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長篠の戦いは、平坦地でなく織田、徳川軍が、堡塁を築いて迎え撃つたらしいです。
「城攻めの様だ」と武田側が述べた記録があるそうです。詳細を御存知の方は是非
教えて下さい。

A 回答 (8件)

今では、ドラマや小説で描かれている様な長篠の戦いは無かったと言うのが


有力ですよ。

鉄砲3000丁を使ったと言うのも相当前に否定されているにも関わらず今もなお
本当の事の様に扱われています。

『城攻めの様だ』、『鉄砲3000丁』などの資料は確かに残っています。

今の研究では、武田、織田徳川連合軍が対峙しての戦はあったようですが、その場所は
特定できないのだそうです。

長篠の戦いがあったとされる地域が数ケ所ある事、そのいずれも起伏が激しく
大群が布陣するのはもちろん馬が走りまわるのもできない様な場所である事
などから残されている資料の信ぴょう性が疑われています。

決定的に疑う材料になったのが、長篠の戦いがあったとされる場所や色んな記述から
この辺りでは?と思われる場所の大規模調査を行った際、いずれの場所からも
槍、刀、鎧などの一部すら発掘されないばかりか鉄砲の弾1つすら発掘、発見されませんでした。

長篠の戦いは、はなから信ぴょう性が薄いとされる信長記から出た話である事も
合わせて武田、織田徳川連合軍の戦がどこかで行われたのを元にした
織田寄りの人間の創作戦話説が有力です。
実際は広く数カ所に布陣して、柵や土塁を築いて徹底防御の姿勢の連合軍に数の力で
各個撃破されたのではないか?と考えられています。

この回答への補足

織田、徳川側の鉄砲2,000挺に死傷者6000(武田軍)1000以下(織田、徳川連合軍)は
間違いなさそうですね。

補足日時:2010/06/11 21:56
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この回答へのお礼

貴重な御意見に感謝致します。有難う御座ゐました

お礼日時:2010/06/11 21:43

「長篠・設楽原の戦い」で検索すれば多くのサイトが出てきます。



長篠の戦いというのは長篠城の城主奥平氏を武田軍が取り囲んだことから始まります。
奥平氏が岡崎の徳川軍に援軍を頼んで、その徳川・織田連合軍が来て武田軍と戦ったのが
「設楽原の戦い」なのです。
設楽原はほぼ平地です。当時無敵の騎馬隊を誇った武田軍に対して、「馬防柵(まもうさく)」という丸太を大きな柵状につくって馬の侵入を防ぐ戦略をとり、柵の前で立ち往生する武田騎馬隊を織田軍の鉄砲隊が撃ち滅ぼしたというのが概略です。
鉄砲が戦の主流に変わった点が歴史的な転換点として意味のあるものとされています。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0% …
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この回答へのお礼

有難う御座ゐます

お礼日時:2010/06/11 21:41

信長公記だったかなー



野戦組討となれば、とても太刀打ちできない と おもったか

(信長はもともと兵を過大に評価していない)

鉄砲主体なら、すこしでも高いところへ か

(地形上 連子川から織田側は駆け上がりになっている、

強固でもなくさりとて案外ねばっこい場所)

そこへ 三段の柵(馬防用かどうかはわからない)

土ぐらい盛るでしょう。

まあ、武田にしたら、相手が柵を作って 砦か?

しかし、キシャな一夜砦  物見はそう報告? 

幅広だが奥行きはない 柵付き鶴翼の構え? 

なら一点集中で一件落着 なのに 

武田も 幅広な 左翼 中央 右翼 に展開

やはり、鉄砲のうわさ その数のうわさに 

惑わされたか

でも、いわれるほどの 弾は 発掘調査では出ていない

考えればね?

根こそぎ持って来た訳じゃないでしようからね


まあ、昔の戦いだから 疲れたら 後ろで 一休み。

当たり前だが時間がかかる。

鉄砲よけの竹束を先頭に ジリジリ やったんでしょう。

後世に誤って伝わっている 騎馬隊があればね

簡単に 勝ったでしようがね。

緒戦の真田隊の大崩れは、織田のオトリに誘われて 

鉄砲の集中砲火でも浴びたのか?

武田の作戦負け

柵を作るとゆうことは 出てこないとゆうこと

長篠城の後詰めだろう

戦い易い場所に出てくるように 誘えばよかった。

先に仕掛けてどうするの?

遊撃隊を(信玄は若い時、小笠原長時との戦いで、

騎馬身分のものを特別に編成して、勝弦峠まで長駆35Kmして

不意を付いてこの騎馬隊だけで勝ったことがあった。

相手は騎馬隊だけとは思えず相当混乱して逃げ帰った)

この時と同じように騎馬身分の者を特別に編成して

背後に廻り 挟み撃ちに ね

古参の武将もいたのにね

代が変わると(世代交代)何事も経験不足だはな

武田の前線が崩れだしたのは、連合軍の別働隊が 長篠城を囲む武田の砦を

急襲し奪い取った情報が伝わったからで

背後に回られる怖さ、事の大事さを知っているから

もう戦どころじゃない 浮き足だつ

この戦場の兵の心理は 近代戦でも同じ

  

この回答への補足

武田の馬は山に強く、平原では使い物にならない可能性はどうでしょうか?

補足日時:2010/06/11 09:28
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この回答へのお礼

有難う御座ゐます。堡塁の前に空堀が在り、堡塁の間に人馬を防ぐ先の尖った木を並べ、堡塁より
鉄砲で射撃したらしいのです。かなり周到な準備されていたらしいので詳細が知りたかったのですが

お礼日時:2010/06/11 09:16

「センゴク天正記」(宮下秀樹 講談社)というコミック漫画の3~5巻に長篠の戦いの様子が描かれてますが、こんな感じだったのではないのかな~と思います。



漫画ですが、参考になると思うので一読して見ると良いでしょう。参考文献もしっかりしているので良いかと思います。
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この回答へのお礼

有難う御座ゐます

お礼日時:2010/06/11 09:17

馬防柵はほぼ間違い無いようです。



数日で機動展開しながら堡塁はないだろう。
が実際の所です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0% …

陣地を構築する為の所要日数はあった。
土塁や堀などは普通である。
一夜城の話は無かった。


どうも、馬鹿なので半日も火縄銃の射程内に居続けた。
これが真相を曇らせているのだと思います。

堡塁があったら城攻めの策と装備が必要です。
無策で突進したのは明らかにおかしい。

半日も戦いが続いたのは、一方が攻めたて、一方が防戦一方だったとも考えられます。
一点に兵を運用されてしまいますと、防御側が極めて不利となります。

死にものぐるいで包囲(鶴翼)して鉄砲で何とか勝利は掴めるとは思います。
三段構えとは、鶴翼の可能性もあります。(勝った姿勢。)
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この回答へのお礼

有難う御座ゐます。関が原の西軍陣地も用意周到で凄いらしいです。

お礼日時:2010/06/11 09:21

最近はこんなこともできるんですね。

入るかな?

http://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=s_q&hl= …

Aというところが資料館でその西が連子川沿いの谷筋です。
この両側の尾根に両陣営が陣をきずいたといわれています。
西側が小田・徳川方で、尾根すそ沿いに馬防柵が作られたようです。
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この回答へのお礼

有難う御座ゐます。

お礼日時:2010/06/11 09:09

現地へ行けばわかりますが、そもそも平坦地じゃないですよ。


東西に張り出した尾根の間の狭い場所です。
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この回答へのお礼

有難う御座ゐます。8世紀迄海が入り込んでいたらしいです。

お礼日時:2010/06/11 09:23

戦国時代の合戦でも最もメジャーなもののひとつですし、これひとつの戦いで本一冊できるくらいですから詳細を語ろうとしたら2000文字じゃとても足りないですよ。



http://www.google.co.jp/search?hl=ja&source=hp&q …

とりあえず基礎的なところを抑えて、それで具体的な疑問がまた出てきたらお会いしましょう。
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この回答へのお礼

いかにも其の通りです。有難う御座ゐました。

お礼日時:2010/06/11 09:25

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