プロが教えるわが家の防犯対策術!

 然りでしょうか 否でしょうか。
 いづれでも その理由は なんでしょう。
 その結果 どうすべきでしょう。どうも しないでしょうか。

 わたしの関心の焦点は こうです。
 一つには 広い意味での《以心伝心》 これが どのように はたらいているか。さらに広げて 《言霊》思想も そこに かかわるのか。
 もう一つには 農耕民と遊牧民との比較対照での捉え方です。後者が 現代では 広く欧米が代表し 中東砂漠地帯にもかかわると言われます。そこでこそ ものごとを明確に表わす傾向にあると言うものですが これに対して 農耕民の社会では そうではない・つまり 言外に言わんとすることを忍ばせ 果ては マインドコントロールにまで行きつくと見られるのかも知れない。というとき じつは いわゆる上層・支配層は そうであるかも知れないとしても 基層を成す市民のあいだでは 農耕生活をいとなむ共同体の昔から なるほど たとえ ものごとをあからさまには言わないとしても 人びとの間では 世の中の真相を じゅうぶん 早い段階で 知ってしまっている。知り切っているからこそ 特別に何も言わないのだと考えられてくる場合が 多いのではないでしょうか。庶民は ばかではありません。
 上層のもっぱらの公民と そして 基層の市民らとのあいだに きわめて 滑稽な茶番劇が演じられていて 後者の人びとも あほらしいから 積極的に 新しい一歩を踏み出さない。こういう情況が 戦後 半世紀以上にわたって 続いているのではないでしょうか。
 マインドコントロールという情況は あるか / あるとすれば どのようであるか / どうしたものか。ご賢察をおしえてください。

A 回答 (28件中11~20件)

primeapeです。


犬に関してですが遊牧民的思想と言うことで納得しました。
感覚が理解できます。

 ★ 犬(生命)を愛し、その愛を注ぐ。 / そしてその感情が答える。
 ☆ このことと マインドコントロールとのかかわりが ピンと来ていません。コントロールする側は 相手を 犬のように扱って 愛するというようなことでもないのでしょう。ううん。犬などを飼ったこともないし。・・・

犬が人間の感情に答えて従僕になるからこそ家畜でありこの飼いならしはマインドコントロールじみています。ただし私の感覚では先に話しかけたのが人間のほうだっただけです。

この回答への補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 遊牧民との違いとして 去勢の制度の有る無しを思い出しました。中国の宮刑(去勢という罰)その結果 後宮(側室のいる大奥)の管理にあたる宦官 これは お隣の半島にも あったそうです。オリンピック会場となった蚕室(チャムシル)は その手術をほどこした場所だと聞きました(繭の中の部屋のごとく)。これが 日本には 馬や家畜には採用したが 人間には 制度として なじまなかったと聞いていました。
 念のため wiki を見ると 必ずしも そうではないようですが(wiki:宦官 / 宮刑 / 去勢 / eunuch) 制度として・また一般の常識として 比較にならないほどだと思います。つまりやはり牧畜文化の産物であり なごりであるようです。
 カストラートつまりソプラノの男性歌手をつくるために そうしたというその理由として 説明しています。
 ▲ 教会内で女性は沈黙を保たなくてはならなかったため、歌を歌うことは許されなかった。よって、変声期前の男声(現在のボーイソプラノに近い形態)で構成された。しかし、変声期によって声質を変えないままその声質を維持する為に、意図的に男子を去勢することによって始まったとされる。( wiki:カストラート)
 ☆ ちなみに 去勢を
 ▲ 現在では刑罰あるいは犯罪予防措置として強制的に実施している国はないようであるが、アメリカ合衆国の一部の州において、犯罪者の希望により、あるいは懲役刑との自由選択の形で、去勢刑が行われている。( wiki :去勢)
 ☆ だそうです。

 ★ 犬が人間の感情に答えて従僕になるからこそ家畜でありこの飼いならしはマインドコントロールじみています。ただし私の感覚では先に話しかけたのが人間のほうだっただけです。
 ☆ あとの一文は よく飲み込めないところがあるのですが むしろ 《動物と人間との関係は マインドコントロールに似たところはあるが たとえば自由意志の問題としてなど 基本的に異なる》ということではないでしょうか。
 双方向においては 言葉を使わない・もしくは必ずしも表に出して用いない という点などで似ていますが 対等のかたちで 意志疎通をおこなう存在であるかどうか これが 決定的に違うと思われます。
 人間の場合は AさんもSさんも まったく同じ存在なのです。うまれが違うと言っても どこも変わりません。木の股から生まれてきたわけではないのです。むしろ 生まれにこだわる人は――しばしば Aさんに多いのですが―― むしろ大きな木の股から生まれて来たかのように振る舞っているように見えます。
 つまり 動的ではなく 静的だという印象であり 寄らば大樹の蔭という思想の持ち主であるといったステレオタイプだからです。判で押したように 同じことを言います。そうすると つまり そのように おしとやかに振る舞っていると 相手や周囲は あたかも 条件反射(つまり 実質的に 無条件反射)するかのように社会的にコントロールされたかたちで おとなしく応対する。うんぬんです。

 追加の思想です。
 Sさんでありながら Aさんの思想を持って生活し行動している人がいるのではないか?――このようなエートス(くせ・習慣・性格・人間類型)は わたしの言葉で 《アマテラス予備軍》と呼びます。評論家に多く 評論化タイプだと言えます。
 過激ですか。

補足日時:2008/08/18 11:52
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primeapeです。


話題が進展するまでは雑談です。
その場の空気が少しでもよくなればと思います。

弱肉強食の概念は日本人に輸入思想中毒を起こしました。
狂犬みたいな性格の人の起こすいがみ合いに思い当たるフシを見つけたので人間社会に弱肉強食を持ち込みました。

ビジネス書なんかを見るとえらそうに経済を語る人の競争原理の根源が弱肉強食です。

それからこの概念は仏教徒の六道輪廻の概念をもうろくさせました。

輪廻なんて簡単です。
ヨーグルトを食べたときを思い起こします。
生きた乳酸菌を食べてその乳酸菌派胃の中で消化されて一度死にます。
腸に入るともう一度乳酸菌に戻ります。(立派な転生)
そして腸の中の他の雑菌と仲良くします。
ちなみに腸は感情の伝わり易さを自覚し易い器官です。
そして自らの感情で腸の中で仲良く暮らす雑菌を育てます。
そして毎日ウンチとして出産します。
ウンチは汚物でなく生命のコロニーです。
感情を伝えて育てるようになってからはウンチの匂いも変わりました。
ウンチ君が毎日挨拶してくれます。
輪廻を自らでなくヨーグルトに感情移入するとわかりやすいです。
食べることの尊さにもつながりまして世の中の生命の循環に思いをはせます。
六道輪廻ってこんな形じゃないですかね。

この回答への補足

 追記です。
 
 ANo.1が 削除されました。その回答のほうは No.4で保存されましたが わたしのお応えのほうは 消えてしまいました。
 《マインドコントロールを解体する》という思想は まだ よく分かりません。

補足日時:2008/08/18 12:47
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この回答へのお礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 お言葉に甘えて 余談のごとくになりますが。

 ★ 弱肉強食の概念は日本人に輸入思想中毒を起こしました。
 ☆ ハーバート・スペンサーの説くいわゆる《社会的ダーウィニズム》だと思います。自然淘汰 適者生存が 社会における人間に見られるという思想です。じっさい 明治時代に取り上げられたというふうに聞いていますが。
 ★ ビジネス書なんかを見るとえらそうに経済を語る人の競争原理の根源が弱肉強食です。
 ☆ このご指摘 過激ですね。この事例としては わたしは 控え目です。せいざい 能力主義によって その結果・成果を見ての平等主義を唱えているのではないかと分析するかたちです。それも 平等思想だと 言ってやります。

 ★ 輪廻
 ☆ まづ《六道》は 《地獄・餓鬼・畜生・・》などの悪い印象ですから はずしたほうがいいのではないでしょうか。
 輪廻は この場合 けっきょく 食物連鎖ですとか 生命の種ごとの共生ですとか そういう自然のありかた つまり何らか特定の価値観抜きのふつうの思想(生活態度)のことだと認識します。

 * 一件 ご投稿がありましたね。

お礼日時:2008/08/18 12:46

primeapeです。


A11の方に返したお礼で日本人キリスト教徒の何かと居心地の悪さをうかがい知りました。
そこに思い浮かぶことがありました。
哲学書と言うよりも欧米の文化全般に関する読み物に「感情を殺してまでも理性的に徹する」このような考え方が印象に残っていました。
それを教義の一部に取り入れた宗派まであるそうです。

乱暴すぎる比較ですが日本人の場合感情でなく信仰心を押し殺して理性を保っているのかもしれません。
これは私自身を振り返っての感想です。
時折brageloneさんの見せる信仰と祈りは共感すると気持ちよいもので大変尊敬していますが、私自身の信仰心に関してはどんなに門をたたかれても明かせることはないのではないかとも思いました。

そのように信仰をひたかくしにする日本人はbrageloneさんから見てやはり死んで見えてももっともだと思います。

この回答への補足

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 わたしが 感情の起伏が激しいと見えても まちがいではありません。そのとおりです。面と向かってなら その場に居合わせるのですから もっと 直截に言うと思います。

 ★ そのように信仰をひたかくしにする日本人はbrageloneさんから見てやはり死んで見えてももっともだと思います。
 ☆ たぶん 《死んで見える》というのは 一般に 《きちんと答えないこと》が いちばんです。たとえば いつも 極論を引き合いに出すのですが うそをついてでも 直面して 相手に答える これが コミュニケーションだと思います。形式が 保たれるだけで 非常に 世の中も 明るくなると思います。うそは うそで 自分はもちろん 相手も 遅かれ早かれ わかるものです。それは それで 答えてくれたということ(答責性を果たしたということ)だけでも 信頼関係を まだ そこなうことは ないと考えます。
 ただし うそ・虚構が 虚偽となれば それは もはや あざむくための発言ですので 問題ですし 問題が大きいと思います。自己であることを放棄し 相手が自己であることを妨げる。と言いますか 相手も 自己を放棄するかたちへと持っていこうとする。
 うそは コミュニケーションの枠の中で おこなわれます。虚偽は この枠も外れ 筋道をも曲げておいて 枠外から あること無いことを さも 親切そうに ささやくのではないでしょうか。
 ☆ それと いわゆるクリスチャンは おっしゃるように
 ★ 欧米の文化全般に関する読み物に「感情を殺してまでも理性的に徹する」このような考え方が印象に残っていました。 / それを教義の一部に取り入れた宗派まであるそうです。
 ☆ というごとく 信仰の問題ではなく しかも 信仰だと言いつつ 道徳理念でこちこちになるか(――これは さすが現代では 流行らないようで――) やはり理性信仰に徹する行き方に変わってしまっていると わたしも 思います。いわゆるガリ勉主義でしょうし やはり現代では もう少し粋に余裕を見せつつ スポーツも遊びも 万能だという行き方であるように見えます。
 ★ 乱暴すぎる比較ですが日本人の場合感情でなく信仰心を押し殺して理性を保っているのかもしれません。
 ☆ ご自分のことだとおっしゃっていますが わたしに見えるかたちとしては 一般に 信仰心を表に出すことに照れるのではないかとも思いますが。内面において ひそかに 持つときは 持つ。しっかりと 抱いているのではないかと推測します。
 まったく自由なんですがね。気兼ねをしているように見えます。だとしたら いったい 誰に気兼ねをしているのでしょう。

補足日時:2008/08/18 22:11
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この回答へのお礼

 追加です。
 ★★ 感受性の問題
 ☆ として やっと 思い浮かびました。
 一昔もふた昔も前のこと 《電信柱が高いのも 郵便ポストが赤いのも みんなみんな おれの所為》という言い方が ありました。不服や愚痴を言う人をなだめるためのものだったと思います。
 太宰治は 《生まれて来て すみません》と言ったとか言わないとかですが これらは 要するに 世の中の風潮から来ていると思われます。その風潮を 気持ちとしてのごとく 受け止めて 内面にまで受け容れ 受け身のかたちになって 反発するとなると そういう台詞が出てくるのではないでしょうか。
 感受性の強い人で 内向的でないと そうはならないでしょうが これも 一種の広く見渡した場合のマインドコントロールに相当するのではないでしょうか。漠然としていて それでいて はっきりと そういう或る種のしわ寄せが 人びとの思いや気持ちの集まったかたちとして 漂っていたのではないでしょうか。

 現代では どうでしょうか。発散したい感情は 同じように あるでしょうね。それを 人から受けて 現代人は 果たして どういう反応をしますか。感受性の強い人なら どうなのでしょう。
 《人間失格》が ドラマ化されたように記憶していますが 内容は見ていないので知らないのですが 現代人は 我れ関せずなのでしょうかねぇ。デーモン電波の放散・拡散――あたかも 核拡散みたいですね――が ただよっているとき 要するに これを 持てあましているのでしょうか。

お礼日時:2008/08/18 22:34

ANo.11の返答です。



公民と市民の連関は日本の惰性的な社会では非常に難しいと思います。
日本では公民も市民も所詮はシステムとして稼働しているにすぎません。

あと宗教の話ですが、昔日本で島原の乱がありました。
それは、幕府がクリスチャンを恐れ迫害しようとした結果起きた蜂起です。
なぜ迫害しようとしたのか、単純にクリスチャンはいうこときかないからです。

彼らには神という絶対の原理があるため現実のシステムなど別にいうこときかなくとも天国を信じているので無視できるのです。
これは当時の権力者にとっては非常に厄介だったでしょう。

しかし、現在ではというとその性質が逆に利用されています。

真面目な宗教家、特にイスラムや能動的なクリスチャンは人を愛し、殺さず罪を犯さずのキリスト教絶対原理主義者と違い、どこかの軍隊にコントロールされています。

なぜ現代ではテロが起きるのか、なぜ宗教の戦争が起きるのか、誰かが真面目な宗教家を挑発するからです。
そのだれかとは戦争がなくなると困る連中です。

9,11のテロはアメリカがなんか大変に被害を受けたことになってますが、一部の人間にとってはちょうどよかった出来事だったんではないでしょうか。
それを口実に戦争できるわけで、まだ組織を維持できるわけですから。

実際、戦争するとなれば大国なら莫大な金が組織へと動くことになります。武器の開発費を口実にしたりして。
マインドコントロールを破壊するには社会構造を見抜いた上で対策を考える必要があります。世界的にも部分的にも。

権力者というのは権力者同士でつるみ、現状を維持し続けようとします。
はっきりいってそれが今の日本人に限らず世界規模で気づけるかは無理があるような気がします。

とにかく支配的なシステムがどこにでもあり、がんじがらめにされているので市民には構造がなかなか見えません。

この支配的な世界構造に気づいたのはヨーロッパの市民なんですが、ヨーロッパの人たちは頭がすこぶる切れる上に市民の間にネットワークができています。
カフェとかでよく政治とかの話を議論するようです。

1人が気づけば集まって市民同士で話し合い、上が流した嘘も誤解もとくことが可能となります。

日本はどうでしょうか、それどころの話ではないですよね。
みんな部品、自分のやることだけやってればいい、長いものに巻かれろが慣習なので土台無理な話です。

じゃあ日本はこの先もこの延長線上なのかといえば、そうでもないです。
ここで以外な話が出てくるのですが、芸術というのが非常に大きな意味を持ってくると思います。

「考えますに わたし一人なら 一人としてなら 進もう これです。」とありましたが、それプラス芸術です。

日本の芸術ははっきりいって欧米のパクリみたいなのが多くて中身がほとんどないです。
特に音楽はひどいと思いますね。

ここに気づいた人が芸術により惰性的な目を覚まさせる、僕はそこそこ芸術とはどういうものか勉強したつもりで、芸術の話になるとかなり話がややこしくなるし、かなり長くなるのでここではやめときますが。
あと芸術はプロパガンダとはまた違います。

最後に、やはり人は矛盾したものです。
僕はたまに欠陥というのがいとおしくなります。

人間は決して完璧にならない、欠陥だらけな存在ですから。

この回答への補足

 h1g2h1g2さん さらにお答えいただきありがとうございます。

 そうですね。
 ・日本社会への批判は 方向として 同じであると思います。
 ・《芸術》は 最大限に広い意味で虚構 つまり 自己表現であると捉えました。そのつてでは けっきょく すべての生活・すべての活動が 批判や改革・革命の道につながると 大言壮語しておくというのは いかがですか?
 ・《最後に、やはり人は矛盾したものです。 / 僕はたまに欠陥というのがいとおしくなります。 /// 人間は決して完璧にならない、欠陥だらけな存在ですから。》――これは 弱さを誇っているのではなく むしろ 自分は強いと自慢していませんか。
 ★ 人間は決して完璧にならない、欠陥だらけな存在ですから。
 ☆ ここからしか 人は 出発しません。それを 言挙げするのは けっこう がんばった・この成果を見たまえと言っていませんか。もし誇るのなら 我が弱さを誇ろうと 死ぬまで 言っていきます。わたしは です。
 ★ ヨーロッパの人たちは頭がすこぶる切れる上に市民の間にネットワークができています。
 ☆ 《頭がすこぶる切れる》人間は ヨーロッパだけではなく 日本にも どこにも います。日本には 《市民の間にネットワークができていま》せん。出来ているのは 仲好し倶楽部です。牙は抜けていてもよいでしょうが 骨まで抜かれて くらげ(水母)どうしのおつきあいが いたるところで 繰り広げられます。
 ★ 1人が気づけば集まって市民同士で話し合い、上が流した嘘も誤解もとくことが可能となります。
 ☆ 戦争と武器産業等々のからくりについては それ相応の調査が必要でしょうが もっぱらの公民の話し方・対応の仕方については かなり 市民は 分かってきたのではないでしょうか。《アマテラス語弁論術》のことです。われわれは 裸のスサノヲ人間語で 応答するわけですが。
 われわれの戦いは すべて話し合いによる《何もしない闘い》です。古代国家の以前には 我が国にも かろうじて 民主主義の原点とも呼ぶべき市民社会があったという歴史も 見つけました。《アシハラ(葦原)デモクラシ》です。その平屋建ての社会の上に 第二階として(または雲の上にとして) 《タカマノハラ(高天原)デモクラシ》が 建てられました。これをも デモクラシと呼ぶのは 能力に応じてという前提条件に立てば その条件を満たすために奔走するのは 自由であり その能力主義の階段を上がる機会は 平等であるからです。この第二階の建設を 市民たちは 国譲りして 好きなようにさせたという解釈です。最大限に好きなように振る舞うのをゆるすようになってしまったという情況です。

 ★ 長いものには巻かれろ
 ☆ たしかに泣く子と地頭には勝てないのですが それは 無効の考えや行為が 既成事実となって そのことの・それとしての秩序を守るという口実をいいことに 有力な現実となってしまう。そういう無効の有力という事実に対しては 非力ですが 簡単に巻かれるわけには行きません。
 妥当で有効な考えを保ちつつ 無効の有力の前には 無力のまま――その弱さを誇りつつ――何もしないたたかいを続けるのが 筋道だと思います。話し合いです。井戸端会議です。人びとは 《巻かれる》と言っても その振りをしているだけであるかも知れません。先ほど 《くらげのようだ》と減らず口をたたきましたが 眠っているだけであるかも知れません。

 ★ 島原の乱――☆ 情報不足で申し訳ありません。承りました。
 ★ テロ問題――☆ 残念ながら いまは 広すぎますし 気の利いたお応えをするまでの情報がありません。
 ★ マインドコントロールを破壊するには社会構造を見抜いた上で対策を考える必要があります。世界的にも部分的にも。
 ☆ 日本の《社会構造》の一端を 分析しました。
 ★ 日本の歌謡曲――☆ これは 歌詞が ひどいと 少ない情報の範囲で 考えます。

 失礼な言い方もしています。中身には自信をもっています。この先 どうなりますやら。

補足日時:2008/08/19 09:26
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こんばんは、brageloneさん。

あっ!もうおはようかなぁ?

ANo.4へ《この回答への補足》をいただいていたようで、
いま読みました。8月19日4:00am

まえまえから言っとかなくちゃと、
《この回答へのお礼》をいただいた時には“教えて!goo ”からお知らせメールは届くんですが、そのあとに《この回答への補足》をいただいても何故だかお知らせメールは送られてこないんです。質問文を見返してはじめて《この回答への補足》が書き込まれていたことに気づくといったことがここのところずっとです。お返事が遅くなる原因の一つです。その間に締め切られてたってこと多々。受信設定かえてないんですが何ででしょうね?まあ、それとは別に夜中に台所の蛇口がぶっ壊れて書き込みしてるどころではない
閉めても閉めてもダダダダダーとあわや家の中水浸し寸前。パニックハウス。ドタバタとたいへんだったんだから。家の外に水道の元栓を閉じひとまず、ホッ。それでも、水を使えないとなるとトイレもままならない。夜の明けるのを待って、水道やさんを呼ぼうと思ってもお盆だし、どうする?8時になるのを待って親戚の家に仕事先から電話かくかくしかじかと事情を伝えレスキューばりに飛んできてなおしてもらいました。そなんです、この日わたしは朝から家を出て仕事、家にいるのは母さんだけ。水が使えないと何かと不自由。ほとんど睡眠もとれずそのまま仕事、この日はけっこうきつかった。なにはともあれ蛇口がなおってメデタシ、メデタシ。



《焦点がぼける》ああ、これは他の質問で
QNo.4250313『宇宙ハッブル望遠鏡で神は見えるか』
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4250313.html
●ハッブル望遠鏡の幾総倍の性能のあるスコープで
いずれ神は見えますか?


と、あがってたじゃないですか、
そっちもあわせて読んでたんで
《ぼけ》は《ぼやける》《ピントがあってない》ってことかなと
そでも、神がいるという前提に立つから
ピントがあうあわないとなるのでしょうが
何もいなけりゃ、あうもあわないもあったもんじゃない
たとえそれが高性能な望遠鏡であったとしても
神という名の指名手配のモンタージュ写真があって
それを探すってんならまだ探しようもあろうかも
しれないけれど、何を以って神とするのかもわからず
闇雲に望遠鏡をのぞけば神があらわれる?ちゃんちゃらおかしい。
そんなもんのぞかんでもいたるところに神さんはおるもんや。
あたり見渡したら、ほら、水浸しで困っとうといえば
朝も早ようからかけつけてきてくれた親戚のおっちゃんも
ある意味神さんや。

そやから、“ある/わけ/ない/だろ、ぼけ《焦点がぼける》。”いうことばをみて

『宇宙ハッブル望遠鏡で神は見えるか』へのお誘いやったんちがうかなと

brageloneさんからのなんかコメント欲してはったんと違うかな?

ボク(『宇宙ハッブル望遠鏡で神は見えるか』)の質問を見てと

あくまでもこれはわたしの推量やけどね。

この回答への補足

 littlekissさん ご説明をありがとうございます。
 これじゃ わたしの見当ちがいも いいとこでした。推測しても分かるわけなかった。

 ★ 《Q:『宇宙ハッブル望遠鏡で神は見えるか』》
 ☆ これは 質問趣旨を読んでも わからず 途中で質問者の返答を読んで 宇宙の始まりが分かるかも知れないというような話だったと分かったのですが 
 そうなのですが 神との距離が 質問者のばあい 近すぎます。これでは ほとんど かれの自我そのものであるように見受けます。むつかしい。この《宇宙・・・》の質問に まともに 回答すると かえって その自我のあり方を そのまま認めたり 初めから全否定したりする恰好となるのではないでしょうか。まづ先立つものは 知り合いになり信頼関係を築くことです。それからの話になるのではないでしょうか。

 すでにこの《Q:マインドコントロール》の質問の前に わたしの質問としては 《Q:所有とは何ぞや》に対して かれは 同じように その質問じたいを否定する回答を寄せています。そちらは 削除されるまでには至っていませんが その回答が 妥当であったかどうかについて 今回 反省がなかったわけです。
 その経緯を踏まえて考えれば その仕打ちを受けたわたしが かれの質問にまともに答えるならば 回答の良し悪しよりも 信頼関係を築く上で 少しでも 前進したと仮りにすれば かえって 問題は こじれると考えます。なぜならば 二つの仕打ちのようなことを わたしに対しては 勝手に自由に やっていいということになるからです。わたしが認めたという解釈を かれが 持っても わたしは 否定することができなくなります。否定が成功しても もう 信頼関係は 消えてしまうでしょう。むつかしいです。
 という事情だと理解します。

 もっとも 突然変異ということもあって それまでの経緯をすべて打っちゃって 新たな地平を切り拓くという場合は あるにはあるのですが。
 ★ 何を以って神とするのかもわからず / 闇雲に望遠鏡をのぞけば神があらわれる? ちゃんちゃらおかしい。 // そんなもんのぞかんでもいたるところに神さんはおるもんや。
 ☆ というように かれには おしえてあげなければならないとは 思います。少なくとも そういうかたちで 話がかみ合うでしょう。
 ほかの質問で 独我論について おしえてもらいました。これは 要するに 人とは話を合わさない・もともと それこそ 絶対に 人と意見が合うということはない このように思っている人の 自己弁護の議論だと知りました。コミュニケ―ションは ただ パンを食べていくためにのみおこなうという死の思想であるように感じました。そこまで 人びとが死んでいるとは あぁ 知らなんだ!!
 人びとの蛇口がいたんでいるのかいな。

補足日時:2008/08/19 08:25
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ども、brageloneさん。




出先からANo.16へいただいた《この回答への補足》を読みました。

二日ばっかお返事するのに間があきそうなので

取り急ぎ、そのことをお伝えしておきます。



一点、補足要求です。
●コミュニケ―ションは ただ パンを食べていくためにのみおこなうという死の思想であるように感じました。

と言われるところの“死の思想”とは?

【十字架と髑髏】
http://pot-8-o.hp.infoseek.co.jp/%81w%8F%5C%8E%9 …
【ホーソーン研究】
http://pot-8-o.hp.infoseek.co.jp/pot-8-o.htm
あたりのことでしょうか?

この回答への補足

 Bonjour, Mlle. littlekiss. Je vous remercie pour votre reponse et pour me montrer la dissertation de Prof Aoyama sur N. Hawthorne.

 ▲ ホーソーンは絶えず死について思い巡らしていたが、ホーソーンを魅了したのは死の神秘であって死の恐怖ではなかったのである。(§6 最終文 p.57/97)
 ☆ というごとく ここで言う《死の思想》は 生のために死を忘れるなと言って死を思う思想です。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ノルマンディーのイヴェトーに近いル・フェイのある家の暖炉には、肋骨を組み合わせた上にのせたしゃれこうべが彫刻され、その銘にいわく、
死を思え!
死を招じ入れ
いささかはそれを思い起こせば
命ながらうることも多からん
 ――この暖炉はロベール・ビューブリーこれを作らしむ。
神のため、みまかれる者のために。一五○三年  (§6)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《死の舞踏》は 黒死病から来ていて それを忘れるなと言っているようですし
 ▲ 死の前には身分の高きも低きも、富を持つものも持たないものも、人間はすべて平等であり、高貴な生まれも莫大な富も死の手から人を救うことはできない、人間は生きているときは塵に過ぎない哀れな存在で死の後には蛆虫の餌食となる運命であることを思い起こさせ、傲りたかぶるのを戒める。(§9)
 ▲ 《 Et in Arcadia ego =「われ(=死の擬人化)アルカディアにもありき」》 この銘文は・・・牧歌的な理想郷アルカディアも死からの避難所ではないことを表わしている。(§10)
 ☆ ということで 他方の《独我論》のまねく死の思想は そうではなく 他者と共存はするが 心を通わせることはない(また そもそも 人間は 互いに 連帯することは出来ない)という冷めた開国思想であり 心の鎖国思想であるようです。

 ホーソーンは――作品を読んでいずに えらそうに言いますが―― いやにまともに 聖書の話や思想を たとえを用いて 物語に仕上げたみたいですね。
 まづ あらためて 死の思想にかんしてですが 《第2章 エレミヤの嘆き――牧師の黒いヱ゛-ル》に出てくる牧師のように このヱ゛-ルを顔の前に垂らして 人びととのコミュニケーションを遮断するかに見える場合でも この場合は 《死を思え》ではなく 《死のとげである罪を思え / 一人ひとり 自分が 罪人であることを思え》と言っているというので 明らかに 連帯していることを前提にしています。時代がかっていて 旧いですが。
 《第1章 ホーソーンの赦されざる罪》でも 人と隔たりを持つに到るイーサン・ブランドという男が出てきます。ホーソーン自身によれば
 ● 赦されざる罪とは人間の魂に対する愛と敬意の欠如から生まれる知と心の乖離である
 ☆ のだそうですが 著者によれば
 ▲ 「人間の魂」に対する愛と敬意を失うとは、「人間の心」を蔑しろにすることであり、人間の心の奥底にはびこっている闇と恐怖のそのさらに奥深く、光輝く平安に満ちた世界を作り出している永遠の美を踏みにじることでもある。
 ☆ と言います。《人間の心の奥底にはびこっている闇と恐怖》が《死》であり 象徴として《髑髏》であるとすれば 《死を思え》というのは――あたかも古代ギリシャの《汝自身を知れ》と同じように―― その死の《そのさらに奥深く、光輝く平安に満ちた世界を作り出している永遠の美》を見たまえ ということであるらしい。これを《踏みにじること》を言っているらしい。《心の鎖国》の一歩手前なのでしょうか。
 もし《髑髏》が そういう形で 死の象徴であれば 《十字架》も おそらく信仰の象徴になると思われます。《第3章 ピンクのリボン――信仰喪失物語としての「若いグッドマン・ブラウン」》では その名前の主人公が まさしく信仰を喪失する話として  同じくフェイス(=信仰)という名の新妻との関係において 描かれていると言います。《森〔へ行くことになり それを止められるのであるが 行ったのち その森〕での衝撃的な経験》において
 ▲ キリストの荒野での試練やヨブの試練を彷彿させる森での悪魔の誘惑に、結局、ブラウンは敗れてしまうのである。(§3)
 ☆ と言います。これに対して わたしはここで 異議を唱えます。著者は ブラウンの失敗を分析して次のごとく説きます。
 ▲ ブラウンは〔妻の〕フェイスが悪魔の黒ミサに参列するために森の中へ入ってきたに違いないと早合点してしまい、それと同時に、ブラウンのナイーブな信仰、すなわち、神の賜物としての信仰ではなく人間の決断としての信仰に基づいた世界が一気に崩壊してしまう。(§3)

補足日時:2008/08/20 16:58
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この回答へのお礼

 ▲ ブラウンが真の意味でアレゴリカルに妻の名前を解釈し(= フェイスすなわち信仰であるゆえ) 神の賜物としての信仰の持つ恩寵性を認識していれば、こんなことは起こり得ない。森の中で見せるフェイスの悲しげな表情はこのブラウンの誤解から発した不信に対する悲しみと見なすべきである。ブラウンはフェイスを妻として女としてのみ見ているために、フェイスが担っている信仰としてのアレゴリカルな意味・役割を見失ってしまっている。この読みの失敗がブラウンの悲劇の原因である。(§3)

 ☆ じつは もうわたしには 情報が不足しているのであるが このまま異議を続けます。要するに 《〈十字架〉という象徴をとおしての信仰》において 《〈髑髏〉のさらに奥の永遠の美》を見るということをしなかったという失敗であり 悲劇であると言おうとしています。

 どんなものでしょう? このような《絶望》は そうだとしたら ざらにあると言うべきではないでしょうか。しかも――しかも です―― このように《わが神から見捨てられた》そのことによって 《そのままみづからが髑髏となった》そのことにおいて じつは 見捨てられておらず 髑髏であることを免れたとこそ 言うべきではないでしょうか。

 (わたしの論理も型にはまった恰好であり 著者のも そうであるのではないか これだけを言おうとしたものです)。

お礼日時:2008/08/20 17:04

primeapeです。


マインドコントロールそのものについてまだ論議の足らない部分がありますね。
指名手配覚悟で証言します。

A3
変人のとっぴな意見だと思ってくださいね。
実話これ、やったことがあります。
操る側です。
その結果天界より偽物のエスパーとして淘汰抹殺の宣告を受けました。
要するに死ねと。
ただし時間を置いて還元した結果、感化させた先方にその意味を知るゆとりがなかっただけで、訳がわかったらマインドコントロールから自然に抜け出したので天界の宣告も時効が成立しました。

この時分の私は無意識の成育のためにその暴走する様をひたすらこらえていた時期です。
個体と言うものがある以上、他者の無意識を想定して、それに無意識なりの真実を伝播させた結果のマインドコントロール現象です。
他者と想定した無意識が真実を確かめるまで徹底して面倒を見ました。(干渉しました)
真実がわかればそれに逆らえないゆえです。(介護みたいなもの)
それからこの場合の真実とは人類に有用なものとも限りませんのであまり関心を持たないでください。個体の無意識を想定しているので大げさに言ってもその人の運命とか、もしかしたら人生相談の回答だったかもしれません。
これは言葉も(意識できる範囲では)操らず行った私が今回たとえばなしじみた表現としたテレパシーではない生粋の本物のテレパシーです。
真実の内容や黒魔術的マインドコントロールノウハウは知りません。
私が覚えているのは訳も判らずエスパーゆえに死ぬしかないな。そんな感じ方をしたことだけです。

ここまで書き終わったらメチャンコ悪魔君から一言反省の言葉がありました。
結果はわかっていた。
したがってマインドコントロールするつもりがあった上で実行した。
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この回答へのお礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 わたし自身の体験を書きます。すでに投稿したことのあるものですが。

 まだ小学校五年生にはなっていなかったと記憶している頃のことです。
 腕白仲間と遊んでいて そのグループに ある日ある時 リーダーが必要だと皆が思うようになっていた。多少学力があったわたしに 視線が集まって来た。つまり 空気です。
 仲間たちは その時必ずしも口に出した言葉で わたしに問い掛けてきたのではなかった。暗黙のうちに それとなく 分かったわけで そのわたしは どういうわけか 同じように 心に念じるようにして 仲間に応じようとします。

 おそらく 慣習として こういうときには 暗黙のうちに指名された場合でも 指名されたほうは 声に出してよいはづなのですが わたしは 声には出さずに 答えようとしていました。そのとき ふと 思い留まりました。
 わたしが受けた仲間からの念力のようなものは もし それが通ったなら わたしと仲間との関係は おかしなものになると 感覚的に悟りました。
 なぜ おかしなことになるのか その理由については そのときは 次のことだけを思っていました。もしこのとき 《わたしにリーダーになって欲しいということなのか》と 仲間に 言葉に出して尋ね返すなら 何か おかしな雰囲気になるだろうという予感がしたということ これだけです。
 ずっとあとになるまで もう 突っ込んでは何も考えなかったのですが けっきょく 人の意思表示のないことがらを頼りとして 自分の意志行為をおこなうというその成り立ちが 問題なのだと考えるようになりました。
 その後 わたしが そのグループから仲間はずれになったことは 自然の成行きでした。

 ・これが 以心伝心の悪い例だと考えます。そこから マインドコントロールにまでたどり着くのではないかと思います。

 primeapeさんのこの例は 一対一の場合だったようですね。何か実験のようにも感じられます。

お礼日時:2008/08/20 00:22

primeapeです。


A13のウンチとヨーグルトの話。
六道輪廻にはうってつけなんです。
腸の中で吸収されながらやがて糞まみれになる様なんて六道輪廻のこわ~い話さながらです。
私は自らの無心を観念を判り易い言葉に置き換えていく瞑想と言いましたよね。
その研究成果がウンチ君の大冒険なんです。
このようなたとえ方は私の目指す哲学です。
絵本にすると丁度いいようなお話です。

ところでやはり論議は進みませんね。
マインドコントロールは暗すぎたのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ マインドコントロールは暗すぎたのかもしれませんね。
 ☆ なるほど。関心が薄くないどころか 骨身に沁みるということのようですね。とすると 次のご回答に書かれていることとも関連しますが よほど 注意深くしっかりと 問題を捉えて行かなければなりませんね。

 ★ 六道輪廻 / A13のウンチとヨーグルトの話。
 ☆ たぶん 人間じたいの生まれ変わりと どうかかわるかが まだ はっきりしないように思います。
 と言いますか 人間が ヨーグルトの菌に生まれ変わって また 人間になるといった転生ということ自体が どういう問題か。つまり それは いったい どういう哲学的な事態なのか。そのような前提から 問題にして行って初めて その中身をつかめるようになると思うのですが。(ブッディスムには 容易に 妥協したくない思いがありますし 輪廻は そもそも ブッディスムにとって 克服すべき事態だと思うのです)。

お礼日時:2008/08/21 00:07

たびたびprimeapeです。


今回の論議の進展を追ってみてAさんSさんの話の薬効が理解し易い雰囲気になったと思います。
マインドコントロールする立場の不本意さについていい雰囲気になりました。
brageloneさんのお考えをもう少し明かす機会はないでしょうか。
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この回答へのお礼

 ひとつ前のお礼欄に書きましたように 事態は はっきり言って 深刻のようですね。
 独我論が 哲学として 訴えるところが 分からなかったのですが どうやら 公式に議論しているところが問題なのではなく 言外で胸の内に持っているところが 重要であるようです。
 《人びとよ お互い 他人のことなど 分かったものではない。いちいち 心を通わせるなどということを言わず 世の中を住み分けよ。一人ひとりが 違う動物なのだ。言葉を 幸か不幸か 持っているが それゆえ 〈われわれは〉という表現をも用いるのだが それは あくまで 互いに住み分けるために 手段として利用しているに過ぎない。その意味で 孤立せよ。それが 独立だ》とでも 言っているのでしょうか。

 すなわち もしわざわざそういう色眼鏡で見ようとするなら 《もうマインドコントロール社会なんて いやだ。糞くらえだ。われわれ人間は いっさい 互いとかかわりを持たないというのが その存在の本来のあり方なのだ》とでも 言っているでしょうか。

 ★ AさんSさんの話の薬効が・・・
 ☆ この 《A‐S》の連関ということ・この現実 これに賛意をいただいたのは 初めてです。《スサノヲイスム》について 《Q:人が おしえる・おそわるということは どういう事態か》で やはり 初めて 賛同をいただきました。

 《Q:民主主義は 日本人のお家芸か》のような質問をつづけて 歴史的な内容と哲学的な思惟とを 整合するかたちで 明らかにできればよいと思いますし その方向で みなさんに尋ねてまいりたいと思います。まだまだ分からないところが 多いですね。ある程度 考えが進んだ部分で 質問するという形になるのは 仕方ないですね。

お礼日時:2008/08/21 00:31

primeapeです。


>☆ たぶん 人間じたいの生まれ変わりと どうかかわるかが まだ はっきりしないように思います。

>ブッディスムには 容易に 妥協したくない思いがありますし 輪廻は そもそも ブッディスムにとって 克服すべき事態だと思うのです

前世、来世の話はまやかしであることは知識として周知なのです。

今日私はヨーグルトへの感情移入をしました。
前世と言う考え方がある以上それに対する観念と言うか物語のようなものが持ちえますが、それを手放してみました。
よく言う自らが何者でもない感覚で、生命を包み込む地球そのものの立場のさなか地上にぽつんとたたずむ私自身と言う人間、それはまるでヨーグルトでした。
つかの間わかった気分になる幸せです。
空感と言うやつです。
聖典を汚すのははばかれますが私は空を諦めています。
危険を感じるんです。
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この回答へのお礼

 primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 前世、来世の話はまやかしであることは知識として周知なのです。
 ☆ わかりました。輪廻の場合も ブッディスムは それまでのヱ゛-ダなどの世界観に 批判を加えるとき 相手の常識に合わせて 説明したと言いますから。合わせるということだと了解しました。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 よく言う自らが何者でもない感覚で、生命を包み込む地球そのものの立場のさなか地上にぽつんとたたずむ私自身と言う人間、それはまるでヨーグルトでした。
 つかの間わかった気分になる幸せです。
 空感と言うやつです。
 聖典を汚すのははばかれますが私は空を諦めています。
 危険を感じるんです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここでは 前半は 分かります。最後の二文が 飲み込めません。
 ★ 空を諦めています。 / 危険を感じるんです。
 ☆ 前半の《空感というやつ》は 《つかの間わかった気分になる》のですね? しかしながら 《危険を感じる》ので 《空を諦めてい》るということですか? みなさんも たぶん 分かりづらいと思いますよ。

 ★ 輪廻転生
 ☆ を ブッディスムは 断ち切ると言うわけですが そういう前提を取り外せば 断ち切る必要もないと思うのですが。

お礼日時:2008/08/21 09:28

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