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高校の教員です。

ときどき「学校の勉強なんて役に立たない」という人がいますよね。
大人でも「数学や歴史なんて、私の人生において不要だ」と言う人がいます。
あれを聞くと、私はとても腹が立つんです。

ある教育書で、こういう説を読みました。

  教育は、個人がそこから利益を得るためのものではない。
  教育によって利益を得るのは、社会全体である。
  自分の利益をいったん置いてでも、共同体のために行動する、
  そういう人間が一定数いないと、社会は維持できない。
  (実際、そうでない会社はすぐに潰れる)
  ゆえに、そういう人間を生み出すために教育は存在する。

要するに、学校で習うことについて
「それは『俺にとって』何の得があるんだ」
「それを習っても『俺には』何の役にも立たない」
と聞くこと自体が、お門違いだということです。
そうして自分の欲望ばかりを押しだすことをやめ、
社会をよくすることを考えられるようになろう。
そのために色々なことを知らなきゃダメだ、ということです。
それは、したいとかしたくないとかではなく、しなければならないのだ、と。

私はこれを読んで「そう、そうなんだよ!」と両手を打ちました。
生徒にも訴えましたが「言い分は分かるけど、イヤだなぁ…」という感じでした。
まぁ、子供なので無理もないでしょうが……

さて質問は、これを聞いた大人の方は、どう思うのかということです。
特に「勉強なんて『俺の』役に立たない」という大人の方にお聞きしたいです。
もちろん学生の方でも歓迎します。
反対意見でも構いませんので、いろいろ聞かせていただければと思います。

A 回答 (16件中1~10件)

40過ぎの会社員です。



学生時代は、「学校の勉強なんて、将来なんの役に立つの?」と思っていました。
で、実際に社会に出てみたら、学校で習った事は、物の考え方の基礎になるもので実社会で役に立つものだと言うことが分かりました。

たとえば、「集合」の概念なんて、言葉遊びのようで何になるのと思っていましたが、実際に使うわけではないけれど、論理的に物事を考える基礎訓練だったのだと思います。

「世界史」なんて、自国の歴史すら全部は怪しいのに、よその国で大昔に何があったかなんて、何の関係があるのと思っていましたが、どんな歴史があったのか、どんな宗教が根本にあったのか、どんな気候風土のところだったのか、どんな文化の国なのか、どんな国民性なのか、ということは、複雑に絡み合っていて不可分のことだと知りました。


学校の先生でしたら、学校で学ぶことが、実社会においてなぜ必要なのか、知らなければ困ることはどんなことか、一例を挙げてでも説明してあげてはいかがでしょうか?
「社会を良くすることを考える」と言っても、「じゃあ、どんなふうに数学は社会に役立っているの?」と訊かれて何も答えられないのでは、相手の心に響かなくて当然だと思います。

引用されている説でいうなら、「社会が得る利益」とは何ですか?「自分の利益」とはどういったものですか?「社会には利益をもたらすが個人には利益をもたらさない教育」とは、どういったもので、どういうシチュエーションですか?
その説を突き詰めるならば、「教育」は個人がより良く生きるためではなく、その時の「社会」の権力者にとって都合の良い個人を作るために利用することも可になってしまいそうですが、いかがでしょうか?

個人の利益が全体への利益に繋がる、全体に対し益をもたらすように行動することが長期的には自身の利益に繋がる、のでなければ、長くは持たないと思いますよ。
一部の人の犠牲だけでは、物事は回りません。
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大学生です。


教育が利益を与えるのは社会全体ならば、その社会の一部を構成する『自分』にも利益はあると考えます。
ベタな事ですが確かに自分一人が学んだことによる見返りは小さいかもしれない。でもそれを多くの人が行うことで大きな見返りを得ることができる。1円だって1億枚集めれば1億円です(これと同じ理屈)。

あとは某ゲームからの引用ですが、学校では『学習する方法を学んでいる』というのは正論だと思います。確かに古典や物理学なんてものは普通の会社員になろうとする人にはいらないかもしれない。でも誰が将来会社員になると決めた。もしかしたら考古学者や科学者になるかもしれない。未来はどうなるか分からない。だから知識ゼロでその世界に放り込まれるより、例えその道の人にしては基礎中の基礎でもわずかな知識でも持っていたら、まだ自分の行く末を見失うことはない。それに、学習方法を知っていれば、何も知らない世界(仕事という意味で)に行ってもすぐにつまずくことはないでしょう。

僕が思うに教育(学習)が人生に影響を与えるのは社会に出てから、学生の間に『教育は役に立たない』『教育は役に立つ』の判断をするのは早いと思います。

長くなりましたが以上です。
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 企業勤務と大学教育、二足草鞋の立場に従事する者です。


日本の教育が抱える問題点として知識の獲得と思考することの乖離が見られます。極論かもしれませんが、高校までの教育では眼前の試験対策に重点が置かれることからどうしても「情報としての知識の獲得」になりがちな傾向も否めません。どの教科目も「なぜそうなるのか」を順を追って問うていきその過程を一つ一つ自らが調べ実験し検証する姿勢が必要であるにもかかわらず、こうした本質的な部分が押し込められる様な歪な形になってしまっている背景には、大人の社会でも「すぐ役に立つ」「答のみが欲しい」との短絡的な姿勢が影響している様にも感じられます。
 実際の企業現場にはマニュアルどおりの想定問答などないのが実情です。正解は1つでしかないとの発想に基づくならばこうしたプロセスで育った人間が立ち往生してしまうのも当然です。しかしながら「もし~ならば」など自らが問題を解くプロセスを持つ発想があるならば、何らかの形で解決策を見出すことも可能でしょう。にもかかわらず「正解が欲しい病」の病根はスピードと効率が強調される余り、結果的に判断が誤っていたら元も子もない事に気付いていないのではないか、と考えることもできます。その過誤は時として致命的なミスを生まない共限りません。
 しかしながら「勉強することの意味」を「何かとの関わりの中で、自分ならどうするかを考える」とするならば、検証過程に基づく判断の重要性など試験での「正解」や「模範解答」の類は意味を為さないことも理解出来るでしょう。
 単体としての知識は何処まで行っても知識でしかありません。知識は他のモノと組み合わせることで知恵になります。その知恵の原点も元はと言えば学校で学んだ知識に由来するものでしょう。営業の仕事をしている方にとって、取引相手との遣り取りをする中でも「引き出し」の数が多ければそれだけ仕事の機会も増えていく可能性もあります。「今は役に立たない」と思っていても意外なところで「あの時に勉強しておいて、今になって役に立った」などの経験は幾らでもあります。学べる物は貪欲に学びたい、人生は一生学びの場であると僕は勝手に考えています。
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理系大学生です。



勉強はめちゃくちゃ役に立ってますよ。
理系は技術者になる人が多いので専門知識が必要だということも絡んでくるんですが、
一般人でもかなり役に立ってます。

僕の中では勉強は「思考訓練の場」だと思ってます。
要するにアタマを使うトレーニングをしているんです。
学生時代に勉強して鍛えてきた「考える力」を
社会に出て様々な問題に直面した時に発揮するものだと思います。

その他具体的に見ていっても、勉強は役に立っています。
英語や国語で論文を読むというのは、論理的な思考回路を鍛えることができますし、
他人の意見を吸収できます。
数学の問題はまさに社会に出て使う「問題解決」の典型的パターンです。
与えられた課題に対してどのようなアプローチをすればいいか、どの知識を使えばいいかを
試行錯誤しながら、最終的な答えを出すというのは大人になってからも使いますよね。
複雑に絡み合っている事象を様々な切り口で切ってみるというのは
地歴とよく似た点があります。
例えば世界史ならば、地域史、テーマ史、時代ごと分割する、などです。
勉強計画を立てるということは、仕事のスケジュールを立てることと同じことです。
期限、優先順位、時間を考慮して計画を立てる必要があります。

何を通して考えるかが違うだけです。
学生は学校の教科を使って考える。
大人は別のもの(仕事など)を使って考える。
必要な知識は違いますが、
土台となる力は変わりません。

また、上に挙げたようなことができる人間が社会で求められているのではないでしょうか。
社会が求めている=社会の役に立つということだと思います。

自分の利益を云々とありますが、個人主義の国アメリカの社会は崩壊しているのでしょうか?
僕はそうは思いません。

長々と書きましたが、まとめると
・勉強は大いに「個人」の役に立っています。
・学校の勉強を通じて鍛えた力を仕事に活かせる人材を社会は求めている。


生徒さんが「学校の勉強は役に立たない」というのも理解できますよ。
何を隠そう、僕も高校生の時はそう思っていましたから。
教科の知識は役に立たない場合が多いのでそう考えるのでしょう。

でも「勉強とかホントに役に立たねぇー」とか文句を言っているほうが高校生らしいです
高校生がこれを理解できたら、それはもう、オッサンです。可愛くないです。(笑)

長文失礼しました。
参考になればうれしいです。
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「学校教育」



>「それは『俺にとって』何の得があるんだ」

この発言は 教育をする側にも 受ける側にも
根本的な問題を投げかけているように思われます。

現在の学校教育では 学年に応じて
教科書というマニュアルに準拠した内容を
効率良く整理した形で教えていく方式だと思います。

教わる生徒の側は 年若く、いろいろと経験はしていても
先の長い人生航路! これから漕ぎ出して行くのですから
どんな困難難問にぶつかるか 計り知れないものがあります。
いざ困ったことに出会った時
解決策を見つけるのが、それまでに受けた教育であり
どういう手掛りを探せば良いのか、糸口を見つける能力を身に着けるのが
「教育」ではないかと思います。

>「それは『俺にとって』何の得があるんだ」

昔 私が教育を受けていた時
先生が 次のような設定をして教えて下さっていたら
どんなに面白かったか と 
先生方の顔を思い浮かべながら 時々ニヤリと思出し笑いをしています。

「将来 自分の土地家屋を購入する際 気を付けることは???」

 複雑な土地建物の面積の計算 → 数学
 建築材料の知識 耐震性など建築の力学 → 物理化学
 日照→天文
 地形 風土 歴史的背景 → 地理歴史
 建築関係 登記関係の法律 租税の知識 → 社会公民
 不動産取得時のローン設定の際の金融知識 → 社会経済  等々・・・

>「≪それ≫は『俺にとって』何の得があるんだ」

正確な面積の計算ができれば 不動産売買で損をすることはないぞ!
太陽の高度の変化を知っていれば この物件の冬至の日照時間が計算できるぞ!
≪それ≫を学習すれば 人生の強力な武器になることを
教わる生徒の側が 「気が付けば良いだけ」のような気がします。

新しい単元に入る前に
これから先 直面しなければならない身近な問題との関連性を 示唆するだけで
問題意識を持って 学習に突入出来るのではないでしょうか。
「知りたい!」と強く願う心が 学習のエネルギー源だと思います。

若者の一人一人が 学習への自らの欲求から 生きて行く力をどんどん蓄えれば
必然的に 次の結論になりませんか???

>教育によって利益を得るのは、社会全体である。
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勉強で学ぶのは、知識ではなく、「考え方」であると思います。


勉強が自分の役に立たない、というのは、勉強を単なる暗記だと勘違いしている人の発言です。

また、記憶力や応用力がある人間(いわゆるエリート)を峻別し、養成するためにも、画一的な教育・試験は不可欠でしょう。
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大人の男性です。



>これを聞いた大人の方は、どう思うのかということです。


「それは、したいとかしたくないとかではなく、しなければならないのだ、と。」

勉強はしないよりはしたほうがいいし、

社会のためにいろいろ尽くすことが、結局は廻りまわって自分のためになる。

とは思いますが、

他人に、特に目上の人間に子供がそういう考え方を押しつけられることには

非常に違和感を感じます。

高校の教員には随分と、思考の浅い人がいるなぁ。。というのも率直な感想。

勉強なんて他人に押し付けられてするもんじゃない。

小学生ならともかく、高校生にもなったら特にそう。

ずいぶんと幼稚な話だと思いますね。

教育関係者がその話をすると、自分の教育力のなさをすりかえてるだけ。。

のようにも聞こえるし。
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あまり固く考えないことです。


学問は他人から押し付けられてするものではありません。
自ら進んでするものです。
その人が役に立たないと言うなら、役に立つものを自分で勉強すればよいことです。
ただ、貴方が言うように義務養育の教科がなぜ必要かは、全て「読み、書き、そろばん」からです。
文字が読めなければ全て口約束になり騙されるだけです。
書きができなければ証拠がなくなり、またまた詐欺に合うだけです。
そろばんができなければ、計算ミスの指摘ができないので、高い買い物をするだけです。
高度な知識を持つことで、騙されない騙さないことができることを生徒に教えるのが良いと思います。
理科、社会については、理科の現象を知っていれば、危険を予知し多くの命を助けることができる。
社会の地理では、他の国の人の暮らしを知ることで、習慣や考え方を事前に知ることができるから、容易に親しくなれる。
歴史では、過去の人の行いを知ることで、二度と繰り返さないことや参考になることが多くあることを学ぶのです。
要は、生徒の身近なことから論じてやらなければ理解はできないと思います。
頭ごなしに自己主張しても聞き入れてもらえないし、聞く耳を持ちません。
生徒と目線を合わせることが大切ではないかと思います。
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>教育は、個人がそこから利益を得るためのものではない。


  教育によって利益を得るのは、社会全体である。
  自分の利益をいったん置いてでも、共同体のために行動する、
  そういう人間が一定数いないと、社会は維持できない。
  (実際、そうでない会社はすぐに潰れる)
  ゆえに、そういう人間を生み出すために教育は存在する。

この考え方自体は、力点の置き方次第で震災など災害時の相互扶助の思想にもなり得ますし、戦前の「滅私奉公」的な全体主義思想になるおそれもあると思いますので、一概には良いとも悪いとも判断できません。また「個人の利益」とひとことで言っても、高賃金が得られるなどの物質的な利益もあれば、知識欲が満たされる充実感など精神的な利益もあり、「教育は、個人がそこから利益を得るためのものではない。」と断言してしまうのには抵抗感があります。この文章の作者は「個人の利益」を金銭的・物質的なものだけに限定して考えているのかもしれませんが。

ただ、日本の現状を見ますと、実際の社会で教育を動かしている考え方は、この質問サイトに寄せられる教育関係の質問の多くを見ても明らかですが、上記のようないわば理想論ではなく、非常に功利的、あるいは打算的な現実論です。そのアンチ・テーゼとして上記のような考え方は一服の清涼剤として貴重だとは思います。また好意的に解釈すれば、「自分の利益を「いったん」置いてでも、共同体のために行動する。」と述べていて、「いったん」の後は自分の利益を得ることも認めると示唆しているようにも受け取れます。ご質問に引用されたこの文章の作者の真意はともかく、少なくともそのくらいのゆとりがないと現実の社会はうまく回ってゆかないと思います。

学校の勉強、特に高校までの学習はどうしても与えられた問題を解くことが中心になりがちで、与えられた問題に効率的に解答できることが「勉強ができる」と思われがちです。しかし就職して社会の現実を知るに連れて、(私は学校を卒業して30年余り経ったおじさんですが)本当に重要で困難なのは、問題を解くことよりも、問題を作ること、つまり自分の職業に関連して実社会が直面している現実の課題を見いだして、的確に(解答を出しうる形に)問題として提起することの方だと気づきます。的確に問題を提起できれば、衆智を集めて解決の方向へ踏み出すことも可能となるからです。

学校の成績は抜群に優れていたのに、就職してからはどうも仕事がうまくゆかない人をしばしば見かけます。その人の性格に原因がある場合もありますが、多くの場合学校の勉強がそれだけで完結してしまっていて、仕事に使える道具となっていないようです。この場合、学校の勉強は役に立つ・役に立たないではなく、役に立てられる・役に立てられないではないかと思います。同じように勉強して、同じような知識を得ても、Aさんは社会に出て、問題の提起や解決にそれを役立てることができ、別のBさんは同じ知識を役立てることができない。このような例は多いです。

Aさんは学校の勉強が私には役に立ったと言い、Bさんは学校の勉強は自分には役に立たなかったと言うかもしれませんが、よく考えますと学校の勉強が役に立ったか立たなかったの違いではなく、活用できたかできなかったかの違いでしょう。ただし、学校で学んだことを仕事に活用(応用)できるかどうかの能力の基礎を最初に習得するのが学校(能力を伸ばすのは職場ですが…)であることも確かで、話は複雑だと感じます。
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こんにちは。



私がいつも子供に言うのは

『知ってる』と『知らん』では、『知ってる』事が多い方が役に立つ

です。
うちの主人は学生時代は地理と歴史が苦手だった様で、いつも言うのは「そんなん知らんでも生きていける」です。

でも私の考え方は

どこで何の知識が役に立つかわからん

です。

例えば大人になって仕事をしていた時、仕事の上司であったり取引先の方であったりが「歴史マニア」であった場合。
「自分は歴史、嫌いでしたから知りません」
で終わるのと
「どの時代ですか?日本ですか?」
などと会話を進めるのでは、その後は天と地程に変わります。

私自身、海産物を取り扱う会社が取引先だった時に、高校時代にやたら「お徳用だし昆布」を食べまくっていた話をすると、営業さんが苦手がっていた社長と笑いながら話せる様になりました。

どんな「どうでもよさそう」に見える事でも、その後の長い人生ではどこで役に立つのかわかりません。

知っておいて『損』はないです。
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