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あまり熱心な信者ではないのですが、自分では小さい時からキリスト教を信じています。その中では「唯一神」を信じており、偶像や人を崇拝してはいけないと理解しています。実は今度インドに行くのですが、サイババのダルシャンに参加したりすることはキリスト教の立場から考えるとどういうことになるのでしょうか?ちなみに前述の理由から私は神社に行ってもお参りをしたり、お稲荷さんに祈ったりはしないようにしています。勉強不足ではずかしいのですがどなたか教えてください。

A 回答 (4件)

 こんばんは、クリスチャンではないです。


ごく普通の仏教徒です。

 決して、原理主義的な考えを推賞する物ではないですし、現代の複雑で多様な文化や宗教が共存する社会では、他の方々のおっしゃるのが常識的で、そうやって互いの価値観を認めていかないといけないと思いますが、ひとまず、それを置いて「キリスト教的に見ると」ということを遵守して考えてみたいと思いました。と言っても、私はキリスト教の学者ではないので、私のキリスト教に対するイメージで判断しています。

 サイババ師は、奇蹟を売っているように見えます。正統派の(どこを正統とするかでかなり違うようですが、)キリスト教会は、あんな風に粉を出して人を集める業は、かなり嫌がるのではないでしょうか? 確かに東方教会などは神秘主義的な色彩が濃いとは言いますが、それにしてもあれは、一昔前なら悪魔の業とされたものではないかと思いますが・・。

 また、サイババ師は、神の生まれ変わりだそうですが、キリスト教的に考えるということを遵守すると、互いの宗教を尊重できるというようなものなのかな、という気がします。かなり大胆なことを言っています。

 サイババ師には失礼な言葉を並べてしまっていますが、決してサイババ師を批判しているわけでもないし、師が神の化身だと言うことも否定しているわけではなく、あくまでもキリスト教の価値観で判断した場合のことを考えた場合ですので、もしサイババ師の信者様がごらんになっても、お怒りにならないでください。私は、サイババ師個人の人格や超能力の真偽については、一切存じません。ですからこれは個人への批判ではありません。「(師のような)そういうような人」をキリスト教ではどう捉えてきたかという視点です。

 でも参加すること自体が、即イエス様に背くということではないと思います。観光として行くのであれば、関係ありませんし、一つの異文化、異宗教として経験しつつ尊重するということは、実際的な態度としては普通だと思います。しかし、他の方との会話で出てきた「共通の真理」というのは、分かりやすいし、それを否定するわけでもないのですが、ちょっとよく考えてみないと、なんでも共通の名の下に、真理にしてしまう危険もはらんでいるかもしれません。

 立派な宗教家かもしれませんが、オウムの教祖かもしれないという場合もあるからです。

 現代では、異宗教を排除することは互いに滅びへの道を進んでしまいますので良くありませんが、教祖の実際の行いと教えが一致しているか、一致しているならばその面において尊敬し、また自分の認識し知りえた範囲(良い教えと行動をしていると知った範囲)において、互いに尊重するという態度が必要なのではないかと思います。もちろん、知らない人に会ったら、まずは尊重から入ることは礼儀ですが、それはこのような知的な理解を拒んでただ「共通の真理」という名前で尊重するような、知的理解を拒むものではないと思います。

 排斥するわけではありませんし、私も普通の日本人としてみなさんの意見は感覚として良く分かるつもりですが、一応別の観点からも書いてみました。
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この回答へのお礼

とても適切なお話をありがとうございます。そうなんです、私が知りたかったのはこういう基本的な知識でもありました。サイババに会ったからといって私の中の真実や信仰が変わるとは思いませんが、ただ基礎知識があると理解が少しでも早くできるかもしれません。いずれにせよ、広い気持ちで体験してみたいと考えています。ありがとうございました。

お礼日時:2004/02/16 08:57

私はキリスト教徒ではありませんが、信仰を持っているというのは、すばらしいことだと思っています。



ですからキリスト教の信仰があるというのもまた、すばらしいことです。

また、#1さんも信仰者として立派な言動だと思います。

私も仏壇、神棚、神社、お墓等、すべてありがたくお参りさせていただきます。聖書も仏教の本も読みます。

以前ローマ教皇(カトリック教会によれば、法王ではなく教皇の方を使ってほしいとの事です)が、各宗教に共通する真理を尊重すると認められたというふうに記憶しているのですが、私も正にその通りだと思うのです。

サイババも、自分が信じている宗教を信じ、他の宗教を尊敬しなさいと言っていますね。

偶像や人を崇拝しなくても、全ての正しい宗教に共通する真理を信じるのであれば、キリスト教の教義に反するでしょうか。他の宗教を信じるのでも改宗するのでもありませんから、共通の真理を信じるとは、結局は自分の宗教を信じ、他の宗教を尊敬するということになると思います。

サイババのダルシャンにはキリスト教徒もユダヤ教徒もいろんな宗教の人たちが大勢きているでしょう。

あなたがキリスト教を信じている限り、どこへ行こうが問題ないのではありませんか。

私の家は浄土真宗ですが、他の宗教と同じようにすばらしいと思っています。
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この回答へのお礼

本当にそのとおりだと思います。「共通する真理」なのですね、大切なのは。ダルシャンに参加すること自体で、私が「神を裏切った」とか「改宗した」ということにはならないわけですね。もちろんこれから彼を「神」の代わりに崇めたり、お稲荷さんに神頼みをするようにはならないでしょうが、それらの人やものもすべて「神」が何らかの意味をもって創造したものと考えると避ける必要はまったくないとも思えます。よりよいキリスト教徒になるためにももっと広くいろんな勉強をしていきたいと思います。ありがとうございました。 

お礼日時:2004/02/14 06:04

キリスト教は1神教なので他の宗教を認めない傾向があります。

他の宗教を論じるパターンは2つあって、1つは迷信だと主張する場合(これはシャーニズムなど自然宗教を相手にするときです)もう1つは宗教とは認めるが不完全だと主張する場合(これは仏教など高等宗教を相手にするときです)
しかし、このような立場を取らないクリスチャンもいます。他の宗教も認め対等に対話しようとするのです。日本では遠藤周作や八木誠一がこのタイプです。外国ではグントルトという方がいます。この方は次のように言ってます。[私はよきキリスト教徒になるために仏教を学び、よき仏教徒になるためにキリスト教を勉強している]つまり、キリスト教の立場にもいろいろあるということです。1番大切なのはあなた自身の内なる声です。心静かに耳をすましたらどうでしょうか。
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この回答へのお礼

とてもためになりました。興味深い言葉にも深い感銘を受けました。本当はキリスト教とか仏教というような分け隔てることではないのかもしれませんね。内なる声を聞けるよう耳をすましてみます。良いインドの旅となりそうです。ありがとうございました。

お礼日時:2004/02/14 05:50

キリスト教を信じているということですが、それは、それでたいへん結構なことと思います。


洗礼は受けていらっしゃるのでしょうか。キリスト教といってもいろいろな宗派に分かれてもいます。
まずは、ご自身の信じる宗教により興味をもたれて、また、ご自身にとって宗教とは何かを見つめられるとよいかとも思います。
因みに、私の家は、真言宗智山派で、先祖代々信心しておりますので、供養の為、毎朝、水、お茶、ご飯と供え、線香をたいて祈っておりますし、彼岸、盆、命日・・と家族揃ってお参りし、お飾りもしておりますので、私自身、嫁いで19年になりますが、盆、彼岸と家を空かしたことはありません。神棚もあり、氏神さまには、必ず、年賀のお参りに行っております。
位牌やお札などを手荒く扱うことなど、絶対にできない・・・それが自然になっているからです。
宗教とは、考える以前に体に染み付いてしまうものだと思います。
もちろん、観光地ですてきな教会があれば、伺いますし、ためになるお話が聴かれれば、お聞きします。
興味があれば、聖書も読みます。旧約聖書も数年前、数ヶ月かけて読みました。
相手を冒涜せず、聞く耳をもって、そして自身のことも尊重する姿勢が世界中で必要だと思います。
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この回答へのお礼

洗礼は受けていません。また勉強熱心ではないので細かいことや儀式的なことはまったく知りませんが、「神」の存在を信じ、感謝と信仰をもっているだけです。mmmmhoさんの姿勢は私の人生に大きな影響を与えてくれた父とまったく同じだと思い出しました。彼の場合は無宗教ですが聖書や仏教に関する本も読み尊重しています。そういう姿勢が私にもとてもすばらしく見えたものです。方法が違っても真実は同じ、肩の力を抜いて勉強してきます。ありがとうございました。

お礼日時:2004/02/14 05:44

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