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家族という社会単位が 社会にとって けして卑屈ではなく 主体的に誠実であるためには 男女の出会いから至福体験が必要だと思います。

しかし 家族の愛は 人類愛に昇華されることは 語られていますが、 恋愛の至福の世界が 人類愛に昇華されることについては ほとんど語られていません?

恋愛が嘘であれば 結婚も信頼出きるものとなりません。  嘘が混じります。  

一方 恋愛に至福体験があれば その誓いは信頼できます。  女性の魅力はたしかに女性の数だけあるかもしれませんが^^、たった一人の人でも その至福体験後には 永遠に魅力的だろうからです。

つまり 結婚式での誓いにも嘘が混じらないわけです。

そして そこからこそ 私は 誠実な家族も そして 社会にとっても誠実な人類愛にあふれた家族も生まれると考えています。

生物fとしての弱さはありますから 今のように極端な日本の経済の二重構造の中での若い人たちのような経済状況では そのゆとりはないでしょうが 基盤としての気持の部分は そこからしか 実際の人類愛が育つことはあまり考えられないところなのです。

なぜ、こんな大事なことが 歴史上 あまり語られないできたのでしょう?

私の考えの方が どこかおかしいのでしょうか?

A 回答 (4件)

仮説を立てて証明する その仮説に矛盾があります。


恋愛が至福体験 とは具体的にどういった事でしょうか?
また
家族の単位が卑屈だったり 主体的に誠実という言葉の根拠はなんですか?
仮説 実証の繰り返しで 文章は成り立ちます。
それが証明されていない 文章のなかで 歴史上語られない かたりようがありません。
文として支離滅裂 だからです。
まず恋愛体験をするか 恋愛が至福体験であると証明されている過去の例を挙げてください。
小学二年生にわかる 言葉使いで説明する これが一番難しい事です・やってみてください。

この回答への補足

まずは、ご指摘の 質問文の文章の解りにくさについてですが、

》仮説 実証の繰り返しで 文章は成り立ちます。《

この部分の 「仮説」という この文脈の中での意味合いは、 文の起承転結の 「承」に当たる意味合いで使われていると考えてよろしいでしょうか?

「起」で ずぱっとテーマか テーマの反対か(ふつうはテーマ)を掲げて 文を起こしておいて

「承」で そのテーマのための いろいろな事例を こんな場合もありますよ、こんな変わった例もありますよ、 というふうに時にはそのテーマの反論になるような事例まで 掲げておくところ、
起こした文を 承って書かれる部分です。

私の文は この肝心の部分が 薄ボケていたわけです。

そうして 「転」で いよいよ、 ほら、やっぱり どのような例事からもテーマの通りになるでしょ。と テーマを転がしておいて 「結」で 結論をまとめたりする 

あの起承転結の 「承」の部分が 》仮説《

「転」の部分が 》実証《 あるいは》証明《 

というふうい解釈すると、 より鮮明に 私の文の 今回の失敗のあたりが 見えてくる気がします。

なぜ、質問した時点で もう少し気が付かなかったかと 反省しています。

ご指摘ほんとにありがとうございます。

助かります。

(1)

》恋愛が至福体験 とは具体的にどういった事でしょうか?《

》まず恋愛体験をするか 恋愛が至福体験であると証明されている過去の例を挙げてください。《

ほんとうに そうですよね。 まず このあたりから明確にしないと 意味が通じないですよね。

まず、

私自身の恋の体験を いくつか書かせていただきます。

初恋は、 淡い胸がどきどきしたりの体験なら、小学生の時にも(とある海辺の虚弱児施設でです)たくさんありましたが^^、本格的なのは大学時代、同じ子ども会サークルの仲間の女性を いつしか好きになっていた時が 最初です。

えっ 人間ってこんなにも異性に惹かれる時があるのか? という最初の驚きがそこにはありました。

遠くから彼女の背中が ほんの一点見えただけで 他の女性とはまるで違って見えましたし、 考えてみれば いわゆる美人ではなかったと思いますが  この世に こんな美しい存在があるのか^^と本気で思いました。

雲を見ても 草花を見ても みんな彼女の延長のような錯覚をおぼえましたが、 それは単なる錯覚だけでなく 何かの大自然との一体感の片鱗のようなものを すでに彼女や その新鮮な恋は 私に教えてくれていたともいえます。

恋って こんなに豊かで鮮烈な世界なのか!と始めて知った体験の世界でした。

それは まだ世の中を知らない未熟さゆえ、失恋の終わりましたが、 なんともすばらしい体験だったと思います。

その後 恋とか セックスとか別にも 男女間には、 その初恋にも勝る 心の通い合いの世界があることを知る体験も とある寒村の農家を手伝っている若い時期に 体験しています。

これこそ貴重な体験だったと思います。

恋については  もう一度 さらに強烈で心揺さぶられる体験も  新宿歌舞伎町で珈琲館のチーフをしている時に体験していますが、 長くなりますので ここは略します。

たしかに 恋は 体験してみると なんとも凄い命の炸裂のようなところがあります。

もちろん、 恋にも いろいろあるわけですが、 私自身が体験した恋は 理屈で恋なんて錯覚だとか そんなふうに馬鹿にできるようなものではけしてありませんでした。

ですが、 それはまず、 自分では作り出せない世界 いつ訪れるか解らない世界、 いつ陥るかわからない世界でもあったわけです。

この私の、恋の体験のうち 本物と言える数少ない体験と 若い頃つきあっていた女性の数から考えるなら、  恋の本物と言えるような体験の 私たちの生涯でそれを体験できる確率はかなり低いと思えてきます。

本物と言えるような恋に陥る体験は 一生体験しない人のほうが多いとも思えます。

そのぐらい 私は たくさんの女性と 様々な付き合い方をしてきた人間でもあるのです。

すみません、言い忘れましたが 現在私はもう63歳です^^。

現在 87歳の母親と暮らしている独身の男性です。

今は、田舎で働いていますので いわゆる女性付き合いのようなものはありませんが、

女性とは ほんとうに 様々な付き合い方をしてきた人間なのです。

でも もしかしたら、だからこそ 逆に真剣な気持になり 今ごろになって迷いとか疑問とかが生まれてしまったのでしょう。

それほど 鮮烈だった恋の体験に対しても 疑問は起こってしまいます。


やがて、 私は 東洋医学の経絡の考え方の気脈の流れを知ることで、  いわゆる性感帯なんて、ある意味嘘っぱちであることも解ってきました。

全身を気は流れていますから 何処を触っても、そこは性感帯になりえますし、触り方に 心遣いとか優しさ思いやりが 健康な形でないなら、どこを触っても 感じないどことか、  まさにいやらしい感覚すら受けてしまうだけの時もあるはずだということです。

そのへんすら詳しい人間となっているのに なぜ、今頃 何を悩んでいるのかというと、

実は、その気脈こそが、 恋をも作り出す根源であり、 それを知れば いつでも どんな相手でも  恋の至福体験のような幸せを 与えることもできるようになることを知ったのですが、

これはだからこその、悩みの世界だったのです。


》恋愛が至福体験 とは具体的にどういった事でしょうか?《

そのへんを具体的に書くと おおよそ 上記のようになるかと思います。

その肝心なところを 書かないでは 、まさに 雲の上からの描写を 霧の中でぼかしたまま書いているような文となってしまいますよね。

ただ、 簡単にはとても書けなかった内容ですので、 まずは 質問してから 補足してゆこうという気持ちも 最初から少しはありました。

そのへん どうか御了承ください。

》家族の単位が卑屈だったり 主体的に誠実という言葉の根拠はなんですか?《

これは 私の質問の、最初の起の部分

《家族という社会単位が 社会にとって けして卑屈ではなく 主体的に誠実であるためには 男女の出会いから至福体験が必要だと思います。》

この文の起こし、 テーマと関わるこの部分からして そちらがご指摘の 》恋愛が至福体験《の部分を抜かて 書いたら 全く意味が解りにくいですよね。

申し訳ありませんでした。

家族を 最小の社会単位として考える そのような視点か見た場合ですが、

たしかに 社会の一部として機能している社会単位でもあるところ、 それは 必ずしも 社会のために機能している社会単位とは言えません。

しかし、 せっかくのその社会単位が 大きな社会にとっても役立つならそれはもちろん それに越したことはないわけです。

社会から目をそらすのではなくて 社会の本当の発展や充実のために、 またそこからの恩恵への感謝のためにも、 社会に目を開き 誠実であろうとする時、

けだし、そこには、さまざまな矛盾も起こります。  

大きな社会の平等を求めての 圧迫が 家族を苦しめることもあるでしょう。

そうした社会要請に対して、 卑屈になることで 誠実なふりをして答えるのではなくて、

心から  貧しい国や 病気で苦しんでいる人たちのことなどを考えるゆとりを 心の中に持てるようになるには、

家族自体、 そして男女や夫婦自体、 魂の底から幸せであることを感じること(至福体験)ができるような 関係が 大きな力となると私には思えているのです。

以上 これで それ以後の文も 少しは通じるようになったかと思います。

結婚式の神前で いろいろ誓いますよね。 そこに 嘘が混じらないためにも、これは大事なところだと思います。

もしよろしければ、  私の質問の結語

《なぜ、こんな大事なことが 歴史上 あまり語られないできたのでしょう?》

についてでもいいですし、  今度は文章のことだけでなく、、 出来たらその質問内容にもお答えしていただけると  こちらといたしましてはありがたいところです。

そちらの 私の文章に対するご指摘は ほんとうにありがたいところです。  助かっています。  ありがたいです。

ですが どうか 事情等もご理解いただき、 再度 何かご回答いただけると、(これは もしよろしければということですが)さらにありがたいところなのです。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

以上補足させていただきました。


ありがとうございました。

補足日時:2011/09/20 21:49
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この回答へのお礼

さっそくご回答ありがとうございます。

忙しい生業(設備業)の中での いくつかのネット作業の中で 質問していますので、 お礼等遅くなってしまっています。 御了承ください。

文章についての 解りにくさのご指摘を受けてしまいましたが、

まさにその通りかと思います。

ただ、文章自体の問題というよりも、 ちょうど抽象的表現が 雲の上から大きく物事を捉えることで  大きく思索を進めてもゆけたりするところ、 逆に、視点が具体的な生活を離れることで 文に大きく齟齬を生み出したり、 最悪は 争いに種になったりもするように、   大きな視野からの質問を そのへんを省みずに、 急ぎ質問してしまったため、 それと同じ様な現象を生んでしまったためと思われます。

求めているところは真剣な質問ですので、 ここは このまま、補足文を それぞれに回答者の方(かた)に 付け加えることで 進めさせていただきます。

補足入力の方に その文を書かせていただきますので 、もしよろしければ 再回答お願いいたします。

よろしくお願いいたします。

》小学二年生にわかる 言葉使いで説明する これが一番難しい事です・やってみてください。《

ご指摘ありがとうございます。

私自身も(小学二年生に とまでは考えたことはないのですが) 一応普通に文章が読める中学生になら 誰にも解るような文をと心がけてはいましたが、

もし ご指摘がなければ おそらく そのへん気が付かないで進んでしまったと思います。

わたしにとっては 大変ありがたいご指摘でした。

ほんとうにありがとうございます。

では、 「補足入力」の方に さっそく補足文を書かせていただきます。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/20 19:55

あなたの言う至福の世界って 結局そういうことなんだ?って思いました 


私には 過去色々あって だけれども 今は 年老いた親と暮らしている 初老の男が エロチックな空想に陥っているように思います 
本当にそれが 人類愛に昇華されるんですか?
なんだか どこかの教団のエロ教祖みたいに思えました 

ごめんなさい あなたの感性についていけませんでした

この回答への補足

今 (紙数いっぱいの)書きました 補足文が なぜか表示できなくなってしまいました。 ネット機能音痴ですので原因はわかりません。

しかし 今日も時間が無くなってしまいましたので、

再質問は 簡単に (2)のマザーテレサの愛をめぐる質問に 絞らせていただきます。

マザーテレサの愛については 《無心さ》がその特徴として語られたりします。

キリスト教の 新約聖書に、 

「何か善いことをする時には 右の手でしていることを左の手にさへ知らせないように」と そこまで 偉いとか他心無しの《無心》であるべきことが語られています。

同時に 棚の上のともし火のように 善は人前で輝かしなさいとも語られているわけです。

その二つを なんの矛盾も無く実践できているのがマザーテレサの愛の言動でしょう。

どのようにして 彼女は その《無心さ》を 心に得ているのでしょうか。

私は それを同じ聖書の中の 

キリストが 素朴な子どもたちを 抱きかかえて「天国はこのような人たちの者だ」と語り

「野のユリを見よ、 どんなに着飾ろうとも たった一本の野のユリにもかなわない」~ と語った 

やはり どこまでも 新鮮な この大地へのこの大自然への感動の心が  彼女の中には 信仰とともにあったのではと思うのです。

キリスト教文化も 権威によって堕落したり あるいは偽善(裏では冷たい 善の仮面と言われる世界)の二重人格をも作ってしまった面とかもありますが、  もともとは もっと深いものだったでしょうし、   マリア信仰にしても 庶民や音楽家の捕らえたマリア像は まさに 人類愛に満ちた 悪人にさへ分け隔てのない深い愛の世界だったわけです。

確かに このうちの深い文化の面には キリスト教にしても仏教にしても 謙虚でありすぎることはないと思っています。

マザーテレサにしても 熱心なキリスト教徒でありつつ そこには嘘偽りのない 真心があったと信頼できます。

でも その根源は やはり、

大自然への深い感動の世界があったのではないかと私には思えてしまいます。

こんなすばらしい存在の中に、こんな苦しんでいる魂たちがいる、すこしでも何とかしなければ という真心だったと思うのです。

すばらしい大地、すばらしい木の葉、すばらしい川のせせらぎ、 静けさ  風の ありとあらゆる豊かさ、 大自然の恵みの深さ このことへの謙虚さが  彼女の心の中に 深い善への《無心さ》を生み出していたのでは、と 私には思えてならないのです。

性の世界にも そのへんへの好循環を生み出す価値の世界はあると思っていますし だからこそ 今真剣なのですが、

  愛と 感性(子どものように新鮮な感性)については、 どう思われますか?  性とは 関係なくてもけっこうです。




私は 道徳も大切と思いますが 最高道徳とも言われる愛の世界は  《外から教え込まれる内部規範》の前に 《その人のうち側の感じる心の新鮮さから生まれる自然な他の人への想い》の深まりが 基盤の世界とも思えるのです。

以上、簡単に再質問させていただきました。

補足日時:2011/09/21 21:52
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

今仕事から帰りましたが すでにAno4までに進んでいましたので 

こちらから まずお礼文として、補足を書かせていただきます。

》なんだか どこかの教団のエロ教祖みたいに思えました 《

そうですね。 これだけですと そのように思われてしまう人も多いかもしれません。

私としては、庶民の一人として真剣に悩んでいることがあるだけなので、 教祖というのは意外にも思えますが、

エロスについては思索はしてきた人間のつもりですし、

そのへんたしかに、こんな考えは持っています。

よく 「エロスが深まることで アガペという見返りを全く求めない愛に変化してゆく」と 言われていますが、

私は 健康なエロスであるなら、アガペの要素も重複的に芽生えていて 同時的に進化してゆくというふうに思索していたりします。

自我についての質問を哲学カテでしていますが、 感性に《幸せの質》が深く関わると 自我が強固な場合にも 簡単に、他の人の幸せを想う心へと 自我を突き抜けていってしまう そのようなエネルギーが発散されるという性格を人間が持っていることに触れています。

もし 関心がありましたら読まれてみてください。

URL:http://okwave.jp/qa/q7000396.html



また、実は私は 舞踊の心の世界について40年も考えてきた人間ですが、  それを通して 歌や絵画の世界にも求道の道は歩いてきた人間、  その世界では イメージはとても大切な要素で、 これも感性の深さによって 空想とは区別されるイメージの世界が浮かび上がってきます。

エロスのイメージを否定していないことは確かです。

ただ 深く感じないセックスを無理にすることに関してはかなり否定的です。  深く感じていないセックスは  そこにお互いをいたわる気持があるなら、別に問題はないでしょうけど、 それならセックスレスの夫婦であればいいわけです。 (それでも セックスレスであることが問題になるケースもありますが、別の問題でもあるので ここでは一応、略させていただきます)

深く感じることで 欲望の上位感覚としての 「満足」と呼べる質の感性になり 次に 自分と他人と分け隔てない 相身たがいの分かち合いの気持になると思います。

こうなれば 自然と まずは自分のことよりも 相手の幸せを優先することになると思います。   そしてそこにはなにより無理がないので ストレスも無いはずだと思うのです。

また

深く感じなくては 男女関係はおおらかな気持にはなれないとも思います。

踊りの方から考えても 昔の日本人は おおらかだったと私も思いますが それは感性が深かったからと思うのです。

風や雨に様々な 心癒す風情を感じ、 川のせせらぎに耳をかたむけ、 虫の音の細かい音まで楽しんだ 肌で感じる文化、国民性は 今もなお、けして すべてが消えたわけではなく、

むしろ 今の若い人たちには そうしたおおらかな感覚が よみがえっている気がします。

経済的に苦しいのが なおさら気にかかるところです。

せっかくの その芽がつぶされかねないという視点もあるからです。

踊りで言えば アフロアメリカンのもともとのリズム感の スイングという 一見 一つの音楽から外れていくかに見えて どこまでも その音楽のリズムを外しているわけではない 豊かさが、(これ 現代のアメリカ黒人のダンサーたちにはあまりみかけないリズム感です)

実は 日本にも 昔にはあったのです。

大自然を肌で感じる感性からくる 人へのあたたかい わけへだてのない心が  音楽のリズムの中でも  お互い通じ合いそのような スイングのリズム感の世界が生まれます。

アフロアメリカ人で言えば 遠い故郷の音楽への郷愁の中に、  明日をも知れない生活の真っ只中でも、だからこそ 今を生きる中の 友や家族への心の深さ(ソウルの魂)を見出したのだと思うのですが、

日本人にも、 その同じリズム感覚は 踊りの中にあったと私は推測しています。

少し話しがそれてしまいましたが 専門的な見地から見ても 今の若い人たちの中には そのようなリズム感が 欧米のリズム感覚とは別にも 生まれてきている、 と私は見ているということなのです。

話を戻します。

大自然を感じる心というあたりが いままでの補足文の中には抜けていたかと思います。

いわゆる 性愛の世界というのは 愛と名がついていますが、  欲望にお互いが閉じこもる不健康な姿も イメージされてしまう世界です。

そのような世界も 私は確かに見てきました。

ベテランのソープ嬢の方(かた)に 直接聞いたことですが、彼女にとっては 変態というのはカタチ上のことではなくて、 そのような自分に閉じこもった いたわりや思いやりを感じられないセックスのことだそうです。

私には 「あなたは そういう変態ではなく 心待ちにしている5パーセントのお客さんの一人ですよ」と言ってくれましたが^^、

若い時に 私は理由があってそういう場所にも確かに行ったことのある人間です。

でも そんな中にも いろいろな人間がいるんです。

 
教えとか言うのではなくて  私は ほんとうに そんな体験や見聞の中に 実際に いろいろな友だちの中に  健康なエロスとそうでないエロスの世界をたくさん見てきて、今 むしろいよいよ真剣に考えてみたくなっているということです。

また、その意味でも  大自然から切り離された感覚の エロスにはその想像の世界に関しても 否定的にならざるを得ないのです。

また 本気で 健康なエロスは さらにそれによって 大自然を感じる心を深め その深まった大自然を感じる心が、今度は エロスの感覚もよりゆたかにしてゆく という健康な循環を  藝術文化の本質的な進展のためにも 真剣に考えているのです。

ですが

Ano3に書いてくださいました

》まずは 結婚して あなたの考えが 正しかったかどうかを証明してみることです 
もしも あなたが もう結婚していて 出会いから至福体験をして 人類愛に昇華されていると自信をもっての投稿だったのなら 私の認識が誤りでしたが 《

これは ほんとうに反省しなければならないところですよね。

踊りの世界に のめりこみすぎたのでしょう。

》まだ ご結婚されてないのかな? あなたも お幸せにね できたら このようなことを あなたのパートナーと論議し 愛を深められたらいいですね《

感性が深いときには 能力とかも含めて 性に関しては年齢は関係ないです。  (実は ここに気の流れの理解があると そのへんは より確実になってゆくのですが)

ですので そのへんは 63歳ですが、心がけさせていただこうと思います^^。


いろいろ おこころづかい ありがとうございます。

だだ、

やはり そちらの御回答文の中で 一番 重要と思われる点は 

Ano1の 結文です。

》また 恋愛に縁がないと 人類愛につながらないの????
マザーテレサって 愛があふれています 
彼女の功績は 人類に対しては価値がないでしょうか?
れんあいだけが 人類愛というのは ちょっと飛躍しすぎだと思います《

》れんあいだけが 人類愛《  と思っているわけではないことは 少しはすでに理解していただけたかと思いますが、

(1)恋愛の確率は 深いものは少ないですし、 そこも確かに 大きな問題です。

(2)それと マザーテレサの愛の世界 これも 深い世界です。

そのへんのことについてだけ  

このAno4の「補足欄」に  再質問させていただきます。

もし よろしければ そちらの方の質問への回答をお願いいたします。

すでに 御回答いただいた文 Ano3の 最初の方の御回答文にも 感想などはありますが、 大変長くなっていますので、

いちおう 上記(1)と(2)の二つの視点にしぼらせて 補足質問のカタチに変えさせていただきます。

よろしくおねがいします。


なんども 真剣な御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/21 19:36

こんにちんは



婚姻制度が今のような形になったのは明治以降です
その昔 平安の世は 男が女のもとにかよう 通い婚でした
貴族は今のような一夫一婦制ではなく 源氏物語でもあるように やんごとなき身分の人は 色々な女の人と 歌を交わし かかわりを持ちます そして 気持ちが移ろうこともあり わかれちゃうこともあります 
そのころの庶民は 家の制度には縛られていなかったようです 
庶民の間では うた垣がおこなわれ 男女が歌のやり取りをして 恋愛をし 一緒になっていたようです
今よりもむしろ 家などに縛られることはありませんでした 貞操観念という考えもあまりなかったようです 
そもそも 日本には 男根信仰などがあり 男女の交わりを 神に扮して 演じるという行事もおこなわれていたほどですから 性についてはおおらかであったといえます それは 古事記を読んでも わかります 
家に縛られるようになるのは 家長制度のある明治憲法下になってからといってもいいですね
一人の人と 添い遂げる 産めよ増やせの富国政策です 
あなたの考えが 歴史上でなぜ 論議されてこなかったかというこたえにはなってるかどうかはわかりませんが 家族に誠実であれという考えは 日本においては 明治以降といってもいいでしょうね
だから そのような考えが 早い時代から でてくることがなかったのです 
また ソクラテスも 恐妻家で知られています
  
なにはともあれ,結婚しなさい。良妻を得れば幸福になる。悪妻を得ればあなたは哲学者になれる
という言葉を残しています
あと エイブラハム リンカーンの妻も 悪妻で有名です 
だけど 彼だって 妻と別居はしましたが 奴隷解放という偉業をなしとげました 
この時代においては とても画期的な 人類愛への第一歩といえないでしょうか?

であるから 私があなたに対する回答として あなたに贈る言葉です 

あなたも 結婚をしてみることです 良妻(夫)を得れば 幸福になれる 悪妻(夫)を得れば あなたは哲学者になれる

まずは 結婚して あなたの考えが 正しかったかどうかを証明してみることです 
もしも あなたが もう結婚していて 出会いから至福体験をして 人類愛に昇華されていると自信をもっての投稿だったのなら 私の認識が誤りでしたが 
 
雲の上からですと、大きな視野が広がりますが、 そんぶん、その描写は きち
っと具体的に追いかけてゆかないと その描写された文を読まれた方は、  遠
くからのボケた映像やそのような文、 あるいは霧や雲のかかったかのような文
に見えてしまうでしょう。

大きく出られましたね 
まだ ご結婚されてないのかな? あなたも お幸せにね できたら このようなことを あなたのパートナーと論議し 愛を深められたらいいですね 

この回答への補足

私の質問の仕方がいけなかったと思います。

ですので、 ここは それをご指摘くださったAno2の方(かた)をベストアンサーとさせていただきます。

回答としての評価を基準とすれば もちろんそちらですが、ここは お詫びの意味があります。

御了承ください。

ありがとうございました。

補足日時:2011/09/23 10:01
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

Ano4の方に すべて書かせていただきました。

締め切らせていただくために  こちらにもお礼入力をいれます^^

ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/23 09:53

こんにちは



あなたのいう 人類愛ですが
男女の出会いからの至福体験があったからといって それが 結婚に直結するとは限りません 
出会いから 誠実であったとしても 結婚後に 不誠実なことが会ったら 過去のことだけで ずっと 誠実であり続けるとは限りません
だって 人間は いつ何時 うそをつかないとも限りませんし 気持ちは 過去の至福を永遠と感じて変わらないとは限らないと思います
また 結婚式では 誓いにうそがなくても 未来にもうそがないと誰が断言できましょうか?
恋愛で至福体験があれば それだけで ずっとしあわせならば それにこしたことはないでしょうが それこそ 結婚に至るまでの経過がひきこもごもあったとしても お互いの努力によって 愛が生まれることもあるのではないかなあって思います 
また 全く間違いが起こらない家庭ばかりではないだろうし 問題を解決するのも 愛じゃないでしょうか?
また 恋愛に縁がないと 人類愛につながらないの????
マザーテレサって 愛があふれています 
彼女の功績は 人類に対しては価値がないでしょうか?
れんあいだけが 人類愛というのは ちょっと飛躍しすぎだと思います
 

この回答への補足

今日は  生業の設備業の方で 夕方5時からの仕事が入ってしまい 遅くなってしまいました。

先に Ano3での 再度のご回答が入っていましたので、 こちらも先に まず、 Ano2の方のご回答にお礼と補足文を書かせていただきました。

その補足文に 今回の質問文の 失敗を それなりに是正させていただきましたので、

是非 読まれてみてください。

そこにも書いてありますが 私は現在63歳で  87歳の母親と暮らしている独身の男性です。

会社のPCを使わせていただいている関係もあり、 87歳の親との関係で 今日は時間がもう取れなくなってしまいました。

再度 ご丁寧はご回答ほんとにありがとうございます。


しかし、 上記の理由で 今日は時間がとれませんので、 補足入力は  Ano3の方に  両方まとめるカタチで 明日以後入力させていただきます。

よろしくお願いいたします。

Ano1では、

》また 恋愛に縁がないと 人類愛につながらないの????
マザーテレサって 愛があふれています 
彼女の功績は 人類に対しては価値がないでしょうか?
れんあいだけが 人類愛というのは ちょっと飛躍しすぎだと思います《
のあたりが 最重要な疑問かと思います。

けして、 他の人類愛への道を否定しているのでもなく、また考えていないわけでもなく 重視していないわけでもないのですが、  恋愛に感じるような至福体験も 家族は大勢の方々が持たれる社会単位なのですから ほんとうに重要だと思うのです。

是非 そちらにも 補足文を書かせていただきたいと思います。

どうかよろしくおねがいいたします。

再度のご回答ありがとうございました。

そちらへの補足文も含め  できるだけ早く 書かせていただこうと思っております。


ありがとうございました。

補足日時:2011/09/20 22:09
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この回答へのお礼

さっそくありがとうございます。

Ano2の方からも 解りにくい質問であることを指摘されてしまっていますが、  

たしかに 私が今この質問で求めているものは 大きすぎると言えるだろう視野と関わるものですので、

そこをさらに それが歴史上に語られてこなかった理由まで 問うているならば、

なおさら ほんとうは一つ一つ細かく噛み砕いての説明とともにあるべき質問だったかと思います。

例えば、

雲の上からですと、大きな視野が広がりますが、 そんぶん、その描写は きちっと具体的に追いかけてゆかないと その描写された文を読まれた方は、  遠くからのボケた映像やそのような文、 あるいは霧や雲のかかったかのような文に見えてしまうでしょう。

ちょうど同じ様な視点で 物を見ていた回答者にめぎりあわせれば、 その視点からの言葉も 理解できて かみ合う場合もあるわけですが、  そのへん そういう場ではないのですから、もっと注意すべきところでした。

ただ、 

目的は真剣ですので、 その必然としての質問文ではあったところ、 そこは、 補足質問で補いつつ 目的の回答群を求め続けてみるという方法もあり、 今回は書きなおすよりも そんな形で 続けておこうと思っています。

せっかく回答していただいたのに、 そんな形となってもうしわけありませんが、

そういうわけで、 補足の文を書かせていただくことにしました。

もしよろしければ再回答をお願いいたします。

生業が終わった夕方となりますが、 補足入力の方へ続きを書かせていただきます。

よろしくおねがいいたします。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/20 13:08

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