プロが教えるわが家の防犯対策術!

予備校講師の魅力的で情熱的でわかりやすい授業。
http://www.toshin.com/teacher/detail.php?id=34
私は東進のまわし者ではないですが、引き込まれる授業をしてますよね。
これに対して、大学教員。
眠い講義。やる気が感じられない。残念です。
大学教員も予備校講師みたいに素敵な講義をしたら学生がもっと学問・研究に興味を持つと思いませんか?

A 回答 (12件中1~10件)

そのためには、学生の立場も予備校生を同じにする必要がありますね。


それに、大学に入れば、遊べると思っている奴も多すぎます。
そもそも、学問に興味のある人が、大学に行くものです。
それを、親や高校以下の教師が、大学の意味を間違えて教えるから、勘違い学生が出てくるんです。
まず、こういう勘違い学生を叩きのめし、高校までの教育の低さ(議論や文章作成、事故の関心に基づく調査能力を養っていないこと)を改善することから着手すべきです。

予備校の講師の中には、大学院に行って研究者=大学教員になりたかった人も多いんです。その人たちに、なぜ予備校の講師になったのか聞いてみましょう。
駿台の講師の話では、
・大学の教員になれず、仕方なく予備校講師のバイトをやってたら、これが本業になった。
・大学でも兼任講師として授業をやった。講師が休めば、大学では喜ばれる。予備校では怒る。つまり、学生の聞く気が全然違う。
そんな話をしばしば聞きました。

大学教員は、第一に研究者です。
そのため、授業は二の次という人がいることは、否定しません。
しかし、大学教員もそれなりに授業には力を入れています。
特にゼミには優秀な学生に来てほしいし、できれば、ゼミから自分の後継者となる研究者や、各界の著名人が出てほしいとの気持ちもありますよ。

でも、そんな期待を背負える学生がいるとは限りません。
大学教員が、単なる概論だけではなく、自分の研究の最新成果を含めて、自分の持てる限りの者を全力で学生にぶつけたとして、名門大学以外の大学では学生に受け止める力があるでしょうか?

じゃぁ、教えるだけのプロも、大学教員として用意する必要があると思う人もいるでしょう。でも、そんなの大学じゃありません。
大学は、教員が研究をするもんです。第一級の研究者が、教養ある若者を鍛え上げるのが大学なんですよ。だから、聞く気のない奴は、つまみだすのが筋なんです。でも、最近の大学は、経営を優先して、馬鹿な学生まで「お客さん」扱いします。これでは、お互いの緊張感がなくなり、教学の質も低下します。

アメリカには、確かに教えるだけの「大学」もどきもあります。
コミュニティーカレッジというものです。その中の、アカデミックコース、本物の大学への進学過程などがあり、大学の教養課程レベルの授業を展開しています。
でも、このコミュカレそのものの評価は低いんですよ。悪く言えば、日本の予備校と短大をミックスさせた程度もののです。

結局、大学の質的向上は、馬鹿学生の排除と教員が本気で教える気になる環境が必要です。
それと、日本では大学教員の給与が低すぎます。だから、好きな研究だけをやりたいと思うんです。弁護士とか医者並みの給料を出さないと、研究も教育も、さらには大学事務もやらせるのは、不公平です。
そのためには、学費を上げるか、税金をもっと投入するしかありません。それでも良いんでしょうか?

もっといえば、大学の語学の授業は、非常勤講師のアルバイトです。授業1回ごとに1万円程度、月で3~5万程度。授業を4,5つ、あるいはそれ以上やらないと、まともな生活ができません。授業のない夏や春は、無収入です。

大学経営の杜撰さ、教員の待遇の悪さ、学生への甘やかしといった問題が、悪循環となって、日本の大学は質が落ちているのです。
(ヨーロッパでも似たような問題があるそうですが)
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立場が違うから難しい。



予備校は商売でやっており、お客様である学生側が強い。大学は今でこそ変わったが国営の時代から、学生側が入りたいと希望して大学側がそれを選抜して許可する形式だから大学側が強い。

相手との関係性を保つために努力するのは立場の弱い方。

予備校は、予備校側が客をつなぎとめるためにやる気の無い予備校生のやる気を出させるために努力する。学生側はそれが気に入らなければ他の予備校に移る。
大学であれば、学生側が単位を取得できるように努力する。大学側は大学の基準に満たなければその人を留年させる。
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この回答へのお礼

皆さん回答ありがとうございました。
参考になりました。

お礼日時:2009/07/19 21:46

質問者さんはまだ、まだ大学で本当に面白い授業に出会えていないんだと思いますよ。

私も大学4年になるまでは面白い授業はかぞえるほどだったけど。
特に修士課程の時の授業にはスリリングなものあがりましたね。世界最先端の研究をしている研究者が、現在進行形の研究をおもいっきりぶつけてくるんですから。博士課程の学生なんかは、必死に食らいついて、わずかな欠点を突いてきたり。それで、5分休憩のあと、先生がこれならどうだ、って理論を修正してきて、学生も降参ってなこともあったりで。
新しい知がうまれる壮絶なバトルに立ち会ってるような経験でした。そんな授業が週に何回もあるんですよ。
まあ、単位をとるためだけに出席している学生は、頭上をとびかうハイレベルな議論にポカンとしているだけでしたが。

予備校の有名な講師の授業がおもしろいのは知っていますけど、それとはまた違うおもしろさがあるはず。教養の退屈な授業はそこにいたる過程であるとわりきってみては?
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大学の教員に問題があるのは確かでしょう。

ただ、予備校の教え方のようになれるか?多分なりません。そもそも前提条件が異なります。大学予備校に来る学生の目的は一つだけ、それは「大学に受かること」です。一方大学での学生の要望は一つではありません。学問を究めてみたい、就職に役立つようにいい成績をくれ、大学生活の時間を他のことに使いたい(例えば演劇活動、資格試験勉強、遊び等)から簡単に単位ちょうだい、十人十色です。

しかも、与えられた問題(しかも解答できる、とわかりきった問題)を時間内にいかに解くか?を教えれば済む予備校と、「何を問題とするのか」「それをいかに解いていくか」(しかもその答えは得られるのか、答えは一つなのか不明)、を学ぶ大学の勉強とはそもそも質の全く違うものではないでしょうか。

高校との比較になりますが、予備校の先生だって以前TVで言っていました。「私たちは勉強する気のある子だけを相手にし、勉強だけを教えます。高校の先生は違う。やる気も違うし、生活指導もあるでしょう。あんなことはできない」と。
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学生が悪いから、という意見が出がちですが、


しかし不思議なことに、同じような面子でも、良い講義と酷い講義とで態度が違います。
大学で学ぶことは答えがないから、というのも、少なくとも私の分野では違いましたね。
分野自体が歴史的に深まるにつれてだろうと思いますが、教科書的内容が多くを占めていました。
教科書の先のことをやるのはそれは良いんですが、教科書レベルのことをもちっとまともにやってくれ、と思います。

そうなっている原因は、
「私は研究者、教育なんて」
という意識でしょう。
解決策は簡単で、教育に対して給料を払い、研究成果に対しては大学からは金を出さないことでしょう。
研究だけしたい人は研究をすればいいんですが、そういう人からはショバ代を取るのです。
私は研究者、学問は自由、という声にはそうやって応えればよいでしょう。
それを、成果に応じてポストがどうので、そいつに教育をさせようとするから間違いが起こるのです。

なお、予備校のテキストは、おそらく輸出超過だろうと思いますが、大学のテキストは、おそらく輸入超過でしょう。
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すでに高等学校で勉強していてその補習をやる予備校と,新しいこと,かつ答えのない課題に取り組む大学では,難しさの質が違うでしょうね。

そういうこともわからないなら,大学には行かないほうがいいです。
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追加です。



欧米の大学での状況を挙げて日本の大学での状況を批判する意見も良く見られますが、前提が全く違うことを忘れて比較されていることが多いです。以下、少し違いを列挙します。

・個人で担当する学生数が少ない。ドイツの例ですが、概説講義でも150名が最大でしょう。数百名に対して講義をすることはありません。ゼミは大きくても十数人です。(一学年ではなく、全部で)

・学生のレベルが違う。欧米の学校では中学高校から議論をさせる、小論文を書く練習をさせます。「レポート」ではなく「小論文」です。与えられたテーマに対して、自分でそのテーマを解釈し、対象となる事象を選択し、一次資料を含めて検証し、結論まで書いていきます。もちろん個人ではなくグループ研究が多いですし、先生も手伝います。必要があればアンケートを取りに町に出る、市役所の担当官にインタビューに行く、企業を訪問することもあります。その上で「学問・研究職」に進みたい学生が大学に進学してきます。

・サポート体制がしっかりしています。教授には数名の助手の他に少なくとも一人秘書が付きます。有名な教授になれば数名の秘書が付くこともあります。事務的な仕事はすべて秘書がし、学生の質問も小さなものは助手が受けます。研究の根源的な質問その他論文に関する質問は教授が対応します。しかし、一週間のうちにそうしたコーナーは二三時間設けられているに過ぎません。十数人いるゼミ生は、その時間にアポイントを取って教授に質問をしに行くことになります。もちろん十分に準備した質問になり、キチンとした議論レベルでの質問がなされます。

・絶対評価が当たり前。日本の評価が相対的であるのに対して、欧米では絶対評価が当たり前です。ある講義の成績を付けるにあたって、不可が多かったとしても、それは教授のせいではなく、学生が勉強をしなかったと見なされます。講義のレベルを落として学生に迎合する必要はなく、自分が提供できる最高の講義を提供することに対して文句は付きません。十分な理解が見られずに「優」を付ける必要もありません。入学しても「学問レベル」に到達していなければ、留年・中退は普通です。「卒業させる義務」のようなものはありません。私の知っているドイツでは、大学進学率が最近伸びてきて32%、実際に学位を取って卒業するのはその1/3強です。

・予算配分が違う。ちゃんと市場性との兼ね合いを考えた予算配分がされています。どういうことかと言えば、市場性がある学問領域は、市場から金を取ってくることが課されます。市場性が少ない学問領域に関しては文教予算から必要な予算が確保されます。日本のように市場性のあるはずの領域に予算があり、市場性がない領域を締め上げるようなことはしていません。

これらの前提が日本でもすべてクリアされた状況になって、初めて比較が可能になるでしょう。
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確かに正論です。

しかし、講義を受ける側の姿勢にも問題があるのでは?

現在の日本の教育制度は、大学受験が終わった段階で教育を受ける側も「すべてが終わった」と考えてしまうようにできています。本当はそんなことないはずなのですが、大学に入学した時点で卒業がほぼ保証されている、またはそう信じ込んでいる人が少なくありません。これは中学卒業、高校卒業までに留年すら通常は経験してこないことに拠ります。「中学レベル・高校レベルの数学すら理解していないため、大学に入ってから補講をしなければならない」という状況がニュースに出ていたのを見て呆れる他はありませんでした。なぜそういう人たちが「大学に入学できたか」ということよりも、「中学・高校を卒業できたか」という疑問が先に出てきてしかるべきです。大学生側にも「場合によっては何回か留年すれば良いや」とは思っていても「卒業はしようと思えばできるさ」という考えが多くありませんか? また、学生の多くは「学問・研究」をしたくて大学に進んでいるのではないでしょう。「大学卒」という学歴だけが欲しくて進学しているような気がします。それはこのカテの多くの質問を見ても感じられることです。

大学教員に対する学生評価の話は、かなり昔からあります。実施されている部分もあります。しかし、厳しい講義・ゼミ、不可を多く出す「やる気のある教授」は「鬼」と呼ばれて敬遠され、出席を取らない、講義中寝てても文句を言わない、試験範囲を前以て教えてくれて、何か書けばとりあえず可は貰える「やる気のない教授」を「仏」と呼んで学生が集まる状況が続いております。

教育制度全体における教授の役割も不透明です。教育者なのか研究者なのか、最近はそれに加えて事務職員の役割もこれまで以上に重く課されています。こえまで事務の一部を担ってきた助手はほとんどの大学で予算確保できないという理由で削減されています。学生が評価できるのは教育者としての役割だけですから、それだけで大学教員のすべてを評価できるわけではありません。

確かに大学教員の中には、自分の立場に安住して研究すらまともに出せていない者もいます。それは大きな問題なのですが、しかし、厳密には研究が出ない=研究をしてないということではないのが問題なのです。チーム研究が主体の理系と個人研究が主体の文系、予算の配分の問題(学生のPCまで給付できる理系研究室と必要な専門書の十分な図書館購入すらできない文学系)、短い論文が多い理系とかなり大きな書物にせざるを得ない歴史系など、研究を行なう上でも大きく前提条件が変わります。特許など独立した第三者評価を加えるにしても、工学系は比較的楽でしょうが、哲学で取るのは難しいでしょうね。また、同じ理系でも、応用研究はすぐに成果が市場に反映されていきますが、基礎研究は市場効果がすぐに出てくるわけではありません。また、一つの研究に掛かる時間も大きく変わってきます。現在の大学で、そうしたきめ細かな評価基準が設けられているとは思えません。画一的な評価基準はその基準にマッチした一つの学問領域だけが適正に評価されるだけであって、それ以外の学問領域に対しては、むしろ害悪でしかありません。以上のような理由から、学問レベルでの評価も難しいでしょう。(これは「評価するな」ということではなく、それだけの評価体制を政府または社会が政治的に中立な形で構築することが不可能だからです)

更には「大学」の氾濫が存在します。現在の日本の大学のうち、世界的に大学として認められる水準を満たしている大学がどれだけあるでしょうか。上述した補講をしなければならないような大学は明確に大学の水準を満たしていないでしょう。それでも大学と名乗り、大学全入時代などと言うことになります。しかし、「学問・研究」というレベルでの実質的な「大学」は少ない。それならば、「大学」と名乗るのを止めて「専門学校」や「職業訓練校」と名乗れば良いが、それでは学生が来ない。学生を集めるためには、「大学」で居る必要があるのです。しかし「大学」と名乗るためには基礎理論などのいわゆる「面白くない」部分もカリキュラムに入れる必要があります。そうした状況の中で、「面白い」ことだけを期待されても難しい。

予備校の教師は、その意味では楽です。「大学の入試に合格させる」という目標が教師側にも生徒側にもあるからです。「答えのある問題のみを考えさせれば良い」というのも楽なことの一つです。「これは正解。この解法は覚えておけ」で済むわけです。教育者の面だけを考えれば良いので、そこで評価されるように対策を練る時間も取れるでしょうね。事務は事務職がやってくれますし、試験の添削は正解例さえ作っておけば別のバイトがやってくれます。

とりとめもなく書いてしまいましたが、大学教員と予備校教師が一概に同列に評価できないことは納得いただけたでしょうか? もちろん、大学教員が面白い講義・ゼミを提供していくべきだ、という点そのものに関しては賛成です。しかし、それを予備校教師と同列に考えることは不可能と言うことです。また、その責任を教員だけに帰することはできず、文教政策全体と学生自身にも期すべきだと考えます。

最後に。すでに大学を、そして日本を離れて8年経っていますし、質問者様の通われている大学の状況は存じておりません。全体的な傾向、ニュース、そして大学にスタッフとして残っている友人たちの近況報告と愚痴からの判断です。各論的な見解ではないので、ご了承ください。
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よくこの手の話では「大学はレベルが違うから」


なんて話を聞きますが、実際そういう意識では無くて面倒だけど
しょうがなくやってる風な人も多いですね。
遅刻欠席当たり前とかテープレコーダーのように話すとか。
質問したら激怒したりとか(対話する気が無い?)
能力云々より意識が低い気がしますね。
欧米ではそういうことはないようです。
「あくまで教授は教育者」と言う意識があるのかな。

企業もやってるように評価シートを取り入れて給与や役職に
反映させたらどうかと思う。
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お客さんの方に「にんじん」があるかどうかが大きいと考える。



予備校・塾のお客さんは、ほぼ100%その授業で受けたものを使う。
大学の授業は、歴史的には「大学の先生」ないし「それに準ずるもの」つまり、研究者が研究者の卵を育てる事を前提に作られている。
欧米の大学はそもそも、そのようにしてできあがった。
戦前の日本の大学も、ほぼそのような構造であった。
構造をそのままに、大学と大学生を大量に作ったので、構造と目的がミスマッチしているのが現代の大学の問題。

大学教員個々の問題ではなく、今ある大学を「大学」と「高等職業訓練校」に分けてしまえばかなり解決するかと思う。

学生による先生への評価作業
すでにやっているそうです。
「むかし、自分が学生の頃は、休講になると喜んだものだ。今は、学生に怒られて、授業の評価が落ちる。」と、現役の教授が言っていた。
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