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よく「あなた責任とれるの?」という言葉を聞きますが
責任をとれないことなんてほとんどじゃないでしょうか
また責任を取るべきときはどんな時なのでしょうか

例えばドストエフスキーの「罪と罰」を途中まで読んで、その考えを元に人を殺してしまった少年が出たとします。それでどこかのおばさんが出版社にその本の出版をやめるべきだと言いました。「あなた達また同じようなことが起きたとして責任とれるの?」

また漫画「ワンピース」の作者に、「あなたそれだけ多くの子供が読む漫画で軽々しく暴力を振るったり残酷なシーンを出して子供に悪影響が出たら責任がとれるの?」と苦情を言ったり

また以前僕が死刑反対の議論をしたときに、じゃあお前はその結果犯罪が増えたら責任とれるのかといわれました。

こういう輩を黙らせるためには何と言うのが一番でしょうか
それともこの人たちが正しいと思いますか?
そもそも責任をとるべきことは何なのでしょうか
あと責任をとるって何ですか?具体的に何をしろと?
過去をなきものにはできないですよね

A 回答 (14件中1~10件)

モーニング娘のうたにシャボン玉っていう歌があります。

その一節に「泣いてすむなら泣きやがれ全ての恋はシャボン玉恋をするときゃこのつぎはあんた名義の恋をしな。シャボン玉」というのがあります。

社会的地位の高さと責任は比例します。 このモーニング娘の歌では、「あんた名義の恋をしな。」とありますね。 責任をとるを言い替えると こういうことだとおもいますよ。
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JoyWorld さんのプロフィールを見ると、回答へのお礼率が5%ととても低いと思います。


質問して、それに回答をいただいたらお礼をする礼儀や責任が生じると思います。

責任とは、行為に対して背負うものだと思います。
JoyWorldさんは、責任を質問する以前に、自分の責任を考えるべきだと思います。
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 そういう言葉だけの心無い人の話は、無視したほうが賢明です。



 昔、はがくれや、三島を読んだ大学生が自決した事件がありました。
 人それぞれです。
 逆に、平和のための本がいっぱいありますが、世界中では戦争があるとおり、影響は一部でしょう。

 責任だの答える必要はなく、最後は法律を引っ張り出して、違法の場合に訴える。
 それで、責任云々など言ってる暇などないほど解決です。
 違法行為なら責任を「とらされる」でしょう。

 人は無責任ですよ。
 ですからそういう人がいた場合、職場では、労働基準局などに訴えるとか、通報するとか。
 議論しないのが、私のやり方です。
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少なくとも、「死刑制度」そのものは、責任逃れによる制度にすぎないとおもいますけどね。


そもそも、「死刑」という基準ははっきりしないですし、何をしたから死刑=結果主義なところもあれば、こういう理由から死刑に値する犯罪にいたったという因果関係なところもあれば、今後更生可能かというところもあるわけです。10回別の裁判所で裁判をやって、10回確実に死刑に絶対なるといえる裁判が存在するのでしょうか?死刑という極刑があることによって我々が安心感を買っているという面もあるのかもしれません。ただ、その安心感の裏には、極悪人を排除する、という不可逆的な行為に適当な理由をつけて正当化させているともいえます。

良くある話としては、犯罪がおきたらそれは、端的にはその犯人の責任ですが、広義ではそもそもそうした犯罪者を生むような社会をつくった我々、さらにその犯罪者の犯罪行為をいたるまでを未然にふせぐことができなかったという責任がその社会全体にあるともいえます。その意味では、「死刑」という行為は、「はみ出し者」を排除する手段にすぎないのであって責任逃れですよね。殺人が起きておしくないから、起きないように心のケアーを社会全体で行っていくとか、そういう責任の在り方があるのかもしれませんけどね。

個人的には、たとえ犯罪者といえその人にたいして「あなたは生きる価値がない」と言えるだけ、自分は社会に対して、彼らに対して犯罪を未然に防ぐだけの助けをしてあげたと言えない。ゆえに、かれらを避難することはあっても、かれらの命を奪うに値するか判断するだけの責任は負えない、となるでしょう。一方で、それによって被害者が出るとするならば、かれらの悲しみをどうにか軽減してやる協力をすることで責任を取るとしか言えません。まあ、要するにずるいんですけど、「自分には他人の命を自ら決めるだけの責任はとれない。ただ、かりにそれによって間接的に犯罪が増えたという社会全体に対する影響があれば、それによる被害の悲しみを受け止める努力によって責任を全うしたい」と考えます。極論では、死刑に頼らずとも犯罪者を減らすような社会を作るしくみを真剣に考える責任は、すべての人が被害者になる可能性があるという責任によってとらなければならないものだと思うからです。
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>死刑反対の議論をしたときに、じゃあお前はその結果犯罪が増えたら責任とれるのか



  では、死刑を廃止して犯罪が減った場合、死刑存続論者は、これまでの長年に渡る死刑存続による犯罪の増加分にどう責任を負うつもりかと聞けばいい。そもそも増加分の犯罪の責任を死刑反対論者に負わせるというのは暴論。個別の事件に因果関係はない。犯罪は個別の加害者が責任を取るのが当たり前。




 責任を効果で見れば、悪い結果を発生させないための予防効果と、ことが起こってしまった場合の再発防止効果しかないのですよ。本来は、その視点で損害賠償と刑罰を決めるべきなんですよね。

 死刑は、同一人物と言うことでは完全な再発防止になります。
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事後処理ということで納得の行く責任をとるというのは難しいのかもしれません。


でも 責任を取れるのかといった場合、まだ事は大事に至っていないばあいがおおいのです。

多くの責任がが取れない人(大多数)がいたとして そういうかたたちから、
心ある人をふるいにかけ、説得の為に対話を持ちかけることは出来ます。

まず
基本的に「責任をとるのは自由」・「責任をとる取らないはオレの勝手だ」というのは、反社会的な意見です。

次に、ごめんなさいという言葉をいえるかどうかがもうひとつの「人間的質」の違いといえるでしょう。
責任をとるか取らないかの段となったときあやまれるかどうかという事です。
多くの高齢管理者は、言葉さえ発することが出来ないのです。特におじいさんは自分が悪いとは考えない。自分が正しいというのが生活態度であり、哲学だとふんぞり返っているのです。

最後に、最悪のケースが想定される場合、その予防策として何を考えているのか、更に最悪の事態が訪れたとしてどういう処置をとるという考えがあるのかということを、問題にします。

簡単に言うと、貴方には考える頭があるの?という疑問です。
あなたのIQは、いくらですかという問いです?

かれらは、ふっるいあたまで、凝り固まっているのに
「おれさまは、新しいことを考えている」と嘘をつきます。うそはいけません。
誕生後60年を過ぎたふるい頭で、本棚には、60年70年代の本しか並んでないのに
新しいことを考えることは出来ないからです。

多くのお年寄りには、考える力がありません。
頭が古く、30-40年前の話を常識として持ち出してくるような人たちは、「考える力」について
「その力があるかどうか」を問いただされるべきなのです
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何に対しての「責任」でしょう?


基本的に、生物としての人間にとって、生きる事が意志
=任意であり、何かのための義務ではありません。
人が生きる上で感じる責任は、その「任意」の結果の行動
における選択(任意の契約)によって派生するものです。

契約行為(口頭や慣習による準契約も含む)は、会社員で
あれば、顧客への責任や会社への責任、社会(家族や
地域コミュニティ~国家)への責任といった、協力や分業化に
おける“ギブ&テイク”によるもので、その組織の恩恵にあず
かる(「テイク」する)限り、「ギブ」は条件=責任になるのです。
責任をとるかとらないかも、あなたの任意です‥‥ただ、
契約形態によっては、責任をとらない場合に罰があるだけで。

「死刑に反対して犯罪が増えた責任をとれるか」という問い
には、「じゃぁあなたは、冤罪によって死刑になった人への
償いをどうとれるのか」という回答になります。
社会制度は個人の意志で改変できるものではない以上、
その改変を提案したからといって、責任を問われることは
ありません(最終的に法案可決された時には全国民の責任)。
あなたが独裁者であり、全国民が反対しているのに強行
した場合にのみ、あなたの「責任」です。
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>例えばドストエフスキーの「罪と罰」を途中まで読んで、その考えを元に人を殺してしまった少年が出たとします。

それでどこかのおばさんが出版社にその本の出版をやめるべきだと言いました。「あなた達また同じようなことが起きたとして責任とれるの?」

影響されて殺人を犯す人間も0.001%位いるかもしれませんが、普通の感覚の人間ならば
0.001%の人間に自分や家族が出会う確率と文学によって集団や個人が内省する利益を比較して問題なしと判断するでしょう。

騒ぎ立てる人間は確率で物事を考えられないか100%の安心という非現実的願望を求めるタイプだと思います。

>また以前僕が死刑反対の議論をしたときに、じゃあお前はその結果犯罪が増えたら責任とれるのかといわれました

発想が単純で、かつ、ひとつの仮説に執着しすぎるのかと思います。
冤罪のまま死刑になって犯人が野放しになり犯罪が助長されるという仮説も立つわけですが
自分の主張と自分の安心感が同化しているために、自分の内面で複数の主張を切り替えて結果を想像することができないのかと思います。

>こういう輩を黙らせるためには何と言うのが一番でしょうか

自分が安心したい論破したいというのが、そういう方の主な目的ですから議論するだけ無駄です。
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そもそも責任をとるべきことは何なのでしょうか



○ 責任の範疇は、自身、家族や友人から始まり村の人々、町、都市、国家の人々と範疇は広がりますね。ここでの責任とは、個人個人や集合はそれぞれ幸福を追求する存在であり、それを実現する責任ですね。集合や団体の場合はその長の責任になりますね。

あと責任をとるって何ですか?具体的に何をしろと?
・過去をなきものにはできないですよね

○ 個人個人あるいは団体、国家の幸福の実現度に対する評価ですから,責任といってもつまりは、反省しかないのですね。
個人の反省の大小、程度ですね。
例えば。総理大臣は国民全ての幸福の責任を負いますから、国民の多くが不幸になるようであれば大きな責任が生じるのですね。でも観ていると総理辞めてもだれも逮捕もされませんよね。
でも巨大な反省は間違いなく待っているのですよ。生きてそれがなければ死後にね。
思想家、作家や出版社も同じですね。多くの者に影響を与えるわけですから責任は政治家と同じですね。不倫の勧めのような本を書いて離婚や不倫が増えれば、母親の不幸が蔓延しますから責任は重いのですね。生きているうちはお金も儲かって、名声も得て良いでしょうが、後が怖いですね。その怖さを知っている者は絶対しませんね。この世は無知の知という世界ですね。

死刑制度は必要かどうかですが、罰として自由を拘束して反省を促すというのが刑罰ですね。死刑にしては反省できないではないかといわれれば死刑は意味を持たないですね。死後反省できるかといえば難しいでしょうね。個人としては生きているうちに反省するほうがいいでしょうね。でも、問題は被害者家族のほうですね。被害者家族も幸福を追求しているのですから、その人たちを含めてより多くの人が幸福になるためには、という立場での幸福論に死刑の肯定もあるのですね。
まあ、責任論は幸福論と置き換えればわかりやすいかもしれませんね。
戦争も規模の大きな幸福論に置き換えればわかりやすいでしょうね。戦争により大きな幸福・進歩が実現されたかという評価ですね。
・・・参考まで
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罪と罰は、自分の殺人行為を正当化した人の話ですよね。



途中まで読んで「ナポレオンは大量殺人鬼だったが、英雄とされている。じゃあ 自分も大量に人を殺せば英雄となれるはずだ」と思って大量殺人する人がゴロゴロ出るでしょうか。

ラスコーリニコフは統合失調症で、借金をしており、返せる当てがなく、「あのばあさんはみんなからいなくなってしまえと思われているから、僕が殺しても誰も文句は言わないばかりか、喜ばれるに違いない。僕は人の命を奪えるレベルの人間なんだ」ってことにしたわけですよね。

悪人を退治するのは英雄の仕事だって。
金を返したくなくて 屁理屈こねて人を殺すことが正しいことだと思う人達がいっぱいいたら、わてら今生きていませんぜ。
サラ金業者や銀行の人は、怯えてとっくに廃業しているはずでっせ。


と言えばいいのではないかと。

ワンピースじゃないですが、ドラゴンボールはフランスでは子どもによろしくないと問題視されました。

そういえばピカチューの漫画を見たフランスの少年がピカチューを真似て窓から飛んで死にました。
稀なる事件で、ピカチューを見て自分も飛べるんだと思う子どもってそういないんじゃないかと。

サンタクロースは実在すると信じたとしても、自分は飛べると信じて飛ぶ子どもって、、、ありえないがいたわけですが、ほんと稀ですよね。

そういえば、「みんな浮気している」と自分の浮気を正当化した人がいて、「みんなって誰ですか?」って聞いたら「部長は浮気している」と言った。
「他には?」と聞くと「・・・・・・」
この人は1人=全員という認識。
というか、自分だけじゃないと言いたかったわけですが、「みんな」というのは不適切で誤解を招く言い方ですよね。

私も死刑反対なのですが、どうしてかというと、人を3人殺したというのは事実でしょうけど、3人殺すに至ったのは、その人だけの責任か甚だ疑問だからです。

人を殺した代償に、命を奪えば解決するって問題じゃあない。
人を殺せば死刑になる なら 死にたい人は人を殺せばいいわけです。 3人殺せば死刑になるなら、3人殺せば殺してもらえるわけです。

何故死にたがっている人が、他人を殺さないのか。
それは人を殺すということが絶対悪だと教えられなくても知っているからですよね。

だから死刑は人の命を奪う行為なので、絶対悪です。
絶対悪をした人の絶対悪で報いる行為は絶対悪で、絶対悪を擁護していることになる。

だからいかなる理由があっても死刑は絶対にやってはならない。
死刑を擁護する者は、絶対悪を擁護する者ということになる。


というのはどうでしょうか。
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