くもなく冷たくもなく けっきょくは 神によって 吐き出されてしまうと 遠藤周作が言っているという意味でしょうか。遠藤は この作品にかこつけて 自分の愚痴をこぼしているという理解でしょうか。

お礼日時:2008/02/19 00:25

長いお返事ありがとうございます。

天皇制が出たついでに「あいまいさ」とつなげてみます。
丸山真男が、第二次大戦の軍部の責任体制のあいまいさについて批判していますね、ご自分も出征したせいか、あの明晰な文章に怒りがにじんでいるように感じました。
一応最高責任者は昭和天皇ですけど、直接コミットはしていない、東条英機ですら「命令された」と述べているようですね。独裁者は出ない代わりに、一体責任者は誰なのだ?ということでそういう日本の社会システムというのは日本人のあいまいさとつながるでしょうか?
ちょっと飛躍したかもしれませんが。
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この回答へのお礼

 どんどん 次へ次へと 進みますね。おもしろいです。ご回答をありがとうございます。

 丸山真男については 関心と注意をもって読んでいるのですが なかなか うまく批評したりできていません。うまくまとめた覚え書きすら出来ていません。(情けなや!)。ですが つづってみます。

 《無責任体制》 そのとおりだと思います。公然でないとしても ほとんどの人が これを認めているのではないでしょうか。また 現在にまで そして社会の隅々にまで 拡がっていると言い切っていいと思います。
 その《あいまいさ》 つまりは《はっきりしない・させない生ぬるさ》  これらは つながっていると言っていいのではないでしょうか。
 ここでとつぜん 観念的・思弁的になりますが 《無責任体制》の《無》とは 《空》と捉えて もし経験的な有無を超えているとすれば それは結局 《すべて》でもあります。つまり 皆の《連帯責任体制》でもあるということになります。
 でも やはり あいまいにしておきたいということでしょうか。

 今回は 自分の中のこととして 達成感のないお応えに終わってしまいます。(現代史としての天皇制あるいは靖国神社であるとかの問題については わたしの場合 古代史をつうじての日本・日本人・日本社会・日本国などの解明とその議論を先におこなうというかたちでした。要するに 勉強不足です)。
 (課題を挙げておいても いいですし くわしく論議にかけていただいてもいいですし。その場合には ぶっつけ本番ですが 勉強しつつ 討議についてまいります)。
 (丸山真男には 古代史に題材をとった議論がありました。《なる》と《する》ですとか その前者が 《通奏低音》として成り響いているですとか。《なる》という大前提では 《人為的に 徹底しておこなうという形を採らない。実際に もし そうおこなっていたとしても やはり その捉え方としては ものごとは あくまで自然成長としてのごとく 〈なる〉のだ》という世界観が 重低奏のように 響いているのだとか。)

お礼日時:2008/02/19 00:11

どうやら私の言いたいことは殆ど伝わっていないようですね。


こういうのもなんですが、予想通りですので補足と追加の回答です。

自己批判の姿勢は大切だと思いますよ。
それも批評で書いたつもりなのですが読み取られていないので補足。
汝とされている所を我にすれば我を温き者として見ていることになります。
それを批判すれば、それは自己批判です。
しかし黄色人を批判するならば、それは自己ではなく属する集団への批判です。
更にそれは抜けることの出来ない集団であるが故に、属する異端者への不当な非難です。
表立って存在するものがその全てではないのですから至極当然のことなのですがね。
例えば日本人らしくない日本人を、日本人と括って批判することは正しいでしょうか?
これで分かっていただけると思うのですが…

《日本の何か》に対しては否定的な見方をしています。
現状への不満があり、そこに新たな救いを訴える宗教が入ってきて、貿易の為とは言え統治者が受け入れる姿勢を示していた。それにも関わらずキリスト教が余り根付かなかったのは《日本の何か》のせいではなくキリスト教が異教徒やその神に対して排他的な宗教であったからだと思います。
実際に仏教は宗教としても風習としても日本に根付いていますしね。

ここから先は宗教への少々過激な思いを綴っておきます。
崇拝による救いを求める者には更なる欲望を与え
努力による救いを求める者には報われぬ失敗を与え
忍耐による救いを求める者には憤怒と絶望を与え
無条件の救いを求める者には無慈悲に死を与える
歴史を紐解けばこれらこそが神の所業ではなかったか。
心の中に神を描き、救いを求めても、来る救いは神の所業に非ず、人の所業に成り果てる。
救われなかった、救いを求めた者がそう思った時こそが神の所業を感じる時ではないか。
それこそが人の業、そして宗教の罪だ。

この回答への補足

 藪にらみと言えば 変な意味がついてくるので いけませんが 斜め読みと言いますか あるいは 斜交いに視線を投げかけて ちがった角度から その対象を鋭く捉えるといった作業をしておられるように感じました。まづは ご回答をありがとうございます。

 (1)結論から申しますと いくつかの読み方があるというのが わたしの見方です。
 たとえば早い話しが わたくしは 日本人ですが 決して 生ぬるくは ありません。(家にいて ぐうたらな時間を持つといったことを別とすることが出来るでしょうから)。異端者かどうか知りませんが 少数派もしくは例外に属すると思います。
 ですが 遠藤の文章は 一般論として 日本人について 語っているものです。そのことに 特別の違和感もなければ 不当な批難を浴びたと思ってもいません。議論というのは そういうものではないでしょうか。
 中味が問題であるということだと思います。自分が当てはまる場合もあれば 当てはまらない場合もあるでしょう。ですが 問題は その中味であり 多少とも 議論するに値するのであれば そのように進めていけばよいと思います。
 
 たしかに 見方はいろいろでしょうから jd8hnshuahさんのおっしゃるような不都合があると いま わかったのですが もしそうでしたら どうでしょう 次のような選択があると言えるでしょうか。
 ( a )自分は 該当しないので 議論に不参加。
 ( b )該当しないが 議論に参加。
 ( c )いづれにしても その遠藤の命題は これこれの点で 成り立っておらず 議論は不可能と論証する。
 などが考えられます。

(2) ですが もっと複雑なことをおっしゃっているようですね。
 わたしは 《我と汝》とを入れ替えると それは 人間が神に対して 正当にもというべきか 盾つく場合になると考えました。つまり たしかに 《自分を温い人》と自称するわけですから 《自己批判》をしているかたちですが それよりも この場合 あきらかに《神よ 我が温いからと言って なんで 汝は我を吐き出すのか》と直談判するかっこうになります。
 そうなると もし神との仲がよく もともと 親密であった場合だといいのですが そうでないと その楯突いた言葉は いったい どこへ向かって投げかけたのか あいまいになる。つまり 宙に浮いてしまうと考えたわけです。信じていないのですから 談判してみても 相手に通じないだろうという意味です。
 まだ 考え足りないかも知れませんが ひとまづ これにて お返ししたいと思います。

 (3) 日本では 《排他的ではないキリスト教》も あまり広くは普及しないようです。少数に深く滲透しているという見方もあるようですが。つまり 《排他性》が 必ずしも 決定的な要因ではないようにも見受けられます。

 (4) 《宗教への少々過激な思い》についてですが これは 総じて 倫理規範としての道徳であればよいという宗教のことだと思います。つまり 信仰についてではありません。
 人間の努力の果てるところから 信仰が始まります。それなのに 《努力による救いを求める者には報われぬ失敗を与え》という目の覚まし方を持ってくれば それは 信仰に対する批判ではないでしょう。
 信仰者が 集団として集まる場合は つまり宗教となる場合のことですが その場合には 研究集団の場合を除いて みづからの支配欲を満たすためにその組織を運営しようとするような広い意味での政治的活動であるか あるいは みづからの営利を目指して利己的な経済活動をするか であるとしか考えられません。これが わたしの見解です。 
 すなわち 宗教集団として 《心の中に神を描き、救いを求めても、来る救いは神の所業に非ず、人の所業に成り果てる》と わたしも考えます。その先が 少しちがいます。
 《救われなかった、救いを求めた者がそう思った時こそが神の所業を感じる時ではないか》 たしかに こういう場合もありますが 宗教としての政治的・経済的な活動は 案外 ある程度まで 成功するもののようです。それを求める人びとがいるということも 一つの理由でしょうが 一番の理由は 神が かれらに そう簡単に《救われなかった》という結果を見せて そう簡単に《悔悛》にみちびくとも限らない これです。好きなようにさせるいうのが 神の手だと見ています。はっきり言うならば 神は悪を野放しにしている これです。
 このほうが《過激な思い》だったでしょうか。そうでもないでしょうか。いづれにしましても そのように捉えております。(不用意には言えないことでしたが ぺらぺら しゃべりました)。

 どうでしょう。これで ひととおり お応えできたでしょうか。ぜひお考えをお聞かせください。

補足日時:2008/02/18 23:01
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フェレイラのお話は、中々面白いですね。


キリスト教が根ざさなかったのは
キリスト教が悪いわけではないですね。
仏教でも、キリスト教でも求めてるのは
純粋な人間性ですね。
只、仏教とキリスト教では家風が違いますので
その場所に合ったものが求められると思います。
植物でも、同じですね。
ここのサイトでも、聖書の言葉を見かけますが
何を言ってるのか、すぐわかります。
同じ言葉が仏教にもあるからですね。
同じ感覚をどう表してるかの違いだけで
感覚は同じですから。
まあ、貴方の形に添えば、仏教もあればキリスト教もあります。
アンパンもあれば、クリームパンもあります。
どちらでもお腹は膨れますので、お好きなほうをどうぞ。です。
でも、少しでも毒が入ってたら生命や心に危険がありますので
初めから手をつけないように・・・。
ちょっと、宗教を批評してみました。^^
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この回答へのお礼

 どうも こうして みなさんとやり取りするのが わたしは 好きなようです。その中で 互いに 考えなどを煮つめていければ いいですよね。
 ご回答をありがとうございます。
 なるほど。《家風》はあるかも知れませんね。特に同じようなものなら ふたつは要らないかも。わたしにしても 個人として信奉しているのは ひとつに絞られますから。
 《純粋な人間性》 いいですね。

 パンに毒が入っていないかを考えるのが哲学でしょうね。毒か毒でないかを見分ける基準も 決して単純ではないでしょうから われわれも研鑚を積むといったところでしょうか。(そして世界へ と言っていくときではないかとも愚考しています)。
 * 宗教は おこないとしての悪い面もありますが その基本的な思想においても まちがいがありえますので 多少勇み足でも 批評・批判は 大事だと考えています。宗教の側も 勇み足くらいの批判を受け付けないようでは それは 中味がだめなのだとわたしは思います。

お礼日時:2008/02/18 09:33

 いよいよここまできましたね。

日本人は生ぬるいと存じます。
 意味は、みなさんがお感じになっておられる通りでありましょう。
 白く見えない白人の性(心性)、黒人のそれ、騎馬民族が出入り盛んな中国や朝鮮のそれからみれば、私もよく感じるところです。
 それが故に吐き出神もいましょう。
 でも、この日本心性はその黄色い(寧ろ、白さは暖かい焼き物の肌のいろだと思うが)肌を持つ肉体という服の、単なる見えよう、ありようでしかなく、至高・究極の意識・存在との関係という素(そ)なるものは全く同じと、私も存じております。だから文化とその心性の問題であるから、いろんなヴァラエティを認め、そこに価値的な判断は介在させる必要はないと、存じております。
 吐き出す神、一為る神の多様な段階の一形態に過ぎないので、そういう神の存在というヴァラエティ性も別に否定も肯定もしておりませんし、そこにも価値判断は介在させる必要はないと存じています。

 うんと熱くても、生焼けでも、開闢以来、年中すったもんだと、批判され、欠点をあげつらいあうことばかり。というのが白い、黒いの両方にあるので、生温い仕方、感じかた、受け応え方だから、どうだと。ということにもなりえない、と存じます。
 みな所詮は創造者の創造にかかるものですから。

この回答への補足

 こんな質問が ふと 浮かんだものですから 軽い気持ちで(というのは いいかどうか分かりませんが ただみなさんのお話を伺おうとの思いで)立ててみました。
 おおきな問題でもあるようですし もしそうだとしても なかなかその核心には 進み入ることがむつかしいことなのかも知れません。
 そして 例によって と言うと叱られますが krya1998さんの大局観ですね。
 遅ればせながら まづは おはようございます。考えてみれば そろそろ春の声を聞くかに思われるようにも 時は経っていくようですね。

★  神の存在というヴァラエティ性も別に否定も肯定もしておりませんし、そこにも価値判断は介在させる必要はないと存じています。
☆ いわゆる宗教の側から見れば ひとこと言いたいと来るかも知れませんが おっしゃるとおりだと考えます。つまり 
★ 至高・究極の意識・存在との関係という素(そ)なるものは全く同じと 私も存じております。
☆ とわたくしも存じております。そして もし世の中にはちゃめちゃの井戸端会議が絶えないとすれば それは 《至高・究極の存在と われわれ一人ひとりとの関係》のあり方で 起こっているのだと考えられます。
 このとき さらになお究極は 宇宙のどこかの星に腰かけて 見守っているということでしょうか。(krya1998さんのように うまく表現しえていませんが)。
 さらにそして もし議論が生じるとすれば 世界中の井戸端会議をじっと見ている(あるいは 放っておく)神とは 何ぞやという疑いが 人の心に現われたとき どうするかではないでしょうか。
 しかも お節介にも 他人のその疑いについて どうにかしてやりたいと わたしが思ったときではないでしょうか。神は何もしないでしょうし わたしも神に代わって何かをするわけのものでは 到底 ありませんが こんどは 人間どうしとしての観点からだと思います。
 その《疑う人》たちに (1)神を見させようとするのか (2)神について語るのか (2)神のことは措いておいて 人間のことばで(つまり一般に哲学で)語り合っていくのか こうだと思うのです。
 わたくしのいまの立ち場は 
★ みな所詮は創造者の創造にかかるものですから
☆ 井戸端会議のもめごとも (3)のしょうもない人間の言葉で交渉しても 究極において 分かり合えると思っているところにあります。《すったもんだ》も ただその疑いびとたちが好きでやっているのなら もうお節介も要らないでしょうし そうでないのなら 少々お節介を焼こうかなともなるでしょうし。・・・
 これは けっきょく 前々からの一種の対立点でしたね。

* 騎馬民族の問題は 江上波夫で知ったのですが 結構大きなもののように感じています。何も日本を征服したということではなく むしろその――上に出てきた《疑う人》の問題にも もろに かかわる――思想のほうに 注意が必要ではないかと思っております。外交と統治の能力に長けており いい国があれば そっくりそのまま乗っ取るという思想です。自分たちは ものづくりや生産をやりません。相手のいいところを全部 自分のものにして 繁栄をめざすというところです。和を尊び 社会の秩序の維持には 抜群の能力を発揮すると言います。うんぬんです。
 金融資本主義の問題にまで行くのかどうか。日本のアマテラス族の問題に行くのかどうか。(後者では わたしの基本的な立ち場は もともと普通の正統の歴史知性による社会の共同自治の上に 騎馬民族の乗っ取りの思想が――スーパー歴史知性の《活躍》が―― 覆いかぶさったのだという見方にあります)。不一にて。
 (言うとすれば 征服ではなく 思想による征服ですね。つまり この思想を輸入した日本人がいるのだと考えます。悪者探しではなく 《ヨセ(人びとを寄せる)》の思想が問題なのではないかと)。

補足日時:2008/02/18 10:16
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日本人の「絶対」について補足します。

キリスト教の絶対者との関係のような不変なものではなく、恋愛のような状況や関係性においておこる「絶対」という意味です。
日本人と天皇の関係もそのような可変的なものではないかと思うのです。

この回答への補足

 (20080218記)
 幕間の余興として 《恋愛》の問題です。
 ヨーロッパ人の場合の類型を

 ・《アベラール‐エロイーズ》なる対(つい)関係の形式

として想定したことがあります。要するに 神のもとに結ばれるという形式です。(実現・未実現を問わずです)。これは キリスト信仰でなくても 意外と 見られます。

 ・ギリシャ悲劇:たとえば エウリピデースの《ヘレーネー》とメネラー
   オスとのハッピー・エンド形式
 ・ローマ神話:たとえばウェルギリウスの《アイネーイス》でのアイネー
   アースとディードーとの悲恋形式
 ・北欧神話:たとえば《ニーベルンゲンリート》でのジークフリートとク
   リームヒルトの悲恋形式

などです。
 エウリピデースの描く《ヘレネー》は メネラーオス王の妃ヘレネーが トロイアの王子パリスによって トロイアにまでは 実は 連れ去られていかずに 途中エジプトに漂着し かのじょだけは そこに留まったのであって トロイア戦争の原因となりメネラーオスの兄アガメムノーンらがその奪還の対象としたヘレネーは ただ パリスとともに その幻影 (エイドロン)として赴いたにすぎないとします。
 そこで トロイア戦争からの帰途 メネラーオスはやはりエジプトに漂着するのであって そこでヘレネーと再会し かれは かのじょを エジプト王テオクリュメノスの手から 一計を案じて 奪い返し 首尾よく幸せにも二人は 故国への帰還の途に就くと言います。

 すなわち――もとよりこれは 一説ですが―― 神々の神であるゼウスのその娘であるヘレネーは メネラーオスとの対(つい)関係において 決して言われているような淫らな女ではなかったとするのであり このエウリピデースの一視点は 大づかみに言って ここで 《いまはキリストにおいて愛し合うアベラールとエロイーズ》の対関係形式の原形であるかにも見られます。もしくは逆に 一たん 《アベラール‐エロイーズ》類型へと高まったあと むしろ現実的には その《メネラーオス‐ヘレネー》形式へと還るほうがよいとも考えられるようです。

 もっとも 対関係の形式が あたかも源氏物語でのように 《うちつけのすきずきしさ promiscuity 》なる時間として 流れると見なければならないところも あるわけです。
 人と人の関係において単なる心理の共同としての《うちつけのすきずきしさ》類型 これの枠を 脱し得なかった例は 

 ・《カルタゴの女王ディードーの トロイアの王子でありローマ建国への
  漂浪の旅の途中にあるアイネーアースへの悲恋》形式
 ・《ネーデルラントの王子ジークフリートの ブルグンド王女クリームヒ
  ルトへの恋の 未実現》形式

などです。これらの場合は まつりごと(政治)という問題がからんでいるようです。アイネーアースのローマ建国(――つまり 祖国トロイア陥落ののち 別の地に自らのナシオナリテを存続させるというからには 政治行為である――)という共同観念の問題 またはブルグンド宮廷の国家=民族の存続を優位におくという政治的な共同観念の問題 それぞれのもとに 対関係時間が 流れており かつ 二人のうちいづれか一方が ついえてしまうことで 不成立に終わるようです。
 どなたか トリスタンとイゾルデの話しをご存じでしたら どのような類型になるか おしえていただけるとありがたいと存じます。(気になっていたのですが よくは知りません)。

補足日時:2008/02/19 11:03
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この回答へのお礼

 ああ そうでしたか。
 了解です。広く気分や気持ちと言っていいような人と人との関係 あるいは 社会一般としての意向のようなものでしょうか。
 《可変的》というところが いいですね。

 そうなると この気持ちとしての絶対が まだ とうぜん 相対的なことであるので 一つには やはり 相体性の世界であるとはっきり いつも 断わっていることが大事でしょうし もう一つには そうなると どこか やはり 生ぬるいという批評を ややもすると 受けることになるかも知れない。こういう方向へも また 行くかに思えて来ました。どうなることでしょう。

お礼日時:2008/02/18 00:45

たびたびお邪魔します^^


brageloneさんの提供されるテーマがとても面白いです。


宗教が警戒されるのはオウム以後かと思ってましたら、日本人の宗教アレルギーは戦前からあったみたいですね。「無神論」と仰る方に伺うと「情けは人のためならず」とか「人に迷惑をかけるな」みたいなものをモラルの根拠にしていらっしゃるんですね。
でも、人間である限り『宗教的感情』っていうのは誰でもあると思います、私見ですけど日本人の宗教的感情は恋愛にあったのではないだろうかと思うのですがどうでしょうか?
歌舞伎の心中物とか、恋に命かけますよね。最初から死ぬのを覚悟で駆け落ちします、まるで殉教みたいです。「究極の愛」の形が「心中」になるって外国にはないんじゃないでしょうか?
それから主君のために切腹したりしますよね、それもなんというか恋愛に近いようなものが根底にあるのじゃないかと思っているのです。

神という形而上学的な存在じゃなくって、人間のようなもっとわかりやすい「目に見える存在」、そういうものに日本人は絶対を誓ったり命をかけることができるのではないかと。
そう考えると『天皇制』というよく分からないものがなんとなくわかるような…

この回答への補足

 みなさんからご投稿をいただいています。みなさんのご見解が 互いに 間接的にせよ 交流していくようなかたちになれば いいなと感じます。
 
 今回は 日本人も 決して 生温くはないぞという側面を出していただいた恰好です。ありがとうございます。

 心中あるいは 道行きと言ってもいいのでしょうか。つまり これにしろ 家来が死を覚悟で主君の至らぬところを叱責するにしろ たしかに ここには(つまり それぞれの当事者たちの心には) 絶対が あります。その信仰があります。決して 観念的なものなんかではありません。信じるところをまっとうしようというのは 生ぬるさを跳ね除ける息吹きのようです。
 (心中は 殺人であるということは 断り書きをしておきます)。
 しかもこの大前提で わたしは言いたいことがあります。恋愛において この絶対観(もしくは絶対感覚)があっていいはづなのに もう昨今は 見られないのではないでしょうか。切腹の覚悟もあまり必要ではなくなったでしょうし あてどのない道行き(結局は 死出の旅路)もやはり必要がなくなったようです。これらの必要は しかるべきように無くなったのですから そこで 宗教的感情が ふつうに 発揮されてよいはづなのに どうも そうはならなかったように感じます。どうでしょう。

 もう一点。天皇制については おそらく 封建制における主君に対する忠節のようではなく 人間として良き紐帯が その気持ちとしても あるのであれば それは それとして よいことだとも思いますが 少し 別の考えをわたしは持っています。
 つまり この人間としての良き紐帯のとしての絆は 宗教的感情そのものではないように思います。理由は 従属という実態のあった封建制度としては 忠節心が 宗教的感情にまで高まったと思われますが まづ単純に 制度と環境が違ってきております。ですから おそらくいま もしそのような高まった気持ちがあるとすれば やはり心理の社会的な共同としてではないでしょうか。一般にこれは 信仰ではないと思われます。幻想とは言わずとも 気持ちの持ちようが 習慣として続いているのだと見られます。
 もう一つの理由は 歴史としては 戦前に 人びとは けっきょく 天皇の赤子として 天皇を信じたということですが これは すでにその当時から その振りをしていたのだという統計と分析が出ているようです。かなりの割合だと言います。(加藤周一で読みました)。
 私見を長々と述べさせてもらいました。さらに 互いに 煮つめていければいいですね。

補足日時:2008/02/18 00:37
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どうも、お久しぶりです。


最初なので手短に答えていきたいと思います。

遠藤氏の文章に対しての批評です
黙示録の汝・我が逆であれば非常に面白い構成だったと感じます。温き者のいわば代表として己を挙げていれば、
汝を頭の中に巣食う神と被らせて読ませることが出来る秀逸な文章でしたのに…
無論、前後に繋がる言葉があるのであればそれも含めて批評しなおさなければ失礼かつ的外れになりますが。

その一方で童話は馬鹿馬鹿しいです。
神が初めから三種の人間を作ろうとした上で最後に《これを人間と呼ぼう》と白人・黒人を馬鹿にしたように皮肉ったのであれば批評のし甲斐もあったと言うのに。

二つの文章を繋げて批評するならば…温いのだから吐き出させずに飲み込ませればよかったのに、
こんな中途半端な白人・黒人に対しての皮肉と黄色人に対しての非難では…と感じます。
己への自虐はともかく、己の属する集団への自虐では私は満足できませんね。

中庸の定義合戦や日本人という集団への非難(=自虐)は望まない。と最後に言って今回は終了です。

この回答への補足

 その節は やり取りしましたね。今回もご回答をありがとうございます。

 そうですね。まだ 論議が まづは基本なのですが 入り口でとどまっているというべきでしょうか。
 うぅーん。自虐と自己非難は 同じかも知れませんが 自己批判とは これまた基本的に 別だと思いますよ。そうでなければ いわゆる反省ということばは もう死語となってしまう。・・・

遠藤ついでに もしそれがあるとするなら人を腐らせる《日本の何か》を追っておきます。こんどは やはりポルトガル宣教師の関連ですが 《日本と申す泥沼》と言っています。踏み絵などの情況下です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ――パードレ(=ロドリゴ)は決して余(=イノウエ筑後守)に負けたの
  ではない――筑後守は手あぶりの灰をじっと見つめながら――この日本
  と申す泥沼に敗れたのだ。
 ――いいえ私が闘ったのは――司祭(=ロドリゴ)は思わず声をあげた。
  ――自分の心にある切支丹の教えでござりました。
 ――そうかな。――筑後守は皮肉な笑いをうかべた。――そこもとは転ん
  だあと フェレイラに 踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申
  したそうだが それは己が弱さを偽るための言葉ではないのか。その言
  葉 まことの切支丹とは この井上には思えぬ。
  ――奉行さまが どのようにお考えになられてもかまいませぬ。

司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。

  ――他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ。――筑後守はつめたい声で言
   った。――かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことが
  ある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもな
  らぬ己の弱さに 衆生がすがる仏の慈悲 これを救いと日本では教えて
  おる。だがそのパードレは はっきりと申した。切支丹の申す救いは 
  それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけでのものではな
  く 信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみる
  とそこもと やはり切支丹の教えを この日本と申す泥沼でいつしか曲
  げてしまったのであろう。

 基督教とはあなたの言うようなものではない と司祭は叫ぼうとした。しかし何を言っても誰も――この井上も通辞も自分の心を理解してくれまいという気持が 言いかけたことを咽喉に押しもどした。膝の上に手をおいて 彼は目をしばたたいたまま 奉行の話をだまって聞いていた。

  ――パードレは知るまいが 五島や生月(いきつき)にはいまだに切支
   丹の門徒宗と称する百姓どもがあまた残っておる。しかし奉行所では
   もう捕える気もない。
  ――なぜでございます――と通辞が聞くと
  ――あれはもはや根が断たれておる。もし西方の国々からこのパードレ
   のようなお方が まだまだ来られるなら 我々も信徒たちを捕えずば
   なるまいが・・・――と奉行は笑った。――しかし その懸念もない。
   根が断たれれば茎も葉も腐るが道理。それが証拠に 五島や生月の百
   姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスと次第に似ても
   似つかぬものになっておる。

 頭をあげて司祭は筑後守の顔を見た。微笑は顔と口との周りに作られていたが眼は笑っていなかった。

  ――やがてパードレたちが運んだ切支丹は その元から離れて得体の知
   れぬものとなっていこう。

 そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息を洩らした。

  ――日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ パードレ。

 奉行の溜息には真実 苦しげな諦めの声があった。
 菓子を賜わり 礼を申しのべて通辞と退出をした。
    (遠藤週作:『沈黙』 IX)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 コメントなしです。
 * 黙示録の文章で 人間から神に対して語るかたちというのは 衝撃的です。が うぅーん。その思想は そうすると どこへ向かっているのですかね。いま一つわからなくなって来ますが。

補足日時:2008/02/17 23:50
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たびたびで、すみません。


質問としては、問題を解いてるみたいで
中々面白いのですが
文学者は、どうも言葉がややこしく
書いてるので、読むのがメンドクサイです・・・。
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この回答へのお礼

 何度ご回答を寄せてくださっても 大歓迎です。もし日本人にとって大きな問題であるなら 多くの人が見解を投じてくださるのが うれしいです。ありがとうございます。
 
 そうですね。わたしは 文学者ではないですが 文章が読みづらいかと思います。何しろ アウグスティヌスと格闘して 鍛えたものですから 大袈裟に言えば 一ページの半分とか三分の一くらいの一つの文というのは ざらですから わたしは 猿真似をするという修行をしたのです。つけが回ってきていますね。ここのところ 少しは意識しているのですが。・・・

 遠藤周作が出たたところで 別の文章を かかげてみます。次の中の《日本の何か》とは何ぞやというのが どうも かかわっているように思えます。戦国時代のポルトガル宣教師の物語です。
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・・・フェレイラはこの日本は底のない沼沢地だといっていた。苗はそこで根を腐らせ枯れていく。基督教という苗もこの沼沢地では人々の気づかぬ間に枯れていったのだ。

 ――切支丹が亡びたのはな お前が考えるように禁制のせいでも 迫害の
  せいでもない。この国にはな どうしても基督教を受けつけぬ何かがあ
  ったのだ。

 フェレイラの言葉は一語一語 司祭(ロドリゴ)の耳に刺のようにさす。
(遠藤周作:『沈黙』 VII)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この《何か》が もし《あいまいの美学を通り越した単なる生ぬるさ》であったとしたら つながって来ますね。キリスト教が根付かなくても いいのですが キリスト教を しっかりと 明確に批判すべきところは批判して そのあるべき姿を こちらが決めていけばよいと考えます。
 はりきって読んでくださると うれしいです。

お礼日時:2008/02/17 23:12

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