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・父 信虎の追放
・姉 嶺の死去
・長男 義信の自害
・弟 信繁の川中島戦死
・次女 黄梅院の死去
・次男 竜房の入滅


信玄が数多くの身内を失った中で一番悲しかったのはどれでしょうか?
またそれを表す資料などはあるのでしょうか?

A 回答 (2件)

戦国武将の「内心」を直接示す史料としては「武将が書いた手紙」くらいしかありません。

そのものずばりの内容の手紙が書かれて誰かに送られた確率は小さく、その手紙が500年も経って残っている確率は極めて小さいです。

ですので、ご質問に対しては「信玄が身内を失った時の状況」から判断するしかありません。そう考えると、

(1) 一番ショックが大きかったのは「信繁の戦死」でしょう。

信繁は「左馬助」の官途名を名乗っており、その唐名の「典厩」として史料に登場します。様々な史料から、信繁が兄の信玄を誠心誠意補佐していて、その功績が大きかったことが知られております。

「川中島の合戦」については、確かな史料では合戦の詳細は全く分からないのですが、川中島で武田軍と上杉軍が激しく戦い、信繁が戦死したのは間違いない史実とされています。

この時代、一方の軍が「総崩れ」になり、退却の過程で追撃を受けない限り、「侍大将」クラスの武将が討ち取られることは滅多にありません。主将である信玄の弟として有力な部隊を率いていたはずの信繁が上杉軍に討ち取られたのは、先述のように詳細は不明ですが、よほど大変な戦況の中、もしかすると武田軍が総崩れになる寸前の状況だったのでは、と推定出来ます。

武田軍が総崩れになれば、信繁以外の有力な武田の武将が討ち死にしたでしょうから、総崩れは避けられたのでしょう。すると、「信繁の、自らを犠牲にした奮戦で、武田軍は敗北を免れたのではないか?」という推定が成立するように思います。
(こう言うことを書いてある本を読んだことはありません。私の考えです)

そう考えますと、自分を誠心誠意補佐してくれ、武田軍の壊滅の危機を救ってくれた信繁の死を、信玄が深く悲しんだことが容易に想像出来ます。信玄は「これから自分は誰を頼みとすれば良いのか」と嘆いたでしょう。

(2) 次にショックが大きかったのは、北条氏政に嫁いで、同盟消滅により甲斐に戻った黄梅院の死去でしょう。
当時、女性が出産の時に死ぬリスクはかなり高く、避けられないことでした。信玄の最初の正室(扇谷上杉家の姫)は、出産の時に母子ともに亡くなっています。ですが、黄梅院は、そのように亡くなったのではありません。
氏政との間に嫡男の氏直ほかの子を産んだ(氏政との夫婦仲は良かったと思われます。氏政は、後に黄梅院の遺骨を分骨し、小田原の寺に塔頭を建立して菩提を弔っており、これは愛情の深さの証拠でしょう)後に、武田家と北条家が断交したことにより、離縁されて甲斐に戻されました。この離縁は、シンプルに言えば「信玄のせい」です。信玄は、黄梅院に対して「甲斐のためとはいえ、氏政殿との仲を裂く結果になってしまい、済まないことをした」という思いがあったでしょう。
その後、黄梅院は、甲斐に戻って1年ばかりで、若くして死去しました。信玄は、娘の菩提を弔うために「黄梅院」という寺をわざわざ新設し、寺を維持するために領地を与えております。
信玄は、自分の生前に死去した、母の大井夫人、正室の三条夫人、勝頼を生んだ諏訪夫人などのためにわざわざ菩提寺を建てたりはしていません。黄梅院についてはそれをやったのですから、「信玄の悲しみの深さ」がはっきり分かります。

(3) 他について。
「姉 嶺の死去」というのは、今川義元に嫁いだ女性のことでしょうか?こちらについては、身内が死去した、という以上の悲しみはなかったでしょう。
信虎を追放したのは、信玄の自らの行動です。信玄は、信虎の駿河での生活費を仕送りしていたようですので、それで十分と考えていたでしょう。
義信が死去(信玄に自害を命じられた可能性が高い)のも、信玄の意志によるものです。義信は、信玄に対するクーデターを企てたとされますので、これもやむを得ないでしょう。
「次男 竜房の入滅」ですが、信玄の次男で、生まれつき盲目であり、仏門に入った竜芳は、武田家が滅亡する時に甲府で織田軍に殺害されています。信玄が死去した後の話です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/06/07 06:39

黄梅院(雪姫?、長女のようですーWIKIや他の資料より)


の死に際してだと思います。

最愛の娘を和睦のためとはいえ、先日までの敵の領主の
息子に嫁がせるのです。

どんな苦労が待ち受けているか、見送りに流石の信玄も
涙したと思います。
その婚礼行列の素晴らしさは「妙法寺記」に詳しく書かれて
います。

その後妊娠に際し信玄は富士浅間神社に安産祈祷文を
奉納し残っています。
いかに信玄が雪姫を愛していたか判ります。

無事北条氏直を出産し、幸せでしたがやがて武田北条
お手切れになり、離婚され甲斐に返されます。
愛児も奪われ鬱々として若くして亡くなりました。

愛する娘にこんな思いをさせて信玄の胸の内は如何。

長男や弟の死もありましたが男の世の習い、胸に納めて
弱い顔は見せられないでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
黄梅院はずっと次女だと思っていました
長女は見松院だと…

やはり若くして亡くなった娘の死が一番悲しいでしょうかね

お礼日時:2013/06/07 06:39

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