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宗教を信じている人は他の宗教との関係をどのように考えているのかおたずねします。

例えば、AさんとBさんは友達で、AさんはXという神様をBさんはYという神様を信じているとしとします。もし本当にAさんがX神様を信じているなら「Bさんは神様でないものを信じている」とAさんは考えると思います。Bさんのためを思えば、X神様を信じるようにBさんを説得すべきと考えるのではないでしょうか?また、BさんもY神様を信じるようにAさんを説得しようと考えるのではないでしょうか?

もし「個人には信教の自由があって好きな神様を信じればいいのだ」とAさんが考えるとするなら、AさんはX神様のことを本当は信じていないと思うのです。この世を創造し、人間を創造したのはX神様とAさんが考えているなら、X神様を信じるほかのありようはないからです。もし、個人の自由というなら、それは、神様より上に個人の人権とか自由を置いている証拠です。

私はなにも宗教戦争をしろというわけではありません。本当に信じるということを追求すると他の宗教の否定になりそうに思うので、これを回避するにはどんな考え方をしているのかお聞きしたいと思って質問します。あるいは、それを回避するのは難しいので深く考えないことにしているのでしょうか?

A 回答 (22件中1~10件)

三たび回答します。


No.21さんへのお礼を読みましたが、逆に非常に疑問です。

どうして、X宗教を本気で信じていたら、それ以外の宗教を否定しなければならないのでしょうか?
X宗教も、Y宗教も、それ以外の宗教も、それぞれ立派であり、学ぶべき所は沢山ある。
自分にとってはX宗教がメインだけれど、他にアクセスしたからと言って怒られる理由はないし、却って、今の信仰心にとって有益であると思う。

実例を挙げます。

多くのカトリックの神父は、他宗教に対しても造詣が深く、他宗教の教えを自分の信仰に進んで活かそうとしている。
例えば、日本仏教の創始者である名僧達から学ぶ姿勢を打ち出した門脇佳吉神父や禅の高僧と親交のあった奥村一郎神父など・・・。
そして、バチカン自体が、諸宗教との交流に力を入れ、相互に学び、対話・交流する姿勢を前面に出している。

相互尊重しつつ、自分の信仰を心から信じるのは全然可能だし、何の矛盾もない。
却って、自分の信仰に固執して、他を排除し、否定する方が大矛盾だ!

・・・これでは答になっていないのでしょうか?

>この世を創造し、人間を創造したのはX神様とAさんが考えているなら、X神様を信じるほかのありようはないからです。

宗教の中には、キリスト教・イスラム教或いは神道のように、神が宇宙を創造したと教えるものもありますし、仏教のように、仏を全面に出して、全ての生きとし生けるものが仏性を持っているということに焦点を当てたり、それぞれ色々アプローチの異なる宗教が混在しています。

それらの教えの相互間に矛盾点があるのは当たりまえであり、それらを統合して、矛盾をなくすることこそ不自然です。各宗教は、それぞれ別のアプローチで、人類の救済を目指すものであり、どれか一つが正しければ、直ちに他は誤りだなどと言えるものではありません。

又、あなたが、仮にどれかひとつの宗教のみが正当で、他を誤りだと判断したからといって、それが何になるのでしょう? 逆にほかが誤りだとどうやって証明しますか?

私は、宗教の目的は、どれが正しい宗教なのか突き詰めることではなく、それぞれの宗教から、自分の人生の実り、そして「救い」を得るためだと思います。

ですから、どの宗教であっても、それに接することによって、自分の心に響くものがあれば、それを信じ、人生に進んで取り入れれば良いのだと思います。


西洋哲学の考え方は、ザックリ言うと、Aの肯定は即ちBの否定といった「二元論」になり勝ちですが、
東洋哲学の方は、AもBも同時にあり、又、AとBの間にも際限なく解があるとする「多元論」が支配的であり、私も後者の考えを一生、堅持していきたいと思っています。


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この回答へのお礼

申し訳ありませんでした。期日を過ぎてしまいお礼コメントしか書くことができません。何度も回答いただきまして大変ありがとうございました。

私が考えている思考の線とoozora2000が考えておられる思考の線がだいぶ違うと思いました。私は「この世が事実としてどうなっているか?」という線で考えています。oozora2000はどうすれば人間が救われて、こころ安らかに暮らせるかという線で考えておられるように思いました。

私の考えの中には人間が救済されるかどうかは、考慮の対象ではないのです。もし、ある宗教でX神様が世界をつくったという記述があるなら、それが事実として成立するかどうかに関心があります。

事実は1つしかないと思うのです。もし、X神様が世界をつくったなら、Y神様は世界をつくっていない。なぜなら世界は1つしかないからです。


「X宗教を本気で信じていたら、それ以外の宗教を否定しなければならないのでしょうか?」
否定しなければならないと考えているわけではありません。私にはX宗教も認め、Y宗教も認めるという状態が成立するのが難しいと思うので、それが両立するものなら、その理屈を教えてくださいというのが質問でした。

神父が仏教を学ぶというのは確かにあると思います。しかし、その場合に学んでいるのは、その宗教の本質的な部分とは違うと思います。(私の想像ですが)慈悲の心とか、生き物の命を大切にするとか、一般的に通用する道徳的な事柄とか、人間の生き方とかではないですか?その宗教の宗教的な部分、例えば、この世界の中心には大日如来がいるとか、死後は極楽浄土に生まれ変わるとか、そうした部分を学んでいるわけではないですよね。

人類の救済をめざすことはすばらしいと思います。それは事実とは関係ない話ということなのでしょうか?私は、事実とは解答がひとつで、相互に矛盾しないものだと思っています。もし宗教が相互に矛盾するのが当たり前だとしたら、それは事実と関係ない世界ということになります。「事実とは関係ないのだ。ただ、人間のこころが救済されればいいのだ」という考えはありだと思います。そして、宗教とは事実とは関係ない世界の話なのだと納得することができます。


「又、あなたが、仮にどれかひとつの宗教のみが正当で、他を誤りだと判断したからといって、それが何になるのでしょう? 逆にほかが誤りだとどうやって証明しますか?」

私の考えているのはどれが正しいと決めるということではないです。私の考えている想像ですが「宗教というのは心の幸福を求めるものであって、どれも事実とは関係ない」というのが正しいのかどうか知りたいのです。

お礼日時:2014/10/30 19:55

宗教によるとしか言いようがないですね。


仏教や神道は懐が広い宗教なので、ほかの宗教にも寛容です。
天理教など新興宗教系では、自分の宗教以外認めないといったところもあるでしょう。日蓮宗の一部宗派では、強制的な宗教強要行為すら行われています。
しかしこのようなことは望ましくありません。お互いの考え方の違いを認めそれぞれの宗教を尊重しあうことが重要だと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。仰る通り、お互いの尊重は重要だと思います。
私がお聞きしたかったのは、自分の信仰を本気で信じている場合に、他の宗教との関係をどのように理屈づけているのか?ということです。相互尊重しつつ、自分の信仰を心から信じるのは可能か?可能とすればどのように説明されるのか?という疑問でした。

お礼日時:2014/10/20 20:39

>隣人を愛するがゆえに自分の信じている神様を押し付けるようにならないか?


なってはいけないのですけど、どうやってそれを防ぐか、その理屈は何かということをお尋ねしたかったのです。私の質問の書き方が悪かったかもしれません。

愛するとは「認め」、「受容」し、「共に手を携える」事です。

「貴方を愛しているの!、だから言う事を聞いて!!」とは、愛して等はいません。

此れは“操縦”しようとしているだけで、使えないのならば“要らない”と言っています。


防ぐ方法は難しいです。

全ての人間が生まれた時から、充分な真の「愛情」に育まれていれば、可能かもしれません。

現実には望ましくない不幸である人災や天災、虐待に人は人生で直面します。

其の時に全ての人間が心が折れずに居られるかは、難しいでしょう。


そもそも愛されなかった人間は「愛情」を理解困難で、生きる為の「執着」しか理解出来ません。

故に自分を受け入れてくれた組織への執着から、愛情の押し売りをしているのです。

正直、体力的に成長しつくした大人に、無条件の愛情を感覚的・体感的に伝える事は困難です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなり済みません。
そうすると相手にも間違った考え方をする自由があるという風に考えるのでしょうか?
しかし、自分が正しいと信じているなら、友人を間違った道から救い出したいと思う気もするのですが・・・。

お礼日時:2014/11/18 21:15

No.13です。



【はじめに】
一方に、あなたの言われる通り、X神様のみを信じ、他の神様や宗教を否定する人がいて、他方に、私のように、あらゆる神様や宗教を肯定する人間がいる訳ですね。
あなたも含めほとんどの人(特に日本人)の感覚では、およそ「宗教者」と自認する人間なら、いちずに自分の信仰する神/宗教に邁進する前者のような感覚の方が普通(正常)であり、私のように、複数の神/宗教に足を突っ込み、クリスマスは教会、新年の初詣は神社、お葬式などの時はお寺を渡り歩いているようなミーハー的行為は、「節操をわきまえない」行為として忌避されるべき、となるのでしょうか?

信仰する以上は、他の宗教に脇目も振らず、一つの宗教のみに邁進すべきである、という「潔癖症」のために、多くの日本人は、各宗教に過度に入れ込まず、等距離を保ちたいと考えて、結果的には「無宗教」というスタンスを選ぶのだと思います。
私に言わせれば、こうした選択は、本末転倒であり、大変勿体ないことだと思います。

【複数の宗教への関わり方】
一般に、これに関しては、3つの考え方があります。
主に、キリスト教信者にとって、他宗教に接する場合の3つのスタンスかと思いますが、参考になると思います。それは、
1.「宗教的排他主義」、2.「宗教的包括主義」、そして3.「宗教多元主義」です。

この中で、1は、キリスト教のみが絶対と信じて、一切他宗教を認めず排除するという考えで、確かにローマ帝国以来、西欧キリスト教国の世界侵略のためのひとつの有力なツールとして使われ、キリスト教国の間で通用してきた考えだと思います。

しかし、中世から近代に至り、イスラム世界や、仏教、ヒンズー教などの世界も侮りがたいということに漸く気づき、徐々に、彼ら有力宗教の民もリスペクト(尊重)しないとやっていけない、というふうに風向きも変わり、今では、他宗教信徒も人として扱い、気を遣ってくれるようになったのだと思います。

そのための方便として現れた考えの一つが、
2.「宗教的包括主義」です。これは、他宗教を信仰する人々も、結果的にはキリスト教の神により救われる、という考えであり、現在、カトリックでは最も支配的な考えだと思います。

そして私の理想とするのが
3.「宗教多元主義」であるのは言うまでもありません。私が、前回答で書いた態度がまさにこれです。
これは、「一元主義」(ひとつの倫理的原理のみが正しいとする)の対極語で、「複数の原理のどれもが正しいことがある」と考える立場です。No.1さんの挙げられた金光教や、ヒンズー教、そしてラーマ・クリシュナがこのような考え方ですし、仏教もその傾向がありますね。キリスト教の宗教学者であるジョン・ヒックも多元主義を主張しました。

又、「宗教多元主義」と混同しやすい考え方に「相対主義」があり、「正しい倫理的原理は人(社会、文化、時代)によって異なる」と考える立場のことで、「人(社会、文化、時代)を通して変わらず普遍的に正しい原理がある」と考える「絶対主義(普遍主義)」に対立します。

このように、上記1は別として、2と3に見られるように、西欧社会は、「異教徒」であっても、少なくてもいずれかの宗教を信仰する者は、一様にリスペクト(尊重)する、という文化が育ってきました。

何よりも、キリスト教の基本理念である「愛」(「隣人愛」)の精神は、本来、人々を宗教や国家で差別するものではないはずです。

又、従来、特定の宗教を持たず、「あなたの宗教は何?」と聞かれて「無宗教」と答える日本人のような思考回路は、西欧人には理解しがたいものだったと思います。なぜならそうした精神的基盤を持たない人間は信用できない、という文化があるからです。
しかし、私には、特定の宗教の信者にならずに、各宗教に等距離を保つという生き方は、まさに、前記「多元主義」の考え方を貫く姿勢であり、理解できますし、当の西欧文化も、近年では、宗教/信仰を持たない者を理解しようとする動きもあるようです。↓
(参考URL)http://enculonslesmouches.blog.fc2.com/blog-entr …
     http://www.circam.jp/reports/01/detail/id=3172

【「他宗教」への正しい接し方とは?】
聖職者の場合、どうしても特定宗教を代表する立場にありますから、表向きはその宗教の聖職者という立場は崩せないと思います。しかし、その上で、他宗教に対しては、「否定」ではなく、「友好関係」を保ち、各々の教義やスタンスにもそれなりに理解を示し、平和集会や宗教者会議などの場では、交流・対話を図るというのが、現代の潮流です。

聖職者であろうと一般信徒であろうと、自分たちの宗教が一番という考えは捨てる必要がありません。ただ、それを他宗教の信仰者に押し付ける必要もありませんし、押し付けてはなりません。
必要に応じて、他宗教の主催するイベントや法事に参列することも何ら問題がありません。
これは、カトリックの場合は、前回答で挙げた「カトリック教会の諸宗教対話の手引き」にも明記されていることです。

尚、前期の多元主義や相対主義の関連で、「全ての宗教のよいとこ取りをすればよいのでは?」という考えがありますが、それは誤った考えだと思います。
なぜなら、それぞれの宗教の考え方は、非常に異なっており、多くの矛盾点があるので、その半ばを取れば、中途半端な意味のないものになってしまうからです。

例えば、キリスト教は、宇宙創造神を絶対と崇拝し、自然や人間は神が創造したものだと教えますが、仏教では、「神」は副次的な存在で、その上に「仏」を置き、人間も仏のような精神的高みに登る(「成仏する」)ことを理想とする、というように、教えのニュアンスに大きな違いがあります。加えて、日本人の信仰の中心には「先祖崇拝」があり、先祖に対して守ってほしいと手を合わせたり、読経で無の境地に至ることが多いようですが、私たちキリスト教徒は絶対神である「神」に「祈る」というスタンスであり、その信仰の姿勢に大きな違いがあるように思われます。

こうした違いを一々賛同できないと排除してはいられません。
それぞれの行き方がある、と両方とも認めなければ始まりません。

残念ながら、現実の世界では、キリスト教徒とイスラム教徒の諍いや、北アイルランドでのキリスト教カトリックとプロテスタントとの間の諍いがあるのは事実です。
又、日本でも、あなたの言われるとおり、他宗教を排除して、それが正しいと思っている人間が多いようです。
自分の信仰に忠実であろうとするあまり、キリスト教の基本理念である「愛」を忘れたこのような諍いは、本来、イエス・キリストが最も嫌われた行為のはずです。

結構回答が殺到して、大変でしょうが、時間がかかっても、あなたの反応(お礼)を期待してお待ちしています。
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仏教徒なので、仏ですが。


私は、自分の宗派の教義や拝礼、儀式がもっとも正しく、それ以外は全て誤りだと思っています。そして、他の宗教や宗派が信仰する仏、神、宇宙人、次元人、etcは全て、誤った解釈によって生じているものだと思っています。ただ、誤っていると言っても娯楽や学術的な分野から見れば、興味深く、邪悪な考えであっても排除したいと思いません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなり申し訳ありません。
宗教を信じていらっしゃる以上、そのようにお考えになるのが自然だと思います。
別の宗教を信じている二人が思ったことを言うとトラブルになるのではないかと思いました。
思ったことを口に出して言うかどうかはまた別の話ということになるのでしょうか。

お礼日時:2014/11/18 21:12

stmim様、こんにちは。




>「本当に信じるということを追求すると他の宗教の否定になりそうに思うので、これを回避するにはどんな考え方をしているのかお聞きしたいと思って質問します。」

「信教の自由」というのがあって、「「他の信教の否定」という自由」までは、無い。
そういうことになります。(信教の自由の限界)


・・・他者の自由(「他者「侵害」の自由」までは、認められない)を、侵害できない。
報復だ!、テロだ!、てのは、論外ですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなりすみません。
そうすると、そうした自由の保障というものが宗教より上に存在するということなのでしょうね。

お礼日時:2014/11/19 19:03

宗教の言っている事は、おおむね正しいのですが。

。??

宗教では、人の心は救えないでしょうね。。

その理由とは。。??

たった一つの、致命的な欠点が、質問者さん、が感じている、他の宗教を認めない事ですね。
。。。
。。。
人の心を救えるのは、その苦しみを作った、自分の心だけなのです。。
人の、心の、幸、不幸は、その人物の心が創りだした、幻影なのです。。

不幸に、気付けば、その瞬間から、その人物は、不幸になるのです。。
幸せに気付けば、その人物は、その瞬間から、幸せになるのです。。
。。。
。。。

幸せとは、満足する事なのです。。

不幸とは、不満に気付く事なのです。。

すべては、極めると、逆転するのです。。

この事は、この世の、森羅万象の法則であり、陰陽逆転の法則と呼びます。。

。。。

。。。


哲学です。。思考の学問である、陰陽逆転の法則と呼ぶ、矛盾を解消する、哲学を、学びましょう。

陰陽逆転の法則とは、矛盾を解消する、世界で初めての、学問なのです。

世界中の子供達が、レベルに合わせて、小・中学校から、学ぶべき学問なのです。

では、この辺で、、ごきげんよう。。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

ちなみに、何らかの、宗教団体の、座談会などに、参加する場合は、参加の前に、
学問である 『 認知心理学の、社会的認知 』を、良く、学んでから、参加する事を、お勧めします。

この、思考の学問である、哲学を学ぶと、人間とは、集団行動によって、
人間は、誰でも、簡単に洗脳される、動物である。。そのような事が、学べるでしょう。。


。逆転地蔵

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この回答へのお礼

回答をどうもありがとうございます。お礼が遅くなりまして済みませんでした。
確かに、しあわせと思えば、しあわせで、不幸せと思えば、不幸せですね。
いろんな法則があるのでしょうね。

お礼日時:2014/11/19 19:01

ガンジーは宗教のるつぼのインドでこういっている。


「どんな神様でもいい、神を信仰することが大事なのだ」と。
宗教ではありません。神です。
分からなければ程度の人を参考にするしかないでしょう。

どんな神様でもいい、です。
あ~、人によってゆがめられた神様はいけませんね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなり申し訳ありません。
確かにその言葉は私も納得します。
人間はある程度、神様を必要としていますね。

お礼日時:2014/11/18 21:17

この葛藤は信教を行う人に古くからあるものだと思います。


私は、敬虔な信教者ではありませんが、貴方と同じ考えです。信教を信じること=他を信じないこと、であり、信教者同士の対立や軋轢は是となるのが道理と思います。
問題は、AがBを救うべきか否か、という点です。X神は救って下さる、Y神を捨てよ、こういうべきなのか?
私の答えはNoです。X神がいかに救って下さろうとも、Bは求めていないからです。Bが心の乾きや苦しみからの解放を願いすがっているのはY神なのです。Y神は邪教で実は全く救ってくれないのかも知れません。それでも、信じるとはそういうことで、他を是としないのです。これは、信教の自由だからではなく、それが信教であるからだと思います。
こうしたAをX神は罰するでしょうか?そんなことは決してないと私は信じています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お礼が遅れましてすみません。
なるほどと思いました。ただ、間違った神をあがめてはいけないと言っている宗教もあった気がします。例えば、たしかキリスト教もそうではなかったでしょうか?

クリスチャンの人は、仏教徒の人が死後に(自分達クリスチャンみたいに)天国に行くのか、それとも神を信じていないから地獄にいくのかどっちと考えているのかな?と思います。
もし、地獄に行くと考えているなら、そうならないよう、改宗するようにすすめる気がするのです。

お礼日時:2014/11/18 21:40

カトリックの洗礼を受けていますが、仏教や神道はじめ他宗教にも深い敬愛・共感を抱いています。



私の「宗教」に対する基本的態度を表すと次のようになります。

 「他宗教の存在を認めない宗教」のことは認めない。
 (自分の宗教が一番でほかの宗教は皆邪教だなどと排斥する宗教こそ断じて許さない。)

どうして、こうした強固な基本的態度になったのか、その理由と背景を述べます。

1.私は、幼い頃から、信仰厚い祖母の薫陶を受け、宗教や神様全般、或いは霊的な存在に関して、深い敬愛・共感を抱きながら育ちました。祖母は、キリスト教ミッションの女学校を卒業し、一時はキリスト教の信者になることも考えたようですが、思い直して、色んな個々の宗教や、宗教の根本原理を勉強した結果、「宗教の頂上(神)は一つであるが、そこに至る登山口(宗教)は沢山ある。」という結論に達し、その考え方は、私の今の考えのベースになっています。

2.私の親戚にはカトリック信者が多かった上、ミッションの小学校に通ったので、カトリックのシスターや先生や友達に囲まれて育ち、高校の時には洗礼を受けました。しかし、それでも、彼らの中に家族全員信者で且つ幼児洗礼の者が多かったこともあり、私は、長年、そうした純粋培養の信者たちの輪に、心の底からは溶け込めず、一方では、仏教・神道或いは日本的伝統文化の方に、より親しみを感じていました。当時は、下記「公会議」からの日が浅かったこともあったと思います。

3.古くは、閉鎖的で敷居の高かったカトリックですが、第二バチカン公会議(1962年~1965年)を経て、カトリック教会は、各国の伝統文化の尊重や他宗教との対話を進め、「教会」に、徐々に生まれ変わりました。
小学校の修学旅行では、京都・奈良を訪ね、お寺や神社に参拝しましたし、他宗教に寛容な所は、今やカトリックの特徴であるとさえ思います。

これまでに、他宗教との兼ね合いで、以下のような出来事がありました。
(1)昔、キリスト教に改宗した人が、家の仏壇を「教会」に持って行って「お焚き上げ」をした、と聞いて、「なんでテメエが信者になったからといって、先祖の意向を無視して、キリスト教の教会に炊きあげを依頼する権利があるのか? 寺にお願いするならまだしも・・・」と激しく腹が立った。

(2)職場で、神社に初詣に行った時、「信仰上の理由で」と言って、参拝に加わらず、入口で待っている人間のことが理解できず、どんどん入って、どんな神だろうが手を合わせた。(何教であろうが、手を合わせたり、敬意を表することは、カトリックの教えでは全く問題ない。心の中では、キリスト教の神に拝めとは教えているが・・・。)

(3)若い頃、仕事関係でS学会を訪ね、熱心に入信を勧められたが、「実は私はカトリックなんですよ。」と一言発した途端、猛烈な「カトリック批判」がはじまり、彼らの自宗教が一番という「自信」と「忠誠」にホトホト呆れ、感心した。

(4)父が若い頃参禅した影響を受け、鎌倉の円覚寺や近所の禅寺で坐禅や読経の経験が豊富。
最近は、教会で、仏教・天理教・イスラム教などの他宗教信者も交えて「世界平和を祈る集い」が開催され、禅宗の参列者の唱える「般若心経」に堂々と唱和した。

(5)家には、祖父母以前の仏壇と父のキリスト教式祭壇があり、毎朝晩両方に手を合わせている。

(6)家族が海外旅行から帰る前日、祖母の描いた色紙の入った額が音を立てて落下したので、縁起の悪さを感じ、教会・神社・寺のいずれに行こうか迷った結果、寺を訪ね、彼らの無事を祈って読経してもらったことがある。
→ 法事以外で寺にお経を上げてもらったことありますか?http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6969735.html

4.その他、カトリック教会の本テーマに関する考え方について、以下をご参照下さい。
(1)戦後、GHQにより靖国神社を潰そうという話になった時、ローマ教皇庁代表として日本に駐在していた上智大学教授ブルーノ・ビッター神父によって、救われた話。
→ 靖国神社を救ったブルーノ・ビッター神父をご存知でしょうか? http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4586508.html
  (回答者は私のみ)
(2)マザー・テレサ(1910~1997)はインドの貧民街で「死を待つ人々の家」というホスピス施設を創設しましたが、彼女は収容者の臨終に際し必ずその人の宗教を聞き、その宗教で葬儀を行ったと言われています。
(私は、死者の信仰した宗教で葬儀や法要を行うことは、人間の尊厳を守るための基本であり、子孫が勝手に自分の信じる宗教でそれらを行うことは、慎むべきと考えています。)

(3)第二バチカン公会議により、各国の伝統文化の尊重や他宗教との対話を進めた「教会」の姿勢は、その後の教皇ヨハネ・パウロ二世による過去のアシジでの世界宗教者会議の成功や、東方教会との和解などに結実し、今日までに、エキュメニカル運動(キリスト教統一のための運動)やイスラムや仏教はじめ諸宗教間の対話という形で進展しています。

(4)日本のカトリック教会の他宗教との関わり方については、「カトリック教会の諸宗教対話の手引き」を見れば、仏式の葬儀やイベントなどにも自由に参列を許し、彼ら他宗教の人たちとも自由に交流を促していることがわかります。

5.以上に記したように、今日のカトリック教会は、かなり他宗教に対して「開かれた教会」でありますが、それでもまだ、私にとっては物足らないことも事実です。
結局、カトリック教会の基本的立場は、「他宗教の存在は認めるとしても、あくまで、最終的に救いに至るにはキリスト教しかないという立場であり、他の宗教を歩んでも同様に救いに至るという、いわゆる「相対主義」とは厳然と一線を画しているのです。

冒頭の1に挙げた私や祖母の考えも「相対主義」に属し、カトリックの教義に合わないことは考えられます。(それにもかかわらず、今のところ私はその考えを改める気はありませんが・・・。)

つまり、逆に言えば、個々の宗教の間には、色々矛盾点もあるので、違いは違いとして受け入れ、(どちらが正しいとか違うとかいう議論ではなく)それぞれの存立を認めるしかないと思われます。

仏教にしろ、神道にしろ、キリスト教にしろ、それぞれ大変人間の成長のためになる教えを持っています。
結論として、私は、「どの宗教を信じるか」よりも「如何に信じ、実行するか」の方が大切だと思います。

最後に、私の、次の過去問回答5の後半に挙げた、ほかの私の質問と回答をご覧下さい。

仏教徒のカトリックでの洗礼についてhttp://oshiete.goo.ne.jp/qa/8670273.html
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなってすみません。
すばらしいお考えです。特にどの宗教を信じるかより、いかに信じ実行するか、という点は共感いたします。なるほど、そうですね。

ただ、私の考えを申しますと、私は事実がどうなっているのかに関心があります。
世の中には事実は1つしか存在できないと思っています。

神様を事実関係で考えるなら、それは回答は1つしかないと思います。
ですから、それぞれの存在を矛盾なしに認めることはできないと思います。

oozora2000さんは、いかに人生をよりよく生きるかという観点でお考えだと思います。
私は事実関係がどうなっているのか?ということを中心に考えています。

考え方の方向性が全然ちがうと思います。
oozora2000さんの考え方で、私も考えるならご意見にまったく賛成です。

ですが、私は事実関係が気になっているのです。

お礼日時:2014/11/18 21:51

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