アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

「意味」について思うところを教えてください。

私は
「始めるにせよ、止めるにせよ、行動に変化をもたらし得るもの」です。

A 回答 (11件中1~10件)

こんばんは alterd1953 様


こういう のは いかん の かも しれませんが … 不安に 駆られつつ
アンビバレント の ほうへ 取り急ぎ 書き込んで 居りました 処、
如何にか 書き 終えた 積りに なった 処で 締切りと なって いた
ことが 判り … 初めの ほうに 書いて 居ります ように、 此方にも …
と 思い、 頭を 絞って 居りました 処、 早 こんなに 月日が 経ち …
此方も 最早 危な そう なので … 全て 妄言 寝言の 類 では あり
ますが … 何とか お許し いただき 読み 解いて いただければ、
身に 余る 幸い と 存じ … では … アンビバレント および 絵画
による 記述 (という ことの 意味) に ついて、 そして (意味
を) 理解する という ことに ついて … 書いて みないと 考えが
纏らない くち という ことも あり … 先だっては 当該 の 御 作品
と 全く 勝手な 関係の ない こと ばかり 書き 連ね、 たいへん
失礼 申し上げて しまい ましたが …、此方の、 意味 に ついて
の 御 問掛け の ほうも ずっと 気に なっており … かの 作品で
採り上げ られて おられました アンビバレントな (邂逅を 含む …)
家 という テーマは、 正しく カポーティが 言われた 処の、 同じ
家に 生まれ 育ち (同じ 人類 〔の 同 時代の 同国 人で 共通する
部分も 少なくない 出自や 経歴を 伴った …〕) 一人は 表から 出て、
一人は 裏から 出た、 という 譬えを 端的に 包含され 表されて
居られる と 存じます … ただ、真に 太極を なし 得る ような、
補完 的な アンビバレントな 邂逅 である ならば、 出逢った 時点で
双方が その ような 存在 である という ことが 判り、 互いを ほぼ
一瞬の 裡に 理解 できる … か、 理解しようと どうしようも なく
惹きつけ られる … 非常な 葛藤は あり 得る ものの … 更には その
ような 場合には、 社会的な 極めて 一面的な 勝者 敗者 的な 立場が
伴われる ことも 多い 筈で 一層 葛藤は 大きく なり 得 … ともあれ …
カポーティの 理解は 全くの 一方 通行 であり … それ故 その 理解
が 何の 調和も 合一も 昇華も 解決も もたらさず … カポーティの
ストレスは 如何 許りか とも 慮られますが … 真理は 知れば よい
という もの では ない ように … むしろ そういう ふうには
たらされない の では ないか … 素数 等 の 謎に 挑まれる 優れた
数学者の かたがたが 心の 病に 侵される ことも しばしば である
のは、 その 真理の 測り知れない 重さが 生命の 遺伝子に 組込まれた
アポトーシスを 発動させる ように 働く から では …
善と 悪は 補完 しない … 光と 翳は 補完する … 例えば 善の 中でも
正義の ように 強く 輝き 亘って 悪 (非善・不正 …) を 消滅させる
もの と、 慈愛 (慈悲) の ように そっと 包み 込んで 悪 (憎悪・
残酷・無慈悲) を 融解 蒸散させる もの が アンビバレントな 相関
関係に ある と いえる ので あって、 補完し 合い つつ 一つに なり
且つ 内側では 隈なく 触れ 合い ながら、 外側に おいては 孤立し
完結して 在り、 初め から 互いの 芽を 内に 包み 込み つつ、
外からは 窺い 知る ことは できない ような … なので、 悪の 中に
その ような 関係の ものが もし あった として、 互いに 惹き 寄せ
られた と しても 悪は それが それ だけで 一番で なければ ならず
自身と 矛盾したり、 弱味と なる ような ものは 争い 排除しよう と
する … なので 合一 できれば 最強と なる もの であっても 何れか
が 相手を 呑み 込む 形を 取ろう と する ので、 合一 できず 互いに
敗れ (消滅す) る まで 拮抗した まま 身動きが 取れなく なる …
と その ように 理解して います … というか 願って いる というか …
例えば 自分の 子 だと 主張し 合う 二人の 母親が 子供の 手を
引っ張り 合って、 子供が 苦しむ のを 見て、 思わず 手を 放す ほうと、
何と しても 手を 放さなかった ほうが、 DNA 鑑定 が どんな 結果 で
あれ、 前者が 善で 母親 なので あり、 後者が 悪で 如何なる 意味に
おいても 母親では ない のだ と … ここで (対極 で なく …) 太極を
なして いる のは、 この 裁きを 行った 正義 であって、 子供の 生命を
危機に さらし、 且つ 意固地に なったり 我を 忘れる といった 母親の
愚かさを 度外視 して いる、 というか 情状 酌量 しても いない、
強靭で 明確な 信念 という 形での 善で、 母親の、 手を 放して 子供の
生命を 救おうと した、 弱い というか 負ける ことで 勝つ ような 慈愛
の 善と 補完 関係に ある … なので 当該の 御 作品が アンビバレント
住宅 である ならば、 聖 パウロ を 晩年に なって 探しに 行った
聖 アントニウス が、 旅路の 果てに 見出した、 鏡の 内とは 異なる
相貌の 裡に、 互いの 目の 中に 同じ 長く 孤独な 苦難に 満ちた 気高き
生涯と 揺るがぬ 信念を 一瞬の 裡に 見出して、 深い 尊敬の 念に 打たれ、
(且つ この 時 初めて 気づいた かも しれない) 限りなく 孤独 だった
互いの 裡に 兄弟の ような 親しみを 感じて 思わず 同時に 手を 差し 伸べ
合い、 抱擁し 合った 邂逅が、 光子や 電子が 二つに 分かれて 何処までも
飛び 続け、 いつか 再び 同じ (ような) ものと ぶつかり 合って 消える
ように … この テーマの 裡に 包含され 内在して いる の では と …
また 芸術家は やはり 描き ながら、 描く ことを 通じて 思考 される
ので、 後から その 思考を 辿ろう と すると、 どうしても その イメージ
や 筆 遣いを、 他者に よる まどろっこしく 不適切 且つ 不充分な うえに
未熟で 不可能な 分析を 行おうと する おこがましさが 鼻に つく 言葉に
置き 換えて みざるを 得ません … しかしながら ほんとうに その ような
意味が そこに 描かれて いる ならば、 どんな 古ぼけ 壊れ かけた 楽器
でも モーツァルト の 譜面を 正しく 読める ものが 弾けば、 その 旋律
は 甦る 如くに して、 全く 偶然 ながらも 古今 東西の 芸術 作品に
おいて すら 同様な 造形 思考が 窺われる ことが あり、 神は 細部に 宿る
という ことが、 自ずと 顕れて くる ような 至高の 形や 時が 流れ
生じて いる のに 出逢える ような 気が する の です …

この回答への補足

そろそろ締め切らせて頂きます。

沢山の興味深いご回答を頂けました。

皆様、ご回答ありがとうございました。

補足日時:2013/08/18 05:41
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この回答へのお礼

どうもです(笑)

ちょうど、今、運営さんから「もう2週間ですよ」の連絡を貰ったところです(笑)

私ごときが「芸術家」だなんて夢にも思ってはおりませんが
描きながら考えるというのは当たっています。
仰るように思考のツールになりますね。

他所の投稿の繰り返しになりますが、ヴィトゲンシュタインは
「命題は現実の絵である。その絵を他者が理解出来るのは
 論理形式を共有しているからだ。
 しかし、その論理形式を再び絵として描くことは出来ない」と
言っていますが
私は、それこそヴィトゲンシュタインが言う
「語り得ないもの」だと思っています。

ですので、私の拙いイラストも、当然、論理形式そのものは語れないないわけですが
何とか何かを語ろうとしているのは事実だと思います。
一体、それは何なのか?
恐らく、重箱の隅をつつくような事なのだと思います。
しかし、私に、それ以外出来ることがあるでしょうか?

後、「善」については、一応、私の中で決着が着いています。
それは「仲間を助けること」です。
当然、その逆が悪になります。

但し、世界には「右翼と左翼」「保守と革新」のように
恐らく、決して相入れないであろう様々な勢力があります。
それらは、詰まる所、持って生まれた気質に基づくものだと思いますので
いくら議論しても平行線だろうと思います。

そして「社会主義」が機能しないことが分かってしまい
「資本主義」が格差拡大への道をひた走っている世界で
私が唯一希望を持てるものは「価値観を共有した共同体」のみです。
私にとっての「善」は、その中にあります。

そこで、「コリント人への書」からの次の文が私の胸を打ちます。

「今われらは鏡もて見るごとく見るところ朧なり。
 されど、かの時には顔を合わせて相見ん」

お礼日時:2013/08/18 05:37

こんにちは。

論理実証主義では、
「形而上学的命題は、真偽が問題になる以前に検証不可能であるゆえ無意味なのである。」ので、
人生自体は無目的、無意味。としてますね。それに対してはその後、ポパー等から補足や反論あるようです。
論理学的には無意味な死、と言うのは当たり前の事でしょうね。それはさておき、
戦死者の意義については、作戦上の事ならば有意義でしょう。日本帝国に大義は有りました。南方戦線は欧米植民地解放戦争で、あれを機会に独立できて、感謝してる国は結構有ります、フィリピンは別だけど。又、本音は南方の資源と利権でしたが、。
でも兵士は大義を胸に戦いました、それは無駄死にでは無いでしょう。
しかし終戦年、既に戦局決して軍内部でも早期講和が叫ばれてるのに、武器も食糧補給も無しに行軍させられた方々、叔父はニューギニアでは戦ってません!只歩かされ、飢え死にです。無駄死にですね。本人には気の毒でそうは言えませんが、さりとて美化されて嘘で塗り固められるのも、不本意なはずです。事実だけ伝えて欲しいのでは? 中には敵前逃亡と決め付けられ上官に射殺された方もいました。水木しげる様も危なかったよ。
特攻など、華々しければ未だ納得も出来ましょうが、あれも殆ど不発だし、陸軍内でも「外道の作戦。」と言われてましたね。
あれらの死を「有意義だ。無駄死にでは無い!」と言う遺族もいます、私も気持ちは解ります。 でもその事で、あの作戦も正しかった、あの戦争全ても正しかった!と二者択一で短絡する方も居て、これは当惑する。英霊も不本意だと思います。
無意味な死かどうか?の判断には、その命題のメタレベルの審級がどうして要請されます。つまりは捨てられた形而上学や信仰など、。戦後その検証はできてません。両陣営で言い合うだけ! それが英霊を冒瀆してると思います。 彼らの相反する複雑な思いを汲んで検証し、その後の未来と希望社会を策定する事こそ後世の私達に願い望まれて居られるでしょうよ。 例えば貴方やカントが言って居られる「世界連邦」。今の国連は戦勝国の只のUnitedですからね。だからイスラエルの横暴には何もしない、欧米は其々脛に傷ある身ですので。 世界政治的にも、一つ上の審級は要請されますね。 それが最終の善、だとは思いませんが、私達世代はせめてその道筋ぐらいは示すのが、前の世代から受け継いだ課題ですね。
追記ーウィキの論理哲学論考の処では、「絵」ではなく「像(image」と訳されてるようです。言葉では言葉を語れない、言語ゲームのルールですか? メタレベルがオブジェクトレベルに降りてきてしまう、ゲーデル的問題。論理形式それ自体もやはり語り得無い事だと書いて有りました。語れないのは色々あるようです。 尚私、数量論理学は苦手でラッセル、ヴィトゲンシュタインは挫折です、お任せします。ドゥルーズもホワイトヘッドはよく言及するので私もそちらの方です。が未だ未読です、アラ!トートロジーかよ?笑) では。
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この回答へのお礼

どうもです(笑)

また手応え十分のご回答ありがとうございます。

論理実証主義についてですが

「形而上学的命題は、真偽が問題になる以前に検証不可能であるゆえ無意味なのである。」の中に
くどいようですが
「不可能であるゆえ」と「無意味である」との間に「検証しようとすることは」と
入れれば正しいと思います。

しかし「人生自体は無目的、無意味。」については
一般論ならともかく、私個人に関しては「目的」と「意味」に満ちていますので
到底承服出来ません。
そういう風に外部から決めつけることはまた別の話ですけどね。
でも、そんな人とは付き合わないだけの話ですし
私にとってもそんな人達は居ないも同然です。

さて、無謀な作戦によって戦わずして無念の死を遂げられた方々について
私のような戦後のうのうと生きてこられた人間が
おいそれと語れるものではありません。
ただ、唯一、想像出来るのは、いかなる死であっても
結局は個々人の意識の持ち方に帰されるのではないかと思います。

そして、現在、生きている人間が、いかに歴史から学ぶかしかないのだと思います。

後、数量論理学についてですが
現在のところ、私にとって、ラッセルの「ロジカル・タイプ理論」と「記述理論」
は非常の役に立っています。
しかし、ヴィトゲンシュタインは「記述理論」はともかく
「ロジカル・タイプ」はどうも不必要と一蹴しているようなのです。

ですので、ゲーデルの「不完全性定理」と並んで
そこら辺りの事情を理解することが大きな目標です。

なんか、途中で遭難しそうな気配が濃厚ですけどね(笑)

ではまた(笑)

お礼日時:2013/08/15 19:44

お礼をどうも。

関連でお答えします。
論理学では、命題の意義には「Sense 」を使用してるようで、普通の「意義」にはsignificance,「意味」にはmeaning,、混乱するので日本語で行きます。
ヴィトゲンシュタインはウィキによるとどうも、「語り得ないもの」は歴史上の哲学概念「自由意志とか真善美、、」等としてるようです。私はカントの物自体とかだと捉えてます。だから証明出来ない事として定言命題として定立したのでは?
自由意志や、思惟と延長:観念と物質以外のものは、スピノザも知り得ない事として語らず、先行してますね。
「命題は現実の絵である。、、」絵、がpictureなのかimageなのか?ドイツ語でも絵の訳語沢山有って、それにより意味変わるので「論理形式」の事なのかは一寸解りません、哲学書は誤訳の可能性も有りますから、。
本能が壊れた、、は正しい本能が有る事を前提モデルにしてる点で既に間違いです。欠如によってではなく、過剰な欲動によって進化発展してきたのよ、とスピノドゥルーズ言ってます。欠如;たとえ片腕でも、それは「小さな完全性であり、欠如ではない」大小が有るだけ!水木しげる様が良い例。でも岸田氏もオモロい人ではあるよ、。
さて本題、意義についてです。戦争末期既に戦局は決してるのに無謀な作戦で死んでいった日本兵、海軍左派三羽烏は「無駄死に止めよう」と奔走したけど力及ばず、。私叔父もニューギニアで飢え死に。軍事的に意味無い作戦、。これについて戦後遺族は、無意味な死かどうか?で意見対立して来た。どうでしょう?
今日は他の音楽の質問と、サッカー試合有るので(笑)、スミマセン又にします。
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この回答へのお礼

どうもです(笑)

意味、意義、については私には判然としません。
ただ、「義」は正義とか大義に使いますので
漠然と規範に通じるイメージはあるかもしれません。

「語り得ないもの」が自由意志とか真善美というのは面白いです。
人間の根源的な衝動や理想の大元を語り得ないと言うのならそうかもしれませんね。

物自体については、竹田 青嗣さんの「現象学入門」で
フッサールが物自体は存在しないと言ったことに一応の納得を得られました。

思惟と延長についてはまだその概念を掴んでません。

>本能が壊れた、、は正しい本能が有る事を前提モデルにしてる点で既に間違いです。

やっぱりそうですよね。
岸田さんは私もどちらかというと好きなんですが
ここは納得いきませんでした。

>過剰な欲動によって進化発展してきたのよ

そこはそうでしょうね。
都会のカラスなんか、メシの心配が無くなると
とたんに遊び出すらしいですからね。

>無意味な死かどうか?で意見対立して来た。どうでしょう?

ここは非常に難しいですね。
要は、あの戦争が侵略戦争だったのかがポイントでしょうね。
大義のある戦争なら、単なる戦略ミスであって「無駄死に」では無いでしょう。
ただ、侵略戦争だったとしても、亡くなった方を「無駄死に」とは言いたくないですけどね。
大きく言えば、国家が成長する為の礎になられた訳ですから。

ではまた。

お礼日時:2013/08/14 23:03

なんとなくですが、自分は反映だと思います。



意味はその影響を受けてはじめて意味となるような気がします。
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この回答へのお礼

なるほど。
外部からにせよ内部からにせよ常に反映はあると思います。
そこで初めて意味が生じるということですね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/08/14 07:53

今日は。

補足遅れて御免なさい。PCダウンして居り、人のiPad借りて打ってます。
NonSens無方向は、方向ゼロと、無限の方向有って選択不能とがあり、夫々スキゾフレニの症状型に対応します。確か文明や、最初から本能の狂った人間存在について言われてたかと、。蜜蜂のダンス方向や帰巣本能が狂うように文明も狂ってしまうと言う、。
やはり嘘でも良いからSens;イデア,イデオロギーを! と言う事でしょうか? 国際連盟や日本国憲法が、カントの「恒久平和の為に」をもとに、瓢箪から駒のように出現してしまう!と言う「歴史理性の狡知(ヘーゲル」、統御的理念(カント柄谷)が、人間社会には必要なのでしょう。パンのみに生きちゃってるからね、冷戦集結後は。 まさに意味無い人生を歩まされちまうぞ! です。
その理念は個人にも必要なんですね、ウィキで【人生の意義】に哲学における諸見解、が出てますが、夫々哲学の限界域を策定しながら、つまるところ証明出来ない事項は前提にしてるようです。信仰。定言命題。ニヒリズム乗り越えの超人志向、。
ニーチェやドゥルーズを、価値相対主義として避難する西部のような人はトンデモナイ誤読ですね。ジルのスピノザ本はまさに価値の体系エチカの最優な解説です。
「生きる目的は?人は 何の為に、。人生とは? 貴方にとってサッカーとは?」等の馬鹿げた質問、それ自体を廃棄して、真の問題を炙り出したヴィトゲンシュタイン、でも最後まで信仰は捨ててないですね。
「語り得ぬ事については沈黙せねばならない」,でも哲学者以外が語ってしまうんです。宗教家、科学者。暗黒物質エネルギー等まさに語り得ない物事でしょうか? Critical哲学こそそれらを批評しないと危ないんです。現象学は語り得ない事を「」に入れて還元Reductionして見ないフリしてモデル作りましたが、その後ハイデッカー西田、ベルクソンは語ってしまった。
「存在の開け」とか「イマージュとかエランVital」とかの危うい領域を。宗教ファシズムにも繋がる、。
ですからそれへの批判も込めて、ポスト構造主義は問題引き継いだです。器官無き身体なども危ういですから。
でも誰かが開けてしまったパンドラの箱なのでしょうがない。語らないのも怠慢です、柄谷氏は「怪力乱心を語らず」孔子の言葉で神秘主義批判しますが今や如何なものか? 倫理的意図は良いのですが、。
これら全て、人生の意味意義価値に関わる根幹、信仰に関してなので、知識人は避けて通れないはずです。
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この回答へのお礼

どうもです(笑)

iPadで打つのは面倒じゃないですか?

「方向」については、どちらかというと無限の方を取りたいです。
しかし、そこには自ずと趣味が介在してますので
あくまで自分に合ったのを選びたいです。

いきなり話が飛んじゃいますが
素粒子はその都度飛ぶ方向を予言出来ないらしいですが
それは、ギリシャの哲学者が
「同じ川に二度入ることは出来ない」と言ったように
世界がその都度更新されているからではないかと思ってます。
ですので私はあくまで自分の方向へ歩みたいと願ってます。
私の世界も日々変わっているからです。

で、ヴィトゲンシュタインなんですが
「命題は現実の絵である。
その絵を他者が理解出来るのは
論理形式を共有しているからである。
しかし、その論理形式を再び絵として描くことは出来ない」
と言っていますので
「語り得ない」ものは、恐らく「論理形式」なんだろうと思っています。
そこは、とりあえず、納得感を得てはいるんですが
例えば、岸田 秀の言うような
「人間は本能が壊れている。
だからその替わりに文化を作り出した」
というような言説には全く納得が行きません。
私は「じゃあ、その本能の替わりを必要としたのは
一体全体何なのか?」と問いたいです。
そこで「人間」と答えれば、それこそ「ナンセンス」だと思います。

とまぁ、かなりきわどい地点まで来てしまいましたが
早い話が、私が目指す方向は
いくら「お花畑」と言われようが
政治的には「世界連邦」の方向であり
学問的には
例えば、数学で最初「マイナス」や「虚数」の概念が否定されていたり
生物学では「進化論」が否定されたり
宇宙論では「ビッグ・バン」が否定されたりしていますが
それらを包含する方向が正しいのだろうと思っています。
そして、芸術では
ジャズに限っても「ニューオーリンズ」から「フュージョン」へと変遷して来た
方向性こそ正しいのであって
要は全てのものを飲み込んで発展して行く方向を愛します。

宗教の関しては
「弱者を含めた全ての人間に尊厳がある」という考えに帰結するのではないかと考えています。
もし、そうでないのなら、宗教は私に取って何の意味もありません。

私に取って重要であるのは
その人が「この世は弱肉強食」と考えるのか
「助け合い」と考えるのかです。

最後に、今の世界を考える時に、私に取って重要であるのは
独裁を許容するのか、民主主義を取るのかです。
中国共産党は独裁的ですし、イスラム原理主義者等もそうだと思います。
ただ、ドゥルーズがいみじくも言っているように
「服従を求める民衆が、他の者にも服従を強いるという
ありふれた、あのおぞましい現実」があるわけで
容易に乗り越えられることではないと思っています。

ですので、私に出来ることは、可能な限り助け合い、民主的であり
かつ、進歩的な人間であり続けることだけです。

ではまた(笑)

お礼日時:2013/08/12 18:16

人間の、或いは人生の意味を求める『意思』つまり『自分自身の存在の意味を求める意思』がその究極の意味と思います。



フランクルによると、人間は生きる意味を求める存在として、自分の『実存』から常に自分自身が問われている『存在』としています。

言い換えるなら、自分が自分の人生の意味を求める存在としてではなくて、人生や自分自身から『逆な言い方をするなら』生きる意味を『問われている存在』としています。

つまり『生きがいを』意味への意思として『問われている存在』が人間の『意味を求める理由』ということになります。
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この回答へのお礼

なるほど。
自分の存在の意味を常に深い所から問われている感覚はありますね。

フランクルは長い間「夜と霧」を読めないでいましたが
NHKの「100分de名著」という番組で取り上げてくれ
非常に感銘を受けました。
特に、あの極限状況で、仲間のユダヤ人を殴る悪魔のような人間もいれば
少ないパンを分け与える天使のような人間もいて
「人間の態度を選ぶ自由は誰にも奪えない」という言葉に深く考えさせられました。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/08/11 06:46

意味とは存在のことではないでしょうか、

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この回答へのお礼

なるほど。
そこまで行きますか。
でも確かに「意味が無い」と「存在しない」は同義のようにも思えます。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/08/07 05:40

 今晩は。

「意味」と言うと、フランス語で
「Sensサンス」か「Significationシニフィカシオン」
辞書でSensの第一義には「方向」も有りますね。「Non-sensノンサンス」は無論ナンセンス、でも<方向無し>も含意してて、例えば蜜蜂が巣で踊るダンスには決まりが有るそうですが、羽をむしるだか忘れましたけど何か操作すると、運動の方向が狂うとか、。<出口無し>それが精神面で言われると<何かが狂う>事も含意されるようです。狂うとinsane.
★メルロ=ポンティの"Sens et non-sens" 『意味と無意味』 意味は無い処には無い! 所謂ナンセンスには意味大有りなので、ノンサンスではない!と言う事か知らん?
★ドゥルーズの「意味の論理学」~これは不思議の国のアリスの、表層しか無い言葉のサンスとナンセンスの分析で面白かったです、が忘れました(笑)。
サッカーで<Bon良いパス・センスしてるね、>と言うと、自ずから<良い方向を持ってる>を含意、「pluriel sensが有る」だと<複数のパスセンス方向を持ってる>、これはパサーとして最重要ですね。
主様の、<行動に変化>を齎す「意味>も「行き・動く」方向!と捉えれば、
「意味」はその契機となる、ベクトルのようなモノでしょうか。方向と、量はその動機の強さ、かな?
無論その「意味」は、意味の網目の中でこそ、自己の意味を確定して方向を見出すのでしょう。 
 などと、適当な難しい事言って(笑)、シロート哲学ですから。真に受けないで下さい。
Signifie,Signifiantはソシュール言語学でどうぞ、これも忘れましたスイマセン。
意味ではなく意義については、又の機会に、。 では 。
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この回答へのお礼

どうもです(笑)

「方向性」大事ですね。
私が敬愛する開高健は「漂えど沈まず」って言ってましたが
方向性が無いので納得出来ませんでした。
まぁ、開高御大も「資本主義」と「社会主義」に関しては
結論が出なかったみたいですが
何とか、最後には「自然保護」には向かいましたけどね。

メルロ・ポンティも避けて通れないみたいですね。

ドゥルーズは、たまたま、今日、図書館で
「顔はすでにパロールの代弁者になっている」なんて
カッコイイフレーズを見つけたところです。

ソシュールは、入門書ではありますが、何度か読んではいますし
名の恣意性と、「山」は「川」でないことによって意味を持つというような
ラングの網の目は分かるように思うんですが
「共時態」やら「通時態」になると途端に怪しくなります。

「意義」に関しては
ちょうど、今、「論理哲学論考」で触れているところがあって
「命題の意義は命題の真偽に左右されない」なんてのは
あっさり頭に入って来るんですが
「恒真命題と矛盾命題は無意義である」となると怪しいです。
多分「トートロジー」と同じことなんだろうなと当たりはつけてますが。

ではまた(笑)

お礼日時:2013/08/06 22:31

その人の言動のバックボーンや根源に触れる「何か」だと思います。



肯定にせよ否定にせよ、その人がそれに何の意味を見出すのかが鍵であり
その意味が意識上にあろうがなかろうが、どこかに持ちえる自分なりの意味として
自己の言動の判断基準として持つもの。
ゆえに個人の言動に大きな影響を与えるもの。

私が捉えてる形は、そんな感じですね。
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この回答へのお礼

何か、その人の「哲学」も越えて
本能的な性質まで遡る感じですね。
いずれにせよ、存在の深いところまで通じているようですね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/08/06 15:08

関係からもたらされる価値のことだと思います。

それゆえ関係性のとりかたによって変容するでしょう。
言語や記号の場合は、関係性のルールが網の目のようにモノやコトを繋ぎ留めあっています。
それらを対象化しうるということは、意味が獲得されるということではないでしょうか。
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この回答へのお礼

関係性もまた価値観によって変化しますね。
仰る通り「対象化しうる」かどうかがポイントだと思います。
下世話に言ってしまえば価値観の網に掛らない存在は
「眼中に無い」ですからね。
それを敷衍すれば、何かを覚えているだけで
少なくとも無意識レベルでは「意味」があったということなんでしょうね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/08/04 16:11

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