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こんにちは。キリスト教について勉強し始めたばかりのものです。

今,旧約聖書を読んでいるのですが,そこで書かれている神の所業がどうしても気に食わないのです。
というのも,神は自分の意に沿わない民を殺しまくりますよね?ノアの箱舟だって,信心深いノア以外は洪水で殺してしまいます。
あと,「殺すなかれ」と十戒で命じておきながら,イスラエルの民が他民族と戦争するのは容認しているし,時には勝利に加担したりしています。

これを読む限り,キリスト教が愛の宗教だと言われていることがどうも胡散臭く思えてくるのです。神が人を分け隔てなく愛する愛の宗教なら,人間同士の殺し合いを容認することはおろか,神自身が人を殺すこともあってはならないのではないでしょうか?

なんでキリスト教の神はこんな身勝手なんですか?また,クリスチャンはこれを唯一絶対の神と信じているわけですよね?だとすればこんな身勝手な神およびその御子であるイエス・キリストを崇拝する宗教が「愛の宗教」だとなぜいえるのでしょうか?

どなたか説明をよろしくお願いいたします。

A 回答 (16件中1~10件)

旧約は補完の聖書でして、書いているのは神様ではなく人間の目をとうして書いているのでそこを理解して欲しい。


テーマは信じるものはどうなるのか?ここを考えて欲しい。
怪獣をやっつけるのに町を壊すヒーローを見てなんていう事をするんだ!と怒り出す客はいない。水戸黄門さんが印籠を出す前に関係ない手下を懲らしめるが懲らしめる前に印籠を出すとか殿様に伝えるとかなぜしない?なんて考えて見る人もいない。

まあここが一神教の欠点ですが。。。
後神はその後自分のやってる事を悔い改めてるんですよ。だから和解するためにイエスキリストをこの世に送ったとも考えられます
 僕も悩みましたよ~

(絶対にこの通りになっているのか?これはわからない。たとえば主を信頼しても負けている戦もあるかもね?)

あまり深く考えないでくださいね。
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愛の宗教とは、キリスト教の一側面でしょう。



何にしろ一神教、神様が存在する事を説く宗教は「神様の思し召し」と言って自分たちの行動を肯定するものだと思います。
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No.12で回答させてもらった者です。



wonka1981さん、
今日はイースターでしたね。
教会へは行かれましたか?
主日礼拝で、牧師先生の説教をお聞きになりましたか?
その他にも、誰か聖書に詳しい人と話をする機会はありましたか?
回答したものの、中途半端だったので、その後のことが気になります。

でも、簡単に納得しないで下さいね。
「求めなさい。そうすれば与えられる」と聖書にも書いてありますが、
聖書を読みまくって、牧師先生を質問攻めにして、
それでも分からなければ他の教会へ行って、
疑問は全部ぶつけた方がいいと思います。
そして、神様に言いたいことがあるなら、直接ぶつけましょう。
聖書に出てくる偉人たちも、
常に神の命令にただ従っていた訳ではありません。
アブラハムはソドムの町を滅ぼさないように交渉しました。
(結局、ソドムは救われませんでしたが)
モーセは、主の怒りを鎮め、
イスラエルの民を滅ぼすことを思いとどまらせました。
ダビデは、ウザを打った神に対して怒りました。
神様があなたの思い通りになることはありませんが、
祈れば必ず聞いて下さいます。

今まで多くの人が神に命を奪われ、
神の名において多くの戦争が行われました。
そのことを考えるととても辛いですし、
キリスト教もまた、
平和を愛する人たちから非難されるべき過ちを繰り返して来ました。
しかしそれでも、いやだからこそ、
イエス・キリストの名は神の愛の証であり続けます。
今日、キリストは復活されました。
すなわち、死は克服されたのです。神は死に勝利されました。
誰もが避けられない、恐るべき死の力でさえ、
キリストを通して示された神の愛から、
私達を引き離すことは出来ないのです。
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愛といいますがそれは身内に対してだけの話。


それ以外の人々にはおぞましいほどの残虐なことを平気で行う事は歴史がはっきりと証明しています。
そもそも一神教に人類普遍の愛などあろう筈がありません。

価値観や行動を規制する聖書に基づいた宗教ですからそれ以外の人々を受け入れるのは大変難しいです。多くの日本人は本能的にその事を分かっているので深入りをしないのかも知れませんね。

>キリスト教が愛の宗教だと言われていることがどうも胡散臭く思えてくるのです

胡散臭くはないです、仲間内だけの話ですから。
砂漠で周りを敵に囲まれた民族をまとめるために必要だった宗教ですから当然戒律もはっきりしていてその点日本の神道とは根本的に異なります。と言う事はキリスト教には常に敵と罪人が必要なのですよ。

【全ての人間は罪人です】と言うことから始まる訳で罪人が居なければキリスト教も存在意義が薄れます。世界が本当に平和になったら一番困るのはキリスト教かも知れませんね。
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ご質問の内容は非常に難しいので、


ちょっと聖書をかじったくらいでは答えは出ません。
(じっくり読めば分かるというものでもありません)
だから、これはほんの参考意見に過ぎません。

まず、ノアの箱舟の話は、
人類はみな神と契約を結んだ者の子孫である、
ということを伝えるためのお話です。歴史的事実ではありません。
世界全体が水没するような洪水はありえませんし、
大洪水の話自体はメソポタミアの洪水伝説の翻案です。

次に、イスラエルの民が他民族と戦争する話の中で有名なものに
エリコの占領の話があります。
角笛を吹き鳴らすと城壁が崩れ、イスラエルの民は町の人も動物も
滅ぼしつくした、というお話ですが、
エリコの遺跡を何度発掘しても、非常に古い時代の城壁の跡ばかり
で、聖書に書かれた時代に町があったという証拠は発見されません。
つまり、
すでに廃墟になっていたエリコの町を見たイスラエル人が
「この町がこうなったのも昔の戦争の結果」と考え、
「弱小民族だったイスラエルが国を築けたのも神のおかげ」
という信仰に従って歴史物語を作り上げた、という訳です。
そのメッセージは「困難の中にあっても神に従うことが大切」
ということです。
決して殺し合いの容認ではありません。

>神が人を殺すこともあってはならないのではないでしょうか?

もしそうなら、みんな永遠に生きられるんですけどね・・・
神が人に命を与えたのだから、神が人から命を奪うのです。
死なない人はいない=神に殺されない人はいない
ということです。
事故死・病死・戦死などいろいろな死に方があっても、
それは全て神の思し召し。そう考えるのが信仰です。

愛することは素晴らしいことですが、愛と言う言葉はどうも胡散臭い。
まして「愛の宗教」なんて・・・。そう思うことはありますが、
しかし実際、愛し合わずに殺し合っているのも身勝手なのも人間です。
(神様が身勝手に思えるのは、全く人間の思うようにならないから。
願い事を聞いてくれる○○神社の神様とイスラエルの神様は全然違う)
この人間の姿だけを見ていたら、結局結論は絶望です。
しかしこの人間を作ったのは神であり、
人の生死はおろか、死後の魂までも面倒見てくれる存在です。
人間世界がいかに醜くても、その血なまぐさい歴史の裏には常に
神様がいてくださった、というのがイスラエルの信仰だったのでは
ないかと思います。
さて、本題です。キリスト教はなぜ「愛の宗教」か?
1.神の怒りを静めるためには動物のいけにえを捧げ続けるしかない
と思い込んでいた人々に「そんなの必要ない」と身をもって宣言した。
(神は完璧な供物であるはずの御子の体さえ受け取らず、復活させた)
2.新しい契約を結ぶならイスラエル人でなくても誰もが「神の子」
として神の国を相続できる、と宣言した。その掟は「愛し合うこと」。

イエス・キリストによるこの宣言によって立ち上げられた宗教なので、
キリスト教は「愛の宗教」なのです。

分かりにくい説明ですみません。
正しい答えはやはり、
どこかの教会へ行って神父さんか牧師先生に聞くのが一番ですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
牧師さんには2回ほどお会いしてじっくりとお話を聞かせていただいたのですが,どうも私の理解を超えているようでして…。
主日礼拝にも出て説教も聞いているのですが,それでも納得できないことばかりなんですよね。

お礼日時:2008/03/21 21:48

箴言1:15「公正を行う事が義人には喜びになるけれども、罪悪を行う者達には滅亡があります」。

                                                                                                                      神様は公正に義を行う方です。罪がある人には地獄に、罪が無い義人には楽園に行かせる方です。                                                                                                                 このような事が無いならば、この世の中で一番可哀相な人は私です。私は極小さな罪にも心を痛めながら過ごす者の一人だからです。                                                                                                     悪魔は神様は愛のみだとして人々を騙そうとするけれども、神様は公正に義を行う方なのです。                                                                                                                     ここには例外がありません。イスラエルの選民思想云々する人々もいますが、神様がイスラエルを選んだのは、イスラエルが世の中で一番、数が少ないからだと言われました「神明記7:7」。実際にイスラエルには今も600万人しか居ません。8億のイスラム勢力と戦争して6日で勝った時は300万しか居ませんでした。もし、国連の介入が無かったならば、エジプトはイスラエルに占領されるところでした。今のイラク戦争と比べて見たら分かりやすいかも。8億の人々が3回侵略し、三回負けて、地を奪われ、二度と侵略せずにいます。                                                                                                      しかしながら、イスラエルが罪を犯した時も、神様は公正でした。                                                                                                    甚だしくは、神様自身にも公正でした。人々の罪を背負った時は、自ら処刑されたぐらいに公正なのです。                                                                                                                神様は人を差別はされません。しかし、分け隔てます。徹底的に分け隔てます。罪がある人は地獄に、罪が無い人は楽園に分け隔てます。                                                                                                  神様は愛のみだという人は悪魔の僕です。                                                                                                             神様の一番目の戒めは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、神様を愛しなさいと言われました「マルコ福音12:30~31」。しかしながら、神様は愛のみだと言う人々は、神様の愛より、二番目の戒めである「貴方の隣人を貴方の体のように愛しなさい」を大事にします。彼らは神様の愛を知りません。路宿者に御飯を与えたり、ボランテア活動をする事を神様の愛と錯覚する惑わす霊に掴まれているのです。                                                                                                     神様を一番目に愛しなければならないのは、その方だけが貴方を救う事が出来る方だからです「使徒言行録4:12」。                                                                                                            神様は生きて居られる方です。ですから、神様によって産まれ変わってない人は聖書を読んでも分かりません「ヨハネ福音3章」。                                                                                                   神様は騙されません。「神様の御言葉は生きていて活力があり、両刃を持つどんな剣より鋭く、魂と霊、そして関節と骨髄を刺し分け、心の考えと意図を判別されます。ヘブライ書4:12」。                                                                                                       貴方が本当に心を尽くし、魂を尽くし、神様を探すならば探せます「申命記4:29」。                                                                                          神様を信じ無い人は、いくら勉強しても分かる事が出来ないのが聖書です。                                                                                               ここに書いた私の字も貴方にはかなり難しいかも知れません。しかし、救われたある方は100%理解しながら、いつも喜んで呼んでいる方もいます。                                                                                                自分の頭で神様を判断しようとする事がもたらす結果は、暗闇です。貴方が救われた方ならば、この字は喜びになるでしょう。何故ならば、私の考えは一つも入って無いからです。全ての文を聖書から探し当てる事が出来るからです。                                                                                                                このような能力は私から出るのではありません。私の中に居られる神様から出るのです。「また貴方達の体は神様から受けた神様の聖霊の殿なのを知らないのですか?貴方達は貴方自身のものではありません。コリント前6:19」。今は誰でも神様の霊が無ければ、神様の人ではありません「ローマ8:9」。                                                                                                                   ですから、自分の中にキリストの霊が居られないのに、キリスト人だと、或いは聖書について知ったかぶりをする人の罪はもっと大きいです。                                                                                                   自分の中に聖霊様が居られないのに、神学者として、牧師として活躍する人の罪はもっと大きいでしょう。
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この回答へのお礼

聖書の中身に対する根本的な質問に対して聖書を引用して回答されても理解できるはずがないと思うのですが…。

お礼日時:2008/03/21 21:50

この本をどうぞ。

戦争を肯定するような聖書の箇所がわかりやすく書かれてあります。

参考URL:http://item.rakuten.co.jp/book/1671761/
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そもそも宗教そのものが愛といえるのか


と言うことも考えてみてはいかがでしょうか。

質問者様は聖書を読んでますよね。
古事記を読んだことありますか?
仏典を読んだことありますか?
ヒンドゥー教の教典を読んだことありますか?

バガバッド・ギーターというヒンドゥー教の聖書は

アルジュナがいくら戦士としても人を殺すことに躊躇ったのを
神クリシュナが恐れることはないと諭して
戦争へと向かわせるものです。

どうでしょう?

仏教というのもかつては差別をしていました。
たとえば、女性は悟れないなんていう内容のものもあったんですよ。

どうでしょう?
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>>なぜキリスト教が愛の宗教といえるのか?



改めて考えてみれば、ちょっと不思議ですね。「隣人を愛せよ」っていうような普通に「人類愛的な主張」をしているだけのように思えてきます。
でも、キリスト教が大きな影響を受けているユダヤ教と、当時の時代背景を考えると画期的で、革命的な教えだったのだと思います。

歴史をみると、ユダヤ教を信じるユダヤ民族は、奴隷とされていたエジプトを、モーゼに率いられ、紅海を二つに割って脱出します。その先の約束の地、カナンは「乳と蜜の流れる地」とされていますが、そこには先住民がいました。

モーゼの後を継いだヨシュアは、ユダヤの神が発した「先住民を殺してしまえ!」という命令に素直に従い、先住民の男も女も老人も子供も、牛や羊やロバまですべて虐殺しました。この虐殺を「聖絶」(聖なる絶滅)といいます。つまりは、ヒトラーのやった「ユダヤ人虐殺」って、このときのユダヤ民族が行った行為を起源としているといえるかもしれません。

そういう「自分たちユダヤ民族は人間、他民族は牛・ブタな獣」って選民意識のある状況下で、イエスは、「他民族の人々も平等に愛せよ」と説いたわけです。現代なら、リンカーンが奴隷解放を、マルコムXが黒人差別反対を主張したようなものでしょうね。単なる宗教にとどまらない社会的に影響が大きいことでした。イエスは、指名手配犯のように、隠れ家を転々としながら説教・布教活動を行っていました。奴隷解放を唱えた方が、反対派からつけ狙われたように、イエスも、いつ殺されてもおかしくない状況だったわけです。

なので、キリスト教は、ユダヤ教のような民族宗教という範囲を超えて、世界宗教になり「愛の教え」っていわれたのではないでしょうか?まあ、私はキリスト教信者でもないので、わかる範囲での推測でしかありませんが。

ちなみに、自分たちの国家を創るためには、他の民族を虐殺してもいいという発想は、いまだにユダヤ教に引き継がれていると思えます。それがイスラエルとアラブ諸国が火花を飛ばす原因でもあると思います。

それにしても、イエスが十字架にかかるとき、彼の12人の弟子をはじめとして、みんな身の危険を感じて、卑怯にもイエスを捨てて逃げ去っています(数人の女性信者は残りました)。が、復活の後に、救世主だと認識して、伝道を始めるわけですね。弟子たちはその後に,次々と殺されていくわけですが、「これで、あのとき逃げた罪滅ぼしができる」って喜んで殉教していったようです。(弟子は師を真似る)
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異民族を殺すことは悪だ。



神が人を殺すことは悪だ。

↑質問者さんは、すでにこれらについての定義を、前提に持ち合わせています。日本人がだいたいあまり宗教や倫理を考えずに、こういう良識の思い込みを持っています。それを客観視できずに聖書を読んでも、どーでもいい部分といいますか、理解しがたい部分がどうしても出てきます。

まずは、人間の原始の視点に立ち返ってみてください。これらの悪の概念を無に返さないといけないと思います。キリスト教が伝えようとしている我々日本人がアタリマエだと思っている人間未満の存在(人間)に、戒めを理解させようとしている姿勢が何なのかということ。

一神教的な神が人間を創りだしたというところから、まず自分の持っている思想をゼロにしてキリスト教を勉強していかないと、哲学全般もそうですが再定義して理解することはできません。
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