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第1次か2次か解りませんが、世界大戦時、民間航空機の役割をご教示ください。何時の年代に存在して、実際に攻撃等に加担していたのでしょうか?

A 回答 (3件)

世界最初の民間定期航空便は米国フロリダ州タンパ港とセント・ピーターズバーグ間の35kmを22分で結ぶ航空路として1914年に開設されました。

 使用した飛行機はベノイスト14(Benoist XIV)飛行艇で、モーターボートに翼とプロペラ推進器を取り付けた構造をしているのでエア・ボートと呼ばれました。 その後第一次世界大戦を経て航空機が飛躍的に進歩し、第二次世界大戦までの間に多くの民間機が作られましたが、これらは、将校の輸送や貨物の輸送に使われるだけで、武装改造して実際の戦闘に使われることはなかったようです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。民間機についての内容は良く理解できました。追加でご質問ですが、実は戦時中にパイロットが着用していました、古いタイプ民間用のA-2フライトジャケットを購入しましたが、背中にブラッドチットを剥がした跡がありましたので、民間機の歴史を知りたかった訳です。以下、ホームページから探した情報ですが、この内容とブラッドチットが付いていた事実から察すると、民間機も攻撃される危険性があったのでしょうか?
もし、情報をお持ちでしたらご教示下さい。

以下抜粋
http://www.green-os.com/01buzz/buzz_jkt/br10804. …
フライトジャケットにおいては「レスキュー(救護)パッチ」などとも呼ばれ、パイロットが墜落した際に英語の通じない現地民に身分を証し、救護を求めることを目的としていた。その内容は中国語で「戦いを援護するために中国に来たアメリカ人です。私を救護してくれれば政府が報酬を与えます。」と記されていた。

お礼日時:2008/03/27 23:06

あまりお役に立てる話ではなく、且つマイナーどころの話ですが・・・



WW2時の西海岸に於いて、飛行クラブが愛機に爆弾を括り付け、対潜哨戒のボランティアをしていた、という事例があります。
#医者とか、サラリーマンとか、趣味で飛行機に乗る人々が、片手間にUボート狩りをしていたんです・・・。公式には戦果は0ですが、数隻喰ったという証言もあり。

 また、民間機が危ない空域を飛行したかは疑問ですが、仮に航路上で攻撃される可能性があったり、墜落時に敵性住民と間違えられないような工夫をする可能性はあると思われます。
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No.1です。

 真珠湾攻撃時に、早くも米国の民間機が日本軍によって攻撃されています。 当時オアフ島上空には民間練習機が7もしくは8機が飛行していた模様です。 内訳は、ガンボ・フライングサービスのエアロンカ機が二機。 アンドルー・フライングサービスのインターステート機が一機。 フイレイレイ・フライングクラブのエアロンカ機が一機。K-Tフライングサービスのパイパーカブ機が四機です。
ガンボ、アンドルー、フイレイレイの練習機では、撃墜された機や、死者は出ていません。 しかし、K-Tのカブ四機はラッキーではなかったようです。 海軍のポストン氏は単独飛行練習中、撃墜されパラシュート降下。 K-Tのオーナーであるロバート・タイス氏は飛行場でエンジン始動時に、日本軍機の地上掃射によって死亡とも、ポストン氏と共に飛行中、撃墜されたとも言われています。このどちらが正しいのかはわかりません。 K-Tの残り二機のカブは行方不明となっています。 この二機が日本軍によって撃ち落されたか、米軍の対空砲火によって誤って撃墜されたものかは定かではありません。 しかし、今もってこの二機の残骸が発見されないところをみると、島の上空ではなく、海上に落ちた公算が強いと思われます。つまり、日本軍の攻撃によって落とされたのではないでしょうか。 布哇作戦時に、日本軍によって撃墜された民間練習機は三機または四機。死亡者は三名と考えられます。
これ以外、米国の民間機で攻撃された例が見つからないのですが、大戦中多くの輸送船が攻撃されており、当然輸送機として使用された民間機も敵の攻撃の対象となったことは間違いないでしょう。 
ドイツの場合、Ju 52(独:Ju 52 ユー 52)は、ドイツのユンカース社が開発して、大戦前はルフトハンザ社の旅客機としてベルリン-ローマを8時間で結び、大戦中はドイツ空軍の輸送機として用いられ、兵士たちから Tante Ju (「ユーおばさん」の意)と呼ばれ親しまれた。 しかし、エンジンが非力なため、速度が遅く、初期のエンジン1基の出力は524 hpから後に830 hpのエンジンに換えられたものの、それでも最大速度は295 km/hでしかありませんでした。この鈍足さに加え、防御火力の貧弱さや制空権の逸失という事情もあって、大戦中期以降多くの機体が連合軍機により撃墜されました。Ju 52の喪失は結果として輸送力の低下を招き、戦線を拡大しすぎたドイツ軍にとって大きな痛手となりました。
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