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私はカトリックの信者ですが、近年カトリックでは、自死者や遺族に対しての対応が昔と著しく変化してきています。元々、「自殺は他殺と同様、生命をないがしろにし、神を冒涜する行為である。」と言う理由で大罪と位置付け、自殺者の葬儀は受け付けず、公然と差別してきましたが、近年は、自殺に至った事情や精神状況も勘案し、「審判者」たりうるのは神のみであって、人間が自殺者を裁くのは当たらない、という考えの下、自殺者の葬儀も行い、遺族に対してもサポートの手を差し伸べています。

しかし、そのような対応の変化に拘らず、やはり根底に流れている思想は、「自殺者は救われない」というものであり、決して自殺を肯定するものではないことは言うまでもありません。

そこで改めて疑問なのは、キリスト教(カトリックとプロテスタントなど)にかかわらず、他の仏教、神道などの宗教家は、自殺(自死)をどう捉えているのかということです。

勿論、自殺(自死)を肯定している宗教は存在しないと思われますが、
1)彼らは救われないと思っているのでしょうか?
2)自殺の防止や遺族のサポートなどのため、何かなさっていることはありますか?
3)葬儀や法要は普通にやってあげていますか?

又、
4)私の前問「よくも自殺をする勇気があるなと感心しちゃいます!」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8235185.html
のやりとりを読んで、何かコメントがあればご教示ください。

A 回答 (3件)

カトリックのお方とのことですので、日本仏教に関して僅かばかりの知識を披露させて下さい。



仏教では、死に方をあまり問題とはしません。
死後のことに関しても、お釈迦さまは生前に弟子に聞かれて知らないと言い切っています。
死後の世界を云々するようになったのは、後の時代と考えられているようです。

死そのものも一つの苦と考えていました。四苦八苦という言葉を御存知ですね。
四苦は、生・老・病・死の四つを人が避けることのできない苦としました。
この苦から逃れる方法を色々議論して、結果として色々な宗派が生まれました。
共通しているのは、執着(「しゅうじゃく」と読みます)を取り除くということが主眼です。

自殺のことは、自裁、自害、自決と呼び、自殺や自死は比較的新しい言葉です。
字を見ての通りで自分で死を決めるというニアンスです。

仏教では輪廻転生という考え方があり、何度でも生まれ変わります。
インドでは今でもこの考え方が徹底していてお墓というものがありません。
お骨はガンジス川へ流して、ハイおしまい!です。
この輪廻から超越した世界の人を仏と呼びました。
即ちキリスト教的に言うと永遠の命を持つ人と言うことになります。

仏教の中の宗派で密教と呼ばれるものがありますが、
この密教では生きながら仏となることを願って、地中へ穴を掘りそこへ籠もってお経を唱えながら餓死しました。
この遺体を掘り出してミイラ化させ、即身仏として拝みました。
今でも京都に一体あるようですが新潟以北の日本海側に多く残っています。
(エジプトのミイラとは制作動機が全くことなります)

禅宗では修行によって仏と同じ悟りの境地に達して、生きながら仏と同じ人格になるという考えがあって、死んでも生きていても一向に差支えのない境地とされました。

このような背景から、自決の手段である「切腹」は名誉ある処刑とされました。
当然、埋葬葬儀は親族の手で丁重に行われました。
品川の泉岳寺には御承知の通り切腹した四十七士が葬られていて今もお参りする人が絶えません。
明治天皇が崩御された時に、乃木希典夫婦が自決したのが称賛され今も乃木神社として祀られています。
この延長線上に神風特攻隊があり、米兵にとっては武器としての恐怖よりも、神を恐れぬ悪魔のように思われてパニックになりました。

ただし、むやみに自害を認めた訳ではなく、残された親族に深い悲しみを与える行為として強く戒められました。
しかし、男女が心中したことがお芝居の種になるほどでした「心中天網島」、余り流行するので幕府は手を焼いて徹底的に取り締まり、死骸は市中で晒し者にし、万が一生き残った場合も、もっとも人通りの多い場所へ縛り上げて座らせて晒し者としました。(これを江戸っ子はわざわざ見物にいきました)どちらかが生き残れば晒した後で即刻処刑しました。

大分キリスト教圏とは意識が異なることがお判りいただけましたでしょうか。
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この回答へのお礼

仏教の自殺に対する考え方をわかりやすく述べて頂き、有難うございます。
私も仏教に大変親しみを感じており、参禅や読経の経験もあり、且つ、多くの宗教を横断的に理解したいという気持ちが非常に強いので、ご回答からキリスト教圏との考え方の違いがよくわかったことで、益々双方の文化に親しみが沸き、よかったです。

なるほど、仏教では、死に方をあまり問題とはしないこと。
生・老・病・死の「四苦」を人が避けることのできない苦とし、
苦から逃れる方法として、執着を取り除くということを主眼としたこと。
輪廻転生によって何度でも生まれ変わるが、
この輪廻から超越した世界の人を仏と呼び、
そうした「解脱」を図るために、生きながら食を絶って即身仏になるというようなこともしたこと。
当時の「武士道」とも融合し、切腹や心中といった一種の「自殺」も容認したこと、
その延長上に「神風特攻隊」のような「己を殺して、社会に尽くす」ような「無私」の精神があったのでしょうか?
ただし、むやみに自害を認めた訳ではなく、残された親族に深い悲しみを与える行為として強く戒められたこと。

総合的に考えて、仏教とキリスト教では、その信仰感は大きく異なっていると思われますね。
キリスト教が、一神教の神に向かう信仰であるのに対し、仏教は、誰でも、生きながらでも仏になれるので、そのための修行をしていこう、という考えが伺えますね。

お礼日時:2013/09/16 14:55

 もっともっと幅広く勉強してください、体得してください、心理学(特に臨床心理学)



精神医学、仏教他の学問、宗教を勉強し、そして貴方の信仰対象のカトリックに立ち戻り

本質に触れてください、

言葉、教学だけに目を向けていたら、本質は観えません。立派なキリスト教者になられる事

願っています。   幅広い視野に立ちましょう
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この回答へのお礼

前の質問に続いて回答頂き、有難うございました。
私は、キリスト教以外にも、仏教(特に禅と密教)、その他の宗教全般、心理学などにも深い関心があり、色々勉強中ですが、この分野は非常に奥が深く、まだまだ勉強には時間がかかりそうです。
表面的にではなく、もっと深く神と人間、そして社会を知るために、今後も続けていきたいと思います。

お礼日時:2013/09/16 14:59

私は、今現在かなり忙しい身なのですが、哲学(実人生の体験からの哲学です)からの宗教改革が今の情報社会にこそ必要と考えている者なので、急ぎ、回答させていただきたいと思います。



カトリックのイメージですが(詳しいことは知らないので)、昔は暗黒時代以後(ルネッサンス以後)にも、かなり暗いイメージの規則もありましたよね。

例えば家庭内暴力の酷さから、そうなればセックスも当然苦しい強制だけのものとなる場合もあるでしょうに、顔を見合わせること自体苦しい時もあるでしょうに、それでも生涯いっしょに暮らすべきなのか、現代では普通に疑えるところ、また配慮や気遣いが出来るだろうところ、

宗教の権威がかえってそのへん盲目状態を呼び起こしたか、

やっと命からがら逃げだし、遠くの地までのがれ、なんとか生き延びるすべを得た女性が、大勢の宗教信者(カトリック信者)の捜索によって見つけ出され、引きずり戻された歴史がありますよね。

神が定めた結婚なのだから、という理由でです

しかし、同時にカトリックこそ、最大に多くの哲学者をキリスト教が生み出した源泉ともなってきましたよね。

わたしの場合は、そういうイメージしか持っていないので、カントとか、あるいは現代カトリック哲学者たちの考えを詳しく知っているわけではありません。

しかし、私自身はそのようなイメージも一番強いのがカトリックというふうに感じているのです。

そして、それがゆえに、おそらく現代では一番すべてをきちっと哲学し思索しぬきその上での信仰を広めようとされているキリスト教の団体というイメージも持っていたりします。


しかし、

御質問者の語られる自殺についてのカトリックの寛容さへの変容についてなのですが、それはまだ深く哲学的であるようには思えません。


たとえキリストご自身がなんらか「最後の審判」について語った記述があるにせよ、神がその被造物を何か裁くということは、創造主という考えの本質からして矛盾しています。

神が、感情的に、それをコントロールできずに、左右されてしまうようなこころではないことは、誰でも想像できるところでしょうが、それ以前に、罪を許すも何も、その行為、間違った行為を犯してしまうにいたった心もその長い長い因果のすべてを解っている方が、それを罪として規定すること自体ありえないということなのです。

人間ですら、その因果の深さをその一部なりとも深く理解すれば推理の魂が働いて、どんな悪人も、同じ人間として友として、その未来の幸せだけを願って接すると思います。

神がそれ以下の精神でしかないと誰が決めたのでしょう^^。


では、自殺についてなのですが、

神が人間にはどこまでも進歩出来る能力、どこまでも進んでゆける能力を、この生物の脳に与えた時から人間が地球を歩きだすことになった^^といっても、それだかとといって、自らその可能性をたった人たちの、心の奥のすべてを、もちろん神が解っていないわけがないことは解りますよね^^。

まわりの家族も、それが解ったら責めることだけは出来ない所となると思います。

人間としての甘えはあったと言えるケースももちろんあるでしょうけど、

こうして本来宗教の哲学の方からは、それを裁くとか責めるとかいうのは想像力の欠如の問題ともなってしまうのだと私は思います。


ただし、

私は、子供の頃、右の肺胞のすべてがつぶれ、左の肺胞もあと少ししか残っていない状態で「あと三日の命」との医師の宣告を聞いてしまった意識状態を体験している者であり、

青年の時も、風が耐熱を奪うという知識経験のない都会人だったため、ある北国でその寒さの地獄の極限も体験したことがある者なのですが、

そうした体験から言えば、自殺が人生での最大の不幸なドラマとは思えないのです。

あまりにもさまざまなケースがあるのだろうと思うのですが、

例えば私は、真逆に、

設備業の仕事を始めたばかりの頃、新築の家の垣根がまだ仮に建てられただけのものであることを知らずに、思いっきりそれにつかまってその柵を乗り越えようとしたところ、それはそのまま、私と一緒に、すぐ裏にあった深い、下がコンクリ―トの側溝に落ちて行ってしまったことがあるのですが、

最後に景色がまっさかさまに見えたのが、その命の終わりだったことも考えられるところ、その次の瞬間私はきお失っていて、気が付いたら左手で頭をかばい「あっ、頭を打たなかった。頭を打たなかった」となぜかそればかりを考えてうずくまっていた私に気が付きました^^。

さすが身動きは出来ませんでしたし、胸を打ったので声もでませんでしたが、また左手首は骨折していましたが、不幸中の幸いそんな感じで私は助かっています。

もし、その最後に見えた逆さまの景色が私の人生の最後の意識だったとしたら、つまり気が付いたのがあの世だったとしたら^^、そこには苦痛も何もないわけです。

そんな体験からは、もしそこに恐怖差さへなければ、時には苦しくさへなく、あの世に行ってしまう自殺もあるかと思えるのです。

設備業では、私は高所恐怖症の体験をしています。

これは、3階の足場ですでに、身動きすらとれなくなってしまうものなのです。

実際にバランスを取れなくなっているため、ほんとうに危ない状態です。

詳しくは略しますが、そのおかげで、その時の三半規管がどんな危険な状態になっているのかをけっこうつぶさに考えることg出来た体験でもあります。

あらゆる試行錯誤をして、慣れようとしてみましたが、最後に単純に極端に重いものを高所に運ぶ途中で、すうっうっと恐怖が消えバランス感覚が取り戻されていくことを感じ、私は救われた^^のです。

そうでなかったら、設備業という仕事は地獄ですからね^^。

でも、いざ解決法が解り、すっかり治ってみると、なんとほんとうに高い何十階のビルの屋上の淵に立って下を見ても、またそこから綱で重い荷物をコントロールしても、まったく地上でのその作業と変わらない感覚で安心して出来るようにもなっていました。

今度は安全であるうえ、注意は必要なのですが^^、ほんとうに一ミリすらそんな危ないところにても、恐怖は感じなくなったという体験です。

断末魔がどんな苦しい時があるかを知らない人は、そして生きていることが本当につらい状況になってしまった人には、恐怖もほとんどないかもしれません。

ともかく、自殺それ自体を最高に不幸な事実として考えるよりも、それにいたる様々な他の苦しみの因果を、私はなんとかしたいというふうに、他の「抜苦与楽」の道と並列に考えて、冷静に自殺を考えたい者なのです。

神は人間に自律という宝を与えたのだから、神はその限り人間を助けたりはしないというのが最初からのクリスチャン哲学者の考えでしょうが、その発展形である現代のクリスチャンは、

人間の思考こそが、人間を助けることが出来ると、そこに希望を見出し、なにがあろうと前を向いて、立ち上がりなおすべき時かと思うのです。


自殺志望者にも、同じ人間として相身互いの心で、抜苦与楽の愛に生きて生きて生きて生き抜こう、どんな時にも、どんな挫折からも、再び起き上がって一緒に前に向かって進んでゆこうと、呼び掛けることが出来るのは、

そんな自律の核心をクリスチャンならば、その神の願いを理解て立ち上がった時なのではないかと思うのです。

カトリックならば、少なくともいつかそうなれると思います。

自分の意見ですが、書いてみました。
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この回答へのお礼

お忙しい処、丁寧にお答え頂き、有難うございます。
大変多岐に亘った示唆を頂き、正直自分の中で消化するのに時間が掛かってしまいました。

先ず、「カトリックの暗いイメージ」について---
どんな理由があるにせよ、夫婦は一生添い遂げなければならない、離婚は禁止・・・というのは、元々、神が結びつけたものを人間が勝手に解いてはいけない、という考えから来ていますが、今日では、DVなどで夫婦の一方に重大な人権侵害行為があれば、離婚も認められます。但し、未だに、多くの教会では、「人の過ちは赦すべきだ。」という考えが支配的であり、過去の加害者の過ちを赦すことはいいとしても、以後の加害者の更生を担保し、被害者の安全を確保するために速やかに対策を打つという方向に進んでいかない限り、単なる問題の放置に終わる可能性はあります。
そういった意味で、宗教は、単なるきれいごとでは済まされるべきでなく、もっと問題の解決に建設的に向かう方法を探り出していくことが求められていると思います。

次に、カトリックが近現代思想の源泉になっていることについて---
カトリックと同様、プロテスタントの思想も、近現代思想の源泉になっていると思いますが(マックス・ウェーバーの著作をお読み下さい。)、プロテスタントが、聖書の尊重と言う観点から、キリスト教信仰の純粋培養化と社会への応用を迫ったのに対し、カトリックはもっと、ユニバーサルな価値観と、時には他宗教や他の多くの価値観との融合を図ったと思います。

さて、本題の自殺についてですが、

先ず、仏教もよく挙げていますが、人間の行動は、過去の長い「因縁」によって左右されていることもあり、仲々方向転換することはかなわないというのはわかります。
そういった過去の因縁も含めて、その人間を知り尽くし、抱擁するのが、神仏の役割だというのもわかります。

そこには単純に「裁く」という安易な解決ではなく、その人間の善も悪も全て抱合して「救う」のが理想形だとは思います。

そして、これまでにも幾多の危険な目に遭いながら、九死に一生を得てきた回答者様からすると、自殺が特別重大事ではない、と言う感覚もわかります。そのように日常的に死の世界にアクセスしていたとしたら、特別恐怖感を感じなくなる可能性もあるでしょうか。
でも逆に言えば、そうした危険も何度となくクリアして現在生きておられるのは、まさに「生かされている」のではないでしょうか?

「自殺それ自体を最高に不幸な事実として考えるよりも、それにいたる様々な他の苦しみの因果を、私はなんとかしたいというふうに、他の「抜苦与楽」の道と並列に考えて、冷静に自殺を考えたい者なのです。」というお言葉は、そのまま神妙に受け止めたいと思います。ちょっと100%は理解できない言葉ですが、「死ぬ気になったら何でも出来る」という意味でしょうか?

少なくても、カトリックの立場からは、自殺志望者に対しても、同じ人間として相身互いの心で、抜苦与楽の愛に生きて生きて生きて生き抜こう、どんな時にも、どんな挫折からも、再び起き上がって一緒に前に向かって進んでゆこうと、呼び掛けることが出来れば、理想かな、そしてそう自信を以て言えるだけの説得性を、私一人の力ではそうそうは持ち得ませんが、教会全体の総合力で発揮できていけばいいかな、と思います。

お礼日時:2013/09/16 14:27

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