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快楽はなぜ求めてはならないんですか?
わたしの考えだと快楽は人間の真の人生の内にある目的から目を逸らさせるからです。
みなさんどう思いますか?

A 回答 (15件中1~10件)

>快楽はなぜ求めてはならないんですか?



別にそんなことはありませんよ。

他人に危害を与えない範囲で、個人が快楽を求めることを禁止する法律はないし、宗教でも一部の禁欲的宗教がこれを求めるぐらいで少数派でしょう?

肉食妻帯を禁じていたはずの仏教でさえ、出家坊主が結婚して、セックスして、子孫を残して、寺院を私物化し、世襲させるなど、現世の快楽を追及すること容認しています。

個人的には悲しい、寂しいと感じますが、これが厳然たる事実なんですよね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/31 02:22

快楽をどう捕らえるか、それが問題です。

快楽を罪悪視するのは、快楽といえば、通常は肉体的快楽のことであり、精神的退廃を招くと考えられるからです。
それとは別に、あなたの言っている「人間の真の人生の内にある目的」を達成することに快楽を求めるのであれば、それこそ求めるべきものということになります。
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この回答へのお礼

まあ、そうですね説明不足な感はありました。
回答ありがとうございました

お礼日時:2012/12/31 02:15

>わたしの考えだと快楽は人間の真の人生の内にある目的から目を逸らさせるからです。



 上記には賛成なんですが、では「人間の真の人生の内にある目的」を達成する事を目的とした人が、「人間の真の人生の内にある目的」を達成するために行った行為の間に感じる感覚は、「快楽」ではないのか?と考えた事はありませんか?。その意味で、「人間の真の人生の内にある目的を達成する」ための快楽は受け入れて良いのでは?、と自分は思います。もっとも「人間の真の人生の内にある目的」とは何か?、には議論百出でしょうが・・・。

 自分は、「煩悩の中に悟りあり」「悟りを求める心こそが、煩悩である」という戒めを、上記のように受け取っています。

 結局は、次のような事だと思います。

 例えば自分が利他行為をしたとして(命をかけて、誰かを助けたとしても)、結局それは自分の気持ちのために(望みのために、快楽のために)やったのだ、という事を、自覚できるかどうかだと思います。そういう事を自覚してる人間は、口が裂けても「人のためにやった」などと、言えません。せいぜい言ったとしても「人間として、当然の事をした」が関の山です。それも、恥ずかしがりながら・・・。


 人とは自分のために生きています。人間は好きな事(納得した事)しかやりません。人間は、動物ですからね。でも「人は自分のために生きている」という自覚を持たない人は、結局、他人の痛みはわからないと思います。
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この回答へのお礼

>「人間の真の人生の内にある目的」を達成するために行った行為の間に感じる感覚は「快楽」

>例えば自分が利他行為をしたとして(命をかけて、誰かを助けたとしても)、結局それは自分の気持ちのために(望みのために、快楽のために)やったのだ、という事を

真の人生の内にある目的といからには、それを快楽と呼ぶのはあまりにも軽薄すぎると思うんです。自分の気持ちの為に利他的行為をしてもそれは快楽ではないと思います。

>もっとも「人間の真の人生の内にある目的」とは何か?

これも説明不足でした。回答ありがとうございます!

お礼日時:2012/12/31 02:22

人間は欲望を満たす時に快楽を感じます。

欲望を満たすために経済も科学(医療・電気製品・自動車などなど)も発展してきました。肉体的欲望も精神的欲望もです。欲望も快楽も天(神様)が与えてくだっさったプレゼントでしょう。

最も強く感じるH(セックス)の場合、快楽を感じないとセックスレスつまり子孫が増えない事も事実ですが、私生児をつくったり、不倫や強姦・獣姦することは、神様や相手を不幸にし悲しませることになります。

旧約聖書の「伝道の書」(ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉)に「若い者よ、あなたの若い時に楽しめ。あなたの若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心の道に歩み、あなたの目の見るところに歩め。ただし、そのすべての事のために、神はあなたをさばかれることを知れ」と書いてあります。

貴方のおっしゃるように「快楽」だけを追求すると結果的に、むなしさ(空)をあじわう結果になる可能性もあります。愛する相手が出来る人はいいですが、相手がいない人はどうすればいいのか、という問題は残りますが。自分自身で解決できるひとは自分でということでいいでしょうか。
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この回答へのお礼

あなたはすばらしき道徳感を持った方だ。
見事な回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/31 02:27

こんばんは。



>快楽はなぜ求めてはならないんですか?<
人間は 自然本性として快楽を求めるようにできているからでしょう。過度な快楽の追求や安易な脳内麻薬によるコントロールは 脳に致命的なダメージを与えることになりかねないから。ランナーズハイやドーパミン過剰による依存症等
だから お釈迦様は あるがままに物事を観てあるがままに生きなさいと言われたのだと思います。人間には知恵があり 誰にでも自分の好きなことがあります。それは 他人から褒められることにより好きになり 他人は貴方が優れているから褒めるのです。人は好きなことをして 普通に生活すれば幸せなのです。
人間の人生は この世界の生滅(ゆらぎ)と連動して 誰にでも良い時と悪い時の波があるのです。この世界は一時も同じではない諸行無常なのです。貴方が変化するだけでなく世界も変化している。それが 心の穏やかな状態なのです。生死だけが変化だと思わないようにね。^^

ただ このことを悪用して貴方をコントロールしようとする団体には注意してください。

脳内麻薬の仕組み
http://light.kakiko.com/sionta/NouSuper.htm

脳内麻薬の作り方
http://light.kakiko.com/sionta/MayakuSakusei.htm
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この回答へのお礼

よく分かりませんが、ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/31 02:24

”快楽はなぜ求めてはならないんですか”


    ↑
快楽はあまりにも強力だからです。
あまりにも魅惑的だからです。
だから、求めてはならない、とするぐらいで
丁度良いのです。
快楽を求めてもよい、どんどん求めろ、と
いうことになったら、世の中どうなる
でしょうか。
薬物氾濫、犯罪だらけの世界になるでしょう。
だから、快楽を自制する必要があるのです。
快楽はいけない、というのは、その為の
人間の知恵です。

”人生の内にある目的”
    ↑
そんなものは存在しません。
それは人間は特別な存在だとする思い上がりです。
人間は、他の動植物と同質の存在に過ぎません。
分子生物学も、進化論も人間存在の特別性には
否定的です。
人間は、意味なく産まれ、意味なく生き、意味なく
死んでいくだけです。
それがイヤだ、というひとが色々理屈をつけている
だけです。
そんな理屈に惑わされるのは愚かというものです。

この回答への補足

上半分は同意です。

>”人生の内にある目的”
>    ↑
>そんなものは存在しません。
ここから下の文について。

人間が動物と同質なわけないと思うんですが。
動物と我々は理性において大きな開きがあるとは思いませんか?
記憶能力だって歴然たる差があり真に生きるうえで大切なするべきことがなんなのかを見極め、それ故人間は目的に向かって生きていけるんじゃないですか?

補足日時:2012/12/31 02:05
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哲学という割には、快楽の定義が曖昧です。

まずはそこからやり直しましょう。
ちなみに法華経には「衆生所遊樂」という言葉があります。この単語で検索すると、
創価学会系のサイトが多いですが、あそこも法華経関連だから自然と言えます。

「衆生(民衆)は遊び楽しむために生きる」という風に教えてもらいました。
ただ、それを継続するためには、快楽に耽ってしまうとだめなのです。
遊ぶためには働かなければいけない。原因があって結果がある。遊び楽しむ為の
原因を作っていかなければならない。例えば、薬物中毒で快楽を得られても、
身体にダメージが残れば結果的にはダメという事です。

逆に言えば、しんどくても苦難に負けない自分自身を形成できれば、極論だが、
人生の荒波を渡っていけるという事でもあるかもしれません。食事もバランスが
求められます。「楽あれば苦あり」結局はバランスの問題なのでしょう。
だから、快楽「だけ」ではダメなのだと思います。

この回答への補足

>哲学という割には、快楽の定義が曖昧です。まずはそこからやり直しましょう。

確かにそうです、失礼しました。出直してきます。

補足日時:2012/12/31 02:24
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この回答へのお礼

的を得た回答だと思います。
ありがとうございました

お礼日時:2012/12/31 01:53

>快楽はなぜ求めてはならないんですか?



 騙されてはいけません。自分が快楽を得るために、人に快楽を求めないようにするのが宗教です。

 私の崇拝する尊師は、信者達に禁欲を促し、自分は毎晩若い信者とセックスの快楽を楽しんでいました。

 男全員が禁欲になれば、女は全員俺のもの~~。

 おいしい肉を食べてはいけない、セックスしてはいけない、酒をのんではいけない・・・


 私も、道徳と倫理と禁欲を説きつつ、毎晩酒を呑み、おいしい肉と肴を食べ、少なくとも週に1度は援助交際の相手とセックスてます。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/31 02:25

仮に、真の人生の内にある目的から目を逸らさせるから快楽を求めてはならない、としましょう。




つまり人生の内にある目的とは、快も楽ももたらさないもの、ということになります。
この要件を満たさない(すなわち悦びが得られるような)目的であれば、
それは同時に快楽を求めることになってしまうためです。

いや、真の目的を達成したときに得られる悦びは質が違うのだ、というのであれば
快楽を追う心そのものを否定するのはおかしいし、
(そもそも人生の真の目的とは、達成していないからこその目的であるのですから)
同時に達成したときの悦びなどは、誰も経験したことが無い以上
他の快楽を否定する根拠としては成立しないのではないでしょうか。



どう思うか?うーん。

世の中にはムチでたたかれる苦痛を快楽と感じる方や、
苦痛と快楽、幸福と不幸を分離できない人もいるので
質問者さんのそれも良くある変態的性癖・・・じゃなかった思想でもあるかとは思うんですが、
それでも快楽を禁止することが、快や楽と感じてしまったときには
それは全く致命的な自己矛盾がおこるんじゃないかな?と思います。
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この回答へのお礼

>それでも快楽を禁止することが、快や楽と感じてしまったときには
>それは全く致命的な自己矛盾がおこるんじゃないかな?と思います。

うーん、まあそうですね・・
ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/31 02:34

快楽というのは通常、本能的な衝動を短絡的に発露


させて充足する場合を指します。
それに対して、そうした欲求を認識的過程に乗せて、
迂回させて発露させる場合を、幸福などと言います。
決して、欲求を抑圧するものではなく、意識という
キャンバスにおいて、より大きく発揮して、より大きな
充足感を可能にするものなのです。

快楽は生理的・短絡的・即物的であり、すぐ色あせたり、
時間経過において矛盾したりするものであり、それを
長期的に最大化するのが認識であり、その結果が
幸福感なのです。

生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の
最大化=生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生の
通算で最大」にコントロールする認識力×その達成度
×それを把握する認識力)であり、そこにおいて認識性
の発達は、単に成果の最大化だけでなく、その感受に
おいても関数を成す、最重要なファクターなのです。
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この回答へのお礼

最後の結論はすごい論理的と言うか数学的というか・・
理解までは到達できませんでした。

回答ありがとうございました!

お礼日時:2012/12/31 02:39

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