アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

日本男児たるもの・・・・・

昔は弱いという事は悪とまでは言わないけれど、戒められる対象であったはずですよね。

現代は、弱さを共有しあう者同士の変な連帯感、或いは弱者に対する妙な無関心が漂っていないでしょうか。

弱さを認めるというのは、ある面でお前たち同士で何とかしろという分離であり、切り捨てなのでしょうか。

現代人は強くなりたくないのでしょうか。

A 回答 (17件中1~10件)

弱いということに問題があるとすれば、他人に迷惑をかける恐れが


あるということではないかと思います。

自分に出来ないことがあれば、自分で出来るようになるか、誰かに
やってもらうことで解決ができます。
でもいつまでも他人がやってもらうことはなかなか出来ないでしょう。

自分の弱さを認めることは意外と難しいことだと思います。
自分の出来ないことをあからさまにするよりも別の何かのせいにする方が
問題から目をそらせることも出来るでしょうから。

自分の弱さを認めることが出来るというのは自分の強さということも
出来ると思います。
自分の出来ない部分を把握しなければ解決する方法も考えられない
はずです。
それが出来れば少しずつでも自分を成長させることが出来るのでは
ないかと感じます。
自分の弱さを認めることが出来ることで自分を変えられるようになる
のだと思います。
自分の弱さを認められず誰かのせいだと思うのならば、誰かを変える
ことに一生懸命にはなれますが、間違っても自分を変えようとは
思えないでしょう。

強くなりたいと思うのは自分の弱さを否定したい心の現れではないかと
思います。
弱さを受け入れられているのなら強くなろうとする必要もないでしょう。
それ自体が強さなのですから。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ある意味現代人は自分の弱さに興味がないのかもしれませんね。

お礼日時:2009/09/30 00:01

shiftさん。

おはようございます。
15番です。ご返信ありがとうございます。

>うつ病というのは最も現代病にふさわしい病気
:そうですね、増えると思います。

しかしその原因は「弱いから」ではないと思います。
時代は流れているのに
「昔の日本男児」の強さを取り戻したところで
防ぐことができるものでもないと思っています。
人が背負うものも変わってきていますから。


>強さを求めない現代人にとって
:求めていないわけではないと思いますよ。
求める「強さ」の質が昔と違うだけで。
今、強くなろうと思うなら、
五感を鍛えることと自尊心を保つことでしょうか。


ふと、ある詩を思い出しました。


。・:‘’”※※。・:‘’”※※。・:‘’”※※。・:‘’”※※”’‘:・。


“自分の感受性くらい”  茨城のり子    

ばさばさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
何もかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ


。・:‘’”※※。・:‘’”※※。・:‘’”※※。・:‘’”※※”’‘:・。


>社会は変わっても人は変わっていない
:そういう部分もありますね。
いまだにまるで軍隊でも育てるかのような教育が目立ちますし。
小学校の授業に哲学があったらいいなあと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ルールがは常に変わる。
これがいつの時代も弱者(そのルール上での)が存在する理由かもしれません。

お礼日時:2009/09/30 00:00

shiftさん。

こんばんわ。
男児ではなくレディですが。(*^_^*)



まず、時が流れていますから、
「強さ」「弱さ」の定義も相当変わってると思います。
昔というのがどの時代かは分かりませんが。
今は殺した獲物を家族のもとに運ぶための
筋繊維も必要ありませんし、
戦争に行って人を殺す能力に優れていることを
求められているわけでもありませんし、
カラーテレビや車やクーラーを
必死こいて生産しているわけでもないですし、
会社=「おかん」で、「おかん」に絶対服従できることが
強さってわけでもありませんし。



>昔は弱いという事は悪とまでは言わないけれど、
  戒められる対象であった
:発展・裕福・勝利など、向かう方向が決められていて、
 その方向に向かってくれる列車がちゃんとあったから、
 多くの人は「弱いという事」に
 気づかずに済んだのかもしれませんね。
 (おとーさん世代の人ゴメンナサイ)
 その中でたまたま「弱いという事」に気づいてしまった人が
 異端視されるのも仕方なかったのかもしれませんね。



>弱さを共有しあう者同士の変な連帯感
:わたしは自分の弱さを認め、
 傷の舐め合いをするのは別に悪くないと思いますよ。
 むしろ堂々と傷の舐め合いができる人こそ、
 これから強くなれる人だと思ってます。



>弱者に対する妙な無関心
:無関心なのではなく、関心を持ちつつも
 どうしたらよいか分からずに戸惑っているだけだと思います。

☆うつ病というのは
 「時が流れているにも係わらず
  冬眠して閉鎖して考えざるを得ない」という状態です。

どんどん生産・勝利・そのためのハイテンションなどが
「強さ」であると言い切れなくなった今、
冬眠し閉鎖し考えている人間を
むりやり引きずり出して「昔の強さ」の方向に向かわせる
ということをしない程度の賢さを身に付けた、ということであり、
単なる「無関心」ではないのではないかと思います。


>弱さを認めるというのは、
  ある面でお前たち同士で何とかしろ
:そうですね、そういう時代ですね。
 今はわりと「強さ」の方向性も自由で、
 自分の好きなように生きることができる、
 つまり「自分の好きなように生きなければならない」
 そういう時代であり、
 社会に依存し甘えすぎることなく、
 個人が何とかしていかなくてはならないのでしょうね。

 もしかしたら
 「自分の好きなように生きなければならない」
 ということに慣れていない人たちが
 「弱い者」と見なされているのかもしれません。


>現代人は強くなりたくないのでしょうか。
:しかし、昔ほど「しがみつく対象」がなくなった分、
 自分で自分の「生きている」をやるべく、
 みんなそれぞれ「強さ」を模索していると思いますよ。

ではでは。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私はうつ病というのは最も現代病にふさわしい病気だと思うのです。
哲学を持たず、神を信じず、強さを求めない現代人にとって、この病気は死の病でしょうね。

人の歴史は長い間積み重なってきましたが、そこに生きている人は数十年そこそこです。
人類の進化に人はついていけているのでしょうかね。
社会は変わっても人は変わっていない、そんな印象です。

お礼日時:2009/09/28 01:00

>弱さを共有しあう者同士の変な連帯感


:「>変」というのはシフトさんが、そういった連帯感に否定的だからなのでしょうが、どんな場合にしろ、何かしら共通点があればとりあえず連帯感は生まれるものじゃないでしょうか。

>或いは弱者に対する妙な無関心が漂っていないでしょうか。
:ここはおそらく「>弱」の程度によると思います。
関心を寄せることが有効な場合もあるでしょうし、無関心こそが有効に働く場合もあるでしょう。
前者は見捨てられ不安を防ぐことになりますが、弱りすぎている人には無用の圧力(価値観の押し付け)になる場合も多いはずです。
後者は全く逆で、(本人も自覚しているところの)「>妙」な状態に立ち入らないことで人格を認めていると認識される場合もあれば、相手にされないことが悩みの種となる場合もあります。
つまり、一律にどうということは言えないのではないか、ということです。
以上をあくまで前提にして次の2点(と思いますが)について考えてみます。

>弱さを認めるというのは、ある面でお前たち同士で何とかしろという分離であり、切り捨てなのでしょうか。
:うつなどに関しては、むしろ、「現在は弱いとういう状況にある」のだから、回復するまでそっと見守るしかない、見守る以外の方法を知らない、といったところではないでしょうか。
「分離・切捨て」というよりも、過去の闇雲な叱咤激励からの反省が基盤に流れている風潮が強いような気がしますけどね。
どちらかと言えばですが。

>現代人は強くなりたくないのでしょうか。
:これは、たとえば、うつ本人のことをおっしゃっているのだと思います。
その場合、強くなりたくない、というよりは、強くなろうとしてもなれない状態をうつと言うのではないでしょうかね。

いずれにせよ、特別扱いが一番よろしくない、と個人的には思います。
普通に淡々と接することが理想でしょう。
叱咤激励したり、逆に、無視したり腫れ物に触るような姿勢を見せたり、など、特殊な状況と捉えて対応するのが一番相手には堪えるような気がします。
 
シフトさんは、シビアな悩みの相談に良く回答されておられますが、たとえば、うつの場合は、川の水量が減少しているために、通常の流れとは異なった川のように見えるのだと思います。
流れること自体に川が疑問を抱いている状態、とでも言いましょうか。
そんな気がします。
この場合、その流れ自体を云々することはあまり意味がありません。
むしろ自信喪失を促すことになります。
水量が少ないということが根本的問題なわけで、その水量は自らの内奥から湧き出す泉によってしか補うことはできません。
水量が少なくても同等に扱ってもらえるという自信が元気の回復につながり、水量を増やすことになると思います。
詳しく述べるだけの知識はありませんが、少なくとも周囲の人間の対応としてはそれしか無いように思われます。
ご質問の意図からは脱線してしまったような気もしますが、何かのご参考になれば。
 
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

人間というのはまったく悩み多き生き物ですね。
私はうつにならないことが重要なのではないかと思うのです。
そのための哲学であり、宗教であり、強さだろうと思うのです。
うつになったのならば、自分の人生を省みるべきだというのが一貫して思う事です。

お礼日時:2009/09/28 00:26

>スポーツでの勝ち負けと、経済での勝ち負けは違うものでしょうか。


根っこは同じで、競争することで自分自身の価値を見出そうとする人間の性じゃないかと思います。
だから、社会システムや政治ではこの人間の本質は変えられないのではないかと思うのです。

その通りだと思います。だからスポーツの需要があるのだと思います。
確かに、そういう本質の一面もあるでしょう。
人間の本能的な部分というか、、、

しかし、今の日本は少し変わってきてると思います。

ちょっと脱線しちゃうけど、
今の日本が昔のままの価値観で本当に中国に勝てると思いますか?
グローバル化が、規制緩和になって、派遣労働者増で、格差社会
そんなもので中国のパワーに勝てるわけありません。
あの貧困からの脱出のハングリー精神が日本にあるわけないでしょう。
同じ土俵に立ったら、負けるのは目に見えています。
結果的に、中国工場で生産、中国消費に頼り、それでもって、
頭の部分だけ何とか日本、後は中国に出稼ぎです。
行き着く先は、もう日本が中国の一部になるしかない、なんてことにだってなり兼ねません。
そんぐらいのパワーなのです。驚異なのです。

ですから、新しい価値観が経済成長にはかかせないと思うのでしょうが
どうでしょう?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。

新しい価値観とは勝ち負けではないものというなら同感です。

お礼日時:2009/09/27 10:26

 昔のことは知りませんが


>昔は弱いという事は悪とまでは言わないけれど、戒められる対象であったはずですよね。>
 ということは「弱い」=「良くないこと」=「悪」という事だと思うんですがその方程式が崩れたのではないでしょうか?
当然方程式が崩れればそこに必要性がなくなりますから廃れたというだけの話だと思いますよ?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

すたれるのは構わないのですが、「弱者」は今も昔も弱いのです。
今も昔も地球のルールは変わっておらず弱肉強食のままです。
故に弱者はこの世界では生き残れないのです。
だから強さを身につけたほうが身のためじゃないでしょうか?と思うのです。

お礼日時:2009/09/27 00:36

まず、弱い=うつ病と結びつけるのはどうかと思います。

すこし偏見が入っているかと。うつ病にも、いろいろあって、頑張りすぎてエネルギー切れになってしまい。そんな自分が許せなくてますます自分を責めてしまい、スパイラルにはまってしまい、なかなかそこから抜け出せない人もいると思います。ただ、社会や他者のせいににして恨んでばかりいる人ばかりだと決めつけてはいけないと思います。

しかし、責める相手が自分か他の違いこそあれ、責めてしまうことには変わりはありませんが。
そんなスパイラルから脱出する方法として、弱さを認めるというのは、案外有効な手段かもしれないと思います。

弱さを認めるという行為はありのままを認めることでもあるのですから、それは弱さを認める強さとも言えないでしょうか。

経済競争に負けた人を弱者と決め付けるのは、これからの社会なんの解決にもならないでしょう。競争心をあおることだけの、経済成長はもう限界に来ていると思います。しかしながら、競争が好きな人もいるわけで、それがエネルギーになる人もいるわけですから、全否定するわけではありませんが。

それよりも、個性を尊重する様な新しい価値観から建設的な何かを求めてもいいかと思いますが、、、、

どうでしょう?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

確かにうつにも色々あるのでしょう。十把一絡げとはいかないですね。
現代では弱いという事は悪いということではなくなったようですね。
ただ、今もこの世界は弱肉強食のままだと思うのです。
生き残れなかった(人生を全うできなかった)のですから「悪」ではないにしても「弱かった」と言わざるを得ないのかと思います。

自分自身で自分の弱さを認めるなら次のステップにつながると思います。
しかし、他人がそれを言うとなんだか妙な距離感が出来るように思うのです。
いっそのこと、男だろ!!と叱咤するほうがよほど親近感があるように思うのです。

スポーツでの勝ち負けと、経済での勝ち負けは違うものでしょうか。
根っこは同じで、競争することで自分自身の価値を見出そうとする人間の性じゃないかと思います。
だから、社会システムや政治ではこの人間の本質は変えられないのではないかと思うのです。

お礼日時:2009/09/26 21:39

まずうつ病と弱さは全く無関係ですよ。


弱さを認めると言うのは切り捨てというより救いじゃないでしょうか。自殺はまた別ですが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

強さの定義が時代によって違っているのではないかというご回答をいくつかいただいています。
その時代に合った強さを身に着けていなければ結果的に社会の流れに負けてしまい弱者となるのではないでしょうか。

お礼日時:2009/09/26 21:18

NO.6 です。


質問者様のご主旨がなお理解できないままですが、自殺者が弱者の範疇に入ることはその通りでしょう。彼らに「日本男児だろう、死ぬな!」と仰りたいのならその通りだと思います。
死なねばならない必然性が社会の中にあるのならそれは可能な限り改善していかねばならないでしょう。経済政策、最低賃保障、生活保護----例えば病気に対する安全ネットは日本は世界的に見て完璧とは行かないまでもトップレベルにあると思います。それでなおかつ弱さから死なねばならないとしたらやはりそれは個人の責任に帰さねばなりますまい。これは社会的には認知されていない思想かもしれませんが、私は人間には死ぬ自由があり、これについても日本は世界に冠たるものがあると思っています。
ご参考まで。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

システムでは人は救えないのではないかと危惧しているのです。
知らない間にシステム依存になっていなければいいのですが。

お礼日時:2009/09/26 21:14

>>自分のことで精いっぱいならほとんど綱渡り状態ですね。


人は社会から自由に離れないのでしょうか。

生まれてきた以上死ぬまで社会から自由にはなれませんね。
唯一自由になるのは「各自の心」だけですね。
心のありようでいか様にもなるということでしょう。しかし正しい心のありようなど学校では教えないですからね。
むしろ、心などない脳がすべてという学者や教育者も多いですからね。また、神仏もいないや猿から進化が蔓延してますけど、つまり、心のありようは各自の責任でということですね。
その結果が出ているだけでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

結局自分自身の心に戻ってきてしまいました。

社会システムや政治に頼るよりは健全ですね。

お礼日時:2009/09/26 21:09

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す