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とても教養があって博識で、考え深い知人がいます。
かなり読書家で、いろんなことに知識があり、びっくりさせられます。
教養が深いのはとても素晴らしいことだと思いました。
ですが、その人を観察してると、頭はいいのだけど
本などの知識を鵜呑みにしすぎ、体験じゃなくて頭で考えすぎ、
という風に見えるときがあります。
個別の事象は様々で、本や教科書通りではないことって
たくさんありますよね。
けど、「日本人は~、女は~、今の時代は~、」等々、
知識に縛られてがんじがらめになっているように思うときがあります。
実際、本で書いてあることが正しいとは限らないと思います。
統計にしたって、どの集団をサンプルにしたのか、
によってまた結果はかなり違ってしまうことがあるようですし。
そもそも最初の段階でサンプルが偏ってしまっているとか。


優秀で、知識がたくさんあるのはいいことだと思うけれど、
それが仇となって、頭で考えすぎて心で考えられなくなって
いるのでは、と思ってしまいました。

知識や教養があるのはいいこと・・・ですが、それがありすぎだと
逆に柔軟な発想やひらめきができなくなったりしてしまうのかなと
思いますし、自分のひらめきよりデータや知識を大事にしてしまう
あまり、新しいアイディアを出しにくい人間になってしまうのでは。

教養のある人になりたい、と私は思っていましたが、最近
わからなくなってしまいました。
教養、知識があることは本当にそんなに大切なのでしょうか?

A 回答 (13件中1~10件)

こんにちは。

お気持ちよく分かります。確かに私達は親や学校などで「頭がよくなければならない」と教えられてきました。
しかし、私もあなたと同感で、それだけが全てではないと感じています。もちろん、博学なのはいろいろな形でヘルプになり素晴らしいことではありますが、それをどのように日常に活用するかが大切かなと思います。

人間は知性を求めます。ただ、あなたが感じられているように、それだけですと頭でっかちになります。本に書かれている事は、その著者が考えた事だったり、過去の事だったりで、必ずしも全ての人に当てはまるとは限りません。知性等の思考の逆側に感性があります。芸術や技術などを発揮する事ですが、またこれだけでも地に足が付かない状態になってしまいます。

思考と感性を融合した形、つまりはバランスがとても大事だと思います。そして、もっと大切なのは、自分自身を知って、自分のビジョンを現実化させることだと思います。世の中の人は皆価値観や信念が違います。それらを他人に押し付ける事はできません。人間一人ひとり、必ずこの世界で何らかの形で表現することがあります。それは、心からワクワクしたり、何の見返りも期待しない、本質の部分から生じる衝動です。他人を認め、自分を信頼して、自分にしか表現できないことをする事。これが出来ていれば、教養が必ずしも必要にはならないでしょう。
もちろん、心から表現したいことが教養と結びついていたら、それは必要な事になるかもしれません。

私の考えですが、結局のところ、自分自身を知って自分を表現できていれば、教養は自然と付いてきますし、感性もバランスが取れてくるように感じています。

以上ですが、何かの参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
バランスが大事、本当にそうですね。同感です。

>人間一人ひとり、必ずこの世界で何らかの形で表現することがあります。それは、心からワクワクしたり、何の見返りも期待しない、本質の部分から生じる衝動です。他人を認め、自分を信頼して、自分にしか表現できないことをする事。これが出来ていれば、教養が必ずしも必要にはならないでしょう。
もちろん、心から表現したいことが教養と結びついていたら、それは必要な事になるかもしれません。

すごく心に響きました。私が普段から漠然と思っていたことを、
明確に言葉にして下さった感じです。
ありがとうございます。参考になりました。

お礼日時:2009/09/22 20:09

うーん、そういう人は、別に教養があるわけでも博識なわけでもないと思います。




大学の先生や専門職の方と話してても、頭でっかちで机上で話す人もいれば、それくらいの知識を身に付けた上で、いろんな体験をしていて、経験と知識からくる深い見識を持っている人もいます。


本当に教養があって博識な人は、話していてこっちが快感を覚えるほど、言うことがことごとく的を得ていますよ。


>教養、知識があることは本当にそんなに大切なのでしょうか?

大事だと思います。

私も尊敬する先生や先輩のように、頭でっかちにならないように、自分の経験と常に照らし合わせてものを考えるよう気をつけています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
経験と知識からくる深い見識をもっている人、
それが本当に教養があり博識な人、ということでしょうか。
>自分の経験と常に照らし合わせてものを考えるよう
私にとってとても大切な言葉だと思いました。
ありがとうございます。

お礼日時:2009/09/23 00:32

知識や教養はあっても邪魔にならないものです。



特に決断を迫られた場面で知識が有るのと無いのとでは導き出す答えが
俄然変わってきます。

ただ、それに振り回されるのはどうかと思います。

はさみと同じで使い様だと思います。

また、閃きや発想は知識無しには成しえません。
基礎があってこその応用なのです。

なので大切かどうか、というご質問の答えは、
個人的には『大切』だと思う、になります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>閃きや発想は知識無しには成しえません。
基礎があってこその応用なのです。

基礎的な知識があってこそ
ひらめきが生まれるということなんですね。
参考になりました。

お礼日時:2009/09/22 22:13

不動産の管理会社がろくに法律も知らずに偉そうな態度に出てきたのでこれから懲らしめようと思っています^^



質問者さんのいう知識と私の考える知識は違うものかもしれませんが、
必要とされる知識はあるにこしたことないかなと

法律の知識がなくて弁護士になれますか?
建築の知識がなくて建築技師になれますか?
質問者さんの話は必要のない知識を必要のない場所で展開させたことをおっしゃってませんか

ひらめきだってそうですよ
知っているからこそ別の考えにつながる、ひらめく
知らないからデータや過去の事例しか考えられない、そんな風に思えませんか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>質問者さんのいう知識と私の考える知識は違うものかもしれませんが
そうですね、私が質問している「知識」の意味とは違うようです。
>必要とされる知識はあるにこしたことないかなと
これは同感です。・・というか、他の方のお礼にも書いたのですが、
私は知識があることがだめなことだとは言っていません。
法律家になりたい、建築家になりたい、そういう目的があるから
勉強する。それは至極当然のことだと思いますよ。

>知っているからこそ別の考えにつながる、ひらめく
>知らないからデータや過去の事例しか考えられない、そんな風に思えませんか?
そうですね。そういうこともあると思います。逆転の発想でした。
参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2009/09/22 22:08

確かにそうですね。


もちろん、メディアなどの情報にも有益なものはあるかもしれません。

自分で有益な情報、そうでない情報を見極められ、そして自分自身の意見をしっかりもつことが大事なのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
見極める力が大切ですね。
情報がたくさんありすぎるので・・

お礼日時:2009/09/22 22:11

#1です。


>不要だとは思っていませんし、そんなこと書いていません。
とのことですが、
>本当に良いことなのでしょうか?
>本当にそんなに大切なのでしょうか?
と仰っているのであれば、“否定的な見解”であると思うのですが…
まぁ僕の深読みといえば深読みですけどね。

さて
>使い方の問題でしょうか。
僕はそう思っています。
知識も教養も出すかどうかは選ぶことができます。

(不要な場面で得たばかりで不正確な)知識や教養をひけらかすことを、そのような人たちが集まる場所の名前から“サロンバカ”というそうです。

知識や教養はお金と同じと言いましたが、使ったり披露しても減らないのがお金との大きな違いで、それゆえについついひけらかしてしまいがちです。

包丁は台所で使ってこそ真価を発揮するもので、それ以外の場所では凶器でしかありません。
しかし台所でもちゃんとした使い方を知らなければ、ケガのもとです。
また刃こぼれやちゃんと研いでなければ使いにくいです。
逆に扱い方、使い方を知れば、単なる切断する道具ではなく、芸術性を発揮することができます。

包丁も知識も教養も使い方です。
正しいものを正しく使えばいいのです。

>新しいアイディアを出しにくい人間になってしまうのでは
これは一理あると思います。
ひと昔前では“プラスチックは電気を通さない”が当たり前のことでしたからね。

しかし正しい知識と教養を正しく扱える人は、プラスチックでも金属の自由電子のように電子を運ぶ機構があれば、電気が通じる可能性があるのではと気づきました。(もちろんこんな人は、そこらじゅうにはいませんが)
もちろん自由なアイディアを持った人も、そう考えたかもしれませんが、電気の通る仕組みが分からなければ、導電性高分子なんて作れなかったでしょう。
(ちなみにこういう話をひけらかすのがサロンバカです)

正しい知識や教養は、あればあるほどいいです。
間違いのありそうなものも、披露する場所と使い方に気をつければいいのです。
使えるか使えないかは、その場面に遭遇するか否かなので、使えそうにないものも、しっかり蓄えるべきだと思いますよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>>本当にそんなに大切なのでしょうか?
>と仰っているのであれば、“否定的な見解”であると思うのですが…
教養は大事だと思います。たいてい、教養や知識の深い人は
「すばらしい」として褒められ、奨励される傾向がありますよね。けれど、私は色々な理由から、そこまで知識が奨励される風潮に疑問を
もったのです。回答者様は、それを「不要」という意味に解釈されたのでしょうね。

>包丁も知識も教養も使い方です。
>正しいものを正しく使えばいいのです。
そうですね。正しいものを見極められ、さらに正しい使い方を
見極められれば最高ですね。

お礼日時:2009/09/22 21:51

論語で言うところの


「学びて思わざれば則ち罔し。思いて学ばざれば則ち殆うし。」
これに尽きるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
さっき、その言葉の意味を調べてみました。
そうですね。生きた知識が大切ですね。

お礼日時:2009/09/22 21:38

平たく言えば、実学と机上学のことですよね。



その人は教養があるのではなく、単に机上学に長けているだけでしょう。
教養とはそもそも、実学(疑似体験も含め)と机上学がコラボしている状態と思ってください。

極端な言い方をすれば、実学だけ長けていても、ある事象に対して人から質問されても、論理的な説明ができないケースが出てくると思います。そもそものところはわかんないけど、とにかくこの問題をうまくこなすには○○のとおりにやるのが一番だ。見たいな答えを貰っても、聴いてる本人からすればいまいち納得しがたいですよね。
机上学というかいろんな知識を持っていれば、こういったケースで説明するときにわかりやすい説明(納得性の高い)ができると思います。

ということで、理想からすれば両方備わっていることがいちばんですよね!
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>平たく言えば、実学と机上学のことですよね。
そうですね。もっと細かく言うと、知識がありすぎるせいで失ってしまう、見えなくなる、大切なものがあるのではないか、と思っています。
(NO6さんとNO3さんの回答が、私の意図を的確に解釈されて
いるかなと思います。わかりにくい質問ですみません。)
実学と机上学、両方備わっていたら素晴らしいですね。

お礼日時:2009/09/22 21:15

まず、非常に興味深い質問だと感じます。


自身で常々、疑問に思っていた事柄に近いです。
回答としては
no.1 の mojitto さんは短いながら核心を突いている回答だと
個人的には思っています。
私なりに補足できるとしたら以下ですね。


身長210mを越える巨大な友人がいるのですが彼いわく

「はげている人はすぐわかる」と言っています。

知識を得ることは身長が高くなることに似ています。

高い目線という角度から見渡して見ることができ、視野が広くなる

あなたの知人はどうでしょうか?

そこで満足なのではないでしょうか? 

最近、話題の苫米地英人さんの言うところの
スコトーマ(心理的盲点) を意識していない
のでしょう。

あなたが、がんじがらめと表現するのは固定化を強調しており的を得ていますね。

高い目線という角度

は、低い目線という角度を犠牲にしています。
その自覚があれば意識してかがんだ姿勢で見ることもします。
あえて、かかがむことは、常に謙虚さを伴っているように思えます。

低い目線という角度は無知である私のような目線。

この無知の目線でしか見れないものはたしかにありますが

無知ゆえの柔軟な発想やひらめきができなくなるのは
かがむという謙虚さの欠落、精神的怠慢が主原因と思います。
難しいですよ。知識を増やすほどにより謙虚であらねばならない。

それができるようになれば鬼に金棒でしょうね。
あなたは素質がありそうです。

あなたの知人は単に知識があるというだけで、一目置かれるようなそんな悲惨な環境に慣れてしまったのでしょう。
かがむつもりはさらさらないと思います。
満足しているのだからどうすることもできません。どこにでもいるタイプです。

本に書かれていることは間違っていることもあるというのは
わかりきったことです。
それもまた違った角度からの、ひとつの見解ととらえる謙虚さは
常に持っていたいものです。
自分で言っておいて、耳に痛い話ですが(自爆w

そんなところでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>この無知の目線でしか見れないものはたしかにありますが
私は最近、この無知であるからこそわかる事柄の重要性を
感じるようになりました。
「知識が豊富なのはいいことだ」と、当り前のように世間では
言われますが、知識がないおかげでわかることも、多々あるように
思います。知識をもちつつ、謙虚さを忘れなかったらいいですね。
難しそうですね・・・・でもそうなりたいです。

お礼日時:2009/09/22 20:52

…まぁ「知識」を数多く持っていてまずいことは何もありません。


ただ、知識がすなわち正しいものであるばかりではないし、知ったかぶりして赤っ恥かくこともあります。
その後どう対処していくか?ということが重要なわけです。

あなたが心配しているように「否を認められない」ということだと、少し問題ありですね。
失敗したらまずは否を認めて、反省して、次に対処する…知識は「上書き必須」のものですからね。

私は「百の知識」を知る人よりも、「ひとつの煌いた言葉」を語れる人のほうがずっと好きです。
人を動かすもののひとつが「言葉」であり、その言葉をきちんと使える人間には確かな「教養」や「経験」があるのです。
知識や経験の量の多さに問題があるのではなく、実践的に「使えるかどうか」が問題なんですよ。
実になった言葉を語れるのかどうか…心の「背骨」をしゃっきりさせるために知識を使うなら、それはとても大きな「盾」となって、あなたを守ってくれるでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私も、個人的には、心を動かす言葉を語れる人の方が好きです。
「上書き必須」・・・なるほど。私も知人のような人を目指して
教養を深めていく際に、心に留めておきたい言葉です。

お礼日時:2009/09/22 20:38

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