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お茶文化は京都でなくても発展しえたのに、僕がお抹茶と聞いてはじめに思い浮かぶのは京都です。
僕は静岡に住んでいて静岡でもお茶は有名ですが、静岡はお抹茶のイメージはありません。そこで、今年修学旅行に行くのですが、その研究テーマを「なぜ京都でお抹茶が発展していったのか」というものにしました。実際にお抹茶を体験をしたりしながら、自分なりの結論を出していこうと思うのですが、皆さんの意見を聞けたら幸いです。

A 回答 (2件)

植物としての 茶


室町期の文化として闘茶というのがあります。
栂尾の茶を本茶、それ以外を非茶として、本非をあらそうもの。
栂尾は栄西禅師が中国から持ってきた茶の種を最初に植えた場所です。この意味で栂尾がある京都が発祥の地。

文化装置としての茶
茶道は、足利義政が集めた東山御物を飾ることが必須でした。それらは、いったん義政が集めたあと、京都や奈良、堺などの商人の手を回っています。飾るノウハウと、飾るブツが京都を中心に展開したと言うこと。

家元としての京都 千家
千利休の子孫は、すべて京都で三千家として存続していきました。抹茶では ○○好みという価値判断があります。安土桃山時代の名人や、千家の宗匠のお好みとなります。宗匠は京都に住んでいますので、好みは京都中心になります。

江戸の将軍も宇治の茶を茶壺道中で送らせています。

※ 静岡の茶は、明治になってから元武士の帰農策の一端として発展しましたが、その時にはすでに抹茶の格式は決まっていましたので、新規参入は難しかったということになります。
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家元制度補足


家元制度時代は、茶道に関しては本格化するのは、実は明治以降です。
また江戸時代においては、町人の宗匠よりも武家系の茶道の方が本流でした。遠州流とか石州流とか。明治になって武家系はいったんちゃらになったというか、教わる人がいなくなったのに対して、千家は学校教育などを通じて全国組織化しました。
この時もっとも熱心だったのが 裏千家。
そのために、門人数では裏千家が他の流派を圧倒しています。
裏というように、表千家もあり、表千家の方が本家筋ではあります。
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この回答へのお礼

詳しいご説明ありがとうございました。
これを参考に、レポートを書かせていただきます。

お礼日時:2008/09/04 22:20

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