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日本的な非対称の美の構成において
気勢感のバランスをとるという手法は、絵画的であり、古典的なものと思われますが
左方は下降的な気勢感、右方は上昇的な気勢感が、一般的であるように思われます。
それは静と動のバランスといったもののようにも感じられます。
勝手、逆勝手といわれる構成もそうしたところから生じたようにも思えます。

気勢感を生じる非対称の美と、それを生んだ日本的な感性との関係をお聞かせください。
線と量感の美学といったものでも結構です。
よろしくお願いいたします。

参考例  尾形光琳 紅白梅図
       龍源院   枯山水石組の立石

A 回答 (15件中1~10件)

No.4&No.9です。

 頂いた二つのお礼の内容について考えてみました。

お書きくださった光琳の紅白梅図の解釈からは、質問者様ならではの研ぎ澄まされた美的感覚がとても感じられました。
仰るところの「上下の気勢感の変化」については、我が国の絵巻物上でも見出せるかと思います。
また、「線と面に対して鋭敏な日本的とも呼べる感覚」は、絵巻物や庭園、あるいは舞台装置において、幾つもの線や平面を積み重ねることにより時間の経過や奥行きを想像する感覚だと察せられます。

そして、「私達の視る眼」の働きに本質的な共通性がある、というのは、古の時代の先達の情緒や感受性、美意識の経験値を少なからず私達が受け継ぎ共感する部分があるという意味にもとれます。
たとえ女房に読ませ自ら絵巻物のみを眺めていた高貴な人々の豊かな想像力には遠く及ばないとしても、です。

絵巻物上では多視点のもと、時間と空間を交錯させ、かつ類似性、類縁性、暗喩をよびおこします。
その連想こそが醍醐味のうちなのでしょう。
龍安寺の庭の石はいずれの視点からも必ず一つは見えずに死角になるとたしか以前にうかがったような…。
そしてなぜ日本人は屏風やら扇子やら折り曲げるものを好むのでしょうね。

切り取られたような白梅の構図の斬新さは浮世絵のモチーフを彷彿とさせますね。
それはまるで、我が国の絵巻物上から細分化しクローズアップした箇所のようにも思えます。
「非対称の美というものが、そこから結果的に生じたもの」なのかもしれません。

なお紅白梅図についての余談をご容赦下さい。
私の場合は、何といってもその「断絶された」流水に釘づけになりました。
二曲一双の屏風上に描かれている流水文様です。
その僅かな断絶の隙間に移ろう何かが立ち現れては消える、あるいは何物かが凝縮されて込められている、
みていてそんな気がしてくるのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
たしかフェルメールの絵で港の朝を描いたものがあったと思います。
この絵には何の説明もいらない、という解説が載っていたと思います。
横方向に広がる空間と水面
そして中央付近の水路から出てくる船
この水路あたりの光景は縦方向に描かれています。
横方向を主として、奥行きを感じさせる縦方向の部分を中心から左にずらして描いていたと思います。
手前の川岸は右下斜めに描かれ、水路の広がりが右にある事を示しています。

この構図は一つの完璧さを持っていると感じさせるものです。
洋画に疎い私でさえ素晴らしいと思わせられるものです。
なぜ、そうなのかといえば
この構図は、山水を模した庭園の構図に酷似しているからです。
始めてこの絵を見たのは新聞でしたが
一目見て、これは山水の構図そのものだと思いました。
非対称の完成された構図のように見えたのです。
水路付近の構成を切り取れば、光琳の絵に近くなると思います。
ただし、ここには光琳に見るような線による激しい気勢感、といったものはありません。

光琳の水の変化でさえも、線で描くことによってデフォルメをもたらそうとした感覚は何だったのでしょう。
心で見る、物の流動感みたいなものだったかもしれません。

フェルメールの場合は水が右下へと広がっていきます。
それは構図において自然なものです。
光琳の場合は水が左下へと流れて広がっていきます。
右の上昇気勢の奥から、左の下降気勢の手前へと流れてきます。
気勢感による構図なのでしょう。
これが反対だったら、たぶん違和感があると思います。

フェルメールと光琳は、共に非対称ながらも、その向きが反対であり
しかも、それぞれに完璧である、というところが面白いと思います。

それにしても、洋画の中に、山水の構図があったとは驚いたものです。
フェルメールが山水の構図を知っていたかどうかは分かりませんが・・・

水の美しさ、といったことについては、また改めてお話したい感じがします。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/11/28 23:18

  ○ 知恵あるものを責めよ。

そうすればかれは学に進む。

 って言うんですけど 右肩上がり気勢感なる宗教的絶対の境地の話か それともただの雑談か なんですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/11/28 22:10

庭師の方が、方々、絵のような庭園をたずねられて、絵のようではないと、がっかりしたということですか。

ははは。それは厳しいご感想ですね。

空間芸術になると、どこからも鑑賞できるので、視線が移ろいます。彫刻など分かりやすい例ですが、彫像は回り込み、背面から見ることも可能です。ところが絵画となると、人物像を回り込むことができない。彫刻や建築という空間芸術は、鑑賞する視点が、いくつもあるという特徴があります。無論、庭も空間芸術だと言えます。
こうした二次元芸術と三次元芸術の差異は、西欧では、既によく論じられてきたことです。バロック期までは、建築や彫刻といった空間芸術がもっとも敬意の払われる作品でした。というのも、どこから見ても隙がない作品を作ることは、もっとも困難でしたから。しかし、次第に、その作品に作者が込めた主観をどこから受け止めてよいのかが分からなくなってしまうという問題があると糾弾されるようになります。それで三次元芸術より二次元芸術の方が高尚だと言われるようになります。こうした芸術のヒエラルキーの変化が、ヘーゲルが『美学講義』で示した、古典主義からロマン主義への移行です。

絵の方がよいと言うなら、へたのすけさんのモノの見方は、ロマン主義的だと言えますか。まぁでも、せっかく庭師という空間芸術家なのですから、是非ともバロック期以前に言われていたような、空間芸術の良さに目を向けていただけたらと思ったりもします。空間芸術の場合、見る角度や光の当たり方で、表情が変わるのが、大きな特徴です。
たとえば屋外にある彫刻の場合、昼と夜の二度、訪れるべきだと言われます。ルーヴルの彫刻の展示室は、だから、巨大な明かりとりが設けられ、外光で鑑賞できるようになっています。絵画でも、オランジュリー美術館のモネの睡蓮は、モネの遺言で外光で鑑賞できるようになっており、季節や刻限で表情が変わるようになっています。しかし、所詮、絵画は二次元の芸術なのですから、彫刻の変化には及びません。西洋美術に限らず、能面もそうでしょう。松明の明かりでみると、風情が違います。庭もそうなのではないかと思えます。しかし庭の場合、変化の瞬間に行きあたるのが難しいものです。

龍安寺にも、私は何度か行きました。そう、案外小さいのですよね。私はあれが、大々的に宣伝され、大挙して観に行くようなものではないと思います。何の気なしに、ゆっくり眺めるようなものだと思います。そういう気になるまで自分の心を落ち着けようと、私はあそこに一時間くらい座っていました。すると、やはり良さはわかってきます。
だが、あれを見るために京都に来たのかと思うと、旅費や労力を考え、釣り合わないような気がしてしまいます。というのも、それこそ、あの程度、家の近くのカフェの庭でもいいのではないか?と思えてくるからです。しかもカフェの場合、静かにお茶を飲んで落ち着いて眺めていられます。龍安寺の場合、観光客の喧噪のなかで鑑賞しなければなりません。加えて、フェルメールやピカソの絵画を観に行くように、他をもって代え難し、という気持ちにはならなかったものです。絵画の場合、実物には、写真やイミテーションと違うものを私は感じます。龍安寺についてそういう気にならなかった。これは私が庭について専門ではないからか、と思ったものです。……しかし庭師の方にそうおっしゃられては、かないませんね。やはり誰しも、ちょっとはがっかりするものだし、それでよいのかと思えました。

おそらく、おっしゃるように、庭が真価を発揮する「時」が違っているのでしょう。雨上がりとか、月夜であるとか、春であるとか、その庭が真価を発揮する時が何かあるのだろうと、龍安寺をがっかりしながら後にした時、私も感じました。
空間芸術である以上は、何かのきっかけで表情が変わるに違いないのです。その時に行きあたるためには、おそらく何回も通ってみる必要があるのだろうと思います……不幸にして、私は行きあたっていませんが。月光は困りますね。夜は閲覧不可でしょう。しかし、銀閣の庭園の白砂など、明らかに月光で真価を発揮するものだと思えます。その可能性もあるなと感じていました。
表情が変わる瞬間を探すのは、面白いものです。庭といっても、龍安寺のように芸術性の高いものではありませんが、私はリュクサンブール公園の表情が変わる瞬間に出くわしました。フランスは季節の句切れが日本ほどはっきりしていないと感じていたのですし、花が咲いても大したことがないと感じていました。しかし秋の紅葉の時には、予想外に樹木の色が全部代わり(常緑樹が植えられているのだと思っていたのです)、「花」が咲き乱れたようになりました。あれは感激したものです。もちろん日本で紅葉を観たことはあった私ですが、整頓された宮廷の庭園でみる紅葉もまた、一味違うものではありました。

ところで、へたのすけさんのおつくりになる庭は、どういう瞬間に表情を変えるのですか。その表情は笑顔のように快活なものでしょうか。それとも、哀愁に満ちた顔でしょうか。
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この回答へのお礼

絵のような庭は、絵ほどでもない
絵ほどでもない庭にも、絵はある・・・
そんな事の繰り返しです。

今までに数々の庭園を見てきましたが
その中でも本当に美しいと感じた事は少なかったと思います。
自然を美しいとは思っても、庭園を美しいと見る機会は余りありませんでした。
それは技法に目が向いてしまって、鑑賞がおろそかになっていたからかもしれません。


若い頃、修学院離宮を見に行った事がありました。
冬の寒い朝でしたが、待合でガイドさんが来るのを待っていた時でした。
待合の向かいの木陰の下には、苔の地面が広がっているのが見えました。
そこには木漏れ日が差して、青い苔が少し光っているような感じでした。
何の飾りもない、光と苔だけの広がりです。
朝の寒さの中で、そこだけは生き生きとした空間があったように思いました。
綺麗といえば綺麗でした。
それは庭ではなく、自然の一部であったと思います。
修学院離宮は大きな自然を取り込んだ庭園ですが
私が行った時は冬だったので紅葉もなく寂しい感じでした。
借景の山並みも寒々しく感じました。
この庭園は新緑の夏か、紅葉の秋の頃がいいのでしょう。
庭を見る前の、苔の眺めが一番だったとは少し皮肉な感じもしますが
実際、確かに美しかったと思います。
絵ではないところに絵を見つけた、という事だったのだと思います。

日本で一番良い庭園はと聞かれれば
私は、この修学院離宮だと思います。
桂離宮もありますが、どことなく神経質な感じがします。
綺麗に見せようとする技巧の連続で疲れてしまう、といった感じです。
修学院離宮については大仏次郎が随筆の中で、「水蒸気の魔術」と言っています。
いつか機会があったら、その「水蒸気の魔術」に触れてみたい感じもします。
初夏の頃がいいでしょうか・・・
ここだけは何かしら期待を裏切らないものがあるように思います。
自然を生かした庭園だからだと思います。
技巧を凝らした部分もありますが、それはそれでいいといった感じもします。

非対称や気勢感といった、こまごまとしたものは、自然に呑込まれてしまっているのでしょう。
狭い庭園を常に相手にしていると、どうしてもこの疑問が付きまとってしまうのです。
たまには離れた方がいいかもしれませんね。

また独り言になってしまいました。
私の造る庭は平凡です、お客様に喜んでいただければよい、というだけです。
好みとしては、静寂な庭が好きなのですが、今の世では100%その反対です。
反対だからこそ、質問の中身にこだわっているのかもしれません。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/11/27 21:56

中国の老子の陰陽原理では、陰と陽、つまり正反対のものが、ブツカリ、中和して、宇宙の太極へ帰ると説明しています。

中和する時、太極のエネルギーである、情緒が発生して、心が癒されます。和食の辛い甘いの、中和した淡泊な味、化学の酸とアルカリ、電気のプラスとマイナス、人の男と女、経済の景気と不景気、物価の高いと安い、運命の吉と凶、社会の金持ちと貧乏、漫才のボケとツッコミ、政治の右派と左派、夫婦の勝ち気と内気などです
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2011/11/27 20:51

 No.8です。



 気勢感や左右非対称についての絶対的な境地を目指すという美の宗教になります そのようにおっしゃるなら。ついて行けません。

 哲学では 相対的なものとしての美をあつかいます。でありつつ ヒラメキとしては 絶対の境地に触れなんかなというところです。

 ★(趣旨説明欄) 気勢感を生じる非対称の美と、それを生んだ日本的な感性との関係をお聞かせください。
 ☆ そういう志向性をもった傾向が 日本人の美観(ないし美感)の一つの側面としてある。そういう問題だと考えます。


 ★(No.8お礼欄) ご批判されるのも自由です。
 ☆ 対話において批判は付き物です。それをわざわざ確認するというのは 只事ではありません。美の宗教を侵されたという感触なのでしょうか?
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この回答へのお礼

お手柔らかにお願いしますよ。
職人の意地みたいなものが少し出てしまったところは、お詫び申し上げます。
美の宗教・・・そこまで行かなくてもいいのではないでしょうか。

お礼日時:2011/11/27 20:47

こんばんは。



人間の顔は、厳密にいえば対象ではありませんよ。人の目が二つあるのは、奥行き、距離を認識するためです。そして、よく人は、三点あると人の顔に見えてしまいます。何故だろう?
モナリザ等の絵は、何処から見ても見られているように感じ。キリストの最後の晩餐は、教会の奥行きを持たせます。枯山水は、部屋から何処から見てもバランスよく配置されています。人間の目は、錯覚しやすいんですね。全体のバランスを崩し、物の配置をずらすことにより、空間、時間まで表わそうとしたのではないでしょうか?錯覚?より印象づけるため?
立体的に見える絵 暇つぶしにどーぞ。
http://web-marketing.zako.org/favolite-movie/ste …
http://news.livedoor.com/article/detail/6049601/
http://sorauta.bufsiz.jp/Stereogram/theory.html
http://okwave.jp/qa/q6752733.html
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
最後の晩餐の遠近法についてはTVで私も見ました。
緻密な構図の計算によって遠近感がもたらされているという事も知りました。
ダリの宙に浮かぶキリスト像も、その角度を決めまでに大変であった事も知りました。
それらは確かに名画なのでしょうが、遠近法による立体的雰囲気はあっても、目に見えない気勢感というものは不必要とされている感じがします。
目に見える形で全てを表そうとしてかのようです。
私は気勢感と錯覚とは違うものだと思います。

楽しい絵の数々ありがとうございました。
錯覚についても少し考えてみようと思います。

お礼日時:2011/11/27 20:33

No.4です。

 再投稿につきどうかご容赦下さい。

屏風とはもともと中国で風よけの家具として誕生し、7~8世紀頃に日本に伝わったものなれど、今日良く目にするタイプの紙製の蝶番(ちょうつがい)を使って画面が連続する屏風というのは我が国の室町時代において発明されたそうですね。
それにより従来の縁取りが不要のものとして消失することにより、それまでとは比較にならないほどの画面の広がりと立体的な奥行きが新たに創出されることとなりました。

ジグザグの角度を伴うことで立たせる屏風を視る際、中央正面から静止して視るのと左右から追って視るのとではまるで趣(時間も空間も)が異なります。
またそれは座敷より一点注視するか否かでおよそ異なる庭園の景観をもどこか彷彿とさせます。

先の投稿で私はつい日本人が視る対象物のみに執着していました。
ですが、No.6様のご回答を拝見し、質問者様自ら日本的な非対称の美の鑑賞の参考例として屏風と日本庭園を合わせて挙げていることからも、どうもこたえのカギは私達が視る対象の側以上に「私達の視る眼」そのものにこそ案外隠されているのかもしれないと改めて思うに至りました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
知覚と対象との関係から捉えようとしておられますね。
人間の感覚のあり方が、美を決定づけているかもしれない、という解釈も成り立つかもしれません。

>私達の視る眼
見る働きの違いによって、見えるものが変化してしまう、或いはその印象も変わってしまう・・・といった事もあると思います。
これに近い体験を味わったことがあります。
私が近くの小学校の樹木の剪定の作業に行ったときの事でした。
校舎の周りの樹木を剪定していて
少し大きな槇の木の剪定にとりかかろうとしていました。
ちょうど、子供達が外に出て写生をしていた時で、その槇の木を描いていた子供がいました。
「おじちゃん、それを取らないでね」・・・というのです。
あっと思ったのは、槇の木にぶら下がっていた、古い支柱の一部でした。
長さが1m少しぐらいはある、半ば腐っていた丸太が、針金で木にぶら下がっていました。
私は始めから、木に余計な物が付いているな、と思っていたのです。
勿論、その丸太を取り去るつもりでもいました。
その子供は、丸太が木にぶら下がった状態を描こうとしていたようです。
子供にとっては丸太が余計な物とは見えなかったのだと思います。
その時に思った事ですが
何という感覚の違いだろう・・・
大人にとって余計な物が、子供にとってはそうは見えない
とらわれのない自由で新鮮に見る目があるのか・・・
と思いました。
今もその時の姿が印象に残っています。
改めて思うのですが
大きな木の高いところに、丸太が斜めにぶら下がっていた状態は、少し異様な感じであったかもしれません。
その異様さ、面白さに惹かれて、子供は写生を始めたのかもしれません。
だが、私にとっては異様とは見えなかったのです。
仕事上において、時々見かける光景の一つだったからです。

大人と子供の見る目の違い、というものは
既得の情報の違いによる面が大きいと思いますが、どうもそれだけではないようにも思います。
知識の違いだけではない、感覚や感性の違いによるものだと思わせられます。
大人にとっては、つまらない物でも、子供にとっては素晴らしい物かもしれませんし
反対に、大人にとって素晴らしい物でも、子供にとっては、つまらない物なのかもしれません。

お答から、感覚や感性の違いといった事を考えさせられました。
感覚や感性の仕組みといった本質的な点については以前として未解明のままです。
進んだ商業デザインの世界では、感性的要素の計算や統計に基づいて製品のデザインを決定しているようです。
データとして捉えられる感性的要素は一般的である(普遍的である)という前提のもとに製品の開発を行っているのです。
つまり「私達の視る眼」の働きには、本質的な共通性があるという、当たり前の事ですが
知覚の共通性に基づいたデザインが様々な形となって満ち溢れているように思います。
芸術もその範囲に納まってしまうのでしょうか?
分かりませんね。

少し長くなりました。
お答を参考にさせていただきます。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/11/27 20:08

 へたのすけさん お邪魔します。

こんにちは。


 お話の前提が はっきりしていましょうか? というお話です。

 ○ 庭師の方々は 昔から言い伝えられて来たことをそのまま伝えつづけているというだけである。その《左から右への非対称な流れ》について ご自身たちも 美を感じると言えば感じるのかなぁといったところまでなのではないか?


 (あ) 《尾形光琳 紅白梅図 / 龍源院 枯山水石組の立石》について うつくしいと一般に見なされていることと わたしたち一人ひとりがうつくしいと感じるかどうかとは 別のことだと考えられます。
 専門家の見解に敬意を表しますが 何もかもそれに従えということではないはずです。

 (い) 非対称にも対称にも それぞれ美もあれば不美もあります。

 (う) 左右対称のものは ヒトならヒトという存在として一般に単位体を成すものであって 広い世界から見ればその部分です。世界全体は 非対称なのでしょう。

 (え) セム諸語は 文字を右から左へ書きます。ギリシャ語はその昔 右から左へ書いて行ってそこから U ターンして左から右へすすめ その蛇のような行列を成しました。
 日本語文字にしても 近い昔に横書きでは 右から左へ書いていました。今でも クルマの右側のボディには 右から左へとその社名などの文字を書いています。
 クルマは 世界の中では右側通行と左側通行とに分かれています。
 ――右利きが圧倒的に多いと言っても 後天的なものかも知れず また ただちにうつくしさにつながると言い切れるものか。

 (お) 《気勢感》は 静寂や沈静した状態にも あるいは 動きを帯び躍動するさまにも それぞれ見い出されるものは 見い出される。
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この回答へのお礼

>庭師の方々は 昔から言い伝えられて来たことをそのまま伝えつづけているというだけである。その《左から右への非対称な流れ》について ご自身たちも 美を感じると言えば感じるのかなぁといったところまでなのではないか?

そうです、一つのこだわりと言えば、そう言えなくはないと思います。
型とか伝統というものは、そのようにも見えるものです。
しかし、制作の現場において、徐々に深まってゆくものがあります。
それは「基本」というものです。
「基本」はただ覚えただけでは「基本」にはならない
なぜ「基本」なのかが分からなければ、「基本」を覚えたとは言えないのです。
そういう意味では、私は気勢というものの「基本」を卒業したとは言えない立場です。
そのへんをご理解ください。

型の一例を上げておきます。
竹の垣根を造る時にですが
竹を用いる場合に、竹の上下に対しての拘りがあります。
竹の自然の上下の向きを「法なり」といいます。
その反対の向きは「逆さ」といっています。
割って用いる場合には、少しの「逆さ」は許されますが
丸竹の場合には、絶対といってよいほど許されないものです。
この事への疑問も昔はありました。
でも、自然に見習った向きというものは、確かに良いという実感が増してきたように思います。
鑑賞する素人の人達には、まったく分からない、目につかない手法ですが
そこには、自然に敬意を表するという事が示されていると思います。

気勢感という見方からすれば
竹を割って用いる場合には少しの「逆さ」が許される、という
いわば上下の非対称の感覚がそこにはあると思います。
それも自然であるというように受け止めています。
光琳の杜若図のように
気勢感の上下の非対称の美、というものもあると思います。
杜若の葉は剣葉とも言われるほど鋭い感じがするものです。
その持つ上へと向かう気勢感は、少し下がった感じのする群青色の花に受け止められています。
しかし、完全には釣り合っていない感じがします。
上へと向かう気勢の方が強いのです。
自然の持つ気勢感の非対称をとらえている感じがします。

非対称が自然である、というところから様々な手法が生まれたようにも思います。
自然というものに少しは深入りした感じはしますが
まだまだ分からない事だらけです。
左から右へ、という事についてもまだ分かっていません。
有力候補は、太陽の運行あたりのように思います。
たいていの場合、建物は日当たりがよいように南向きが基本ですが
そうすると、東という左から日が昇り、西という右へと日は沈んでゆくのが自然と見えるはずです。
星の動きにしても同様です。
一日も欠ける事のない確かな動きです。
南半球ではどうなんでしょうね?
このへんにも興味がありますが・・・

いろいろなご意見をお聞かせいただくという事で、私はよいと思っています。
ご批判されるのも自由です。
それでは。

お礼日時:2011/11/26 22:04

丁寧な補足、どうもありがとうございます。

そうですか、庭をおつくりになる方でしたか。となると、西欧と東洋の違い云々などといっても、もうお考えかと思います。すると、私の答えは、ご想定の域を抜けないものになるかもしれないと、お断りしておかないとなりません。

いくつかの論点が、この問題からは導けます。
・なぜ左から右か?
・気勢とは何か?
・気勢の意義は?
順に私の意見を述べてみます。

左から右である理由は、ちょっと私には、難しいと言わざるをえません。美術品に限らず、たとえば漢字を書くにしても、まず左側に部首を書くことが多いですね。横書きなら、左から右へと流れます。グラフも、関数も、左から右に数値が増えていきます。こうなると、左から右に向かって、時間の流れが増大して行くのだということができます。
この正確な理由は、正直、私にはわかりません。単に人間の視線は、最初に左に行き、次に右に流れる癖があるということなのかもしれません。あるいは、まったく発想を変えて、心臓の血流が、左から右であるので、それに倣おうという本能的なものかもしれません。はたまた、おっしゃるように太陽の運行とも関係あるのかもしれないですね。しかし、こうした左から右は、ひとつの謎ではあるが、身の回りにあふれている一つの流れであると言えます。

ただし問題は、この流れを日本の美術品がうまく利用していることです。そこで「気勢」についてですが、この言葉をお使いになったのは、的確であり、すでにこれで、ある程度、問いの結論が出ているように思えます。何か美しいものを描こうとした時、左右対称ということは、調和を示しています。つまり、安定した状態を体現しているといってもよろしいでしょう。
しかし、非対称の場合、これから、動き出そうという瞬間をとらえています。したがって、激しい力を溜めこんでいる状態であるということができるでしょう。すなわち「気勢」です。

問題は、では、なぜ日本の芸術作品は、安定を示す左右対称ではなく、不安定を示す気勢を美とみなしたのか。一つには、描く対象が自然であったということが言えます。
左右対称の祖は、古代ギリシアにあると言われますが、ここで描かれたのは、人間でした。「真理、理想」といっても、これらは客観的なものではなく、人間から見て、好ましいものです。あるべき人間の姿が、調和という姿で示されたのです。そして逆に、西欧では十七世紀まで、自然を描写することは、真面目な芸術家の仕事に数えられなかったのでした。
さて、日本の場合は、古来より自然を描こうとします。しかし自然とは流転するものであり、捉えどころがないものです。すると、それがエネルギーを溜めこんでいる瞬間を描くに留め、流転する様は、観る者の想像力に任せた方がよいということになるでしょう。

しかし、これはいかなる美の表象の仕方であるのか。こうした点を、さらに分析的に言えば、
・左右対称は、造形物に示された調和そのものが美しい。造形物そのものが美を体現している。
・左右非対称は、激しいエネルギーを感じさせるものであり、造形物そのものが美しいのではなく、造形物は想像力を喚起する媒体になっている。
という風にまとめられます。

しかし、この点は、ことによったら、私がいうまでもなく、質問者さんはおわかりかもしれません。というのも、龍安寺の石庭は、細部を眺めてみれば美しくも何ともないが、全体として美になっているとおっしゃるわけですから。ここで質問者さんが言わんとすることを私が解釈すると、石庭は、庭そのものが美なのではなく、想像力を喚起する媒体になっている、とおっしゃっていると考えられるのです。他に例を上げれば、和歌において、満月ではなく、欠けた月が好ましいとされることなど、どうでしょうか。満月は道長の句のように、少し品がない。それよりは、十六夜の方が、上品です。これは満月が充足しており、想像力を何ら喚起しないからだと思われるのです。

こうやってみていくと、日本の美意識には、美そのものを体現したものを提示することを避け、美を想起させる縁を示す、という特徴があるように思います。わびさびに限らず、有心であるとか、時代は変わっても通底する美意識が見当たります。この点は、質問から逸脱するように思うので、私はここで論じません。しかし日本独特の「動き」を想像させる数あるテーマの中で、左右非対称は有力なテーマの一つであると位置付けることができると、私は思うのです。
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この回答へのお礼

巾広い見識からのお答ありがとうございます。

>動き出そうという瞬間をとらえています。したがって、激しい力を溜めこんでいる状態であるということができるでしょう。
この「溜め」というあたりは確かに気勢感につながるものです。
溜め、は、たわめる、でもあり気勢感の籠った状態のようです。
実例を上げれば・・・
木の幹の曲がった姿などはその典型的なものと思います。
「ため」を効かす、ともいいますが
力感のこもった状態を表現するのに、生け花でもよく用いられる手法のようです。
造園で扱う樹木の中では
この、「ため」と、そこから放たれる気勢の拡がりの両方の要素を強くもっている樹木は、梅、あたりが一番かと思います。
黒々として、味のある重い幹から、一気に強く伸びる枝がひろがる姿は
気勢の籠りと解放の両感覚を味合わせてくれます。
光琳が、激しい気勢の流動感を表現するのに、梅の木を選んだのも適切だったと思います。

>石庭は、庭そのものが美なのではなく、想像力を喚起する媒体になっている・・・
龍安寺は二度見てきました。
本の写真を見て、きれいな庭だと思っていたのですが
実際はまったく違った感じがしました。
写真では白砂と庭石のコントラストが見事で、広々とした感じがしましたが
実物の庭はかなり狭いもので、一見したところ、特に綺麗さというものは無いように感じました。
写真では綺麗に見えたのに、何故なのか?、といった事も考えました。
大海に浮かぶ小島のような景色・・・といった解説も空々しく感じました。
写真では綺麗に見えた・・・というところにヒントがあるように思えます。
実物という立体ではなく、平面に写しとってこそ美しい、といったものです。
ここで逆転の発想をしてみれば・・・ですが
この庭を造る時に、作者は下図、下絵を描いたと思います。
白い紙に石組を配置した下絵を描いたと思うのです。
白い紙に墨の線で描かれた石の姿があったと思います。
その下絵こそ美しかったのではないでしょうか。
幾度も描き直して出来あがった下絵こそ美しかったと思います。
そこには石の持つ気勢感が簡潔に表されていたはずです。
白い空間に様々な気勢感が満ち溢れていた絵だったと思います。

その下絵をもとに精一杯、真似て造ったのがこの庭だったのではないでしょうか。
写真が綺麗に見えるのは、平面化する事により、絵に近ずくからだと思います・・・
この庭を月夜に眺めてみると案外面白いのではないでしょうか。
モノトーンになり、白砂と石の影だけになった時、その配置の絶妙さが分かるような気がするのです。
山口県に、月の桂、という石庭がありますが
こちらは最初から、月明かりを計算して造ったようです。
写真で見ると、なんだこれは・・・といった感じですが・・・

今までに、本や写真で綺麗だと思って見に行ったことも多いのですが
だいたい裏切られてしまうことが殆どでした。
いわゆる絵のような庭は、絵ほどでもない、という事のようです。
少しだらだらと書いてしまいました、ご容赦ください。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/11/26 21:02

遠回りな話ではありますが、参考までに、左右対称や線にみる西洋美術の理念とは何なのかを確認してみませんか。

ひょっとすると、そこから日本を見つめ返す材料が拾えるかもしれません。

西洋の表象では、理性と調和を重んじてきた歴史があります。とはいえ、様式は時代背景によってそれぞれです。中世の様式はキリスト教的世界観が築かれ全盛をきわめた様式であり、そこでは音楽や美術が神の持つ理性と調和の世界を表現することになっていました。つづくルネサンスの様式は古代ギリシャ・ローマの異教から見た理性と調和の様式であり、数学的・幾何学的に把握された全体像が調和を表していました。そしてそれらの反動として、理性的な表現や構築的な世界観に対する、感情的な表現や流動的で有機的な構成や、あるいはまた現実的な表現が求められてきました。後年に評価を落としまた再評価されることになるバロックとか、時代を下ると新古典に対するロマン主義とか、写実主義や印象主義あたりまでが思い浮かびます。
こうした観点のなかで、線描は理性的であり色塗りは感情的で下劣あるということがしばしば言われてきました。ヴェルフリンの言説が最初ではないと思いますがよく知られている紹介者ではあるでしょう。
古代ギリシャローマにせよ、中世およびルネサンスにせよ、線で形を再現したり、要素間の調和を計算したり、左右対称によって安定感を出したりすることで、画面には人々の理想が閉じ込められていました。画面に対する視点というものが、教師と生徒の教化関係であったといえるでしょう。
ところが、バロック以降、画面からはみ出して存在する気配のものが描かれ、理性で掴んだものの形の重要性を示すような線への拘りはなく、感情によって有機的な構成を示し、主題場面に臨場しているか覗き見しているような視点になり、画面は人々の生きている世界とつながっている空間なのだということが当然のように受け入れられます。
このことを考えるとき、日本の画面に対する表象感覚というのは、西洋より1000年進んでいたとさえ言える気がしてきます。西洋人にとっては閉じた情報箱にいかに詰め込むかの場でしかなかった画面が、日本人にとっては、空間への自在な視点を有機的に構成してみせ、また、見る時間の流動性を込めた、「私」の世界であると同時に「私の消滅」の世界でもある場所になっているのではないでしょうか。すると線描ひとつをとっても、西洋的な神の世界を写し取る理性の技というような偉い代理人めいた観念のもとにないことは明白です。空間と時間に対峙した画人の構成力のままに発揮される、自身の存在の強さによって、線に勢いがあるということになるのではないかと思ったりします。
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この回答へのお礼

大変有益なお話ありがとうございました。
>線描は理性的であり色塗りは感情的で下劣あるということがしばしば言われてきました。
この事は多分に同調できるものです。
私が初めて油絵をじっくり見た時のことですが、その画面を見て少し驚いたのを覚えています。
絵具によって画面が盛り上がっているのが見えたからです。
なんと荒々しく品がないのだろう、という感じがしたものです。
絵というよりも彫刻のような感じを受けたのです。
心の中で、絵とは一回で描くもの、平らなものというイメージがあったからです。
線を基本に色彩を施してきれいに描くもの、といったイメージもありました。
やはり線によって描くという事が、私の中にいつの間にか叩き込まれていたのでしょう。
この事は造園を生業とするようになってからも変わらなかったように思います。
さまざまな材料を扱う中においても、まず捉えるべきものは線であったと思います。
全体の輪郭線は勿論のこと、樹木においては、幹から葉に至るまでのすべてを線として捉える事を常に要求されたきたように思います。
また、そこには材料の持つ、水分感覚、というものもあります。
樹木においての量感や色彩には水分感覚の現れ、といった感触があります。
水分の少ない、線の要素の強い樹木といえば、主に針葉樹です。
針葉樹を多用した庭園には気品が感じられます。
線の持つ品格がどことなく自然に伝わってくるからです。
代表的な樹木は、松とかヒバ、槇あたりでしょう。
(落葉樹では紅葉あたりか)
あまり専門的になってしまうのもいけないと思いますので、このぐらいにします。

線の美しさや気勢感といったものは、もはや古典的なものなのかもしれません。
しかしながら、そこにおける
非対称の気勢感の計算の美に触れるとき、それを成し得た感性とは素晴らしものだと思わせられます。
それは、いつまでも新鮮である、という事に通じるものなのでしょう。

付け足しになりますが・・・
長年、造園業に携わってきた人のほとんどが
自然が一番だ、といいます。
自然の木が一番美しい、といいます。
どのように技巧を凝らしても、自然を超えることはできない、という感触を持っているからだと思います。
そうした自然本位の見方からすれば
庭園、造園とは、ままごと遊び、ようなものです。
絵も同じでしょう。
素晴らしい、ままごと遊びです。
線も気勢感も、ままごと遊びの中にあるのかもしれません。
それでいいのでしょう。

「ままごとの 箸もお菜も 土筆かな」  星野立子

元気で、ままごと遊びができるのが幸せなのかもしれませんね。
自然から見れば人間は子供です。
好きなようにおやりなさい・・・といっているようです。

大分それてしまいました。
東洋と西洋の違いなど教えていただき、ありがとうございました。
参考にさせていただきます。

お礼日時:2011/11/24 22:54

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