プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

こんにちは。

今回、英語の先生として教育実習を行なっているのですが、研究授業で扱う教材が言葉に関する教材で、言葉は単なる情報の交換手段以上のものだと書かれているのですが、では、言葉とは何かという感じで生徒に投げかけてみようかなと考えているのです。それで、確かに、答えはない質問ですが、ある程度、私なりの答えというものを用意したいのです。ただ、あまり私自身が、お恥ずかしいながら言葉とは情報交換手段色がかなり強いと思っているので、情報交換以上の部分が思いつかないのです。

そこで、参考までにお聞かせ願いたいのですが、みなさんにとって言語とは一体何なのかをどうぞ教えてください。特に、情報交換以上の「以上」の部分についての考えを教えてください。
また、言語とは身振り手振りのようなものもnonverbalと呼ばれるものも言語として考えるのはよくないのでしょうか?

それではご回答宜しくお願い致します。

A 回答 (9件)

言葉は道具です。

人間が他の人間とコミュニケーションを図るための道具であるのです。
ただ、これが大変な意味を持つのです。例えば、木で本棚を作ろうとするとき、釘も、かなづちも、のこぎりも無かったら、多分、誰も作れないでしょう。
同様に、あなたの町と隣の町を結ぶ道路が道幅2mの未舗装道路だったら、たちまちの内に産業が衰退し、物不足に陥るはずです。

反対に、かなづちからのこぎり、各種の釘、そして、電動の工作機械までそろえてあれば、本棚だけでなく色々なものが作れるような能力を持つわけです。
同様に、町に道路が整備されていれば、それだけで、一つの産業基盤となります。道路を作ることにより、それをもとに更に発展した街づくりが出来ていくわけです。

人間はその生活する社会があるわけで、その中で生きているわけですから、言葉は、その社会を表すわけです。ヨーロッパでは麦を表す言葉が確か5種類以上日常生活で使われています。エスキモー社会では雪とか氷を表す言葉が数十種類以上あると言われています。逆から言うと、言葉を見ることによってその社会の性格を知ることが出来ますし、言葉を制限することによって、その社会を制御できるようになります。植民地政策で、占領国の国語が強制されていったのはその典型です。日本も以前朝鮮半島で日本語教育を強制しました。

また、人間は言葉によって自分の思想や感情を表現し、目標を作り、他者と共同していく体制を作ることができるわけです。たとえ、今の自分が未熟で力が無く、弱い存在であろうとも、本来はこうであるべきなのだと言うことを言葉により描くことで、それを守りつづけることが出来ます。そのもっとも典型的なものが宗教であり、経典であるわけです。仏陀の言葉であり、聖書の記述であり、コーランの教えであるわけです。

もう一つ、言葉により、人間の感覚とか感情、知識を外部化できるようになったわけです。感覚も感情も知識も、全て本質的にはその個人に属するものでしかないのですが、言葉があるために、それを表現し、その個人を超えてみんなで共有することができるようになりました。文字が無い時代はその規模は大変に小さいものでしたが、それでも、共同体の中で口伝と言う形で様々な知恵が伝えられてきたのです。文字の発明により、文書と言う形で様々な情報が蓄えられ、それが今日の高度化、巨大化した文明文化を支えています。同様に、言葉があるからこそ、家庭と言う枠を越えた教育制度が機能できるのです。

なお、身振りや顔の表情は、個人対個人(または、個人対大衆)のコミュニケーションでは、言葉そのものよりも意味があると言われていて、意味判断の7割以上をノンバーバルなものに頼ると言うことが言われています。
ただ、身振りや表情を言語として捉えるのはとても難しい面があります。あなぜなら、それらは、定式化できない、つまり、「机」と言ったらその対象物が誰にでも分かると言うような解釈の統一が出来ないからです。
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皆さんの回答、大変興味深く読ませていただきました。

特にNo.1さんの「言霊」、No.3さんの「文化」という回答には考えさせられるものがありました。

わたしも、言語学者のタマゴとして「言葉」とはなんぞや?と考えさせられることが多いのですが、言葉とは情報の交換手段以上のものだと感じることのほうが多いです。

たとえば罵詈雑言。
「ふざけんなよー!」とか「ばかやろう」とか、相手によっては言えませんよね。例えば上司とか。そんな時、上司がいなくなってから「ばかやろう」と言ってみたりすると、すっきりすることがありませんか。運転中に横入りをされたときも、相手に聞こえないとわかっていても「ふざけんなよー!」といってみたりしませんか。そう、そういった言葉を発するだけで、情報、気持ちの交換がなくても、ストレスの解消になっていませんか?
ある学会の研究では、日記をつけている人のほうがつけていない人よりもストレスが少ないことが分かっています。これも言葉、(音ではないけれど)の力なのです。

「独り言」も、情報を伝えようとして発している言葉ではありませんよね。

言葉は「遊び」としてもつかわれますよね。「だじゃれ」がそうです。これも別にその情報を交換しようと思っているわけではないのです。言葉の「遊び」なのです。

<nonverbalと呼ばれるものも言語として考えるのはよくないのでしょうか>
「言語」として考えるのはどうかと思いますが、「言語」とのセットで考えることは大切です。意思の伝達には、言葉以外のもの、Nonverbal(Gesture, Tone, Eye Contact、etc)が60~70%の役割を果たしているという研究結果がでています。
例えば「ゴメン」というとき、声のトーンで本当に謝っているのか、嫌々謝っているのかわかりますよね。「ゴメン」と投げやりに言われたら、これは本当の「ゴメン」ではないとわかりますよね。
ジェスチャーでも、腕組みをして謝られても、謝られた感じはしませんよね。謝っているほうでも、本気で謝っているわけではないと思います。

どう思われますか?
参考になれば幸いです。

言語学者のタマゴより
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たとえば、好きな人に、「好きだよ」と好意の気持ちを伝えること。


けんかをした相手に、「ごめんね」と謝罪の気持ちを伝えること。

これは、「情報」というより、「気持ち」の発信(交換)ですよね。
「情報」というと、なんだか機械的な感じがしませんか。

「好きだよ」という一言を言うとき、「私は彼が好き」という「事実」だけではなく、
その声のトーンや状況、声の速さ、表情などから、温かさや優しさといった「感情」「雰囲気」などが伝わることもあると思います。

パソコンでかかれた「好きだよ」という文字からは、「感情」は伝わりにくいですよね。

ただ、「感情」も情報の一部だと考えることもできますので、「情報交換以上」というより、「事実交換以上」と言った方がわかりやすいかもしれません。

ジェスチャーも、言葉と考えて良いと思います。
聾者が使う手話も、「話」という字が使われていますよね。
頭の中で読む(声を出さないで読む)ことも、「黙読」と言いますよね。
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情報交換以上の部分が思いつかないくらいだから、


質問の答えが、このようなQ&Aで書ける程度のものだと思うのだろうね。。。
あなた自身が、
生きた経験の積み重ねとして、また、広い関連性をともなって理解した物事として、
わかっていないことを、生徒に教えるつもりだろうか? 変な先生だなあ。

答えをしらないならば、経験を語りなさい。。。
ニュースの言葉とは、新聞の言葉とは、
詩とは、小説とは。

また、「最後の授業」という物語もご存じですね。
バベルの塔の逸話もご存じでしょう。
日本の中の多言語に、アイヌがある。

母語とは。歴史とは。民族とは。人のアイデンティティとは。
言葉が奪われたり、失われたり、異なっていたりするのは、なぜでしょう。
むしろ世界中でエスペラントのように同じならばどうでしょう。なぜそうならないのでしょう。

あなたのお好きな英語詩の一篇、
生徒とお読みになってはいかがですか。
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今年(2008年)は国際言語年ですが、それに際してユネスコ事務局長の談話があります(下記URL)。

その中からひろってみると、
・言語は社会の統合の要因・・・大阪弁というコミュニティ、日本語をしゃべる人という社会、などありますね。
・言語は教育のもと・・・読み書きそろばん、といいますが、そろばん(数学的思考)のもとにも言語があります。
・文化の多様性の源泉・・・多くの文化は(たとえ文字がなくとも)言語によって伝えられている。

参考URL:http://www.jei.or.jp/unesko/unesko200711.htm
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こんにちは。



私が思い浮かんだのは「音」としての言葉です。
子供の頃、意味のない音を口の中で鳴らして(例えば舌打ちのようなものや巻き舌の音で)遊んだ経験を持っている人は結構いると思います。
また、単語でなく「あー」とか「うー」とかの音の抑揚・アクセントの付け方で感情や意思の表現が可能ですよね。
「外界の音をまねる」「音を作り出す」ということがもしかしたら言葉の原点なのではないかと思います。実際にいくつかの単語は、そのものが発する言葉から派生しています。

また、言葉はその国の地域性・文化性・歴史性・国民性などを反映した最たるものだと思うのです。
例えば雨があまりない地域では日本語のように雨に対する豊かな表現はないですし、外来語は別として、雪のないところに雪という単語はおそらくないでしょう。
日本人のようにもって回った言い方をする国もあれば、物事を率直に述べる国もあります。

このように言葉は情報交換というだけでなく、「音」であり、そこに住む人の様々な側面を音声として表すものだと思います。
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言葉、言語とは「文化」ではないでしょうか。


単なる情報交換手段なら、どんな言語でも良く、自国語にこだわる必要もないわけです。
また、(計算機の)機械語や動物もそれなりに、あるいは時と場合によってはものすごく効率的に情報交換をしますから、人間だけの特権ではないでしょう。
しかし機械や動物には、いわゆる文化と呼べるものは存在しません。
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 学習によって身に付けた外国語の場合は情報交換手段だと思います。

しかし、母語の場合はそれ以上だと考えます。

 成長過程の中で徐々に身に付けていく母語は、いわば臓器のように肉体化されていると感じます。もちろん、物体ではないので、血液のように体の中を自由に動き回っているものと言えるでしょうか。臓器も血液も身にしみ付いた言語も、その個体の性質を規定します。

 言葉はまた血液と違って物質ではないので、自由に外界とも交信しますから、「身振り手振りのようなnonverbalなものと」共通する役割も持っていると思います。
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>情報交換以上の部分



すぐ思いつくのが、言葉の呪術性ですね。
呪文とかお祈り。それには言葉自体に力があるということです。
言霊なんて言葉がありますが、古代の人はそういうものを強く意識していたのではないでしょうか。
長屋王の事件でも、謀反の疑いの冤罪ですが、実際何をしたことにされたかというと、「呪詛した」疑いなんですよね。あの時代は呪詛も立派な犯罪だったわけです。
言葉は、幸福も呼んでくるし、不幸も招く。病気を治したり人を殺したり、出来るものなのです。
現在でもイスラム世界ではその色を残しています。

それと、もうひとつ、
「言葉が作られるもの」であることを考えてみると、そこに人の作為があるということに気付かされる。
余りいい例ではないですが、(教育の場では、問題発言にされますからこれは使わないでくださいよ)よくわかる例として、
「従軍慰安婦」ということばがあります。
「戦地における管理売春の娼婦」としないであえて従軍とネーミングしたこと。それまで、従軍記者はあっても、そんなものはなかったのです。
もう少し、危なくない話では、比喩、暗喩。これも「作られるもの」の性格を暗示してます。英語を専攻されているのなら、ダッチアカウントとかダッチロールとか、すぐ思いつかれるのではないですか。
オランダは永く二流国でしたから。
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