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こんにちは。

1808年、長崎にオランダ船拿捕の目的で侵入した〃フェーントン号事件〃という外国船侵入事件がありますよね。
今、そのことについて調べているのですが、

その時のフェーントン号に対しての幕府の対応

がわからなくて困っています(+_+)
幕府にどんな影響があったのでしょう?

どんなことでも構いませんから、どなたかご存知の方いらっしゃいませんか?
教えてください!
よろしくお願いしますm(__)m

A 回答 (3件)

>その時のフェーントン号に対しての幕府の対応がわからなくて困っています(+_+)


フェートン号事件そのものは文化5年8月15日(1808年10月4日)に勃発して2日後には終結した事件です。
幕府の対応は如何にということになると。幕府の出先機関である長崎奉行所の対応は如何にということになります。
これで宜しいでしょうか。

当時長崎奉行であった松平康英は直ちに鍋島藩・福岡藩に出兵を命じています。
鍋島・福岡の両藩は幕府から長崎警護の命を受けていて、有事の際には必要な人員を出すこととなっていました。
幕府は出先機関である長崎奉行所には兵力は配備していません。
蓋を開けてみると、当時当番であった鍋島藩は幕府に無断で警護の兵力を削減しており約束の兵力の十分の一程度の要員しか配備していませんでした。
松平康英は直ちに薩摩藩、熊本藩、久留米藩、大村藩の各藩に出兵を要請しました。
要請に応じて大村藩が到着した17日にはフェートン号はオランダの商館員を解放して出航してしまいました。
以上が事件の顛末です。
大村藩の到着を待つ間、領事館からの要請もあり商館員との交換条件としての水や薪炭を提供しています。

事件終結後、報告を受けた幕府は、佐賀藩主に100日間の謹慎を命じています。
松平康英は、切腹しています。
事情はどうあれ、脅されて一戦交えなかったのは武士の面目に関わると考えたようです。

>幕府にどんな影響があったのでしょう?
文化文政期と呼ばれ江戸文化の最盛期であるとともに藩幕政治が頂点に達していた時代でしたので、直接的な影響は皆無でした。

事件当時は既にロシアが頻繁に来航してくるなど外国船の来航が増えてきていました。
後に起きた大津浜事件への対処を含め1825年に異国船打ち払い令なるものが出されました。
役人の責任逃れのような法令です。
巷では、日本が鎖国をしていた証拠だと挙げられますが、とてもそんな内容のものではありません。
刀を振り回して外国船が離れて行ったらたら追いかけなくてよいという程度のものです。
撃沈しろとも拿捕しろとも書いてありません。
最近学会では、日本は鎖国をしていたのではなく、貿易を統制していただけだったのだはないかと言われています。

経済的には、倹約だけがスローガンのデフレ政策をやった松平定信が失脚した直後の時期です。
「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと江戸っ子に揶揄された老中です。
庶民もやれやれと一息ついていた時期です。現在と似ているかもしれません。

イギリスやフランスが台頭してきて植民地時代が始まる時期でした。
唯一の外国領事館であったオランダも数年後にはフランスに占領されてしまい、地球上でオランダ国旗が掲揚されていたのは長崎の出島だけだったという時代を迎えました。
ヨーロッパでの歴史的事件が実はフェートン号事件の遠因です。
領事館を閉鎖せずに、オランダ国旗の掲揚を認め領事を庇護したことが、現在オランダが親日国である大きな理由です。
当時の領事が故国の復活を信じて頑張り続け、空いた時間を使って日蘭辞書を作成しました。
現在この辞書は言語学者にとっては宝物です。
江戸幕府はこのオランダ領事館からの定期的な報告書や中国商船からの情報などで、ヨーロッパ情勢については江戸時代を通じて幕末までほぼ正確に把握していました。
いち早くアメリカと和親条約を締結したのもこの情報が基になっていました。
まぁ~江戸時代に活用しようとしても活用するメリットは何もなかったでしょう。

以上ですが、何か追加でご質問があれば補足をお願いします。
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この回答へのお礼

大変わかりやすく、そして見事に私の疑問を解決してくださる回答でした!
ありがとうございますm(__)mm(__)m

『フェーントン号事件』は一部の藩以外しか影響がなかったのかと思っていましたので、まさかオランダが親日国になった理由にもつながるなんて\(◎o◎)/!

教科書に一行出ただけの、少し興味がわいただけで軽い気持ちで質問致しましたのに、こんなに詳しく回答してくださり、本当にありがとうございました!
深く感謝いたしますm(__)m

お礼日時:2014/02/19 21:12

細かい事は判りませんが、大まかに言ってイギリス船の要求を聞き入れて、其の上で逃走を赦してしまった事件です。



オランダ商館員が捕虜となってしまい、長崎奉行は人質の解放を文書で通達するも、フェートン号からは物資の要求のみの返書が来たのみ。

問題は警備を命じられた鍋島藩が、本来の規定の人数を用意していなかった事。

其の為に当初の計画の行動が取れず、拿捕も焼き討ちも出来ずに逃走を赦してしまう。

太平に慣れきっていた、武士の姿を浮き彫りにした事件です。

鍋島藩は家老の切腹、藩主の百日の閉門を受け、当時の長崎奉行も切腹だそうです。

幕府はこの事件の影響で「無二念打払令」を出し、今度はモリソン号事件等を起こします。

幕府の根本的な体質は、既に動脈硬化を来しており、事勿れ主義の前例踏襲主義で、幕府の無能を世間に知らしめた事件の一つだと言えるのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます、大変参考になりましたm(__)m

切腹までする事態になったのですか!しかも二人も!!
でも、確か鍋島藩といえば維新の時に名前がでてきますよね!
やはり、その屈辱を晴らす形で頑張ったのでしょうか。

フェーントン号事件について、教科書には日本人に被害はなかったとしか書かれていなかったので、驚きです(>_<)
それで、異国船打ち払い令につながるのですね!!

ありがとうございました(*'‐'*)♪流れがわかりました♪

お礼日時:2014/02/19 18:48

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7% …

その時、幕府は何も知らなかったでしょう
交通や通信が無い時代です

長崎で何かが起きても、それが伝えられるのは1週間後です
すぐに対策を講じても、それが長崎に伝えられるのが、また1週間後ですから

事件は3日で終わっていますから(^_^;

その後の事はwikiを見ましょう
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この回答へのお礼

URLありがとうございます(*^-^*) 
それで、どこにも幕府の対応がのっていないのですねf^_^;

お礼日時:2014/02/19 18:42

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