dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

 
 
問う人:
 一つ訊いてもよいか。

「人の道」:
 何でも訊いてみー。
 ここは質問し答えを出す場所や、なんにも遠慮は要らん。

問う人:
死とは何か。

「人の道」: 
死とは命が終わることである。

問う人:
命が終わると次に何が来る。

「人の道」: 
何も来はせん。

問う人:
では人は死ぬとどーなる。

「人の道」: 
どーもならん。

問う人:
どーもならんとはどーゆーことか。

「人の道」: 
つまり人は死ぬと消えて無くなる、消滅する、消滅して無になる。
無になったら、もう何も起こりよーはない。
だからどーもならんとゆーておる。

問う人:
皆んな、死んだらただ消えて無くなるだけか。

「人の道」: 
その通り、皆んな死んだら消滅し無になるだけである。

問う人:
では死んだ人間を供養しても無駄なのか。

「人の道」: 
その通り、死んだ人間など供養しても無駄である。

問う人:
では死んだ人間はどーすればよい。

「人の道」: 
速やかに土に帰すことである、そして忘れることである。
それが一番よい。
後は万物の根源、宇宙の法則であるアルケーの神が全て見計らってくれる。
人であれ、動物であれ、生き物は死ぬと全てアルケーの神が速やかに消滅させてくれる。
何も問題はない。
全てアルケーの神に任せておけば良いのである。

問う人:
死んだ人間を供養もせず忘れてしまったらバチが当たるんではないのか。

「人の道」: 
あのなあ、
死んだ人間などどーでもよいから生きておる人間を大事にせーゆーておるんや。
これが自然界の掟、宇宙の法則である。
万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神がそー申しておるから間違いない。
どーだ、これで死が何か判ったか。

問う人:
はい、判りました。
人は死んだら消滅し、無になる。

「人の道」: 
死んだ人間はどーすればよいかも判ったか。

問う人:
はい、判りました。
人は死んだら土に返し、速やかに消滅させ、忘れるのが一番よい。

「人の道」:
人が死んだら供養などせんでよいから、生きとる人間を大事にせーゆーておる。
皆にも訊いてみー。

問う人:
人が死んだら供養などせんでもよいから、生きとる人間を大事にせーゆーこと、皆はどー思う。
 

A 回答 (17件中1~10件)

 「生きとる人間を大事にせー」は、まことその通りに思う。


 しかし、大事な人を失くして心の整理がつかぬ方には、“供養”も良き事と思うがのお。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 
供養とは漬かること。
心の整理は哲学によって行うもの。
思想と理念と哲学があれば供養など必要ない。
アルケーの神がそー申しております。

 

 

お礼日時:2012/02/05 11:43

供養の意味も良く知らずにホザクな‼

    • good
    • 0

人は死んだら無になるのソースはありますか。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

 
アルケーの神がそー申しておる。
 

お礼日時:2012/02/05 11:45

死んだら消滅して無になるなら


どんなに生きても同じちゅうことでしょう。

生きてる人間を大事にしても粗末にしても
どうせ死ぬんやから無駄でしょう。

自分や身内が粗末に扱われたらいやです。
他人でも苦しんでるのを知ると気が滅入ります。
でも、それはエゴちゃいますか。
エゴの執着を捨てたら、生きてるのも死んでるのも
同じ。
大事にされるのも苦しめられるのも同じ。

みなさん、自由になりましょ。
飛ばんかったら落ちません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 
>生きてるのも死んでるのも同じ。

この世の全ては無であると思いたいなら、そー思えばえー。
 

お礼日時:2012/02/05 11:50

>人は死んだら土に返し、速やかに消滅させ、




これは賛成ですね、キムジョンビルの死に顔なぞ見たくはないですもの。


>忘れるのが一番よい。

これが問題です。つまり
死者の抹殺は是か非か?ということで、あきらかに誤りです。
死者はかってこの世に生きた人です。その生きていた事の意味は無ではありません。
それはわれわれの財産です。でなければ歴史なぞに何の意味がありましょう。
死者に問いかけ、死者の生きた意味を残ったものが全霊かけて考える。
それをわれらの未来へ生かしていく。
これが供養の意味です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 
>死者に問いかけ、死者の生きた意味を残ったものが全霊かけて考える。

死者に問いかけても、答えは返ってきません。
問いかけとは生きている人に行うもの。

あまりに自明なこと、あまりに正しいこと。
あ~、アルケー。
 

お礼日時:2012/02/05 14:06

お、出てきたね。




供養するのは、生きている人の為に
やるんですよ。

そうすることによって、残された人の
心が、少しでも慰められます。

先祖を想えば、悪いこともやりにくく
なります。

死、とは、生きている人の為に存在するのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 
>供養するのは、生きている人の為にやるんですよ。

生きている人は生きている人のことを考えればそれで十分である。

アルケーの神がそー申しておる。
 
 

お礼日時:2012/02/05 11:58

極端だね。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

 
>極端だね。

究極の真理とは常にこのよーな姿となる。
 

 

お礼日時:2012/02/05 12:01

実は「無」というものは生存者にしか存在していません。


死ねば「無」すら認識できないからです。
もちろん「死」も生存者にしか認識できません。
と、個人的には思います。
    • good
    • 0

死とは肉体機能の完全停止であり、


それによって意識への強制回帰が起きる。

我々は死による意識への回帰によって、
薄ボンヤリとした存在状態となり、
死後はそれが無意味に続く。

生物にとって、意識のみの曖昧な状態は、
苦痛以外の何物でもない。

それは大して眠くもないのに、
無理やり寝ようとしているのに似ている。

だから、その曖昧な存在状態から、
曖昧ながらも抜け出したいと願う様になる。

その結果として起きるのが輪廻転生であり、
あらゆる生物は、生を楽しみながら、あるいは苦しみながら、
永遠に繰り返しを生きなければならない。

この無意味な繰り返しを止めるには、
己が生を完全燃焼させる事によって、
もう二度と生きなくて良いと思える程の、
完全な満足を得る必要がある。

そうでなければ、意識のみの曖昧な状態を良しとし、
そこに安らぐ事は、決して出来ないのである。

死の恐怖と、生の実感の渇望は、
意識のみの曖昧な状態を厭う気持ちに端を発する。

かすかに残る「生殺し地獄」の記憶が、
我々を生に駆り立てているのだ。



・・・以上、作り話でした。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 
>我々は死による意識への回帰によって、
>薄ボンヤリとした存在状態となり、
>死後はそれが無意味に続く。


人は死ねば土に還る。
人が土に還る途上に薄ボンヤリとした状態が起こるが、これは人が生から死に移る時に現れる過度現象であり一瞬の出来事である。
土には生も死もなく、また薄ボンヤリとした状態もない。
人が死んで土に還ったとき、人は消滅したのであり、人は無になる。
全て自然界の掟であり、万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神の定めである。
 
 


 

お礼日時:2012/02/05 13:39

アルケーの神のソースはありますか。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神は我々の周り至る所に存在する。

真理を探求する者はアルケーの神を感じることができ、
漬かろーとする者は永遠にアルケーの神を感じることはできまい。

あ~、アルケー
 

 

お礼日時:2012/02/05 19:33

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す