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人間、この種の感情を何時となく持ち得る(持たされる)ものと思われます。
また各自の内面世界にてそこから派生する過度感情ならびに知的判断(著しい優越感から周囲への侮蔑の念等)を抱くのは自由ですが、そこを自己内面に制御出来ず、表立って周囲の劣等人への誹謗中傷(名誉毀損等)と至るのは明らかに人道にも人権にも反しており、それらは決して許されざる行為ではないでしょうか。

優越感を生きる源とするのは構いませんが、それを自己外に表すは、あくまで他人の人格を尊重する限りに於ての行動言動に制限されると思うのです

いかがでしょうか

A 回答 (10件)

優越感と劣等感は、コインの表裏または、優劣の振り子運動のようなものです。

優越感の強い者は、劣等感も強いように、降り幅が大きくなるように思われます。
優劣感情は他者との比較による意識で、他者の称賛や権威からの是認に価値を置くこと____《虚栄心》が生じ、自分が騙したものによって騙されてしまう。
誹謗中傷は、間接的な怨恨(ルサンチマン)を抱いているのかもしれませんが‥

世間を斜めに眺めてみると、気づかされることがあります。
例えば、ニーチェの‥視点というよりも視線。

「自己自身に対する関心、自己を満足させたいとの願いは、虚栄心の強い人のところでは、きわめて高じているので、彼は彼自身の間違ったあまりに高すぎる査定へと他人をまどわせて、それから結局他人の権威にたよる、つまり誤謬をまねきよせておいて、しかもそれに信を置くのである。~人間的あまりに人間的No89~」

「高貴な人間にとって、おそらく理解し難いものの一つは《虚栄心》である。~善悪の彼岸No261~」

高貴な人間は、《自分に対して畏敬の念・誇り》を持てるかどうか、自身の誠実から来る命令に服従しようとする。《虚栄心》と、価値を自ら立脚する《誇り》は違うもの。
《虚栄心》は、優劣をつけたり、傷つけ引きずり下ろそうとする、《誇り》は孤独のなかにあるかもしれないが、___それは孤立を意味するのではない。他者との関係では、貶めるのではない、高めあうための戦いや共感がある。

__以上は、優越感・劣等感に関する、ニーチェ的な見方です。
スノッブな世間を見る時、(内心)ニーチェ的視線になりがちなので>私
世間だけでなく、自分自身にも刃は向かいますが‥

私的な見方を加えるなら‥
《虚栄心》が自分を飾ることを喜びとするなら、《誇り》は世界を飾ることを喜びとするように思います。自分を飾るための物や知識は、肉体が滅びれば無に帰してしまいます。世界は、(残された者の記憶になくても)形を変えながら受け継がれていくから、労働や子育てなど生産する生き方は、そのまま世界に没入していると思います。
もし、明日死んでしまうなら、自分を飾ったことよりも、世界を飾ったことのほうが満足感が大きいような気がします。優劣意識のような卑小なものとは距離を置くことが、自分を毒したり、時間を無駄にしない選択ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

>虚栄心:自分を飾る
>誇り:世界を飾る
なるほど!これはシンプルにして金言ですね

>優劣意識のような卑小なものとは距離を置くことが自分を毒したり時間を無駄にしない選択
自戒を込めてこの回答を胸に刻みます


回答ありがとうございました

お礼日時:2014/03/05 12:44

・・・つまり、ちっくしょう、悔しくてたまんない。



と仰りたいのかしらん。

優越感と劣等感。

同じものの裏表、と考えることも出来ますよ。

他人と自分を比べるしか、自分の存在を確認出来ない、
という。

それから、低次元の価値観に縛られている、とも言えます。
何故なら、上か下かの見方しか出来ないから。

一人の人間の中にもいくつかの価値観があります。
食べ物は味がそこそこなら何でもいい、でも車は外車じゃ
無きゃダメだ、とか。

偏差値の高い学校を出ていない人間は頭の悪い下らない
人間だ、でも綺麗な女は別、とか。

結構出鱈目な人が多いけど、他人と自分を常に上下でしか
判断出来ない思考回路というのは、自分がどういう人間なのか
揺るぎない自覚が持てない人生の漂流者特有の感覚かも。

一見、相反するように見える価値観と言うものは、大抵一つの
尺度のプラスマイナス、或いは相対的な位置関係でしかない。

そういう考えから抜け出すには、全く別な価値尺度に切り替えて
みることが必要だと思う。

了見の狭い人は、どんなことでも自分と他人の間に上下関係を
見出そうとする。 それはとても卑しいことなんだけど、本人は
真顔で「価値ある自分は他人より上に立つ」とか本気で考えて
いるから滑稽。

だって、僅かばかりの人生を終えて、あっという間に誰も覚えて
いない過去の名簿の一つになっちゃうのが普通の人なのに、
歴史に自分が残る様な錯覚起こしてる人が後を絶たないし。

どちらが上か下か、という考え方を止めて、例えば再び会えるか
二度と会えないか、とか。

忘れてしまうかどうか、覚えているか、とか。

増えるか減るか、変わらないか、とか。

ベクトルは上下でなくとも前後/左右/過去未来/疎密/有無
生死/大小といくらでも座標軸なんてあるものです。

更に言えば、一つのラインからのプラスマイナス、という単純な
考えを止めれば、音や色のスペクトル、明暗による美しい
グラデーションなど、そもそもが一元的ではない連続体として
ものごとを捉えることが出来る自由な世界もあります。

言ってみれば、凡人は真贋、優劣ばかりしか捕えることが出来ないが、
天才は全てを真実として、ありとあらゆることをカラーとして風景として
感動し、そこに遊ぶことが出来る視野を持っています。

質問内容が全く分からないので、とりあえず「優越感/劣等感」について
徒然なるままに書き散らしてみました。

何かヒントにでもなれば。
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こんにちは。


 人から感謝してもらえるようなことに誇りをもって生きる源とするのと、人を馬鹿にして優越感を持つこととは次元が違うような気がします。人を馬鹿にするために何かをやっているような状態になってしまったら、それは人間流としてはいびつな方向に向かってしまっているのではないでしょうか。劣等感に関してはそれをばねにして自分の成長につなげていけたらいいのでしょうね。
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この回答へのお礼

優越からの見下し(自己満足)
ではなく
感謝からの誇りですね

社会的視点というか感覚を持てばそれは自然なものと思えます

回答ありがとうございました

お礼日時:2014/03/05 12:15

人間は、本人が意図しない様なクセや習慣があったりして、本人さえも知らないままにやってしまっているという事が少なからずあろうかと思います。



自分自身の人生を振り返ってみても、
身近な人の日常を見てみても、

本人も、

言いたくないのに言ってしまった、
やりたくないのにやってしまった、
笑いたくないのに笑ってしまう、

などの、止めたいと思っていることや、やってはいけないと思っていることなどがあったりして、そうした潜在的な習慣だとかクセを修正しようとするのが難しいことを自他共に感じることがあります。

kylenroberさんは、自己内面に制御できず・・・と書かれていますが正に制御できないんでしょうね。そして、制御できないことが潜在的なクセにまでなってしまっている人にとっては、後になってから後悔する人や自分を責める人も中にはいるんだと思います。

僕は、自分自身の体験を振り返ったり、
知人友人や周りの人たちの経験を見ると、

やりたくないのにやってしまうということも、
1つの苦しみというか辛いことでもあるなぁと想っています。

人間として生きる上で、より良く生きたいし、より幸せに、豊かでありたいと多くの人が想っていますが、中々に思うようにいかないことも多かったり、生きることが難しいと感じることも多かったりすると、いつの間にか、優越感や劣等感というものが幸せなんだと錯覚したり思い込んだりすることもあったりします。

僕が想うのは、潜在意識的に当人も苦しんでいることもあるし悩んでいることもあるのだから、その場合はそうした潜在意識としての苦悩に触れて、そんな生き方も素晴らしいし、そんな生き様も美しいし、今まさに幸せに到達しようとする健気な心意気を感じながら、尊厳ある関係を築いていきたいと想っています。

尊厳ある関係を築いていく中で、優越感・劣等感によって得ようとしていた幸せや豊かさというのが薄らぎ、また同時に尊厳関係に基づく幸せや豊かさを得る様になっていくものと想っています。
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この回答へのお礼

>尊厳ある関係
そのためにこそ如何なる相手をも尊重せねばならないですね
尊重という一種の制御をより実現して参る所存です

回答ありがとうございました

お礼日時:2014/03/05 12:48

>>優越感劣等感は社会問題表出の根源です。

なのにこれをさておきます。

この句でわかり得る人も居られると思うのですが、間違う人も多々居られると思いますので断ります。
私は優越感劣等感を賞賛も礼賛もしません。
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優越感劣等感は社会問題表出の根源です。

なのにこれをさておきます。

優越感劣等感は人にとって必要です。この時の人にとってとは社会的動物という意味合いです。
社会的動物から人へ。
理解できない人は優越感劣等感は人にとって必要です。他にもたくさんの必要があります。
理解できない人は・・・知りませんよ。分かるように教えられる知恵も教えもありません。
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優越感というのも時には困ったもので エリート意識によって人を人とも思わないような輩が跋扈します。



これはわたいも経験があるので非常に困った感情で 差別や格差の温床になります。

また優越していないものが優越感に凝り固まると 今度はヒトラーのようになって

優秀な民族に最悪の結果をもたらす事にもなる。

日本もそうだったかもしれない

プライドは必要だが得てして優越感はものを正しく見ることに妨げとなる。

次に劣等感だが これも謙虚になるという面ではよく働くこともあり 劣ってるから努力しようと頑張る人もいる

それならいいのだが 劣等感の塊になると人生投げやりになりかねず 一つ間違うと犯罪につながる。

劣等な面があるものに冷たい社会であってはならない。持てる力を活かせる社会にしないといけない。

それほど劣等していなくても高卒の人の大卒に対する感情は大きなものがある

人間として劣っていなければ高卒も大卒も中卒も道を間違わない限り何ら劣等感を持つ必要はない

もしなんなら劣等感をバネに頑張ればけして卑下する必要はないと思います。

概して劣等感も優越感も 無ければ無い方がいい。自分のベストを尽くすことだけ考えることができれば

それで人間は合格だと思います。
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この回答へのお礼

>優劣劣等感無く自分のベストを尽くせば合格

そうですよね
人は何かと比較から付加価値を求めますが… あくまで付加に過ぎないのだから

回答ありがとうございました

お礼日時:2014/03/05 12:52

哲学スレッドの住人には、人を人間扱いしない輩が闊歩していますので、この質問に真摯に回答できる人は極少ないと思われます。



誹謗中傷は、決して許されません。厳しく取り締まり厳罰に処すべきです。
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この回答へのお礼

>誹謗中傷は決して許されません

全く以て同意です
世の中様々な価値観を持つ方が存在しますが、それはあくまで互いの基本的人権を侵害しない範囲でのものです
例え凶悪犯罪者でも人権は保たれていますしね(凶悪犯罪に対する裁き報いはまた別)。


回答(激励)ありがとうございました

お礼日時:2014/02/22 17:24

身の回りの衣食住すべて、世界中からやって来たものです。


熱帯雨林の原住民でもない限り、誰も一人では生きられず、
あなたの社会生命体です。
たとえば、あなたの体内で、「脳細胞は、筋肉細胞に指令を
出しており偉い」とか、「足の裏の細胞は、最低限の栄養で
踏みつけにされていて劣等だ」と言う事に意味があろうか?
足の裏の細胞がなければ、脳細胞も存続し得ない、1つの
生命体なのです。
優劣が存在するとしたら、体全体の機能としての優劣であり、
その評価は、全ての体細胞の上に与えられるものです。

ところが人類は、原始共産制における物々交換による助け
合いから、分業化&組織化を発達させる上で、そうした自己
の生命性の社会的拡張を自覚化するだけの認識の深まりを
省略し、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で
他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。
実質的に助け合っていながら、意識としては、目の前のお金
や権力を奪い合い、本来社会生命として働く事が生きる事=
根源的喜びのはずなのに、お金をもらうためにイヤイヤ働か
されるようになってしまっているのです。

そこに、本来助け合う仲間として、他人が優秀なほど自己の
生存が充実する=喜ぶべきところを、肉体的な個体の優劣を
競い合う、弱肉強食の擬似ジャングルと化しているのです。

この回答への補足

回答ありがとうございます

>自己の生命性の社会的拡張を自覚化するだけの認識の深まり

これを皆(大多数)が持てれば、私がこの質問をすることも無かった筈です。しかし現実は社会的視点よりも個人欲望的感点からの見解理論武装が大多数ですね。
「衣食足りて衣食求むる」では変わりそうも無いと痛感させられております。

そうすると現状では、人権観点からの法規制が最適手法かと思う次第です

補足日時:2014/02/21 18:13
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2014/03/05 12:52

おっしゃる通りだと思います。


何かを思う・考えることは個人の自由ですが、それを表に出すことは一定の制限がかかるものだろうと思います。
しかし、表に出すことは一定の制限があるのならば、それの根源となっている優越感や劣等感を抱くこともまた一定の制限があって当然ではないか、という考え方もあろうかと思います。
となれば、優越感や劣等感も、持ってよいものと持ってはいけないものとの両面があるように感じられ、その倫理的な境界がどこにあるのかがまったく不鮮明となりそうです。

難しい話ですが、哲学のテーマとしては非常に興味深いですね。

この回答への補足

回答ありがとうございます
以前某報道番組にて元大臣が映像に写る大声で叫ぶ女性を見て「何ですかこのキ○ガイは」と発言し、横にいた司会者が慌ててCM後不適切発言を詫びていたとおり、言動行動には制約がかかるものです。
>優越感や劣等感を抱く事にも一定の制限が

机上論としては内面無制限・外面有制限が成立するかと思いますが、人間の表象はそれが意識的であれ無意識的であれ内面の反映であり、表象に制限を設けるは内面にも制限及ぶは確かに否定出来ない事象かも知れないですね。

>優越感劣等感に付き、持っていいもの持っていけないもの

使い古された言葉ですが
「勝って傲らず、負けて卑屈にならず」
この感覚がそれの基準になるのではないでしょうか

補足日時:2014/02/21 17:46
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2014/03/05 12:53

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