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こんにちは。

最近、授業で西洋史や日本史に触れることが多く、そのことについて考えさせられることがありました。
それは、日本でルネサンスは起こらなかったのかということです。

ルネサンスでは、古代ギリシャ・ローマの時代を取り戻すというのが目的だったと思います。
日本には様々な文化が外国が入ってきましたが、その時に日本古来の文化を取り戻そうとする運動は起こらなかったのでしょうか?
また、日本は西洋のように古代ギリシャ・ローマなどの原点を持たないのでしょうか?

個人的に思い当たるのは、本居宣長の古事記の研究ですが、ルネサンスほど規模の大きいものではない気がしますので・・・

A 回答 (4件)

とんでもありません。


幕末から明治に至るまで影響した国学思想は日本のルネサンスとも言えます。

まず初めに「天保の御再興」というものがあります。
これは平安後期から乱れてしまった装束(十二単とか束帯と呼ばれるものです)を今一度摂関期の時代に戻そうする運動です。
ですから実際には平安装束と呼ばれる十二単や束帯は復元装束と呼ばれています。

それと「神葬祭」が生まれたのも国学が発達した幕末からです。
これは幕府によって生まれた檀家制度で死んだら皆仏葬で行うことに疑問を感じ、本来日本人であるならば神式で行うべきだと主張しました。

また明治時代になると「神仏分離令」が出て神社とお寺を分けるように政府から通達されます。(但し誤解を受けて「廃仏毀釈」運動に発展してしまいました)
それ以前は神仏習合といってお寺と神社は至極曖昧な形で存在していました。(時代劇に出てくる「八幡大菩薩」は神仏習合の時代に八幡神を仏として祀っていた時の神名です)
それをはっきりさせるように通達し、神社から仏教的なものは全部破棄し、社僧(神社にいる僧侶のこと)は皆神職になるように、神社になるなら改名するように言われました。(平家物語に出てくる祇園精舎は現在の八坂神社です。ですから現在では「祇園精舎の鐘の音」は聞くことは出来ません)
これも国学の影響で「日本古来の宗教に外国の仏教が混じっているのはけしからん!元の日本の宗教に戻すべきだ」という主張から始まっています。

その他明治天皇即位礼などもあげられます。
それまで天皇の即位礼は奈良時代からずっと中国風の礼服を着て、中国風の儀式で行っていました。
それを明治天皇から束帯を着て日本式に儀式を行うようにし、今日の今上天皇の即位礼も同じように執り行っています。

また俳諧においても賀茂真淵以降から国学の影響が出ています。
明治の正岡子規は紀貫之を「下手な歌詠み」と評していますが、これは古今和歌集以降の和歌が中国的な影響がある事に対する批判で、唐風に毒されていない万葉集を見習うべきだという考え方です。

国学というと本居宣長しか知られていませんが、実は国学運動は幕末から盛んに起こり、明治時代においてものすごい影響を与えたものです。
日本のルネッサンスというならばこの国学運動がそれにあたると思います。
何しろ千年以上もごった煮にさせていた仏教と神道を切り離しちゃったわけですし・・・
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 不易流行 ~ 復興なき進化の概念 ~
 
 西欧文化の源は、古代ギリシャ文化でした。カトリックに抑圧され、
中世の秋に沈んでいました。しかし、イタリアのルネサンス(文芸復興)
が、ドイツの宗教革命を経て、イギリスの産業革命に向ったのです。
 
 イスラム文化も、ペルシア・ルネサンスを生みましたが、産業革命を
経験しなかったので、今日の経済格差に追いこまれました。わが国は、
ルネサンスを知らぬまま、急速に産業革命をクリアしてしまったのです。
 
 わが国の文化は、革命を必要とせずに、独自の進化を遂げたようです。
 したがって日本の美術界では、ギリシャ彫刻やルネサンスの壁画より、
(輸入解禁当時の)フランス印象派の絵画が偏重されています。
 
 日本を代表する芸術分野ごとに“ベスト3”を列挙してみましょう。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3085490.html (No.1)
 東洋の芸術は西洋からどのように見られているのですか。
 
 わたしの東西文化論序説、西洋人が脱帽する東洋文化ベストテン。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2153693.html (No.6)
 東洋と西洋ではなぜ文明の洗練のされ方が違ったのか。
 
── 本当の人間が時折生れるのは、ほんの偶然のことだろうか? と
私は考え続けた。綺羅星の如く輝く天才達が、同じ時代に、同じ民族か
ら生れるのは、一体どういう原因によるのだろうか? レオナルド、ミ
ケランジェロ、ラファエルが、あの時代に生れたのは、時代が大画家を
生むべく熟し、イタリヤという土地が彼等の気質に適していたからだと、
テーヌは考えた。物事を何んでも合理的に割り切る十九世紀のこのフラ
ンス人が口にすると、この理論は奇妙なほど神秘的にきこえるが、それ
でもやっぱり真実である。だが、季節はずれに生れた天才達はどう説明
すればよいのだろう? (瀬尾 裕・訳)
── ハクスリ《天才児 Young Archimedes~Little Mexican,1924》
 
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こんにちは。


運動とは違うかもしれませんが、「国風文化」は、唐風の文化から日本独自の文化に移行しました。
平安時代ですけど。。。
ウィキペディアの下のほうに
「飛鳥文化 - 白鳳文化 - 天平文化 - 弘仁・貞観文化 - 国風文化」
なんて書いてあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%A2%A8% …
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 鎌倉初期の運慶など慶派仏師が行なったのは、天平時代(ある意味日本彫刻史上の最高峰)の力のある作風を取り戻そう、というものでした。


 しかしルネサンス同様それは以前と全く同じものではなく、独自の魅力ある作品群が生まれてきました。
 仏像の彫刻様式はこれ以降一変しますので、ルネサンスに匹敵するほどの芸術全般にわたる大運動ではなかったかもしれませんけれど、相応に意味のあるものであったことは間違いありません。
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