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凡人はいくら努力しても天才には勝てないのか?

将棋の名人戦が始まっています。
羽生名人に三浦八段が挑戦していますが、すでに三浦八段の
2連敗となっています。
三浦八段といえば、毎日寝る間もおしんで将棋の勉強をする事で有名です。

しかし、羽生名人には勝てそうもありません。
それは羽生名人は天才だからです。
天才というのは努力の天才だ、その天才の努力の量を知らないだけだ。
と、いうことをよく耳にしますが、ことこの二人に関しては、おそらく
三浦八段のほうが将棋の勉強はしていると思われます。
と、いうくらい三浦八段の勉強量は有名なのです。

普通の人はいくら努力しても天才には勝てないのでしょうか?

A 回答 (16件中1~10件)

こんにちは。

凡人1号です。あ、1号は余計でした。

先日ある科学雑誌に、天才の脳から通常の人には見られないある種の「酵素」が発見された
という論文が掲載されました――という、噂話を耳にしました。

この話が本当なら、凡人は天才には逆立ちしてもかなわないことになりそうです。
ありうる事態かもしれませんが、その後その論文にはお目にかかっていないのをみると、
与太だったのかもしれません。

ロシア(だったとは思いますが)では、一人の天才と、通常の人の集団による作業効率では、
後者がより高い数値を示したという研究結果が提出されたという話も聞いたことがあります。
ソースも何もない上に、作業の内容にもよるだろうという気もします。

私は将棋はしないのですが、羽生名人は西洋将棋(チェス)も嗜まれ、腕も相当なものです。
その彼が以前、東欧だったかどこかの小学生相手に苦戦していました。
(いや、その小学生が凄腕だったということなんですけど)

世界には生まれつき、あるいは人生のある時点で、脳の障害に見舞われ、
千年以上先のカレンダーを(計算することなしに)言い当てる人がいることはよく知られています。
千年先のデートの約束にはたいへん便利かもしれません。

羽生名人にせよ、カレンダーの賢人にせよ、
「彼は天才である」という表現は慣用句としては成立します。
が、結局のところ「天才」とは何なのか、それこそ我々凡人にはまだまだ分からないのです。
あたかもナチスが、「彼はユダヤ人である」と言うのと・・・(ちょっと違うか)
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この回答へのお礼

はい。
「酵素」とは、実に興味深い話ですね。
それが本当なら、明確に天才と凡人の違いがわかりますね。
今後の進展が興味深いです。

今回は将棋の羽生名人を題材に取り上げましたが、天才といわれて
いる人であれば誰でもよかったのですね。
ただ僕が昔少し将棋をかじっていましたので、今回は羽生名人にしました。
映画「レインマン」でモデルとされた人も、天才ですよね。
テレビ番組の企画で茂木健一郎が会いに行っていましたね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/28 21:41

同じひとなので勝負の経験数や頭の使い方がどこか違うのでしょう。

読みの先を行ってる方が勝つだけの話してではないでしょうか?

この回答への補足

みなさんどうもありがとうございました。
たいへん勉強になりました。
またよろしくお願いいたします。

補足日時:2010/04/29 08:11
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この回答へのお礼

はい。
頭の使い方が違うというのは、そうかもしれませんが
経験数の多い少ないは関係ないと思います。
経験数が少なくても勝つ。というのも天才の条件だと思うからです。
それと、読みの先を行っているほうが勝つというのも、少し
違うと思います。
例えば100手や1000手読んでも、凡人では考えつかない手が
その中になければ、それは手数が長いだけであり、ただ読むだけで
あれば時間があればプロなら皆可能だと思います。
あの谷川プロが羽生名人の手をみて「こんな手があるのか・・」
と、驚いたことがあります。
羽生名人は当然かなり前からその手を読んでいました。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/28 21:26

 こんにちは。



 わたしは 学生の頃 T大の講義をもぐりで聴いたことがあります。その雰囲気で あっ この学生たちの学習の仕方にはかなわないと感じました。雰囲気でです。
 わたしが たとえば法律をしっかりと学ぶといった姿勢に 性格として欠けていますし 誰かれのおこなった研究を紹介するという考えもあたまの中にないというくせも影響していると考えるのですが いかに程度問題だとは言え 埋めるのに一生かかってもむつかしいという差があることも体験しました。
 ということは 分野のちがい或いは研究といういとなみ一つを取ってもそれに対する姿勢の違い これもあるのだとも思います。
 
 で このくせや姿勢の違いを取り立ててしまうと たとえばオーケストラがいろんな楽器から成るというふうな役割分担の理論に走ることになるのですが 問題は どうもそれだけには終わらないということをもつけ加える必要があると考えます。 
 それは 能力も問題にならず 個性さえ関係ないかたちで そこにいるという存在がそれ自体でとうとばれるという主題です。この命題がないと そしてないがしろにされていると 最高の能力の持ち主であっても 何にもならない。ニヒルであるという派生命題のことです。

 ★ 普通の人はいくら努力しても天才には勝てないのでしょうか?
 ☆ 二つ三つくらいの生涯の努力が必要ではないかと考えたことがあります。でも どうもそれだけのことのようだとも思っています。つまり そのようにあきらめたあとに 人生があると思われるのです。
 でも――そしてさらに―― 人間(現実)が変わるとも思っていますので いま述べたことはふるいとは思います。(二転三転して澄みません)。
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この回答へのお礼

はい。
僕の母校は県下では野球で有名な高校なのですが、そこの野球部の練習と
いうのはこれは相当なものです。
朝は早くから夜は遅くまで、どろどろになるまで練習します。
そのため県予選ではよく優勝していたのですが、甲子園にでるとそれほど
活躍はできません。
あるときPLと対戦したときは、大人と子供くらいの差がありました。
桑田、清原の時代のときです。
桑田、清原が相当練習をしているとはいえ、同じくらい、いやそれ以上
練習してきた無名の選手も、全国ではかなりいると考えています。
僕はそれが天才と凡人の差かな。と思ったりもします。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/28 21:58

 推理小説の世界では、《天才肌の探偵》と《努力型の刑事》がヒーローになることが良くある。



 また、一時期《天才長島》対《努力の王》の様な言われ方がされていた時期がある。

 その方が凡人には、分かりやすいからである。
 そして凡人は、秀才よりも天才が好きだからである。

 ふたたび 質問の趣旨とは違っているけれど もう一つあなたの疑問が 不明確の様な気がする。
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この回答へのお礼

はい。
僕の疑問はいたってシンプルですよ。
凡人はいくらがんばっても天才には勝てないのか。
それだけです。
ただ天才というのは、かっこいいですよね。
その点は、そうだと思います。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/28 22:01

 幼少期の環境や、もっとさかのぼって言えば 親の体位(意図思惑)がどんなもんだったかで決まるかもしれません。



 怒り猿(凡人)はもちろん 後ろからなので、それに伴って幼少期の環境も不遇だったのでしょう。

 ひとつのことに集中して努力できるというのも才能といえばそうですね。 資質・素質 というものがありますから。それは穏やかな人間関係や環境と、それによるニュートラルな在り方により決まるでしょうね。

 それから、思春期におけるトラウマも影響してくるでしょう。怒ってばかりいては脳も発達しないでしょう

 天才はマゾでもサドでもなれないでしょう。

 中正でなければ
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この回答へのお礼

はい。
あんまり怒りっぽい人は、天才にはいないかもしれませんね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/28 22:06

羽生も三浦も天才です。

いくら練習しても、凡人はマラソンを2時間6分では走れません。
質問がまちがっています。天才同士の争いなのです。
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この回答へのお礼

はい。
残念ながら天才の中にもランクがあるようです。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/27 19:43

 羽生を天才と呼ぶことに違和感があります。



 質問の趣旨を、全く理解しないわけではありませんが、もう一つ厳密さに欠けているように思います。

 それは、こういった種類の勝負事の、勝ち負けによって分かるのは、その二人の間での、相対的な強さに過ぎないということです。
 また、その時代の一番強い人が明らかになるに過ぎないように思います。

 羽生が勝ちつづけているのも、この時代だからであって、(例えが古いけれど)大山や升田の全盛期だったら、無冠になる可能性がないわけではありません。

 だから、天才とかどうとか言うよりも、この時代では一番強い人、それ以上の人ではないかもしれません。

 ただし、羽生の例でなく一般論としてならば、普通の人が天才に勝つのは難しいでしょう。負けたとたんに、その人は天才と呼ばれなくなりますから。
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この回答へのお礼

はい。
勝つにこしたことはありませんが、落合が広島の前田を天才というように、
結果がでなくても天才は天才といえる何かがあるようなのです。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/26 22:21

今世で天才といわれている方々は、長い長い過去世で多くの努力をされてきた方々と思われます。



あるいは、今世で何か使命を持って生まれた方もいると思われます。

レオナルドダブィンチやニコラテスラなどがいい例ですね。

長ーい努力と善行の積み重ねで、今世でIQが極端に高かったり、極端に記憶力、思考力、集中力、理解力が高い人物として、存在しているということです。

将棋の天才は、別に社会に多いに貢献しているわけではないので、神には評価はされないでしょうね。

天才だろうが、愚民だろうが、今世でどういう人生を送ったかが、来世を決定つけるのです。
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将棋のことは良くわからないのですが、「天才とは、適切な練習を自分で先天的に分かっている人」



だと思います。


自分に今何が足りなくて、どのような練習をすればそれを得られるか。それが分かっている人ほど天才に近いものになります。

凡人は、そんなことあまり分かりません。分かっていても漠然としか分かりません。

努力して、100打つうち50発あたればよい打率だと仮定します。でもその練習量を増やせば、1000発打てば、500発はあたるし、10000発打てば、5000発あたります。

しかし、天才は、100発で100発あたります。

怠け者の天才なら、一日500発しか打つ練習はしないでしょうが、努力家の天才なら一日10000発は練習すると仮定します。

それに追いつくには、凡人なら一日20000発打つ練習をしないと互角には戦えません。しかし一日は24時間しかありません。単純計算で、天才が一日12時間練習すれば、凡人は一日24時間練習してやっと互角になると言うことです。(不可能です)


いまの例えで言うと、もし、羽生名人が一日12時間勉強していたら、凡人は24時間勉強しないと互角の勝率は難しいと言うこと。

しかし、一日20時間も勉強すれば、互角ではないものの、運がよければ勝てるレベルにはなります。
三浦八段さんはそういう存在なのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

はい。
天才は頭の細胞みたいなのが、違うのですかね~

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/25 16:28

羽生名人に勝つのは簡単です。


走れば、僕のマラソンのベストタイムは3時間10分30秒、負けるとは思わない。

ゲームひとつが得意だからといって、真の価値である「社会全体の生命性への寄与度」において差を気にするほどの事はないし、まして『寄与度』は他人との競争ではなく、どんなに低い能力でも加算されるほどに社会の生命力は増大するのに対し、どんなに大きな力も社会性の低い自己チュー(人に勝ちたがる)だと他人に迷惑がかかる=社会的寄与度は小さい以上、個体差は優劣を意味しない。
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この回答へのお礼

>ゲームひとつが得意だからといって、

はい。ただ、それをいっていまえばイチローなどは野球がうまいだけで、
たいしたこともないのですが、やっぱりすごいですよね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/25 10:54

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